海外での関心(平和式典への関心)

平和式典への関心

(5) 海外での関心
広島市の平和へのよびかけは、世界中に大きな関心を呼び起こした。このような関心の高まりは広島市長に送られてくる海外からの書簡の増加にも見ることができる(表11)。市長あての書簡数は、第3回平和祭が開催された1949年(昭和24年)末までに300通を超えた。また、平和祭が中断を余儀なくされた50年1年で315通もの書簡が届いていることは、この時期の広島への関心がいかに高かったかを示している。書簡の内容は、同情・激励的なものから、次第に具体的な協力・支援・要望となった。国別では、アメリカからのものが大半であるが、ドイツ平和協会、ベルギー・ストップ・ウォー協会、オーストラリア平和誓約同盟、デンマーク・ノー・ウォー協会などヨーロッパの平和団体からのものも見られた。また、これらの書簡は、MRA大会(スイス)、世界連邦政府樹立運動の会議(スウェーデン)、世界平和主義者会議(インド)といった世界的な平和会議における広島への関心やニューヨークにおける広島ピース・センタ-建設準備委員会の結成の動きなどを伝えた。
平和宣言が、初めて海外に送られたのは1948年のことである。広島市あての海外からの書簡には、これに対する返書が多く含まれていた。49年の宣言に対する返書は、1月後に約30通あった(「中国新聞」48年9月10日)。また、占領期の書簡の多くは、「ノーモア・ヒロシマズ運動」関係者のものであった(「第2回平和祭」、「第3回平和祭」参照)。52年の平和記念日に中国新聞社の要請に応えて、アルフレッド・パーカー、ノーマン・カズンズ、パール・バックなど8人が広島市民にメッセージを送っているが、そのほとんどは、この運動の関係者であった(「中国新聞」52年8月6日)。
1952年には、チェコのプラーグ市平和委員会も、広島市の平和式典に電報を寄せた。広島市が平和宣言を社会主義諸国に初めて送ったのは、54年のことであるから、平和・独立・民主主義のための共同闘争を呼びかけたこの電文は、広島市への返信ではなく、独自のものであった。54年には、インドネシア平和委員会、北カリフォルニア平和会議をはじめ、日本放送協会の働きかけでエレノア・ルーズベルト夫人からも原爆記念日へのメッセージが寄せられた。また、
社会主義国の諸都市や世界各国の平和団体から平和宣言への返書が、続々広島市に届いた。これらのほとんどは、原水爆禁止についての広島のメッセージに賛同するという内容のものであった。都市からの返書には、ホノルル、シカゴ、サンフランシスコ(アメリカ)、バンクーバー(カナダ)、ジュネーブ(スイス)など欧米の諸都市をはじめ、モスクワ、スターリングラード、レニングラード、北京、プラーグ、ドレスデン、ソフィア、カール・マルクスなど社会主義諸国の諸都市からのものがあった。
原爆10周年の1955年には、前年以上に多くの関心が式典に寄せられた。8月15日までに海外から広島市に届いた書簡は、約60通にも及んでいる。また、翌年1月に宣言への反響をまとめたところ、238通(うち社会主義国からは82通)という宣言発送数151通をはるかに上回る書簡が届いていた。寄せられた書簡を国別に見ると、フランス88通、東独62通、米国とオーストリア17通、ハンガリー15通などとなっている(「中国新聞」56年5月2日)。
1956年8月6日の日本向けモスクワ放送は、つぎのような内容の「再び広島の悲劇を繰り返させるな」と題する解説を放送した。
今日では8月6日は悲しみの日であるだけでなく、闘いの日となった。「広島の悲劇を繰り返させるな」という言葉は、文明とこどもの幸福な将来を尊ぶすべての人々のスローガンとなった。原子兵器の禁止を要求する人類の声はいま世界のいたるところで響いている。(以下略)
(「中国新聞」1956年8月7日)
この年には、11月下旬までに、世界各国の都市長、平和団体やヘレン・ケラーなど著名人から20通の返書が届いた。また、57年の宣言の返書は17通、60年には40通あったことが報じられている。
広島市は、1968年6月下旬、ノーモア・ヒロシマの訴えを一層盛り上げるために平和記念日に向けてメッセージを送るよう海外29人、国内17人の著名人に要請した。この要請に海外15人、国内11人、合わせて26人が応えた。また、この年には、山田市長が5月27日にローマ法王パウロ6世に会見し、式典への招待状を渡したことから、法王より式典にメーッセージが届けられた。
1960年代後半から、世界の関心はベトナムに向けられた。69年の平和記念日に広島に寄せられたメッセージは、3通だけという低調ぶりである。74年以降、広島市は前述のように平和宣言の普及に様々な工夫をこらすようになった(「平和宣言の普及」参照)。80年には、海外の172人を対象に平和宣言についてのアンケート調査を実施し、宣言への意見や提言を求めた。その結果、17国47人から宣言の内容を支持する感想や意見が寄せられた。同様の調査は、翌81年にも実施されたが、33国128人から感想や意見が寄せられている。
海外の新聞も、式典に大きな関心を寄せてきた。ニューヨーク・タイムズは、毎年、平和記念日に関連した報道を行なっている。1947年には、マッカーサーのメッセージを中心とした東京発のAP電を掲載し、91年には、海部総理の式典でのあいさつを紹介したAP電を紹介した。ザ・タイムズ(ロンドン)が、広島の式典を初めて報道したのは51年である。これ以後、ほぼ毎年、広島または長崎への原爆投下日に関連した報道を行なっている。91年には、8月6日に広島の平和記念公園で祈りを捧げる人々を取材した写真を掲載した。
被爆40年(1985年)の広島の式典は、世界的に反核運動が高まっていたことと節目の年であることから、テレビ20社、新聞13社、通信8社、ラジオ4社など計49の海外のマスコミが取材した。米国3大ネットワークであるCBS、NBC、ABCが、それぞれ中国放送、広島テレビ、NHKの協力を得て、式典の模様を衛星中継した。このうちNBCとABCのものは、自局のニュースキャスターを広島に派遣しての放映であった。