「広島市平和記念式典」カテゴリーアーカイブ

国連(平和宣言)

平和宣言

(4) 国連

宣言が、国連に初めて言及するのは、1972年(昭和47年)のことである。この年の宣言は、つぎのように述べた。

さきの国連人間環境会議は、自然環境の破壊と人口の増加、資源の枯渇により人類が陥りつつある多面的な危険に対し、70年代を生きる人間活動の理念を明らかにし、核兵器の完全な破棄をめざす国際的な合意を急ぐよう宣言した。

ここに現れた国連の役割の積極的評価は、74年には、「国連において、核保有国のすべてを含む緊急国際会議を開き、核兵器の全面禁止協定の早期成立に努めるよう」にとの国連に対する提唱に発展する。71年の宣言で「核不使用協定の締結」を要請したことはあるが、要請対象は明確ではない。74年の宣言は、具体的な国際政治への提唱を行なった最初のものであった。さらに76年から80年代初めにかけて毎年、国連への期待あるいは国連を軸とした行動の提唱が行なわれるようになった。その後の宣言における国連への言及は、つぎのようなものである。

1976年「このときにあたり、広島市長は、長崎市長とともに国連に赴き、被爆体験の事実を、生き証人として証言し、世界の国々に、これが  正しく継承されるよう提言すると同時に、国連総会が議決した核兵器使用禁止、核拡散防止、核実験停止に関する諸決議のめざす、核兵器廃絶への具体的措置が早急に実現されるよう、強く要請する決意である。」

1977年「昨年、広島市長は、被爆都市の市長として、長崎市長とともに国  連に赴き、永年にわたる両市民の胸深くうっ積した悲願をこめて、被爆体験の事実を生き証人として証言し、核兵器の廃絶と戦争の放棄を強く訴えてきた。
われわれのこの訴えに対し、ワルトハイム事務総長、並びにアメ ラシンゲ総会議長は、それぞれ国連を代表し、広島・長崎の苦しみ は人類共通の苦しみであり、広島・長崎の死の灰の中から新しい世  界秩序の概念が生まれるであろうと強調し、心から共鳴するとともに、広島・長崎を訪問したいとの意志を披瀝した。本日ここに、ア  メラシンゲ総会議長をこの地に迎えたことは、ヒロシマの声が直接 国連に反映されると思われ、その国際的意義はまことに深いものがある。
国連は、明年5月、国連軍縮特別総会の開催を予定している。世界     は、その成果に大いなる期待を寄せているのである。」

1978年「このヒロシマの願いは、ようやく世界の良心を動かし、本年5月、 国連加盟149か国による史上初の軍縮特別総会が開催された。
広島市長は、長崎市長とともに、両市民を代表してこの軍縮特別 総会に列席し、あわせて国連本部で画期的な「ヒロシマ・ナガサキ  原爆写真展」を実現した。この写真展は、被爆の実相を生々しく再  現し、国連加盟国代表はもちろん、国連を訪れた人びとに大きな衝  撃を与えた。
今回の軍縮特別総会では、全面的かつ完全な軍縮を究極の目標と     し、この目標を達成するため国連全加盟国で構成する新しい軍縮機構の設置を取り決めた。その意義はまことに大きい。」

1979年「もとより、今日まで、世界では数多くの平和への努力が試みられている。特に、国際連合は、昨年、史上初の軍縮特別総会を開催し、核兵器の廃絶を究極の目標とした軍備の縮小をめざして、その第一歩を踏み出した。さらにこれに応えて、軍縮委員会は、英知を結集し3年後の軍縮特別総会に向かって討議を続けている。」

1980年「もとより、今日まで核兵器の増大を憂え、人類を破滅から救おうとする努力は、部分核実験禁止条約、核不拡散条約、米ソによる戦略兵器制限交渉等にも見ることができる。特に、国連初の軍縮特別総会では、国家の安全は、軍備の拡大よりも軍縮によってこそ保たれるとの合意を見、廃絶を目標とする核兵器の削減が軍縮の最優先課題であるとの決議がなされた。

1981年「来る第2回国連軍縮特別総会において全加盟国は、この精神に立脚し、核兵器保有国率先の下に、核兵器の不使用・非核武装地帯の拡大・核実験全面禁止など、核兵器廃絶と全面軍縮に向けて具体的施策を合意し、すみやかに実行に移すべきである。」

1982年「この時開催された第2回国連軍縮特別総会は、遺憾ながら国家間の不信を克服しえず、「包括的軍縮計画」の合意には至らなかった。しかし、核戦争の防止と核軍縮が最優先課題であるとの第1回軍縮特別総会の決議を再確認するとともに、新たに、軍縮への世論形成を目的とする「世界軍縮キャンペーン」の実施に合意し、さらに、日本政府が提案した広島・長崎への軍縮特別研究員派遣を採択した。」

1983年「国際連合は、第2回軍縮特別総会で採択した軍縮キャンペーンの一環として、今年秋の各国軍縮特別研究員の広島派遣、国連本部での原爆被災資料の常設展示など、被爆実相の普及と継承への新たな努力を始めた。」

1986年「国連事務総長は、米ソ両首脳の広島訪問を積極的に働きかけるとともに、第3回軍縮特別総会を速やかに開催すべきである。」
1987年「折しも、本年は、国連軍縮週間創設十周年を迎え、来年は、第3回国連軍縮特別総会が開催される。ヒロシマは、その実りある成果を切望してやまない。」

1988年「こうしたさ中、第3回国連軍縮特別総会が開催され、広島市長は世界の恒久平和を願う「ヒロシマの心」を強く訴えた。
軍縮総会は、過去最多の政府首脳と非政府組織の代表が参加して 行われ、核実験禁止や核不拡散について具体的な議論を尽くしながらも、関係国が自国の利害に固執するあまり、世界の包括的軍縮への展望を示す最終文書の採択に至らなかったことは、極めて遺憾で ある。
ヒロシマは主張する。核兵器廃絶こそが人類生存の最優先課題で あり、俊巡は許されない。いまこそ、国連の平和維持機能を強化し、 活性化することを各国に強く要請するとともに、今後、国連主催に よる平和と軍縮の会議が被爆地広島で開催されることを望むものである。」

このように、宣言は、1970年代半ばから、核兵器禁止のイニシアティブを国連に求め続けている。その一方で、80年代に入ると、米ソ核超大国のイニシアティブへの期待も現れるようになった。82年の宣言では、第2回国連軍縮総会の結果に遺憾の意を表明する一方で、「核保有国の元首をはじめ各国首脳」に「広島で軍縮のための首脳会議」を開催することを訴えた。また、翌83年から87年米ソ首脳会談を求めるという形で、両国のイニシアティブに期待を寄せている。

原水爆禁止(平和宣言)

平和宣言

 (3) 原水爆禁止

宣言は、当初、人類破滅観にもとづいて絶対平和の創造や戦争放棄を訴えた。しかし、原爆の禁止を訴えることはなかった。ビキニ水爆被災事件の発生した1954年(昭和29年)においても、「一切の戦争排除と原子力の適当なる管理を全世界に訴える」という表現にとどまっていた。ところが、57年の宣言では、「原水爆の保有と実験を理由づける力による平和が愚かなまぼろしにすぎない」と指摘し、翌58年には、「われわれは更に声を大にして世論を喚起し、核兵器の製造と使用を全面的に禁止する国際協定の成立に努力を傾注し、もって人類を滅亡の危機から救わなければならない」と初めて明確に原水爆禁止を主張した。68年には、「核兵器を戦争抑止力とみることは、核力競争をあおる以外のなにものでもなく、むしろ、この競争の極まるところに人類の破滅は結びついている」という明確な核抑止論批判に発展した。さらに、73年には、「全世界の強い抗議を無視して、南太平洋において核実験を強行したフランス政府をはじめ、いまもなお核実験を続ける米・ソ・中国など、国家主権を楯として、自国の安全のためにのみ、核実験を正当化しようとしていることは、まさに時代錯誤であり、全人 類に対する犯罪行為でもある」と、名指しで核保有国を厳しく非難するまでになった。

1973年の宣言は、「核兵器の速やかなる廃絶と核実験の即時全面禁止」という表現で、核兵器廃絶の課題のうちまず核実験禁止を要請している。それまでにも、「核実験停止決議や査察専門家会議開催」(1958年)、「米、英、ソ3国による部分的核実験停止条約の締結」(63年と64年)など核実験の制限、管理をめぐる国際動向に歓迎の意を表していたが、核実験禁止を緊急の課題として要請したのは、この時が初めてである。その後、79年には、「相次ぐ核実験の強行」が新たに提起した「放射能被曝の問題」を指摘し、「すべての核実験はただちに停止し、これ以上新たな被曝者をつくってはならない」と強く訴えた。また、82年以降、核実験の即時停止を求め続けている。
1965年の宣言は、核兵器の「保有国が漸次その数を増して、事態をいよいよ混乱させている」ことに憂慮を表明した。その後、宣言が、核拡散の問題を独自に取り上げることはなかったが、74年になって、宣言の中心テーマを、核拡散防止にあてた。この年の宣言は、米ソ両大国が、核の拡散を助長していることを指摘し、核拡散の阻止を国連に期待するとともに、日本政府へも「核拡散防止条約の速やかなる批准」を求めている。この後、核拡散についての言及は、75年、76年、80年、88年の宣言でもなされた。
1974年の宣言は、政府の外交政策に対して具体的要請を表明した最初のものである。同年の宣言は、日本政府に対し「核拡散防止条約の速やかなる批准を求め」た。以後、政府に対し、核軍縮に積極的な役割を果たすよう求め続けている。78年には、つぎのように政府に要請した。
いまこそ唯一の被爆国であるわが国は、国際社会における平和の先覚者として国際世論の喚起に努め、核兵器の廃絶と戦争放棄への国際的合意の達成を目ざして、全精力を傾注すべきときである。
こうした核兵器廃絶への日本政府のイニシアティブの要望は、1980年の宣言でも現れ、81年には、「平和国家の理念を掲げ、非核三原則を国是とするわが国がその先導者となることを期待する」と、その根拠として「非核三原則」に触れた。81年の宣言に初めて言及された「非核三原則」は、以後、90年まで毎年宣言の中に現れており、83年からは、政府に、その堅持あるいは厳守を要望するようになった。なお、89年と90年の宣言は、政府に「非核三原則の厳守」とともに、「アジア・太平洋地域の国際的非核化の実現」に向けての外交努力も要望している。

原爆被害観(平和宣言)

平和宣言

(2) 原爆被害観

平和宣言の内容は、その原爆被害観に大きな特色を持っている。1947年(昭和22年)の最初の宣言は、原爆被害をつぎの2種類の論理で平和と関連づけた。

(a)これ(原爆被害=筆者注)が戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に導く要因となったことは不幸中の幸であった。この意味に於て8月6日は世界平和を招来せしめる機縁を作ったものとして世界人類に記憶されなければならない。
(b)この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革命」を招来せしめた。すなわちこれ(原爆被害)によって原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめたからである。

(a)は、原爆被害を終戦の根拠とし、「終戦=平和」という論理で、一方、(b)は、原爆被害は人類破滅を示唆しているから、人類破滅を避けるためには平和を選択しなければならないという論理で、それぞれ原爆被害を平和とつないでいる。(a)は、「終戦詔書」において用いられた論理で、被爆直後から今日まで根強く残っているものである。しかし、平和宣言においては、翌年には消え、今日まで現れたことはない。一方、(b)は、原爆投下直後に、世界連邦主義者など一部の間で唱えられていたものであり、マーカーサーも、同年の式典にこの論理を盛り込んだメッセージを寄せた。この人類破滅観は、ニュアンスの差はあるものの、その後の宣言の中に一貫して盛り込まれてきた。1991年の宣言の中では、それは、「ヒロシマはその体験から、核戦争は人類の絶滅につながることを知り・・・」と表現されている。
人類破滅観は、当初は将来の可能性として取り上げられていた。しかし、ビキニ水爆被災事件を経験した1954年の宣言では、「今や・・・滅亡の脅威に曝されるに至った」と、現在の可能性として表現された。

1947年の宣言は、広島の原爆被害を「わが広島市は一瞬にして壊滅に帰し、十数万の同胞は、その尊き生命を失い、広島は暗黒の死の都と化した」と述べた。調査報告では、被害は「爆心地から半径何メートル以内の建物は云々、人間、生物は云々」という表現が一般的である。宣言が、それを「全市壊滅」というイメージで捉えたことは、注目に値する。宣言の人類破滅観は、このイメージを世界規模に拡大したものであり、その意味で、広島の具体的被害の裏付けを持っているということができる。

一方、広島の原爆被害の表現形式は、時代とともに変化している。1947年の宣言は、被害を都市の壊滅と大量死の二つの要素で把握しているが、53年の宣言では、それを「原爆下の惨状」と表現し、新たに「原子爆弾が残した罪悪の痕は、いまなお、消えるべくもなく続いている」と原爆の後遺症を付け加えた。以後、宣言は、原爆の被害を、都市の壊滅、大量死、後遺症の3要素で表現するようになった。とはいえ、常に3要素を具体的に述べているわけではなく、3要素を総括する表現として、「原爆の惨禍」、「ヒロシマ」、「被爆体験」を併用するようになった。

宣言が、原爆被害の実相について詳細に述べるということはなく、また、被害の3要素も年を経るにしたがって抽象的な表現に変わった。しかし、被爆30周年に当たる1975年の宣言は、例外的に宣言のほぼ半分をそれにあて、詳細に被害の実相を述べている。これは、山田節男に替わって市長に就任した荒木武が初めて読み上げたものであったが、その内容は、つぎのようなものである。

昭和20年8月6日、広島市民の頭上で、突然、原子爆弾が炸裂した。爆弾は灼熱の閃光を放射し、爆発音が地鳴りのごとく轟きわたった。その一瞬、広島市は、すでに地面に叩きつぶされていた。
死者、負傷者が続出し、黒煙もうもうたるなかで、この世ならぬ凄惨な生き地獄が出現したのであった。
倒壊した建物の下から、或は襲い来る火焔の中から、助けを求めつつ、生きながらに死んでいった人々、路傍に打ち重なって、そのまま息絶えた人々、川にはまた、浮き沈みしつつ流される人々、文字通り狂乱の巷から一歩でも安全を求めて逃げまどう血だるまの襤褸の列、「水、水」と息絶え絶えに水を求める声・・・・・・・・・。今もなお脳裡にあって、三十年を経た今日、惻々として胸を突き、痛恨の情を禁じ得ない。

更に被爆以来、今日まで一日として放射能障害の苦痛と不安から脱し切れず、生活に喘ぐ人々が多数あり、その非道性を広島は身をもって証言する。

演奏と合唱(式次第)

平和式典の式次第

(5) 演奏と合唱

1947年(昭和22年)の第1回式典では、平和の塔の除幕と平和宣言の間で、FK(NHK広島放送局の略称)放送管弦楽団・同混声合唱団により「ひろしま平和の歌」が合唱され、式典の最後でも、市内男女中等学校生徒100余人により「ひろしま平和の歌」が合唱された。これ以後、演奏と合唱は、平和式典に欠かせないものとなっている。
合唱は、FK混声合唱団(1947年)、広島放送合唱団(49年と52年)、YMCA合唱団(51年)、市内の職場の合唱団(55年と56年)、市内の学校と職場の合唱団(57年と58年)、市内の学校の合唱団(59~61年)などさまざまな団体によってなされた。しかし、62年からは、広島少年合唱隊によって合唱がなされるようになり、68年からはこの合唱隊に、市内の大学、高校、職場、同好会、婦人などの合唱団が加わるようになった。合唱団の規模は、広島少年合唱隊のみの場合は100~200人であったが、その後、500~600人規模へと増加している。なお、91年の合唱団は、表4のような19団体所属の約500人によって構成されていた。
演奏は、当初、FK放送管弦楽団(47年)、NHK管弦楽団(48年)、広島吹奏楽団(49年)、広島フィルハーモニー(51年)、広島交響楽団(53年)、天理スクールバンド(55年)、広島放送管弦楽団(56年)など専門的な楽団によってなされていた。ところが、56年からは、地元のアマチュア楽団が演奏を担当するようになった。同年は、広島市職員組合ブラスバンドが担当し、翌57年からは市内の学校のブラスバンドが担当するようになった。当初のブラスバンドを構成したのは、国泰寺、段原、観音、江波、宇品などの中学校のものであり、68年からは、市立基町高校が加わった。91年の式典では、市立の中、高等学校4校(国泰寺中、宇品中、基町高、舟入高)の吹奏楽部が演奏している。なおこの間、皇太子明仁親王(現天皇)を来賓として迎えた60年の演奏は、広島県警本部のブラスバンドが、また、64年から67年にかけてはエレクトーンの演奏が採用された。
表5は、第1回式典で合唱された「ひろしま平和の歌」(重園贇雄作詩、山本秀作曲)の歌詞である。この歌は、これ以後現在に至るまで歌い継がれている。55年、56年、58年には、この歌とともに「原爆許すまじ」が合唱された。また、64年には、コロンビア専属の新人歌手扇ひろ子(本名=重松博美)が式典の最後に「原爆の子の像の歌」を独唱した。扇は、生後6か月で広島で被爆、建物疎開に動員中の父親を失っていた。「原爆20回忌には、おとうさんの眠る広島で歌いたい」という扇の熱意に、石本美由起と遠藤実が、この歌を無報酬で作詞、作曲、レコード会社もテスト版を作成しただけで市販せず、版権を広島市に寄贈することとした。これを受けた広島市は、平和式典を延長するという異例の措置で、この歌の独唱を取り入れた。
「ひろしま平和の歌」には慰霊の要素は無い。しかし、演奏では、慰霊の曲が採用された。曲目は、「霊祭歌」(55年)、「鎮魂曲」(56年と57年)、ショパン作曲「葬送曲」(58年と59年)、ベートーベン作曲「憂いの曲」(60年)、賛美歌「日暮れて四方は暗く」(61年)、「仏教賛歌」(62年と63年)、シューマン作曲「祈祷曲」(65年)と年々変えられていたが、68年からは、式の開始時に「慰霊の曲」(大築邦雄作曲)が、また、献花時に「礼拝の曲」(清水修作曲)が演奏されるようになった。その後、75年に献花時の演奏曲が川崎優作曲の「祈りの曲第一哀悼歌」に変更され、現在に至っている。

平和の鐘と黙とう(式次第)

平和式典の式次第

(4) 平和の鐘と黙とう

平和の鐘は、式典の中で8時15分に黙とうの合図として鳴らされるのが常であった。式典が中止となった1950年(昭和25年)にもこの鐘だけは鳴らされた。ただ、翌51年には、式次の中に「平和の鐘」が盛り込まれず、黙とうはサイレンを合図に実施された。
平和塔に設置された洋風の鐘は、当時、広島のシンボルとして扱われた。第1回平和祭で初めて鳴らされた後、この鐘は、47年12月の天皇行幸の際の天皇の相生橋通過の時、また48年2月に日本文化平和協会などが「文化国家建設学生大会」を平和塔の下で開催した時、さらに第2回平和祭において鳴らされた。広島逓信局は、第2回平和祭にあたり、平和塔、鐘、鳩の3点を図案化した記念スタンプを作成した。また、この鐘は、49年4月に東京日本橋・三越本店で開催された「広島県観光と物産展示会」の会場でも鳴らされた。
1949年6月、広島銅合金鋳造会(広島県銅合金鋳造工業組合の市内在住者を中心とした20人で結成)は、平和記念都市建設法の国会通過を記念して、「平和の鐘」を広島市に寄贈することを計画した。山本博広島工業専門学校教授の設計による鐘は、直径1.2メートル、高さ1.4メートル、重量760キログラムの洋風の鐘であった。意匠の八つがいの鳩は片田天玲画伯が筆をとり、市章と「ノー・モア・ヒロシマズ」(英文)が織り込まれた。また、49年8月4日、平和式典会場の市民広場に10メートルの鐘楼が完工した。鐘は、49年の式典前日、横川町の鋳造会事務所から花で飾った牛10頭と馬2頭に運ばせ、鐘楼に取り付けられた。
この鐘は、1949年の式典で鳴らされた。しかし、翌年以降は、式典の中止や式典会場の変更などにより、式典での役割を与えられることはなかった。52年から再開した式典での「平和の鐘」には、市内の寺から借用した鐘が使用された(「中国新聞(夕刊)1977年8月12日)。また、67年の式典からは、香取正彦(日本工芸会副理事長)が広島市に寄贈した鐘(高さ77センチ、直径55センチ、重さ100キロ。吉田茂元首相の書「平和」が刻まれている)が用いられるようになり、現在に至っている。
第1回から第3回(1947-49年)までの式典で鐘を鳴らしたのは浜井市長であった。第1回と3回では14回点打されたと報じられている。しかし、52年以降は、だれの手によって鳴らしたかは、報道されなくなった。鐘の点打者が、ふたたび、注目を浴びたのは、57年の式典においてであった。この年、来賓の三笠宮夫妻に奉呈用の花輪を手渡す役と平和の鐘を点打する役に、それぞれ若い被爆女性が起用された。これをマスコミは「原爆乙女が慰霊式に参列」と報じ、以後毎年、鐘の点打を式典の大役として大きく報道するようになった。それによれば、翌58年から60年には2人の「原爆乙女」が、61年と62年には1人の若い被爆女性が「平和の鐘」を鳴らしている。63年からは、この役は、「被爆者」に代わり男女1人ずつの「遺族」が勤めるようになった。69年には初めて既婚の男女が、80年には胎内被爆の男女が、また、81年には被爆二世の男女が、「遺族」として選ばれている。

(5) 演奏と合唱
1947年(昭和22年)の第1回式典では、平和の塔の除幕と平和宣言の間で、FK(NHK広島放送局の略称)放送管弦楽団・同混声合唱団により「ひろしま平和の歌」が合唱され、式典の最後でも、市内男女中等学校生徒100余人により「ひろしま平和の歌」が合唱された。これ以後、演奏と合唱は、平和式典に欠かせないものとなっている。
合唱は、FK混声合唱団(1947年)、広島放送合唱団(49年と52年)、YMCA合唱団(51年)、市内の職場の合唱団(55年と56年)、市内の学校と職場の合唱団(57年と58年)、市内の学校の合唱団(59~61年)などさまざまな団体によってなされた。しかし、62年からは、広島少年合唱隊によって合唱がなされるようになり、68年からはこの合唱隊に、市内の大学、高校、職場、同好会、婦人などの合唱団が加わるようになった。合唱団の規模は、広島少年合唱隊のみの場合は100~200人であったが、その後、500~600人規模へと増加している。なお、91年の合唱団は、表4のような19団体所属の約500人によって構成されていた。
演奏は、当初、FK放送管弦楽団(47年)、NHK管弦楽団(48年)、広島吹奏楽団(49年)、広島フィルハーモニー(51年)、広島交響楽団(53年)、天理スクールバンド(55年)、広島放送管弦楽団(56年)など専門的な楽団によってなされていた。ところが、56年からは、地元のアマチュア楽団が演奏を担当するようになった。同年は、広島市職員組合ブラスバンドが担当し、翌57年からは市内の学校のブラスバンドが担当するようになった。当初のブラスバンドを構成したのは、国泰寺、段原、観音、江波、宇品などの中学校のものであり、68年からは、市立基町高校が加わった。91年の式典では、市立の中、高等学校4校(国泰寺中、宇品中、基町高、舟入高)の吹奏楽部が演奏している。なおこの間、皇太子明仁親王(現天皇)を来賓として迎えた60年の演奏は、広島県警本部のブラスバンドが、また、64年から67年にかけてはエレクトーンの演奏が採用された。
表5は、第1回式典で合唱された「ひろしま平和の歌」(重園贇雄作詩、山本秀作曲)の歌詞である。この歌は、これ以後現在に至るまで歌い継がれている。55年、56年、58年には、この歌とともに「原爆許すまじ」が合唱された。また、64年には、コロンビア専属の新人歌手扇ひろ子(本名=重松博美)が式典の最後に「原爆の子の像の歌」を独唱した。扇は、生後6か月で広島で被爆、建物疎開に動員中の父親を失っていた。「原爆20回忌には、おとうさんの眠る広島で歌いたい」という扇の熱意に、石本美由起と遠藤実が、この歌を無報酬で作詞、作曲、レコード会社もテスト版を作成しただけで市販せず、版権を広島市に寄贈することとした。これを受けた広島市は、平和式典を延長するという異例の措置で、この歌の独唱を取り入れた。
「ひろしま平和の歌」には慰霊の要素は無い。しかし、演奏では、慰霊の曲が採用された。曲目は、「霊祭歌」(55年)、「鎮魂曲」(56年と57年)、ショパン作曲「葬送曲」(58年と59年)、ベートーベン作曲「憂いの曲」(60年)、賛美歌「日暮れて四方は暗く」(61年)、「仏教賛歌」(62年と63年)、シューマン作曲「祈祷曲」(65年)と年々変えられていたが、68年からは、式の開始時に「慰霊の曲」(大築邦雄作曲)が、また、献花時に「礼拝の曲」(清水修作曲)が演奏されるようになった。その後、75年に献花時の演奏曲が川崎優作曲の「祈りの曲第一哀悼歌」に変更され、現在に至っている。

献花(式次第)

平和式典の式次第

(3) 献花
1947年(昭和22年)から49年の平和祭には、式典で花を供える式次は存在しなかった。ところが、51年の式典からは、花を供える行事が取り入れられた。51年には、岩国基地所属のアメリカ軍機から花輪が、52年には、岩国基地と新聞社の飛行機から花輪と花束が式典上空から投下され、戦災供養塔や原爆死没者慰霊碑に供えられた。このような飛行機からの献花は、式次の中の行事ではないが、慰霊という要素が、式典に取り入れられていることを現している。また、1951年の式典では、「キリスト教の献花祈祷」、「浜井平和協会長の献花」が行われた。いずれも式典の前半に行われた慰霊祭の中の行事で、前者は、「教派神道の修祓」、「仏教の敬白文奏上・読経回向」などと、また、後者は、「藤田供養会会長の焼香」、「遺族代表の玉串拝礼」などと並んで行われており、「献花」として特別に設定された式次ではなかった。特別の式次として式典に初めて登場するのは、53年のことである。当初、名称は「花輪奉呈」であったが、68年に「献花」と改称された。
1953年の式典では、原爆死没者名簿の奉納に続いて、「花輪」が、市長、市議会議長、県知事、県議会議長によって原爆死没者慰霊碑に奉呈された。翌54年の「花輪奉呈」には、前年の4人に新たに内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長と遺族代表が加わった。「遺族代表」の参加は、浜井市長の発意で、毎年各施設に収容されている原爆孤児のなかから男女各1人の代表を選ぶことになった。54年には、新生学園(中学2年の男子)と広島戦災児育成所(中学2年の女子)が選ばれた。その後、55年は広島修道院、似島学園、56年は新生学園、光の園、57年は広島戦災児育成所、似島学園、58年戦災児育成所、新生学園、59年戦災児育成所、広島修道院、60年は広島戦災児育成所、童心園から「遺族代表」が選ばれている。しかし、61年からは、「遺族代表」の選出は、孤児収容施設からではなくなり、63年からは、「平和の鐘」を打つ役目の遺族代表が、「献花」の役目も受け持っている。
1961年には、「被爆者代表」が献花に加わった。この年の代表は、大内義直広島市原爆被爆者協議会副会長が務め、以後76年まで、慣例として同協議会の代表が「被爆者代表」に選ばれた。77年以降、「被爆者代表」は2人に増やされ、86年からは、男女2人ずつの4人となって現在に至っている。例外的に85年の「被爆者代表」は6人であったが、このうち4人は日本人であり、残りの2人は、在外被爆者の倉本寛司(米国原爆被爆者協会会長)と郭貴勲(韓国原爆被害者協会)である。さらに、73年からは献花に長崎市民代表が、また、81年からは全国都道府県から式典に招待された遺族の中から2人の代表が献花に加わるようになった。
このほか、1955年、59年、61-63年には、原水爆禁止世界大会に海外から出席した代表が、献花に加わっている。また、皇族(57、58、60年)、国連総会議長(77年)などの参列があった年には、こうした来賓による献花が行なわれた。
「献花」の順序は、当初、「市長、市議会議長」(市)→「内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長」(国)→「県知事、県議会議長」(県)→「被爆者代表」→「遺族代表」となっていたが、1968年からは、市→「遺族代表」→「被爆者代表」→国→県の順に変更され、現在に至っている。こうした改善は、70年から始まる「流れ献花」とともに、式典の市民的色彩を強めようとした措置であった。

 

原爆死没者名簿の奉納(式次第)

平和式典の式次第

(2) 原爆死没者名簿の奉納
広島市調査課は、1951年(昭和26年)5月、原爆死没者調査を実施した。再三のGHQへの陳情の結果実現したもので、7回忌(51年8月6日)を期して慰霊堂に合祀するための全死没者名簿作成を目的とするものであった。調査は、「広島に投下された原子爆弾により直接に、又は原爆の影響を直接の原因として死没された方全部」を対象としており、調査の内容としては、「1.死没者の氏名、2.性別、3.死没時の年齢、4.死没者の当時の住所、5.死没者の当時の職業(勤務先)、6.死没年月日、7.直接の原因、8.死没の場所、9.被爆時にいた場所」の9項目があげられていた。その方法は、関連者からの申告によるものとし、「広島市内及び広島県下については特別に徹底を期して、調査票も市内は全世帯に配布、県下も多量配布し、個人票以外に事業体、学校、団体、病院、寺院等には連記制調査票も配布」した。また、県外については、「各県の地方課から各市町村役場の関係課係を通じて連絡員(部落の世話人)、前国勢調査員、学校の生徒達の御協力により、或は告知板の利用等により申告者に調査票を入手させ、記入して貰う」こととした(広島市役所「広島市原爆による死没者調査についての趣意 書」)。慰霊堂の建設は、51年の式典には間に合わなかった。しかし、式典前日までに確認された氏名は、いろは別にカーボン紙に記載され、式典会場の戦災供養塔に供えられた(広島市『市勢要覧昭和26年版』、「中国新聞」54年8月6日)。
1952年7月上旬、広島市は、市内の能筆家20人に委嘱して過去帳への記載を始めた。5万7,902人の原爆犠牲者の名前を謹記した15冊の「広島市原爆死没者名簿」は、8月6日の式典で、浜井広島市長の手によって原爆死没者慰霊碑の中に設けられた奉納箱に納められた。広島市調査課は、この名簿の写しを、式典当日、原爆死没者慰霊碑と戦災供養塔前で公開し、記帳洩れの届出の受け付けを行なった。53年の式典では、この日以降新たに確認された391人の追加者の名簿が奉納され、以後、追加名簿の奉納が式典の慣例となった。
広島市は、1951年の調査に先だって、死没者の総数を20数万人と想定していた(「中国新聞」51年4月14日)。この根拠は、被爆当時の広島市内の人口を42万人(市内在住者約25万人、軍関係者約8万人、市外からの来広者約9万人)と推定、それから、50年に国勢調査付帯調査で明らかになった生存者数15万7,575人を差し引くという大雑把なものであった。ところが、51年の調査の結果は、6万人にも達せず、広島市調査課長は、53年7月に、死没者数は十数万が妥当との見解を発表した(「中国新聞」53年7月22日)。
原爆死没者名簿作成当時、この中への記帳者は、原爆被爆時またはその直後に死亡したもののみが対象との理解があった。翌1954年の式典での追加記入は212人に過ぎず、こうした結果を踏まえて、今後の追加者を加えても、名簿記帳者数は、6万人程度にとどまるのではないかとの見解が報じられている(「中国新聞」54年8月6日)。しかし、その後、被爆後数年経過した時点での死没者も記帳対象と考えられるようになった。57年には22人、58年には34人、59年には38人(原爆病院で死亡した人)が、過去1年間の死没者として名簿に追加されている。
表3は、現在までの追加数と名簿奉納総数を年別にみたものである。名簿への記帳は、遺族からだけでなく、関係団体からの申し出によってもなされた。1955年と56年には、県婦協の調査により確認された死亡者が追加され、記帳者数が増加した。69年の9,211人という増加は、市長が、被爆者健康手帳所持者で届出の無い死亡者6,844人を職権で記載したためである。また、この年には、原爆供養塔の無縁仏のうち氏名判明分1,071柱の名前が、広島戦災供養会の申し出により記入された。追加奉納された犠牲者のうち、過去1年間の死亡者の人数は、67年までは、100人未満、68年は121人であった。しかし、広島市が、市内の死亡者の中から被爆者を調査して追加奉納を行なうようになった69年以降は、1、000人を超えるようになった。
広島市は、市外の死亡者については、自動的に名簿に記載するという措置を取ることができないでいた。原爆医療法(1957年3月31日公布、正式名称:原子爆弾被爆者の医療等に関する法律)、原爆特別措置法(68年5月20日公布、正式名称:原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律)にもとづく行政事務は、広島・長崎両市を除き都道府県が担当しているからである。77年の場合、7月13日現在で名簿追加記帳予定者数は、1,664人(最終的には2,282人)であったが、そのうち、広島市の措置による数は、1,489人であり、遺族と名簿記入運動を進めている広島県原爆被害者団体協議会の届出分は、175人に過ぎない。この年、広島市を除く広島県内の被爆者健康手帳1,141人分が、所持者の死亡により県に返還されていた。しかし、広島県が、記帳の申し出は遺族の自主判断に任せるという方針を採っていたため、県から市へ記帳対象者として連絡されることはなかった(「読売新聞」1977年7月22日)。このような死亡時の居住地による名簿記帳手続き上の差異を無くするため、広島市は、80年、全国の原爆被爆者対策担当窓口に死没者名簿登載申請書を送った。また翌81年には、長崎市と連名で、知事 、政令市市長などを通じて、全国の遺族に犠牲者の名簿記載を呼びかけ、さらに82年には各地の被爆者団体にも働きかけを行なった。
年々の追加奉納数は、表3のように1972年と83年を画期として、それぞれ2,000人、4,000人を超えるようになっており、85年と90年には顕著な増加を示した。85年の急増は、前年、被爆者関係のデ-タ処理をそれまでの片仮名処理から漢字処理に変更した広島県が、被爆者健康手帳が交付されるようになった57年以降の死亡による手帳返還者2万865人の名前を広島市に提供したことによる。また、90年の急増は、85年に厚生省が実施した死没者調査で新たに判明した5,551人の犠牲者名が加えられたためである。
原爆死没者名簿の奉納は、一貫して市長の役割であった(ただし、1960年のみ県知事と共同で行なった)。その補助者を、69年までは市の職員が務めていたが、翌年からは遺族代表が務めるようになった。70年の補助者に選ばれたのは、この年に新たに名簿に追加された2人の死没者の遺族であった。その後、補助者は、2人(男女)が通例となった。ただ、追加者数の多かった85年と90年には3人が務めている。
原爆死没者名簿(仏式で「過去帳」とも呼ばれる)には、俗名・死没年月日・享年が記入されている。奉納された簿冊の数は、1952年の15冊から始まり、91年には、57冊となった。

 

灯ろう流し(平和式典の関連行事)

平和式典の関連行事

(3) 灯ろう流し
1947年(昭和22年)7月14日、広島市内の日蓮門下寺院8か寺の僧侶13人と広島立正婦人協会員1、000人が中島本町慈仙寺鼻の供養塔で臨川大施我鬼法要を執行した。供養塔での読経終了後、3隻の発動機船に分乗し、本川の三篠橋から播磨橋の間を往復、原爆犠牲者の戒名、俗名などをしたためた経木を川に流して、水供養を行なった。こうした特定の宗派による爆心地付近の川での慰霊行事は、これ以外にも、同年8月5日(広島県宗教連盟)、翌48年7月31日(日蓮宗)、51年7月11日(日蓮宗)、54年8月6日(本願寺広島別院)の行事が、新聞で紹介されている。
1948年の平和祭行事の一つに東部商店連盟が猿猴川で開催した「川祭」(8月6-7日)があった。その模様は、つぎのように報じられている。

広島市的場大通商店街では、戦災死者および幾多の死没者の霊を弔うため6日、的場町太陽館前広場に「法界万霊戦死者供養塔」を建て、午前11時と午後9時法要を厳修、また午後7時からは猿猴川で川施餓鬼を催し華やかな灯篭流しに平和祭の偉観をそえる。   (「中国新聞」48年8月3日)
翌49年にも同所で同様の行事が行なわれ、50年(または51年)からは、中国商店街連合会が、元安川で灯ろう流しを始めた(「中国新聞」1956年8月5日)。また、49年には、江波青年会が、8月6日に河川で死没した原爆犠牲者の「霊を慰めますと同時に其冥福を祈り且つ平和への犠牲に対する感謝の祈りを捧」げるため川供養を計画している(江波青年会革新同盟の広島平和協会長あて「助成金申請」49年7月16日)。これが実行されたかどうかは、不明であるが、52年の平和記念日の夜に、本川青年団が、相生橋下で灯ろう400個を流したことは、新聞で報道されている。

宗教団体、商店街、青年団などにより始められた灯ろう流しは、1952年からは、「ひろしま川祭委員会」により、大規模に実施されるようになった。この委員会は、広島市、市教委、市観光協会、広島商工会議所、FK、国際文化協会、中国新聞社が、「原爆犠牲者の霊を慰めるとともに大衆への慰安をも併せ行い、春の広島まつりとともに広島の2大年中行事」にしようとの意図で結成したもので(「中国新聞」52年7月23日)、第1回の「ひろしま川祭」は、52年8月9日と10日の両日開催された。9日の行事は花火大会と灯ろう流しで、午後7時半から10時半まで、供養塔前と本川橋側水上で、大小500発の打ち上げ花火と仕掛花火20数掛が使用され、また、相生橋河畔で、満潮時に2、000個の灯ろうが流された。10日の行事は市民水上音楽会であり、午後7時から10時半過ぎまで、原爆ドーム前の元安川に浮かべられた船を舞台に開催された。出演したのは、広島邦楽研究会、銀声会合唱団、広島放送管弦楽団、広島フィルハーモニー、花柳寿鶴社中であった。
1953年の第2回の川祭では、6日から8日の夜の満潮時に、元安川と本川で2、000個の灯ろうが流され、8日に、水上音楽会と花火大会が開催された。54年の第3回川祭では、8月6日と7日の両日、平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑前で花火大会が開催され、6日から8日にかけて七つの川で灯ろう流しがおこなわれた。その実施状況はつぎのようなものであった。

中部地区=6-8日、大仏殿前元安川河畔、2、000灯
横川地区=7-8日、横川橋下、700灯
己斐地区=6-7日、己斐橋、1、000灯
十日市地区=6日、本川小学校横河畔、300灯
鷹野橋地区=6日、明治橋下、700灯
駅前地区=6-7日、駅前橋下北側、800灯
段原地区=7日、大正橋下、300灯

この年には、8月6日午後8時から、世界平和広島仏舎利塔建設会、広島大仏奉賛会や本願寺広島別院による灯ろう流しも実施され、平和記念日の夜の広島の川は、多数の灯ろうで彩られた。
1955年の第4回からの川祭の行事は、8月6日夜の灯ろう流しと7日夜の平和公園内での慰霊花火大会となった。6日夜の灯ろう流しは、その後も続けられ、現在に至っている。91年には、広島祭委員会、中国新聞社、広島市商店街連合会の共催により、つぎの5か所で、計9,200個の灯ろうが流された。

駅前地区(駅前大橋北詰の西)  400個
中央地区(原爆ドームの南側) 7,000個
鷹の橋地区(明治橋東詰の南側) 700個
福島地区(新己斐橋東詰の南側) 600個
己斐地区(新己斐橋西詰の南側) 500個

広島祭委員会は、1959年から灯ろう流しと花火大会のほかに、市民盆おどり大会を市民球場で開催するようになった。また、65年からは、盆踊大会と花火大会が、灯ろう流しとは切り離され、太田川夏祭として開催されている。

 

原爆罹災者名簿等の公開(平和式典の関連行事)

平和式典の関連行事
(2) 原爆罹災者名簿等の公開
原爆死没者慰霊碑に奉納された原爆死没者名簿は、当初、公開されていた。また、原爆供養塔開眼を目前に控えた1955年8月1日、原爆供養塔の氏名判明遺骨2,432人の氏名が市の社会課によって公表された。これらの名簿の公表は、それぞれ関係者の大きな関心をあつめた。
被爆から20年ほど経過した広島では、原爆被災の実態を改めて見直す動きが、さまざまな形で生まれた。主な動きだけでも、1964年10月の談和会による原水爆被災白書作成の提唱、12月の広島市内11団体による広島市への原爆ドーム永久保存の要請、同月の厚生省による原爆被爆者実態調査費の65年度予算への要求、66年8月放送のNHKテレビ番組「カメラリポート・爆心半径500メートル」放映を契機に始まった原爆爆心地復元運動、同月から始まった広島原爆戦災誌の執筆、68年2月の原爆被災資料広島研究会の結成などがあげられる。こうした被災実態への関心の高まりを背景として、68年には、被爆直後に作成された原爆罹災者名簿がつぎつぎに発掘された。広島市は、これらの名簿14点、1万5,922人分を、68年7月20日から8月5日まで、広島平和記念館で公開した。名簿公開は、翌年以降も続けられ、公開される名簿は、年々増加し、90年には、83点(2万3,039人分)となっている。
被爆30年の1975年、広島市は、原爆供養塔に納骨されている犠牲者の遺骨の名簿を全国に送付することとし、7月28日から全国3,379の市町村あてに発送を始めた。この名簿は、55年に初めて公表され、68年に始まった名簿公開の会場で閲覧に供されていたが、広島市が積極的に全国に働きかけたのは初めてのことであった。その背景には、戦後30年経過し、遺家族や関係者が全国に散在しているとの判断があった。名前や収集場所の分かっている遺骨は2,432柱であったが、このうち、91年までの名簿公開で1,487人の遺骨の身元が判明した。
1985年、広島市が、市内の区役所、出張所、公民館に、一枚の紙に印刷した名簿を掲示したところ、12月下旬までに16家族が遺骨を引き取り、26家族が名乗り出るなどの成果があった。このため、広島市は、名簿の全国公開を、被爆40年の85年にふたたび実施することとした。85年7月3日、全国約890の自治体に「原爆供養塔納骨名簿」(1,080人分)を発送し、同月15日から10月31日まで全国一斉に掲示してもらうよう依頼した。全国公開は、この年以後、毎年実施されるようになった。91年には、948人分の名簿が発送された。

原爆供養塔合同慰霊祭(平和式典の関連行事)

平和式典の関連行事
(1)原爆供養塔合同慰霊祭
1947年(昭和22年)8月6日、前年に引き続いて慈仙寺鼻の戦災供養礼拝堂で広島宗教連盟主催のもとに慰霊祭が執行された。慰霊祭は、午前7時に仏式から始まり、キリスト教、教派神道、神社庁式の順に正午まで続いた。49年のこの行事の式次は広島市戦災死没者供養会が発行した「広島市戦災死没者慰霊祭執行について」と題する案内状により詳細に知ることができる。これによれば、8月6日午前6時半から7時半の1時間、宗教連盟主催の行事を行ない、平和式典開催時間(8時15分-9時15分)の中断後、9時半に再開、新教(プロテスタント)、天理教、浄土宗、旧教(カトリック)、日蓮宗、真宗本派、真宗大派、真言宗、曹洞・臨済宗の各派の順にそれぞれ1時間ずつ法要を執行し、午後6時半に終了することになっている。この行事は、平和祭の中断した50年にも執行されており、平和記念日の諸行事の中で、翌年から現在まで開催され続けている唯一のものである。
原爆被爆直後、広島から重傷者約2、000人が宇品港から海上約6キロメートル沖の似島の陸軍検疫所に送られた。7日朝までの死亡者約400人は、火葬に付されたが、相ついで死亡した約1、500人の死体は、火葬が間に合わず、同島南岸の横穴と露天の防空壕に土葬されていた(「中国新聞」47年10月14日)。1947年9月25日、広島市議会は、「広島市戦災死歿者似島供養塔」(千人塚)の建設費30万円を可決し、似島に眠る無縁仏を弔うこととした。発掘作業は、9月下旬から開始され(この時行われた放射能調査では、掘り出された骨から放射能が検出された)、11月13日、供養塔の除幕式および追悼法要が、日本宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会の共催で死没者遺家族約300人の参列のもとに開催された。翌48年の平和記念日からは、宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会が、中島の供養礼拝堂と似島供養塔の両所で慰霊祭を行なうようになり、54年まで続けられた。
1950年3月、それまで宗教連盟とともに慰霊祭を行ない、戦災供養塔を管理していた広島市戦災死没者供養会が、政教分離を求めるポツダム政令にもとづいて広島市の管理からはずされることになった(「中国新聞」55年2月15日)。そこで、同年5月、これに代わる民間団体として広島戦災供養会が結成された。同会は、分散している無縁仏を一か所に納骨するための堂の建設や戦災死没者名簿作製、祭祀法要の執行などを計画し、50年11月8日につぎのような請願書を広島市長に提出した。
現在市内数ケ所にある戦災者の遺骨は約30万柱あるが、これを一ケ所に集め明年の8月6日には、この新納骨塔で戦災供養を行ない霊を慰めたい。場所は、広島城、大本営跡の西側で、建設に要する費用約500万円を県および市で負担し、この納骨堂の傍らへ平和会館(仮称)を建設し、平和に関する研究所、図書館、会議場などを設けてもらいたい。
(「中国新聞」50年11月9日)
この請願書を付託された市議会の建設委員会は、同地が文化財保護法の適用を受けているので、使用を認めず、現在地への再建を認めた。しかし、市当局は、中島公園を平和記念公園として建設する計画から、墓地と同性格の納骨堂の公園内建設に難色を示し、この問題は停滞状態を続けることとなった(「中国新聞」53年11月25日)。
原爆犠牲者の遺骨については、講和条約発効前後から、大きな社会問題となっていた。新聞には、つぎのような動きが取り上げられている。
51年2月20日、山口県熊毛郡伊保庄村専唱寺で保管されていた元陸軍病院跡で発掘された1、288柱の遺骨が広島県世話課と復員連絡局広島支部に引き取られる。53年3月24日、中島供養塔[戦災供養塔のこと]で合同慰霊祭を執行。終了後、原爆死没者分1,232柱は、中島供養塔に、外地戦没者分56柱は、比治山納骨堂に納骨。
52年7月4日、金輪島で原爆犠牲者の遺骨29柱が見つかる。7月10日、坂村に160体以上の遺骨が眠るとの情報。29日、千田町で42体、31日、二葉山麓で52体発掘。これらの内、引取り手の無い遺骨506柱が、中島の供養塔に合祀されることになり、8月5日、納骨法要を供養会主催で執行。
53年2月、市内己斐西本町の善法寺に数百の無縁仏のあることが判明。
53年8月6日、安芸郡府中町、龍仙寺の遺骨143柱を広島市に移管。
54年4月19日、県病院職員の遺骨66柱を中島供養塔へ移す。
こうした動向は、納骨場所としての原爆供養塔建設問題に新たな進展をもたらした。1954年、広島市は、建設から8年を経過し、くち果てた姿になっている戦災供養塔の再建を検討するため、広島市供養塔建設対策委員会(委員長:坂田修一助役)を設置した。5月29日に初会合が開かれ、以後協議を重ねたが、50年当時と同様の問題から、なかなか結論に達しなかった。55年2月14日に開催された第5回委員会で、原爆供養塔の敷地は、市民感情と既成事実を尊重して、現在地を可とするとの市長への答申を決定した。一方、広島戦災供養会も、6月3日の理事会で原爆供養塔再建問題を協議し、荘厳なものを条件に市に一任し、再建資金45万円を市に寄付することを決定した。これを受けた市は、予算150万円で8月6日までに再建することとした。
原爆供養塔(設計は市立浅野図書館設計者の石本喜久治が担当)は、6月15日の地鎮祭を経て、7月20日に完成した。8月4日に、似島(約2,000柱)、己斐(約500柱)などの遺骨が移管、収納され、5日に完工式と開眼法要が挙行された。また、広島戦災供養会も、原爆供養塔の建立に合わせて供養塔北側に新塔婆を建立し、8月5日、開眼法要を執行した。塔婆に使用された木は、宮崎県の有志から寄贈された160年の古杉で、周囲3尺、高さ33尺、重量4トンという大きなものであった。
広島市社会課は、1957年にかけて、市内および市周辺の遺骨の掘り起こしと移管を行ない、遺骨の収納をほぼ終了し終えた(「中国新聞(夕刊)」61年8月13日)。しかし、遺骨は、その後も、市内の工事現場から発見されたり、被爆直後犠牲者の収容作業に当たった人々の証言などにより新たに発掘された。特に71年に広島市が実施した似島での発掘作業では、220体分という大量の遺骨が発掘された。こうした遺骨は、その都度、原爆供養塔に収納されている。現在、氏名の判明している948人の遺骨と、約7万人の無縁仏の遺骨が納められている。