「広島市平和記念式典」カテゴリーアーカイブ

黙とうのひろがり(平和式典への関心)

平和式典への関心

(2)黙とうのひろがり

「8月6日を祈りの日に」との声は、1963年(昭和38年)の第9回原水爆禁止世界大会の混乱を契機に、大きな動きに発展した。広島県議会は、64年3月23日、「原爆記念日を静かな祈りの日にしよう」との意見書を採択した。この意見書は、自民党議員会所属の議員が提出したものである。社会党など所属の6人の議員は、意見書に「昨年の8月6日は広島県、市民の感情をよそに慰霊碑前広場が赤旗に埋まった・・・・」などの表現があることや議事手続きに誤りがあるとして、議決に加わらなかったが、自民党議員会、県政刷新クラブ(民社系)、公明会の3派で可決した。また、3月31日には、広島県原爆被爆者援護対策協議会(略称=県原援協)が主催した原爆被爆者援護対策懇談会でも、県内各市町村から参集した被爆者代表約200人が、平和式典は「被爆市民の哀情にそって敬けん厳粛に執行すること」などを要望した決議を行ない、国や関係団体に送付した。県原援協は、6月13日にも、県内の原水禁運動、被爆者、婦人団体の代表に参集を求め、8月6日の行事について協議を行なった。その結果、この年は、各団体とも静かな慰霊行事を中心とした大会を計画し、平和公園広場は使用しないという方針と原 爆投下時刻に1分間の黙とうをささげる県民運動を呼びかけることを申し合わせた。

この年、広島県は、8月6日の8時15分(7月24日、知事名)と8月15日の正午(8月10日、民生労働部長名)に、それぞれ1分間の黙とうを行なうよう県民に呼びかけた。7月24日の知事の呼びかけは、県原援協などの要望を受け入れてなされたものと思われる。一方、8月10日の民生労働部長の呼びかけは、政府の要請(1964年4月24日の閣議で、8月15日に第2回全国戦没者追悼式を靖国神社境内で開催することとし、8月15日正午の黙とうを国民に呼びかけることを決定)によるものであった。同年6月14日、日本原水爆被害者団体協議会の全国理事会も、広島・長崎への原爆投下日に日の丸の半旗を掲げ、被爆時刻に1分間の黙とうをする国民運動を起こすことを決定した。この決定は、「対立した原水禁運動を超越する国民運動のおんどを日本被団協がとる方法として8月6日から同18日までを国民総反省旬間とし、旬間中は日の丸の半旗を掲げる運動を起こそう」との関東甲信越代表理事の提案が具体化したものであった。提案には8月15日の黙とうも含まれていたが、疑義が出され、原爆投下日の黙とうのみが決まった。

広島県知事は、1964年から毎年、県民に原爆投下時刻の黙とうを呼びかけるようになった。また、広島市は、73年7月20日に、8月9日の原爆投下時刻に1分間の黙とうを市民に呼びかけることを決定した。長崎市が前年8月6日に実施し、広島に呼びかけていたもので、この年から広島・長崎両市の「黙とうの連帯」が始まった。また、73年には、埼玉県庁が、被爆地以外の県庁としては初めて、広島・長崎の原爆被爆時刻に黙とうを実施した。

一部の原水禁団体や労働組合は、早い時期に「黙とう」を取り上げていた。高知県原水協は、1957年に8月6日の原爆投下時刻に県民が一斉に黙とうをささげるよう、県内の諸団体に呼びかけた。また、59年には、国鉄労組と機関車労組が、広島の平和記念日の正午に一斉に列車と電車の汽笛を鳴らして黙とうをささげるよう各支部に指令し、炭労は、同日の一番方の入坑前に、また、全国税は、当日午前9時に、それぞれ1分間の黙とうを実施している。こうした呼びかけは、原水禁運動の分裂を契機に途絶えていたが、70年代後半に、ふたたび復活した。78年7月26日、県労会議と県労被爆連(正式名称:広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会)は、広島県知事と市長に、8月6日午前8時15分から1分間、①県内すべての職場、家庭に呼びかけ、平和祈念の黙とうをささげる、②道路上のすべての車もストップさせる、③全市町村は一斉にサイレンなどの合図で、住民に平和祈念を呼びかける、④この運動は少なくとも隣接県にも呼びかけ協力を求めることを申し入れた。この年には市内の市関係施設87か所のサイレンと寺院・教会130か所の鐘が鳴らされ、市民に黙とうが呼びかけられた。また、55年に始ま った広島電鉄と広島バスの車両の黙とうへの参加は、64年以降中断していたが、この年復活した。電車70台とバス約300台が、黙とうに参加した。

広島県知事と市長は、1979年には黙とうの呼びかけを県内のみでなく中国地方5県と愛媛と香川をあわせた7県にひろげた。さらに、翌80年には47都道府県知事と9政令指定都市長あてに「原爆死没者の慰霊並びに平和祈念の黙とうについて」と題する文書を発送し、黙とうを呼びかけた。こうした呼びかけに対して、いくつかの県が応じた。79年には、鳥取県が行政無線を通じて各市町村に伝達している。また、共同通信社の調査によれば、80年には17県と1政令市(川崎市)、翌81年には25道府県と2政令市が呼びかけに応じた(「中国新聞(夕刊)」81年8月1日)。

1982年6月8日の全国市長会理事・評議員合同会議は、広島・長崎両市長の要請に応えて、両市の原爆被爆時刻に1分間の黙とうをすることを決定した。また、広島市は、翌83年から毎年、全国の都道府県市長会および広島県町村会に黙とうを呼びかけるようになった。これにより、82年の黙とう実施自治体は、487自治体(呼びかけた772自治体の63%)に急増、83年には703自治体(呼びかけた865自治体の81%)にまでなった。以後、自治体の黙とうへの取組み実施率は、80%台で定着し、現在に至っている。

黙とうへの取組みは、さまざまな形でなされている。京都府八幡市は、1983年8月6日、広島市の要請に応えて、広島市から取り寄せた「平和の鐘」の録音テープ(平和式典で録音されたもの)を市役所屋上のスピーカーから流した。京都府原爆被災者の会は、85年の平和記念日に先立ち、府内3,096の寺院、110の教会に対し、8月6日と9日の両日、「平和の鐘」を鳴らすよう要請した文書を郵送した。また、86年7月10日、奈良市も、同市議会が85年12月に非核平和都市宣言を行なったことを受けて、広島・長崎両市の原爆被爆時刻に鐘を鳴らし1分間の黙とうを行なうよう、市内と県内の非核平和都市宣言を行なっている7市の寺院、教会および各官庁、民間企業、家庭に呼びかけている。90年には、全国で751自治体が黙とうを周知させる取組みを行なったが、周知方法で最も多いのは、「広報紙で周知」(52%)であり、「サイレン」(32%)、「有線・無線放送」(29%)と続いている。

 

市民の関心(平和式典への関心)

平和式典への関心

(1)市民の関心

広島市は、1950年(昭和20年)2月、平和祭についての原爆体験者の世論調査(市調査課「広島原爆体験者についての産業奨励館保存の是非と平和祭への批判と希望に関する世論調査」49年10月実施)の結果を公表した。「いままでの平和祭についてどう思うか」との問いにたいして、「今の通りでよい」と答えた者は23%にすぎず、67%の者は「今の通りではいけない」と答え、その理由として、「お祭りさわぎすぎる」(64%)、「関係者だけで形式的だ」(14%)「ムダな費用で意義ない」(14%)などをあげた。また、「これからの平和祭に対する希望」としては、61%が「地味にやる」と答え、「お祭りのようにやる」との答えは25.5%にすぎなかった(「中国新聞」50年2月11日)。この結果は、広島市民が、平和祭に必ずしも満足していなかったことを示している。
1954年以降、原水爆禁止運動が全国的に展開されるようになり、平和記念日前後に広島で大会を開催するようになった。大会参加者の多くが、平和式典に参列したことにより、式典は全県的あるいは全国的性格を帯びるようになった。一方、8月6日の平和祭や大会に困惑し、この日を静かに過ごしたいという気持ちは、市民の間に根強く存在していた。広島市は、50年3月2日、広島市議会の「8月6日を平和の日として国民の祝祭日に加えられるよう要望の件」という決議(49年2月1日)の趣旨を具体化するため国会に提出する草案を完成した。しかし、この草案にたいして、8月6日は祝日ではなく、「全市民の哀悼の日」、「なくなった人々をしのび、平和を祈念する日」とすべきであるとの投書が新聞に寄せられた(「中国新聞」50年3月16日、6月14日)。こうした市民の声は、原水爆禁止運動が高揚する56年には、組織的な動きに発展した。同年4月19日、宇野正一、相原はる、島本正次郎ら5人は、つぎのように呼びかけた。
・・・さて、「原爆の日」のあり方について例年8月6日には、平和祭が行われ原水爆禁止、世界平和運動等いろいろな集会が催されて居りますが、一方では競輪、モーターボートも開催され、一部の市民は祭日気分になり、一部の市民は犠牲者の供養をし、一部の市民労働組合はメーデーの二番煎じの様な行事をやる等の状態であって、何か原爆被災の地広島市民の原爆投下の悲しき日の送り方としてそぐわぬものを感じますので吾々発起人有志を以って種々協議の結果、8月6日を「犠牲者に対する追悼自粛の日」と  して市民各戸に半旗(弔旗)を掲げて27万人の犠牲者に対し哀悼の意を表する市民運動を致し度いと思います・・・
(宇野正一など「(協議会への)案内状」56年4月19日)
1956年6月13日には、宇品地区原爆被害者の会(会長相原はる)が同様の主旨の請願書を広島市議会に提出した。第5回原水爆禁止世界大会の開催された59年には、この動きは、大きな広がりを見せた。広島県宗教連盟は、7月の理事会で世界大会に連盟として参加しないことを決めるとともに、8月6日を「この日の追憶を新たにして亡き人々へ心から敬弔の意を表明するとともに、平和開顕の念願をさらに強調するため」「全市各戸ごとに弔旗を掲げる運動」を提唱した(広島県宗教連盟、広島市仏教会、広島県神社庁など「趣意書」)。
平和式典の性格は、1952年以降、「慰霊」と「平和」の両面を持っていた。8月6日を祈りの日にとの声は、「慰霊」の側面の強化を求めたものと理解できる。これとは逆に、60年安保改定反対闘争の高揚を反映し、60年の式典に対しては、「平和」の立場からの批判が表面化した。60年7月29日、全日自労広島分会の代表は、浜井広島市長に、この年の県・市共同主催の式典が、来賓中心である、一部勢力の一方的な政治行事化するおそれがある、8月6日が単なる“祈りの日”に後退するのではないか、などの危惧を申し入れた。また、7月31日の広島県原水協の全県協議会でも「知名士を招いて、単に“祈り”の行事に後退したもので原水爆禁止の目標や行動が不明確だ」との批判が出されている。
平和式典に対する市民の関心は、占領期と1960年前後を除き、表面化することはなかった。1967年以降、広島市市長室公聴課に寄せられた意見の統計によれば、67年以降5年間に「原爆」、「平和」、「慰霊碑文」については、それぞれ233件、201件、74件となっているが、平和式典に関するものは9件にすぎない(広島市市長室公聴課「市民の声」)。
1960年代後半から、マスコミが原爆に関する市民の世論調査を行なうようになった。中国新聞の調査(68年)は、被爆者、非被爆者500人ずつの計1,000人を対象として実施されたが、67年の平和式典への出席状況に対する回答は、「参加した」は32%(被爆者)、20%(非被爆者)であり、「公園には出かけたが式には出ない」は、10%(被爆者)、12%(非被爆者)であった。RCC(70年実施、対象者520人)、NHK(72年実施、対象者1,000人)の調査では、8月6日の過ごし方が質問されたが、「記念式典に出席する」(RCC)、「平和記念式典や慰霊祭に参加した」(NHK)との回答は、それぞれ11.5%、11.6%であった。また、NHKが、1975年からも5年ごとに同様の世論調査を実施しているが、その結果は、表9のとおりであった。
中国新聞の調査では、式典への参加者が多いが、NHKとRCCの調査では、式典に参加する市民の割合は、ほぼ1割にとどまっている。また、NHKの継続調査の結果は、年の経過とともに、「『原爆の日』と関係なく過ごした」の割合が増加するのと逆に、「式典などへの参加」は、確実に減少している様子を示している。
NHKによる継続調査の結果によれば、市民の半数以上が8月6日に「祈り」という行動を行なっているが、このことは、市民の多くが、式典に参加はしないものの、この日に対して無関心ではないことを示している。このような市民の消極的関心は、平和式典の存廃についての態度にも現れている。1968年の中国新聞、75年と80年のNHKの世論調査の結果によれば、「やめたほうがよい」との回答は数%にすぎず、87%から96%の市民は、「平和式典を続けるべきだ」あるいは「形を変えて続けるべきだ」と回答している。式典を「形を変えて続けるべきだ」との回答は、1968年の中国新聞の調査では、被爆者で11%、非被爆者で16%であり、75年のNHKの調査では25%、80年のNHKの調査では20%であった。
式典の改善策については、広島市の平和文化推進審議会(1967年12月発足)の中で、様々な意見が述べられている。ここでは、式典の形式主義、形骸化、マンネリ化が批判され、「被爆者を全面に出すべき」、「被爆体験継承の場に」、「平和宣言に具体的な内容を盛り込め」などの具体的な改善策が出された。広島市は、こうした批判を踏まえ、式典にさまざまな工夫を加えてきた。しかし、世論調査の結果が示しているように、式典への参加者の減少傾向と原爆の日への無関心層の増大傾向を止めることはできていない。

参列者数(平和式典の参列者)

平和式典の参列者
(1) 参列者数
中国新聞は、1949年(昭和24年)8月6日に広島市外から市内に入り込んだ人の数を、広島駅の4万人、横川駅の8,000人、己斐駅の3,500人の利用者数から、約7万人と推定した。また、当日の市内の模様を、「平和式典終了後アミューズメント・タウン、本通り、流川通り、駅付近や繁華街は100度[華氏]を超える炎暑にもめげず人の波はあとをたたず、正午をすぎたころからは劇場、各催し場は超満員のいも洗いぶり」と報じている(「中国新聞」49年8月7日)。しかし、この年の平和式典の参列者数は、市発表によれば約3,000人であった。こうした参加者数の落差は、参加者の関心が、式典以外の平和祭関連の諸種の催しに向いていたことを示すものであろう。
その後の式典の参列者数は、中国新聞の報道によれば、1951年約2,000人、52年約1,000人、53年約3,000人となっている。51年10月19日に児童文化会館前広場(49年の平和式典会場)で開催された戦後初めての広島県戦没者合同慰霊祭(広島県遺族厚生連盟主催)には、県内約7万の戦没者を追悼するため1万2,000人が参列し、翌52年5月2日に同所で開催された独立後初の戦没者追悼式(広島県・市主催)には約1万人、呉市で開催された追悼式(呉市主催)には、5,000人が参列している。これらと比較すれば、広島市の平和式典は、参列者の規模からみて、県レベルのものとは言えず、広島市の行事にすぎないものであった。
ある市民は、1952年8月6日の平和記念公園には、四つの群が存在したと書き残している。

第1の群=「慈仙寺鼻の仮の堂や、その周辺に設けられていた様々な供養碑の前に、線香の束をたき、花をそなえて、あの日に死んで行った人達の霊をとむらう老若男女が数百人、引きも切らず夫々の思いをこめて頭を垂れていた。」
第2の群=第1の群から200メートルほど離れた位置に設営された平和記念式典会場。「一杯入れば4、5万人は収容出来ると云われる緑の芝生の上に参会した市民の数は僅かにほぼ200名」。
第3の群=「之を傍観する数百人である。広い芝生の周囲には鉄条網がはりめぐらされ通路の正面が一カ所開いているだけであるが、見物人はこれをとりまいて遠くから眺めるのである。」
第4の群=広島平和市民大会への参加者。
(朝野明夫「四つの群」、『広島平和問題懇話会会誌創刊号』1952年12月)

1953年の状況については、森戸辰男広島大学長(元文相)の証言がある。8月6日午前10時35分から20分間、読売新聞社の飛行機上から広島市内を観察した森戸は、その印象をつぎのように記した。
眼をうつすと慰霊碑に参拝する人々の列が長く続いている。その北方の児童文化会館広場では働く人たちの集い、総評主催の広島平和大会が開かれている。そして先ほど終了した平和まつり[平和式典=筆者注]と合せて三様の人波がそれぞれ特色をもってこの日の広島を表現していた。
(「読売新聞」1953年8月7日)

ところが、1954年には、式典への参列者数は2万人となった。この年3月1日に南太平洋ビキニ環礁で発生した日本のまぐろ漁船第五福龍丸の水爆被災事件を契機に、全国各地で原水爆禁止の運動が沸き起こった。広島県内でも婦人団体、労組、民主団体などが、7月2日に原・水爆禁止広島県民運動本部を発足させ、原水爆禁止を求める100万人の署名運動を展開した。8月6日には、同本部が、平和式典に引き続いて、原爆・水爆禁止広島平和大会を開催することを計画した。また、広島県労会議(正式名称:広島県労働組合会議)が中心となって結成した8・6平和週間実行委員会も、8月3日の会合で、6日には「広島市・広島平和協会共催の平和式典、県民運動本部主催の原・水爆禁止広島平和大会には約4万名が家族連れで参加する」ことを決定している(「中国新聞」54年8月5日)。参列者数が、数千台から数万台へ飛躍したのは、これらへの参加者が式典に参列したためであった。52年、53年の状況と比較すれば、52年の第3・第4の群や53年の平和大会の「人波」が、平和式典に合流したと考えることができる。
1955年には、8月6日から3日間、広島市を舞台に原水爆禁止世界大会(第1回)が開催され、平和式典への参列者数は5万人を数えた。54年の式典の基盤が、全県レベルのものであるとすれば、55年のそれは、全国レベルあるいは国際レベルのものであった。
その後、式典の参列者数は、2万から5万人の間で推移し、85年以降は5万人台で定着している。91年の参列者数は、広島市の発表によれば5万5,000人であった。

 

宣言の主体、対象、形式(平和宣言)

平和宣言

(1) 宣言の主体、対象、形式

平和式典の中で、平和宣言を読み上げたのは、浜井信三(1947-54年、59-66年)、渡辺忠雄(55-58年)、山田節男(67-74年)、荒木武(75-90年)、平岡敬(91年)の5人の広島市長であった。歴代市長のうち、浜井、渡辺、荒木の3市長は、原爆の直接体験者であった。
平和宣言は、1950年(昭和25年)には、式典の中止により読み上げられることはなかった。また、翌51年には、宣言は発表されず、そのかわり、市長のあいさつがなされた。
宣言の主体は、慣例として、市長個人ではなく、「広島市民の代表としての広島市長」あるいは「被爆体験を持つ広島市民の代表としての広島市長」であった。例えば、「われら広島市民」(1947年)、「原爆を体験したわれわれ」(55年)という表現が用いられている。ところが、91年の宣言は、「平和への不断の努力を市民の皆様とともにお誓いする」と結ばれている。英文では、この主語は、「We」ではなく、「I」であり、市長個人が主体として宣言に登場した初めての例であった。なお、54年までは、宣言主体の肩書に、「広島市長」の他に、「広島平和祭協会長」(47年)、あるいは「広島平和協会長」(48年、54年)が付されている。
1947年と48年の宣言は、最後をそれぞれ、「ここに平和塔の下、われらはかくの如く平和を宣言する」、「戦災3周年の歴史的記念日に当り、我等はかくの如く誓い平和を中外に宣言する」と結んだ。当初の宣言は、このように自らの誓いを内外に明らかにするということを目的としていた。ところが、51年以降、宣言の対象が、具体的に文面に表現されるようになった。51年には、「犠牲者の霊を慰めるとともに・・・平和都市建設の礎とならんことを誓うものである」と結んでおり、慰めの対象として「犠牲者の霊」が現れた。また、翌52年には「・・・尊い精霊たちの前に誓うものである」と結び、「精霊」が宣言の対象の一つとして明確に表現された。さらに、54年には、宣言の対象として「全世界に訴える」という表現が使用された。これ以後、宣言の中には、この三つの要素(「誓い」、「慰霊」、「世界への訴え」)が、常に盛り込まれるようになった。
宣言の長さは、読み上げる市長により大きく変化している。字数で見ると、1947年の最初の宣言は、約830字であった。これは、47年から66年までの浜井、渡辺両市長の宣言の中では、最も長いものであった。最も短いのは、54年の320字であり、最初のものと比べて半分以下となっている。しかし、67年から74年の山田市長の時期には、字数はほぼ800字代で定着した。75年以降の荒木市長の時期には、字数は更に増え、88年から90年の3年間は、1,500字前後にまでなっている。最も短い54年のものと比較すると、5倍近くなったことになる。
このほか、元号で表記されていた宣言の日付に1991年に初めて西暦が併記されたことも、宣言の形式に現れた変化の一つである。

式次第

平和式典の式次第
(1) 式次第
式次第の要素の中には、最初から一貫して存在するもの、当初には存在していたのに消えたものや、ある年のみに存在したもの、新たに加わったものがある。表2は、1947年(昭和22年)・52年・91年の式典の式次第を比較したものである。これにより、「平和の歌合唱」、「平和宣言」、「平和の鐘・黙とう(47年では平和の祈り)」、「放鳩」、「メッセージ(91年ではあいさつ)」といった要素が、順序は異なるものの、共通に存在しているがわかる。このうち「放鳩」以外は、最初から一貫して式次第に存在しているものである。
「放鳩」は、1947年の第1回平和祭から存在した。この年には、「平和のシンボル白鳩10羽が中村商工会議所会頭によって手放された」と報じられている(「中国新聞」47年8月7日)。48年には、ミスヒロシマの手によって鳩が放たれた。また、49年の鳩10羽は、くす玉に入れられており、前年同様、ミスヒロシマがくす玉を開いて、鳩を放している。当時、広島には鳩は居らず、その入手には、苦労をした模様で、放鳩に使用されたのは白鳩ではなく黒い鳩であったとか、鳩は九州の新聞社から借用したといったエピソードが伝えられている。「放鳩」は、51年から53年の式次第では消えたが、54年に再び現れた。放たれた鳩の数は、54年から59年にかけては500羽から700羽、60年から66年には1、000羽、67年と68年には1、400羽、69年以降は1、500羽と報じられている。
1947年の式次第にある「平和記念樹植樹」は、これ以後3回存在して姿を消した。「祝電披露」という表現は、51年以降は、用いられていない。単年のものとしては、「平和塔除幕」(47年)以外に、「詩・ヒロシマを思いて(大木惇夫作)」朗読、「くす玉開き」、「平和記念館設計当選者発表」(49年)、「慰霊祭」(51年)、「原爆死没者慰霊碑除幕」(52年)、「皇太子殿下追悼の言葉」(60年)、「扇ひろ子の原爆の子の像の歌」(64年)、「原爆死没者名簿引渡し」(90年)などがある。
「献花」は、1951年に現れているが、翌52年には存在せず、53年から「花輪奉呈」との名称で現れた。その後、68年に「献花」と改称され現在に至っている。また、70年以降は、「献花」に引き続いて「流れ献花」が設定された。「式辞」は、52年に現れ、現在に至っている。広島市議会議長が述べるのが通例であるが、広島県との共催で開催された60年の式典のみ、県知事が述べた。また、52年には、原爆死没者慰霊碑への「原爆死没者名簿奉納」が始まった。
開式の前であり、正確には式次第の要素とは言えないが、「献水」の行事が1974年から取り入れられた。これは、前年の長崎の式典に参列した山田広島市長が、長崎で採用されていたこの行事に感銘し、広島でも実施することとしたものである(「中国新聞」1974年7月2日)。広島市は、同年7月29日に献水の要領を決定したが、それによると、平和記念日当日早朝、市内の清流から水を集め、木曽さわら杉を使った水桶二つに入れ、式典直前に原爆死没者慰霊碑前に供え、式典後「平和の池」に注ぐことになっている(「毎日新聞」1974年7月30日)。清水を採る場所は、発足時は10か所であったが、91年には東区牛田新町浄水場、牛田新町天水、温品町清水谷、西区田方斉神、三滝町三滝、己斐上町滝の観音、安佐南区上安町荒谷山、緑井町権現山、沼田町大塚、安佐北区安佐町小河内、可部町福王寺、高陽町中深川、白木町秋山、安芸区矢野町尾崎、阿戸町景浦山、佐伯区五日市町屋代の16か所となっている。
1952年と91年の式次第は、「原爆死没者名簿奉納」→「式辞」→「献花(52年では欠)」→「黙とう・平和の鐘」→「平和宣言」→「放鳩」→「あいさつ」→「ひろしま平和の歌」である。ここでは、8時15分の「黙とう・平和の鐘」を、慰霊式と平和記(祈)念式の変わり目と理解することができる。ところが、54年から67年までは、「平和宣言」が「黙とう」より前に設定されており、式次第の上では、慰霊式と平和記念式の区別があいまいとなっていた。68年には、これがはっきり区別されるように変更された。しかし、この年からの式次第では、「ひろしま平和の歌」→「あいさつ」となっており、91年と完全に同じでない。現在の形式が定着するのは、1971年以降のことである。
平和式典の開催時間は、当初は(1947ー52年)、1時間が普通であった。ただ、慰霊祭が式次第に組み込まれた51年の式典は、8時半から11時(夏時間で、実際は7時半から10時)までの2時間半開催され、式典時間の中では最も長時間である。ところが、53年からは30分間が普通となり、70年以降は、40分間から50分の間で実施された。開始時刻は、49年以外はすべて原爆被爆時刻の午前8時15分を挟んで設定され、その時刻に「平和の鐘・黙とう」が行なわれた。49年の式典では、午前8時15分が開始時刻であり、「平和の鐘」から始められた。

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慰霊と平和(平和式典の原型)

慰霊と平和(平和式典の原型)

1947年(昭和22年)に始まった平和式典は、50年の中断はあったが、その後毎年開催された。初期の式典の名称は、広島市の文書や報道では、さまざまに表現されている。たとえば広島市の『市勢要覧』は、48年のものを「第2回平和祭」と呼んでおり、これによれば翌年のものは第3回に当たるはずであるが、「第4回平和祭」と表現している。こうした混乱は、46年の平和復興祭を平和式典の最初と考えるか、あるいは「第何回」という表現を「被爆何周年」の意味で使用したために起こったものである。91年の式典は、47年を第1回とすれば、44回目に当たるものであった。
式典の式次を、平和祭とそれ以後で比較すると、多くの共通点がある(後出「平和式典の式次第」参照)。しかし、式典の性格は、平和祭とそれ以後では大きく異なっている。平和祭の式典は、主催者により「平和運動」と意義づけられ、平和祭の諸行事の中で、広島市戦災死没者慰霊祭と並ぶ中心行事と位置づけられていた(『原爆市長』)。したがって、平和祭の式次には、慰霊の要素はみられず、平和宣言の中にも慰霊の言葉は含まれていない。ところが、1951年以降は、名称、式次、平和宣言それぞれに慰霊の要素が見られるようになった。特に、51年には、式次に「賛美歌合唱、献花、焼香、玉串礼拝」が加えられた一方で、平和宣言のかわりに市長の挨拶があったにとどまり、式典の雰囲気は慰霊祭に近いものであった。
1952年には、平和記念公園の中に原爆死没者慰霊碑(正式名称は広島平和都市記念碑)が建立され、式典をこの碑前で開催し、式典の中でこの慰霊碑に名簿を奉納するという形式が始まった。また、この年に復活した平和宣言には、「尊い精霊たちの前に誓う」という式典と原爆死没者との関係を示す言葉が盛り込まれた。これ以後、「慰霊」と「平和」という二つの性格を有する式典が開催されるようになった。

平和式典の会場-平和記念公園(市民の奉仕活動)

平和式典の会場-平和記念公園(市民の奉仕活動)

(3) 市民の奉仕活動

式典に備えての会場の清掃は、広島市の重要な業務であった。早い時期から市の幹部が先頭に立って実施することが慣例となっている。1965年(昭和40年)には7月31日に浜井広島市長始め市職員200人が、また、翌66年には8月1日に市職員500人からなる広島市都市美化推進本部(本部長:加藤政夫助役)が清掃を行なった。70年からは、7月5日にスタートした広島市の「シティ・クリーニング作戦」の一つとして清掃が行なわれるようになった。7月28日、山田広島市長を始め、市内38学区から約400人が集まって平和記念公園を清掃している。この時母体となったのは、広島市公衆衛生推進協議会(61年7月17日結成)で、これ以後、同協議会のメンバーと広島市の幹部職員とによる一斉清掃がなされるようになった。
平和記念日前に平和記念公園を清掃する人々の中には、さまざまな市民グループの姿も見られた。1953年8月5日には、戦災供養塔周辺を清掃する天理教信者など市民170人の姿があった。平和の灯奉賛会の人々は、64年に点灯して後、平和記念日前と年末に「平和の池」の清掃を実施している。また、69年からは、神崎小学校学区子供会が保護者とともに清掃奉仕活動を行なうようになった。このほかに、ローターアクトクラブ、金光教信者、安佐地区身体障害者連合会、共同石油広島支店社員、出光興産社員、西古谷子供会、老人クラブ、被爆者や遺族のグループなどが、一斉清掃に加わったり、独自に清掃作業を行なったことが、新聞報道により確認できる。
式典当日にも、多くの市民の協力が見られる。ボーイスカウト広島県連盟広島地区のメンバーは、、1968年に参道両側に花垣が設置されるまでは、式場中央に設けられる参道の警備に協力した。また、それ以後も、参列者が原爆死没者慰霊碑に供えるための花の手渡し(70年以降)や平和宣言パンフレットの配布(75年以降)を担当している。91年の式典では、400人のボーイスカウトが、式典会場での奉仕作業に参加した。広島茶業協同組合は、65年から会場での茶の接待を開始し、91年には、30人が1万杯の湯茶を提供した。また、広島市青年連合会も、68年以降、おしぼりの接待を行なっている。
広島花木地方卸売市場の株式会社「花満」は、「流れ献花」で使用される花100束を、この式次が1970年に採用されてから寄贈し続けている。また、同年には、市民一人一人が花一輪ずつを持参し、原爆死没者慰霊碑に供えようという「花一輪運動」が始まったが、広島県生花商組合は、花を持参しなかった参列者のために大量の花を寄贈している。91年には、キク、グラジオラス、ケイト、ユリ、バラなど17種類の花約2万本を寄贈した。
1954年から毎年、式典の中で大量の放鳩が行なわれている。この時使用される鳩は、各種の競翔団体から借り受けているが、91年には、広島中央競翔連合会、広島平和競翔連合会、山陽競翔連合会、日本伝書鳩協会(広島支部・広島北支部・呉支部)の提供によるものであった。

平和式典の会場-平和記念公園(設営)

平和式典の会場-平和記念公園(設営)

(2)
平和記念公園で初めて開催された1952年(昭和27年)の場合、式典会場には、わずかの椅子しか準備されておらず、大部分の人々は、座り込むか、立ったまま参列していた。64年以降、来賓や主催者以外の参列者への椅子席が設けられるようになった。64年に、遺族や老齢者のための椅子席が設けられ、その後、一般席(66年)、特別被爆者席(68年)、障害者席(81年)が設置された。椅子席の数は、新聞報道によれば、68年以後、約1万人分が設営されるようになっている。91年の場合、椅子席の合計は、1万2,945席で、その内訳は、特別来賓・主催者用480席、被爆者・遺族用3,000席、都道府県遺族代表用84席、認定被爆者用456席、身体障害者用54席、流れ献花者用96席、一般用8,775席であった。これらの椅子は、市内小中学校28校から借り集められた。
1991年の設営では、原爆死没者慰霊碑から広島平和記念資料館の間の広場のほぼ全面に椅子席が設けられた。しかし、それでも多くの参列者は、立ったまま参列しなければならなかった。この年の参列者は5万5,000人と発表されており、この年には、4万人以上が、式場周辺で立ったままの参列していたことになる。78年から、こうした参列者のために、式典モニターテレビが設置されるようになった。当初は、6台であったが、その後増設され、91年には16台が設置された。
このほか、合唱団・吹奏楽団用の山台の設置(1969年)、式台・鐘つき台の設置(70年)、献花台の設置(76年)などの改良が加えられた。また、70年に式典表示パネル「25周年広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が原爆資料館壁面に掲示され、75年からは、毎年掲示されるようになっている。

 

平和式典の会場-平和記念公園

(1) 平和式典の会場-平和記念公園

平和式典は、「平和広場」(1947と48年)、「市民広場」(49と50年、50年は予定)、戦災供養塔前(51年)と、その会場を転々と変えていた。しかし、52年(昭和27年)以降、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前で開催されるようになった。
平和記念公園には、戦前、中島本町、天神町、材木町、元柳町が存在し、店舗や住宅約700軒が密集していた。この地域は、原爆爆心地からほぼ500メートル圏内に位置しており、原爆攻撃により壊滅した。戦後、広島市は、この場所を、公園(中島公園)とすることを計画した。広島市は、1949年4月20日、この公園を平和記念公園として建設することとし、設計図を全国に公募した。7月18日に募集を締め切ったが、応募作品は145点におよんだ。この中から選ばれたのは、丹下健三ら4人の共同作品であった。
この公園は、広島平和記念都市建設法の公布(1949年8月6日)にともない、その裏づけのもとに建設されることとなった。49年10月3日、東京で平和文化都市建設協議会の第1回会合が開催されたが、そこでは平和の理想を象徴する平和記念施設として、①記念公園(平和公園)、②記念館、③記念街路(平和緑道)が建設されることとなった。
①は、本川と元安川に抱かれた三角州の頂点に位置する中島公園(=平和広場、3万2、200坪)とその東側対岸の4、800坪(旧広島県産業奨励館敷地)と、その東北に接続する旧広島城跡を中心とする中央公園(=市民広場、22万坪)を総合した公園とされた(その後、中央公園部分は平和公園から外される)。③は、中島公園南端を基点として、東西に伸びる延長約4、000メートル、幅員100メートルの街路であった(後に「平和大通り(百メートル道路)」と呼ばれる)。また、②は、中島公園およびその東側対岸に設置するものとし、その内容としては、つぎのようなものが考えられていた。
(a)平和会館 2、500人収容の会議室及び事務室、原爆関係資料陳列室等。
(b)平和アーチ 張間120メートル、高60メートル、頂点に五つの鐘を吊す。
(c)慰霊堂 原爆犠牲者の遺骨並びに銘を納める。
(d)原爆遺跡 原爆により破壊された旧産業奨励館の建物を補強し保存する。
(大島六七男「復興の足どり」)
1951年2月21日、東京で第4回広島平和記念都市建設専門委員会が開催された。この席上、浜井広島市長は、「今夏で7回忌を迎える原爆都市の慰霊塔関係の設立を急ぎたい」との意向を述べた。しかし、建設省は、広島市の納骨堂を含む「慰霊塔」案は、墓地であり、公園法の建前から認められないと、難色を示した。そこで広島市は、遺骨の代わりに名簿を奉納することとし、8月6日までの式典に間に合うように碑を建立することを決定した(「中国新聞」51年2月22日)。しかし、碑は、51年の8月6日には間に合わず、52年3月末着工した。
碑の設計者は、丹下健三であった。コンクリート素打の工法で埴輪をデフォルメした設計で、当初案の巨大な「平和アーチ」は、正面から見た底辺4.7メートル、高さ3.67メートル、横から見た上辺8.29メートル、下辺5.26メートルのはにわ型に縮小・変更された。原爆死没者名簿を奉納するため、碑の中央に黒い御影石製の矩形の箱が配置された。そして、この箱の正面には、雑賀忠義が作成した碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(雑賀の英訳:Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil.)が、刻み込まれた。この碑は、建立当時から「原爆慰霊碑(原爆死没者慰霊碑)」と呼ばれたが、碑の正式名称は、「広島平和都市記念碑」である。工費は、300万円であった。
一方、当初の案の「平和会館」は、その後、平和記念都市建設法にもとづき広島平和記念資料館(1951年3月着工、通称「原爆資料館」)、広島平和記念館(52年3月着工)の2施設として、また、広島市公会堂(53年11月着工)が、財界の寄付により着工され、55年の2月から8月にかけて竣工した(広島市役所『市勢要覧 昭和34年度』)。
平和記念公園は、公費とは別に、民間団体の寄贈によっても次第に整備された。広島市未亡人会は、1955年8月5日、原爆死没者慰霊碑前に花台を奉納した。建立以来碑前には、粗末な竹筒で花が供えられていたが、これを見かねた同会が原爆10周年を記念して送ったものであった。57年8月3日には、原爆死没者慰霊碑の周囲に完成した「平和の池」の贈呈除幕式が行なわれた。この発端となったのは、前年秋広島で開催された第5回日本青年会議所会員大会であった。大会では、「大会の記念事業として記念施設を広島に残そう」との決定がなされ、全国の青年会議所会員が20万円を寄せた。これを受けた広島市は、「業火のうちに散っていった20数万人の霊を慰めるため、原爆慰霊碑周囲三方に幅2メートルの池を掘り碑全体を浮上らせる」ことを決め、市費を加えて池を建設した(「中国新聞」57年8月1日)。また、63年4月29日の天皇誕生日には、広島日の丸会本部(高木尊之会長)が、平和公園に国旗掲揚台を設置し、市に寄贈した。
1963年6月、核兵器禁止平和建設広島県民会議は、原爆死没者慰霊碑付近にオリンピックの聖火台のような「平和の灯」を建設することを計画した。この計画は、同年12月3日の核禁会議全国幹部会で取り上げられ、核禁会議が700万円を募金することが決定された。灯の設計は、丹下健三が担当し、64年5月27日、「平和の灯」の起工式が挙行された。灯台は、原爆死没者慰霊碑と同じくコンクリート素打の工法で、高さ3メートル、幅13メートル、両手が力強く灯を掲げる姿を表現し、灯は、平和を求める積極的な姿を示したものであった。起工式に出席した丹下は、設計者としての意図を、「安らぎを象徴するハニワ型の慰霊碑だけではもういけない。いまひとつ動的な平和の象徴が必要な時代だ」と語っている(「中国新聞」64年5月28日)。「平和の灯」点灯式は、約1万人の参列のもとに64年8月1日午後7時から開始された。点灯に用いられた火は、伊勢神宮、東西両本願寺など全国12宗派から寄せられた「宗教の火」と溶鉱炉など全国の工業地帯から届けられた「産業の火」であった。
この後も、平和公園の整備が続いたが、その中で、1985年の原爆死没者慰霊碑の改築は、最も大きなできごとであった。広島市は、84年1月、碑改築の方針を発表した。その理由として、コンクリートの石灰分が表面に吹き出して中の鉄筋の腐食が進み、碑にひびが入ることが明らかになったこと、原爆死没者名簿が32冊入っているが、あと数冊の余裕しか残っていないことの二つがあげられた。改築工事は、同年7月23日から始められ、翌85年3月26日、新慰霊碑(旧慰霊碑と同型で材質はコンクリートからみかげ石に変更)の除幕式が行なわれた。

 

平和式典の主催者

平和式典の主催者

平和式典の初期の主催者は、広島平和祭協会(1948年6月広島平和協会と改称)であった。広島平和祭協会は、会則により、事務所を広島市役所内に置き(第1条)、会長は広島市長が就任することになっていた。しかし、副会長は「広島商工会議所会頭、市会議長及委員会デ選任セラレタルモノ」の3人(第4条)とされ、また、協会独自の予算をもっており、広島市とは独立した組織であった。第2回平和祭が開催された48年度(昭和23年度)決算の場合、分担金収入は158万7,800円であり、その内訳は、広島市60万円、広島県30万円、正会員分担金 68万7,800円(289口)となっている(「昭和23年度広島平和協会事業報告」)。また、50年度予算では、収入総額250万円のうち、広島市が150万円、広島県が50万円をそれぞれ分担することになっていた(「昭和25年度広島平和協会収支予算書(案)」)。

マスコミは、毎年8月6日が近付くと平和協会の平和式典への取組を報道していたが、1952年以降、そうした報道は見られなくなった。平和式典は、52年から54年までは、広島市と平和協会で共催されたことになっている。しかし、平和協会はすでに有名無実化しており、54年に改組の動きが見られた。7月13日、原・水爆禁止広島県民運動連絡本部は、平和記念日の行事に関する第1回準備委員会を開催し、その中で、広島平和協会を解消し、「民主、婦人、PTA、労組、宗教、文化、教組など平和につながる各種団体を網らした新しい平和協会を8月6日までに結成」することを申し合わせた(「中国新聞」54年7月15日)。浜井広島市長は、この動きを了解するとともに、平和式典の市との共催を止め、当初のように平和協会のみで開催したい意向も持っていたと伝えられる(「中国新聞」54年7月25日)。しかし、これは、市議会の反対により実現しなかった。平和協会は、7月29日、委員会を開催し、これまでどおり広島市と平和協会の共催で式典を開催することと、平和式典の予算32万7,000円(広島市が20万円、県が10万円を助成)を決定した。

平和式典は、1955年からは、広島市が単独で主催するようになった。その後、60年のみ、県と共催で開催された。これは、県からの強い働きかけの結果であり、その経緯はつぎのようなものであった。
1960年1月21日、平塩五男広島県議会議長は、木野広島市議会議長に対し、8月6日に県・市合同の原爆死没者慰霊祭を開きたい旨の申し入れを行なった。そして、翌22日には、広島県・市両議会の正副議長名で、同様の声明を発表した(「中国新聞」60年1月23日)。2月17日、この慰霊祭について県・市、県・市両議会の4者代表者会議が持たれ、まず県議会側からつぎの説明がなされた。

①昨年12月の県会で、原爆15周年の県慰霊祭開催を決議している。
②できれば、県・市合同で開きたい。
③同慰霊祭には皇太子殿下[明仁親王、現天皇]をお招きするほか、岸首相、衆・参両院議長、各党党首の参列を求める。
④慰霊祭は全県民の祈りにふさわしく、8月6日の午前8時15分を中心に開きたい。

これに対し、市と市議会側は、「8月6日の平和記念式典は9年間の歴史的行事なので、8時15分は避けて開くことはできない。合同慰霊祭の趣旨には賛成だが、二つの集会の場所や時間的な問題を検討したうえで次回の会議で結論を出したい」と即答を避けた(「中国新聞」1960年2月18日)。

2回目の会合は2月26日に開かれ、4者の間で、(1)慰霊祭と平和記念式を共同主催で行なう、(2)開催時刻は原爆が投下された午前8時15分を中心に午前7時半ごろから同8時半までとし、平和記念公園(原爆死没者慰霊碑前を予定)で開く、(3)具体的な計画は四者の代表で準備委員会をつくってすすめる、との3点が確認された。3月28日には、準備委員会の構成と式典に皇太子を始め岸首相、衆参両院議長、各政党代表を招待することを決定した。5月8日の第1回準備委員会では、式典の正式名称を「原爆15周年慰霊式並びに平和記念式典」とすること、当日弔旗を掲げること、式典には政治的・思想的な団体の参加をいっさい認めず、静かに原爆犠牲者の冥福を祈る日とするなどの方針が決定された。その後、5月9日、大原知事による皇太子夫妻の参列要請、7月中旬、県議会3党(自民、社会、民社)派代表による党首参列折衝、県教委と県体協による原爆15周年平和記念総合体育大会および県内4コースからの線香リレーの具体化など、それまでの式典前にはみられなかった大規模な準備が進められた。