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北西允宛宇吹書簡(控)2001年3月15日

北西允宛宇吹書簡(控)2001年3月15日

北西 允 先生

拝啓
先日は、突然の連絡で失礼しました。新聞紙上などで先生のお名前を拝見していたので、お元気とばかり思っておりました。
私の新任地は、1月末に正式に決まりましたが、1月から2月にかけ、職場と私有の資料の整理で、瞬く間に過ぎました。2月末から3月末まで、休暇を取り、現在の職場でお世話になった団体・個人へのあいさつ回り(墓参を含む)を始めています。

私は、25年の在職中、諸資料を借用していましたが、これらの返却をめぐり、さまざまな問題に出くわしています。定年退職でないので起こる問題なのか、そうであっても後任が決まらない場合、資料を中心とした研究に携わったものには、必然的に起こる問題なのか、いずれにせよ、アトを濁さずに去るというのは、難しいものだと、痛感させられています。

女学院では、「日本文化史」も受け持つような話だったのですが、「生活文化史」と「文化史学」で良いことになりました。準備中だったので、拍子抜けした感もありましたが、この二つに演習や卒論指導のことを考えると、有り難い配慮だと感謝しています。

先週、千葉の歴史民俗博物館と江戸・東京博物館を見学しました。いずれも2回目ですが、目的があると、見る目が異なるものです。一つ一つの展示が講義のネタに思えました。これに、広島県内の史跡を加えて考える予定です。

「文化史学」は、「世界遺産」を取り上げることにしました。「国連-ユネスコ-世界遺産の概要―アジアの世界遺産-日本の世界遺産―広島の世界遺産」という流れで考えています。

さて、先日、お伝えした資料の件ですが、先生にご意見をお聞かせ願いたいことが、2点あります。

一つは、大学人会事務局資料で、ダンボール一箱分あります。先生からお預かりしたと思い込んでいる(ルーズなことで、申し訳ありません)のですが、あるいは横山英先生からかも知れません。広島大学ゆかりの資料であり、現在、広島大学50年史編集室(頼禎一室長)ができているので、ここに移せば、と思いますが、先生のお考えはいかがでしょうか。
なお、私は、50年史編集の幹事をしており、大学人会の歩みをまとめようと思っていました。しかし、転出で出来なくなりましたので、編集室の若い人に頼めればと考えています。

もう一つは、石井金一郎・藤居平一資料についてです。原医研では、この資料のほとんどを複製しています。資料保存の原則からは、「現地保存」が望ましいのですが、どこを「現地」と考えればよいのか判断に迷っています。

同じような問題が、「吉川清資料」についてもあり、これについては、奥様の生美様のご了解を得た上で、同封資料のように広島市長の判断に委ねることにしています。

先生のご意見を聞かせて頂ければ幸いです。18日ごろ、私からお電話を差し上げるつもりでいます。ご療養中のところを、ご心配をおかけしますが、よろしくお願いします。

敬具
2001年3月15日

 

北西允

北西允

1926生20190120没 きたにし・まこと 享年93歳 「生きて 政治学者 北西允さん」(『中国新聞』2013年4月9日~27日、15回連載、担当:編集委員・西本雅実)

宇吹日誌・記録より<キーワード:北西>

年月日 事項
1976 事項<敬称略>
0724 核意識研究会。於総合科学部小会議室。永井、鎌田、北西、浜谷、上野、初瀬、田中、庄野、湯崎、関、小川など出席。
1015 北西研究室で世論調査の整理。
1977
0121 北西研究室で永井・**(アルバイト)と作業。
0222 北西研究室。永井・**・宇吹。世論調査資料整理一句切り。
0430 NGO広島準備委員会第1回社会科学委員会.於YMCA1階会議室.北西,大西,山本,湯崎,宇吹,田中(中国新聞)
0609 NGO代表ナイト女史との懇談。於YMCA。ナイト、通訳、湯崎、北西、佐久間、加藤、宇吹。
0719 北西より旧石井金一郎所蔵(藤居)資料を借用。
1979
0622 酔心で原水協史の会合。佐久間、北西、湯崎、藤本など。
1984
0806 原水禁大会(統一)分科会。於竹屋小学校。北西が運営委員として参加していた。
1991
1202 北西(修道大学)より電話。「国際政治」の講義を2駒して欲しい。山田・岡本・北西・藤井・宇吹の5人で15回。テーマ「被爆者問題」。
1205 北西に履歴書を送る。
1992
0109 北西(修道大学)より電話。講義は後期の火曜日午後。
0917 修道より講義日程の連絡。北西に電話して日程を変更。
1218 自室の資料の整理。北西から借用している資料(藤居)などを旧図書分室に移す。
1993
0221 藤居より自宅に電話。約20分話す。堀川(早稲田の後輩)に連絡したら、北西と矢野を紹介した。会って見ようと思う。**に電話をしたら、今哲学の本を書いているとのことであった。医者・科学者グループから、あれこれ手を広げ、もう当てにはできない。北西・舟橋らと医者・科学者グループを組織する必要がある。一人で何をやろうとしても対応できない。
0526 自宅を出発。原医研で新聞を見てから広島空港へ。広島市博物館の東京調査。8時広島空港1階着。空港ロビーで北西に会う。修道大学の就職活動のため上京とのこと。北西・好村の間で長崎の鎌田問題が話題になる。両人ともに支援する会に参加。
1994
1112 パグウォッシュ広島委員会第4回会議。旧教育学部2階大会議室。-12時。小沼・西川・北西・松尾・小柏・田村外。業務のほとんどは、JTB・平和文化センターと相談すれば解決できる問題。
1995
0422 北西允より自宅に電話。**(RCC**)より宇吹に紹介して欲しいとの伝言があったのでよろしくとのこと。ついでに、宇吹健が北西の講義を履修する旨を伝える。
1996
0126 健帰宅。今日、北西の試験があって、これで試験が全て終了したとのこと。
1997
0418 藤居平一追悼集を蔵本・北西・杉原・吉田に郵送。

北西允さん(政治学者)『生きて』(『中国新聞』連載)

北西允さん(政治学者)『生きて』(『中国新聞』2013年連載、担当:西本雅実・編集委員)

掲載月日 見出し 備考
1 0409 顧みて 反戦・反核に異議見つけ
2 0410 博多育ち 軍国教育に反抗心募る
3 0412 医学生 軍隊嫌い高じ窮余の策 京都府立医大、林市造
4 0413 九大「細胞」 GHQもじりデモ行進 向坂逸郎、今中次麿、具島兼三郎、
5 0413 メーカー社員 運動家目指すも・・・退社 太田薫、英子、
6 0416 導かれて研究者の道へ 今中門下 今中次麿、山田浩、
7 0417 広島大教員 大学人の会運営担う 今中次麿、佐久間澄、横山英、
8 0418 原水禁大会 草の根の合唱にも感動 今中次麿、佐久間澄、山田浩、木下航二、伊藤満、庄野直美
9 0419 運動の低迷 「排除の論理」には反対 佐久間澄、伊藤満
10 0420 分裂 党は争いに自責の念 森滝市郎、今堀誠二
11 0423 広大紛争 学生委員引き受け団交 広島大学園問題全学共闘会議、川村智治郎
12 0424 バリケード封鎖 警察力で解除 心におり 飯島宗一
13 0425 ヒロシマ行動 党派超え20万人が集う 庄野直美
14 0426 けんか相手 平等追求し最後見とる 北西英子
15 0427 新たな潮流 個人の意思と力に期待

八杉康夫『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』

八杉康夫『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』(ワック刊、2005/12/08)

内容

1 音楽好きの軍国少年…9
 武士の商法で豆腐屋さん
早かった舞台経験
「もらい子」だった父
音楽の才能を見込まれて中学退学
2 海軍志願兵…19
 「甲上」で合格
「天皇のために死ぬ」に疑問
二十四分隊へ
横須賀で聞いた「新型爆弾」
3 大和戦艦…35
 お前の行き先は「大和じゃ」
ついに大和乗艦
お守り袋の日記
4 永訣の朝…49
 母に最敬礼
天一号作戦発令
草鹿参謀長の一言
力むなよ、力まなければ勝てるぞ
発射されなかった敵の魚雷
片道燃料説は嘘
5 女神微笑まず…65
 レンズをまっ黒にした大群
後部艦橋全滅
「奄美大島にもいけんぞ」
「逃げる気か」と喉元へ日本刀
眼前での割腹自殺
6 撃沈、四時間の漂流…81
 大和撃沈、そして大爆発
降ってきた「アルミ箔」
丸太を流してくれた高射長
睡魔に負けた少年兵
7 重油の海からの生還…91
 繰り広げられた醜態
嬉しかった殴打
満開の桜に男泣き
祖母の予言
殴りつけた割り込み男
8 本土決戦隊へ…107
 第二十三陸戦隊へ
自爆部隊の絶望的訓練
9 ヒロシマの閃光…113
 朝礼で見た白い光
足を掴んだ少年
10 呉警備隊で聞いた玉音放送…121
 原隊復帰
「我、敗戦に考フ」
「原爆は神の再来です」
遺族には言えなかった
11 再生のきっかけ…135
 素人のど自慢
保本少尉の妻
神戸で調律師修行
原爆の後遺症が
12 大和探し…145
 豊かさへの疑問
名著にあった「徳之島沖」
むなしかった慰霊祭
NHKとの合同調査
浮き上がった頭蓋骨
辺見じゅんさん、角川春樹さん
13 真相を求めて…163
 川崎高射長の娘と妻
「漂流者の手首を切り捨てた」
吉田満氏に問いただす
ありえない「新生日本」
水交会員も憤激
海水注入による犠牲は事実
14 語り部として…179
 大鑑巨砲主義はなぜ
一発も撃てなかった主砲
「生きろ、生き抜くんだ」
戦争責任について
大和の語り部として
あとがき…195
付録 戦艦大和小史…199

八杉康夫

八杉康夫<作業中

やすぎ・やすお 1927****生20200116没 享年92 戦艦大和の生存者。呉から広島へ入り遺体処理に従事。

関係資料

資料名
『戦艦大和が沈んだ日 運命の4月7日 元戦艦大和乗組員・八杉康夫聞き書き』(中川秀彦著、牧歌舎、20050228)
『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』(八杉康夫著、ワック刊、20051208)

丸屋博『ヒロシマ随想 医師として被爆者として』

丸屋博『ヒロシマ随想 医師として被爆者として』(丸屋博著・発行、19930701)

内容

タイトル 備考
1 医療について
私は鳩I -花叉は春- 10
赤茶けた一枚の写真 13
医療生協考 14
医療における人間関係 16
老人保健法雑感 17
入院の記 -医師として患者として- 20
一日一日を生きる 24
宇宙船”地球号” 26
生協・病院は生きている 27
サーボ・ベンチレーターは誰のものか 29
「がん告知」について 31
広島医療生協二十歳 37
住民と共に歩む -広島医療生協二十年に想う- 39
世界らん会議と地獄医療 43
地域の中へ 地域と共に 45
医療は開かれなければならない 52
一生に三世を経るか? 54
ある老婆の死 57
精神の深さを耕すことを 59
いのちを支えるもの 61
2 反核平和について
私は鳩II -炎叉は夏- 66
原爆と詩と 70
かけがえない平和を守るために 74
何故「原爆カルテ」なのか 76
被爆医療をすすめるために 78
被爆者として医師として -2,000枚の被爆者カルテから- 81
ヒロシマと広高と 86
僕のヒロシマ 91
ヒロシマの川辺で 95
生協原爆被害者の会 岩国基地を見る 97
歴史の歯車を逆行させてはならない -SSDIIIに代表を送る- 103
アウシュヴィッツとヒロシマに集う -IPPNW 第9回国際大会-112
湾岸戦争に思う 121
日本の戦後処理は終わっていない 122
3 詩のことなど
私は鳩III -川叉は秋- 126
私の八月六日 130
心を組む 132
いのちあるもの 133
ひ弱な少年の記憶 136
八月のヒロシマ 137
「ふんい気」考 -映画”冬のリトルボーイ”によせて- 139
ヒロシマの空に 141
詩と愛と -峠三吉没後三十年碑前祭に- 139
蝶蝶 145
生きることの意味 146
春の庭 147
一鉢のおもと 148
いのちのうた 149
田に柴を入れる 151
一冊の詩集 152
詩集評 人間と祖国を愛するでっかい歌 155
現代詩の根源を問う -『御庄博実詩集』に寄せて 157
宇野重吉一座の幟と医療と -宇野重吉の想い出- 161
夾竹桃の花の赤さに 166
季節のうつろいに 169
小医は病を癒し 中医は人を直し 大医は国を治す 170
絵にはヒロシマの川の匂いがある -四國五郎展によせて- 174
一日看護婦体験 175
石楠花碁会のことなど 176
4 再び医療について
私は鳩IV -雪又は冬 180
藁ぞうりの上履 184
雪の下で 188
二十五歳の民医連と僕 190
被爆二世の健康を考える 191
病院増改築ののちにくるもの 192
広島民医連医報 巻頭言 199
独語独賛のことなど 201
SSDIIIへ代表を送る 203
『御庄博実詩集』と僕 204
「聴診器」書評 -いのちのうたが聞こえる- 205
閉鎖状況を打ち破るもの 207
映画「千羽づる」を観て 211
IPPNW・第9回世界大会 212
「夏まで?では困るという話」(書評)213
出雲平野のレンゲ畑に 215
ヨーロッパの自治意識にふれて 218
付録 被爆医療について(講演採録)225
1.核時代
2.人体影響
3.原爆の異常性について
4.放射線被害の特性
5.原爆症追及の方法
6.現行法
「翔る」第13号別冊 1988・12
原水爆禁止世界大会・科学者集会報告(1990・8)
あとがき
丸屋博略歴
筆名 御庄博実
1925年 山口県岩国市生まれ
旧制広島高等学校、岡山大学医学部卒
東京・代々木病院、倉敷市・倉敷協同病院・広島共立病院を経て、現在広島共立病院名誉院長。

面影 原爆ガンと取組んだ町医者 於保源作

『面影 原爆ガンと取組んだ町医者 於保源作』(小川加弥太・於保信義編、溪水社、19930114)<作業中

内容

末っ子から見た父、源作―前書に代えて 1
故人の軌跡―新聞雑誌記事から―
死亡率の高い被爆者 17
天狗まんだん「最悪の妻」 19
“原子病”患者はいない 22
第2次放射能 半数近くが発病 24
広島市内50・周辺に7 25
いつでる原爆白書・被害の科学的調査を 26
この1年間でまた65人・この事実を世界に訴える 29
わたくしはこう思う・基礎的な仕事から 33
死亡率から・2割多い死亡者(第1回原爆後障害研究会で発表) 34
「ここにこんな人が」・原爆ガンと取組んで 36
「ここにこんな人が」と広島の於保源作先生 47
広島医学会賞は於保源作氏 48
『原爆症』で新しい報告 50
死因は「悪性新生物」 53
ガン・白血病は多い 55
もの好きといわれて 56
混迷のうちそと・原水禁運動と人間山脈 59
原爆医療と広島医師会 61
この人にきく(6) 於保源作先生 62
私と原爆・新聞を読んで 65
被爆ガン研究の先駆 68
IPPNW両会長来広を前に 71
於保さん 72
天風録 75
被爆者のがん死亡危険度・従来データの2~3倍 77
被爆者と歩む・後障害治療に努力 79
臨床医の目を大切に 83
II 故人を偲んで
於保源作先生を悼んで 原田東岷 89
於保源作先の想出 川上正幸 92
夫のこと 於保つき 95
追憶 於保寅生 97
源作兄を憶う 於保午生 106
肺結核を救われる 於保幸治 109
義父の本 於保郁子 111
頑固おやじ 於保義教 113
あたたかい祖父の手 古沢実佐子 115
パンじじい 小川和宏 119
III エッセイ
頓狂医者 125
斬られた話 132
戦いはこれからだ 136
広島病・原爆独特の神経症 140
原爆祈念日を前に 143
心筋梗塞? 硬塞? 146
私の人生訓 150
原爆被爆者の癌 152
IV 演劇「ゼロの記録」(抄録)
演劇「ゼロの記録」について 157
ABCC 井伏鱒二 158
「ゼロの記録」6 160
於保源作略歴 217
表彰一覧 218
論文一覧 223
あとがき 226

於保源作

於保源作<作業中

おぼ・げんさく 19920114没 享年87 広島市医師会副会長。被爆者の癌の疫学的研究の草分け。

広島原爆障害研究会(1956年11月設立)のメンバー

資料

『面影 原爆ガンと取組んだ町医者 於保源作』(小川加弥太・於保信義編、溪水社、1993.1.14)

丸屋博先生(詩人・御庄博実)を偲ぶ

『丸屋博先生(詩人・御庄博実)を偲ぶ』(広島医療生活協同組合、20151101)

内容