「平和記念式典の歩み(平和冊子)」カテゴリーアーカイブ

原爆記念日に関する社説(1991年、ローカル紙)

原爆記念日に関する社説(1991年、ローカル紙)

紙名 見出し
北海道新聞  いま「核廃絶」を目指すために
東奥日報 被爆体験が平和貢献への原点
福島民友 戦争の悲劇から学ぶこと(8月7日)
上毛新聞  鍛えよう平和への意志(8月7日)
(山梨日日新聞・日本海新聞・四国新聞・大分合同新聞にも同じ社説あり)
東京新聞 「ヒロシマ」から新しい訴えを
神奈川新聞  新時代にこそ広島の誓い
新潟日報  胸に刻みたい核廃絶への訴え
北陸中日新聞 「ヒロシマ」から新しい訴えを
福井新聞 国際化のなかでのヒロシマ (論説-和田稔)
信濃毎日新聞  核兵器の拡散を許すまい
岐阜新聞  平和に貢献できる道は -広島・長崎の被爆から46年
中日新聞 「ヒロシマ」から新しい訴えを
京都新聞 「原爆の日」と核減らしの潮流
神戸新聞 「世界化するヒロシマ」
山陽新聞 核の全廃へ新たな誓いを
愛媛新聞 被爆を語り継ぐのは国民の責務
高知新聞 「ヒロシマの心」を新時代に刻もう
熊本日日新聞  強い平和への意志を訴えよう
南日本新聞 初の戦争謝罪したヒロシマ宣言(8月7日)
沖縄タイムズ 「原爆の日」を迎える広島
琉球新報 永遠に忘れまじ原爆忌
西日本新聞 ヒロシマ91と日本の平和主義

 

 

外国人参列者の概要(1991年)

1991年の外国人参列者の概要

<区分>
来賓席(計34人)
世界テレビ映像祭関係者 16
その他 18
団体席(計339人)
原水爆禁止1991年世界大会海外代表者  100
YMCAピースセミナー参加者一行 50
第38回国際学生会議参加者 40
被爆46周年原水爆禁止世界大会海外代表者 36
日米文化センタ-関係者一行 20
ニュージーランド・ギスボン市長一行 16
ワールドフレンドシップセンター関係者一行 15
広島市国際交流員及び英語指導助手新規招致者 14
英国・ブライトン市元市長一行 11
英国・コベントリー市青年一行 11
その他 26

出典:広島市『平成3年平和記念式典資料』

総理大臣・衆参両院議長の参列状況(1971-91年)

総理大臣・衆参両院議長の参列状況(1971-91年)

総理大臣(代理) 衆議院   参議院
1971 佐藤栄作総理大臣 船田中(議長) 森八三一(副議長)
1972 二階堂進(内閣官房長官) (メッセージのみ) (メッセージのみ)
1973 二階堂進(官房長官) (メッセージのみ) (メッセージのみ)
1974 斉藤邦吉(厚生大臣) (メッセージのみ) (メッセージのみ)
1975 田中正己(厚生大臣) 秋田大助(副議長) (メッセージのみ)
1976 三木武夫(総理大臣) (メッセージのみ) (メッセージのみ)
1977 藤田正明(総務長官) (メッセージのみ) 加瀬完(副議長)
1978 安倍晋太郎(官房長官) (メッセージのみ) (メッセージのみ)
1979 橋本龍太郎(厚生大臣) 灘尾弘吉(議長) (メッセージのみ)
1980 宮沢喜一(官房長官) (メッセージのみ) 徳永正利(議長)
1981 鈴木善幸(総理大臣) (メッセージのみ) 秋山長造(副議長)
1982 森下元晴(厚生大臣) (メッセージのみ) 徳永正利(議長)
1983 中曽根康弘(総理大臣) (メッセージのみ) 木村睦男(議長)
1984 渡部恒三(厚生大臣) (メッセージのみ) (メッセージのみ)
1985 中曽根康弘(総理大臣) 坂田道太(議長) 木村睦男(議長)
1986 斉藤十朗(厚生大臣) 原健三郎(議長) 藤田正明(議長)
1987 中曽根康弘(総理大臣) 多賀谷真稔(副議長) 藤田正明(議長)
1988 藤本孝雄(厚生大臣) 多賀谷真稔(副議長) 藤田正明(議長)
1989 宇野宗佑(総理大臣) 安井吉典(副議長) 瀬谷英行(副議長)
1990 海部俊樹(総理大臣) 桜内義雄(議長) 小山一平(副議長)
1991 海部俊樹(総理大臣) 桜内義雄(議長)   土屋義彦(議長)

出典:新聞報道、広島市総務局総務課の資料

特別来賓の案内数(1991年)

特別来賓の案内数(1991年)

区分 人員
国機関 9
県関係 2
名誉市民 4
特別名誉市民 3
被爆者代表・遺族代表 55
長崎市民代表 3
地元選出・出身国会議員 18
22人委員会 24
国の出先機関 49
財界代表 17
市政功労者 40
平和問題調査会 18
平和文化センタ- 35
平和団体関係 8
広島市原爆被爆者協議会 9
広島原爆障害対策協議会 20
医療機関・研究機関 8
その他 10

出典:広島市『平成3年平和記念式典資料』

合唱団の構成(1991年)

合唱団の構成(1991年)

NO. 合唱団名 人員
1  広島大学合唱団 10
2 広島大学グリークラブ 14
3  広島大学東雲混声合唱団パストラール 24
4  広島女子大学 フラウエン・コール 6
5  広島少年合唱隊 72
6  広島少年合唱隊 母親コーラス 28
7  広島ジュピター 少年少女合唱団 76
8 広島放送児童合唱団 80
9  広島中央合唱団 13
10 広島ジュニアコーラス 48
11 エコー合唱団 11
12 広島合唱同好会 9
13 袋町小学校PTAコーラス部 23
14 コール・テンマ 31
15 基町小学校PTA 2
16  尾長小学校PTA ママさんコーラス 12
17 鈴が峰小学校PTAコーラス 12
18 舟入高校音楽部 8
19 ィンランド・タピオラ少年少女合唱団 39
(19団体) 518

 

 

原爆死没者名簿奉納数

表3

追加数 内数①②③ 総数
1952 57902 57902
1953 391 58293
1954 212 58505
1955 523  59028
1956 680  59708
1957 185 15   59893
1958 173  60066
1959 187  60253
1960 161 95 66 60414
1961 139 64   60553
1962 125 83 42 60678
1963 127 29   60805
1964  169 44  60974
1965 469 69   61443
1966 550 68 61993
1967 430 157 43 62423
1968 1101 521 428 121 63524
1969 9211 1390 6764 1035 72735
1970  3606   1228   1122  1196 76341
1971  1745  243   389  1107 78086
1972  2097   204 319  1567 80183
1973  2650   321  742   1575 82833
1974  1970  139  396    1429 84803
1975  2172  128  450  1590 86975
1976   2159   114  392 1647 89134
1977  2282  1 43   528  1611 91416
1978  2179  97   370  1712 93595
1979   2090  59  318 1713 95685
1980  2279  71   355  1853  97964
1981    2753  82   656  2015  100717
1982   3060  112  792   2153  103777
1983  5179  65  2648    2466  108956
1984   4315  56  1685   2573  113271
1985  25419  123  22009 3234  138690
1986   4941  165  1018 3656  143590
1987   4619  110   993  3473  148177
1988   4476   114  931  3428  152650
1989 4 424   23  921  347 4  157071
1990  10175  1565  5117 3483  167243
1991 4787 20 1081 3682 172024
 2021

注:①1945年8月6日死没者
②1945年8月6日~前年8月5日死没者
③前年8月6日~当年8月6日死没者
出典:1967年までは新聞報道、68年以降は広島市原爆被害対策部資料

平和式典(1947・52・91年)の式次第

平和式典(1947・52・91年)の式次第

1947年 1952年 1991年
開会挨拶  開会の辞  慰霊碑献水
平和塔除幕 慰霊碑除幕 開式
平和の歌合唱 原爆死没者過去帳奉納 原爆死没者名簿奉納
平和宣言 式辞 式辞
平和の鐘 平和の鐘・黙とう 献花
(平和への祈り) 平和宣言 黙とう・平和の鐘
メッセージ 放鳩 平和宣言
祝電披露 メッセージ朗読 放鳩
放鳩 平和の歌合唱 あいさつ
平和記念樹植樹 閉式の辞 ひろしま平和の歌
平和賛歌合唱 閉式
閉会の辞

出典:『中国新聞』、広島市『平成3年平和記念式典資料』

 

 

海外での関心(平和式典への関心)

平和式典への関心

(5) 海外での関心
広島市の平和へのよびかけは、世界中に大きな関心を呼び起こした。このような関心の高まりは広島市長に送られてくる海外からの書簡の増加にも見ることができる(表11)。市長あての書簡数は、第3回平和祭が開催された1949年(昭和24年)末までに300通を超えた。また、平和祭が中断を余儀なくされた50年1年で315通もの書簡が届いていることは、この時期の広島への関心がいかに高かったかを示している。書簡の内容は、同情・激励的なものから、次第に具体的な協力・支援・要望となった。国別では、アメリカからのものが大半であるが、ドイツ平和協会、ベルギー・ストップ・ウォー協会、オーストラリア平和誓約同盟、デンマーク・ノー・ウォー協会などヨーロッパの平和団体からのものも見られた。また、これらの書簡は、MRA大会(スイス)、世界連邦政府樹立運動の会議(スウェーデン)、世界平和主義者会議(インド)といった世界的な平和会議における広島への関心やニューヨークにおける広島ピース・センタ-建設準備委員会の結成の動きなどを伝えた。
平和宣言が、初めて海外に送られたのは1948年のことである。広島市あての海外からの書簡には、これに対する返書が多く含まれていた。49年の宣言に対する返書は、1月後に約30通あった(「中国新聞」48年9月10日)。また、占領期の書簡の多くは、「ノーモア・ヒロシマズ運動」関係者のものであった(「第2回平和祭」、「第3回平和祭」参照)。52年の平和記念日に中国新聞社の要請に応えて、アルフレッド・パーカー、ノーマン・カズンズ、パール・バックなど8人が広島市民にメッセージを送っているが、そのほとんどは、この運動の関係者であった(「中国新聞」52年8月6日)。
1952年には、チェコのプラーグ市平和委員会も、広島市の平和式典に電報を寄せた。広島市が平和宣言を社会主義諸国に初めて送ったのは、54年のことであるから、平和・独立・民主主義のための共同闘争を呼びかけたこの電文は、広島市への返信ではなく、独自のものであった。54年には、インドネシア平和委員会、北カリフォルニア平和会議をはじめ、日本放送協会の働きかけでエレノア・ルーズベルト夫人からも原爆記念日へのメッセージが寄せられた。また、
社会主義国の諸都市や世界各国の平和団体から平和宣言への返書が、続々広島市に届いた。これらのほとんどは、原水爆禁止についての広島のメッセージに賛同するという内容のものであった。都市からの返書には、ホノルル、シカゴ、サンフランシスコ(アメリカ)、バンクーバー(カナダ)、ジュネーブ(スイス)など欧米の諸都市をはじめ、モスクワ、スターリングラード、レニングラード、北京、プラーグ、ドレスデン、ソフィア、カール・マルクスなど社会主義諸国の諸都市からのものがあった。
原爆10周年の1955年には、前年以上に多くの関心が式典に寄せられた。8月15日までに海外から広島市に届いた書簡は、約60通にも及んでいる。また、翌年1月に宣言への反響をまとめたところ、238通(うち社会主義国からは82通)という宣言発送数151通をはるかに上回る書簡が届いていた。寄せられた書簡を国別に見ると、フランス88通、東独62通、米国とオーストリア17通、ハンガリー15通などとなっている(「中国新聞」56年5月2日)。
1956年8月6日の日本向けモスクワ放送は、つぎのような内容の「再び広島の悲劇を繰り返させるな」と題する解説を放送した。
今日では8月6日は悲しみの日であるだけでなく、闘いの日となった。「広島の悲劇を繰り返させるな」という言葉は、文明とこどもの幸福な将来を尊ぶすべての人々のスローガンとなった。原子兵器の禁止を要求する人類の声はいま世界のいたるところで響いている。(以下略)
(「中国新聞」1956年8月7日)
この年には、11月下旬までに、世界各国の都市長、平和団体やヘレン・ケラーなど著名人から20通の返書が届いた。また、57年の宣言の返書は17通、60年には40通あったことが報じられている。
広島市は、1968年6月下旬、ノーモア・ヒロシマの訴えを一層盛り上げるために平和記念日に向けてメッセージを送るよう海外29人、国内17人の著名人に要請した。この要請に海外15人、国内11人、合わせて26人が応えた。また、この年には、山田市長が5月27日にローマ法王パウロ6世に会見し、式典への招待状を渡したことから、法王より式典にメーッセージが届けられた。
1960年代後半から、世界の関心はベトナムに向けられた。69年の平和記念日に広島に寄せられたメッセージは、3通だけという低調ぶりである。74年以降、広島市は前述のように平和宣言の普及に様々な工夫をこらすようになった(「平和宣言の普及」参照)。80年には、海外の172人を対象に平和宣言についてのアンケート調査を実施し、宣言への意見や提言を求めた。その結果、17国47人から宣言の内容を支持する感想や意見が寄せられた。同様の調査は、翌81年にも実施されたが、33国128人から感想や意見が寄せられている。
海外の新聞も、式典に大きな関心を寄せてきた。ニューヨーク・タイムズは、毎年、平和記念日に関連した報道を行なっている。1947年には、マッカーサーのメッセージを中心とした東京発のAP電を掲載し、91年には、海部総理の式典でのあいさつを紹介したAP電を紹介した。ザ・タイムズ(ロンドン)が、広島の式典を初めて報道したのは51年である。これ以後、ほぼ毎年、広島または長崎への原爆投下日に関連した報道を行なっている。91年には、8月6日に広島の平和記念公園で祈りを捧げる人々を取材した写真を掲載した。
被爆40年(1985年)の広島の式典は、世界的に反核運動が高まっていたことと節目の年であることから、テレビ20社、新聞13社、通信8社、ラジオ4社など計49の海外のマスコミが取材した。米国3大ネットワークであるCBS、NBC、ABCが、それぞれ中国放送、広島テレビ、NHKの協力を得て、式典の模様を衛星中継した。このうちNBCとABCのものは、自局のニュースキャスターを広島に派遣しての放映であった。