「01月忌」カテゴリーアーカイブ

竹内武

竹内武

たけうち・たけし 1928****生20050127没 享年77 元広島平和会館の相談員。被爆者手帳取得のための証人探しに尽力。
  20010801  2001被爆者の伝言 竹内武さん(上)医療給付の実現、うれしかった

 

 『中国新聞』(20010801)
1979/08/01 釜ヶ崎原爆被爆者の怒りと悲しみ 釜ヶ崎原爆被爆者の会
1997/04/17 人間銘木 藤居平一追想集
1985/05/27 ひろしまの河 原水爆禁止広島母の会
2000/12/01 広島平和会館ものがたり 原爆被害者福祉センター広島平和会館

横山英

横山英

よこやま・すぐる 1924生20060106没 中国史学者。 広島文理科大学卒業。1975年「中国初期立憲思想の研究」で名古屋大学法学博士、広島大学文学部助教授、教授。1988年定年退官、名誉教授。

<工事中>

核を葬れ!森瀧市郎・春子父娘の非核活動記録

『核を葬れ!森瀧市郎・春子父娘の非核活動記録 』(広岩近広、藤原書店、20170806)内容

プロローグ
1 「力の文明」の対極に「愛の文明」
右目に突き刺さった原爆のガラス片
残された左目に映った広島の惨禍
原爆と敗戦の深い傷痕
同僚や子らの死に深い悲しみ
戦争は「力の文化」の必然的帰結
原子力時代に求められる新しい道徳
2 「ヒロシマ後の世界」を見据えて
 「広島子どもを守る会」が発足
ビキニ事件に憤慨して原水爆禁止国民運動
六〇年安保に揺さぶられた平和運動
国民運動は原水協と原水禁に分裂
3 「不殺生」「非暴力」「生命への畏敬」
国民平和使節として欧州に反核の旅
大学に辞表を提出して、重大決意を実行
「原水爆禁止広島母の会」の活動
三人の聖者の生き方に感銘
「人類は生きねばならぬ」と退官後も奮迅
4 幻想だった核の平和利用
平和利用の名のもとに原発の建設計画
原発は原爆の材料プルトニウムをつくる
「核と人類は共存できない」と世界に訴える
反核の力を結集させたい
「ヒロシマの役割」を再認識する
非核の未来をつくらねばならない
「それでも原発は危険だ」と言いつづける
「いのちとうとし」のラストメッセージ
5 ウラン採掘に始まる放射能汚染
インド.パキスタンの若者と平和交流
ウラン鉱山の放射線被害を現地で調査
「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」が始動
「子どもの命を返してくれ!」
劣化ウラン国際大会が警告した内部被曝
6 原子力体制を問う
核廃絶は、原発廃絶と切り離せない
日本政府の原発輸出と核政策を問う
「国から二度、棄民にされた」
三つの課題と三つのキーワードで責任を追及
法廷で「核の人道に対する罪」を陳述
フクシマを忘れない、繰り返させない特別アピール
7 地球規模で広がるヒバクシャ
核被害を総合的に捉える
「私たちには怒る義務がある」
ヒバクシャは世界的な用語になった
「核なき世界」を目指す取り組み
オーストリアが「人道の誓約」
「平和の種」が「反核の息子」に
核兵器禁止条約に反対する被爆国
国連で、核兵器禁止条約を策定
エピローグ
資料
世界核被害者フォーラム 広島宣言
世界核被害者の権利憲章要綱草案
核兵器禁止条約
森瀧市郎・春子の活動年譜
主な引用・参考文献

松重美人「世界の記録写真」をめぐって

松重美人「世界の記録写真」をめぐって

記事見出し
世紀の記録写真 米誌が全世界へ紹介 
   生きている”死せるカメラマン”
『夕刊ひろしま』1946年7月6日第2面(広島県立文書館蔵)

出典:『禁じられた原爆体験』(堀場清子、岩波書店、19950623)pp.57-71

 

 

広島は訴える 原爆広島11年の記録

『広島は訴える 原爆広島11年の記録』(小積明男<川手健?>編、発行者:吉川清、発行所:広島原爆資料出版会、19560801)

目次

見出し
002 その朝までの広島
005 運命の日、八月六日
014 原爆は平和をもたらしたか
019 魔の遺産、原爆症
045 原爆被害者の生活
069 原爆被災児の実態
082 原爆被害者の運動
103 原水爆禁止運動の発展
128 附録1 原爆障害者調査結果表(原対協発表)
132 附録2 原爆被害者の損害賠償請求起訴状
145 附録3 損害賠償請求訴訟の政府側答弁書

「原爆一号」といわれて

『「原爆一号」といわれて ちくまぶっくす36』(吉川清、筑摩書房、19810724)

目次

 見出し
 はじめに
 1  怒りこみ上げる基本懇の答申
1  運命の日
  8  夜勤明けのその日
 19  死に脅える毎日
 23  八月一五日
2  救護所での日々
26  血と膿の体
29  極貧の日々
 32  死亡者名簿の私の名前
 37  救護所の閉鎖
39  日赤病院へ入院
3 43  原爆一号
44  原爆一号の命名
 49  インタビューや訪問客に追われる
写真(1947年)広島日赤病院の屋上でライフ誌の撮影に協力。
51  医学学術集会での研究材料
写真(1949年)広島日赤病院を慰問したプロ野球選手と。故小西得郎氏、藤村冨美男氏の姿も。
54  ケロイド手術の失敗
57  患者会結成と強制退院
4  原爆ドーム横集落時代
62  野宿
65  原爆ドーム横にみやげ物店開店
70  被爆者を訪ね歩く
78  原爆傷害者更生会の誕生
83  原爆乙女と私
写真(1950年)日赤広島病院を訪れた日本ペンクラブの一行と。故川端康成氏の姿も。
写真(1953年)東大附属病院小石川分院で、原爆乙女の診察に立ち会う。
5  被爆者運動の組織化
92  原爆被害者の会を結成
100  ケロイドを見せものにしてなぜ悪い
写真(1963年)ヒロシマみやげをつくるのもひと苦労。福島菊次郎氏撮影。
103  原爆被害者の会の協力会
105  原爆被害者の会分裂
111  ABCCの横暴
6  原水爆禁止世界大会
118  平和都市広島の再興
128  原水爆禁止広島市民大会
129  ネール首相の広島訪問
写真(1957年)広島原爆病院前で故ネール首相と。
131  国会請願と日本被団協結成
134  原爆一号の店取り壊し
写真(1957年)原爆一号の店の前で。
136  原水禁運動の分裂
7   バー「原始林」開店
 138  マスターの私、ママの妻
140  ホステス、被爆者の売春婦
 144  不愉快な客
  8 東南アジア歴訪
 150  パール博士の碑文への疑問
  157  インドネシアでの広島出身元日本兵
 9  映画と私
  164  「原爆の子」
 166  「ひろしま」
  167  「生きていてよかった」
  168  「二十四時間の情事」
 169  「ヒロシマ一九六六」
 175  「記録なき青春」
 176  「ヒロシマの証人」
 177  挫折した「小さな恋人たち」
 178  「灯は生きていた」
 178  流産した「にっぽんの青い鳥」
  180  反響をよんだ「はだしのゲン」
10   折り折りの人
 182  宗教と私
 186  病に倒れた峠三吉
 189  首相官邸前で割腹自殺した小林雲徹
写真(1957年)クリスマス島英水爆実験に抗議して座り込み。右端が小林雲徹。
 193  ガンで死んだ南小一
 197  広島へ通った土門拳
写真(1953年)原爆一号の店の前で土門氏と。
 203  結びにかえて

平和のともしび 原爆第一号患者の手記

『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815)目次

 事項
口絵 上図:著者の両腕と背のケロイド(松笠やうのもの)
下図:ライフ誌上に掲載された一文
「ライフ」特派員より著者に送られた書簡
病床にある著者と妻。英文はタイム誌上に掲げられた一文
永久に平和記念館として保存される旧産業奨励館
 1 序 (富田勝己 <京都府立医科大学外科教室> )
5 目次
図:避難場所、休憩場所
 1  思ひ出の八月六日
 4  悲しき経験
  11  命は助つたが
 15  生の欲望
「大粒の雨」、「西原国民学校」
 21  遂に失神
「祇園青年会館」
 25  その夜の救護所
「祇園神社」
 29  可部町勝圓寺にて
 29 父を亡ふ
「可部の警察署の診療所」、「勝圓寺の御堂」
  33  八月十五日を迎ふ
  37  顕著な原爆症状
 42  絶望より微かな希望へ
 52  焼土廣島の見開
  59  復員列車をみる
  63  友情に泣く
 三次町より川内村へ
70  無医村に迎へる冬
 赤十字病院に入院
   75  三度廣島へ
  79  闘病生活つづく
 87  山根さんの人間的魅力
   91  再び思ひ出の八月六日
  97  平和の黙祷
 100 死の淵を彷徨
 103  春を迎へて
  105  平和の礎石に
  111  実験臺上へ
116  「ライフ」特派員と會ふ
  122  跋 (伊藤嘉夫 広島赤十字病院皮膚科医学博士 )
 後記( 吉川清)
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 口絵

京都印書館=1944年(昭和19年) 人文書院と立命館出版部ほか京都の出版社数社が企業整備により統合し誕生した出版社。http://www.jimbunshoin.co.jp/company/c285.html

 

 

原爆第1号吉川清の試み

【資料】原爆第1号吉川清の試み

『中国新聞』 1951.4.3
原爆第1号きのう退院
昭和21年1月広島赤十字病院に入院、療養をつづけていた原爆1号吉川清氏は前後16回におよぶ手術で健康を全く回復し2日午後退院、5年2ヵ月の病院生活に別れをつげた。
(吉川清氏談)私は原爆による限りない苦悩を過去の長い病床生活において切実に味わってきた。同じような原爆による傷害者とかたく手をたずさえ、更生の道をどこまでも突き進みたい。このような意味からこのたび広島原爆傷害者救済援護会を設立した。

『中国新聞(夕刊)』 1951.6.4
インドから援助第1号!
めぐり来る原爆7周忌を前に原爆第1号患者として有名な吉川清氏(38)を中心に同病傷害者のうち127名の有志が内外の浄財によって人造パール製造の共同作業所と原爆患者診療所を設置し、相互に雄々しく立ち上がらんとする朗話がある。
原爆傷者立上がる 作業・診療所“われらの手で”
発起人に選ばれた吉川氏は6年にわたる入院生活からさる4月2日退院、爆心地産業奨励館ドーム前に夫人生美さん(30)とともに外人相手にみやげ物店を開業、細々ながら再起の日々を送っていたが、たまたま同地の整地作業に訪れる原爆ケロイド患者の日雇人夫の人々と病状を語り合うと共に、身体障害でどん底の困窮生活にあえぐ人々の多きを知り“なんとか相携えて働ける仕事 もちたい”と話し合った結果、予算70万円で次の事業計画をたて、かつて日赤入院時代同氏を見舞った内外人にこの基金募集を呼びかけ、すでにインドのシャルマン氏(昨年12月来広)がニューデリーにおいて松本滝蔵代議士と会見、50万円寄付の伝言があり、6月からは地元名士の援助署名運動に着手している
▽共同作業場=主として海外輸出用の人造パール(真珠)の製作ならびに販売
▽原爆患者の診療所の設置=原爆患者に対し実費治療ならびに一般困窮者の無料診察および相談(担当医は日赤副委員長服部達太郎氏が無料奉仕で当たる)
(吉川氏談)なんとかこの同病患者が結束して暗い気持を忘れ仕事にぼっとうして立上がれば幸いと思っています。予算面もインドから50万円近く送金するという手紙もあり、残りは私がリュックサックを背負って全国資金行脚してでも完成さす決心です。