「01月忌」カテゴリーアーカイブ

吉川生美

吉川生美

きっかわ・いきみ 生20131228没 享年92
爆心地から約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆。夫の「原爆1号」と呼ばれた故吉川清とともに、戦後のヒロシマを生き抜く。

閃光を背負って―原爆第一号の足跡

閃光を背負って―原爆第一号の足跡(毎日新聞(広島版)連載1989年8月16日~9月6日

 掲載月日  見出し1   見出し2
1  0816  署名運動  救済求め手を組もう
2 0817   請願書  最初は”外注”友人に依頼
3  0818  被爆者の叫び1  「このケロイドを見よ」
4  0819   被爆者の叫び2  東京でも体験語る
5  0822   被爆者の叫び3  被害者の会を脱退
6  0823  八・六友の会  すべてと仲良く
7  0824  抗議  広島の人間として
8  0826  あがき  自分が手がけたのに
9  0830  吉川清の思い  この”肩書”ずしりと
10  0831  歩み・上  権利の主体へと
11  0902  歩み・中  土産物店など経営
12 0902 歩み・下 ぐち口にせず往生

吉川清

吉川清

きっかわ・きよし 生19860125没 享年74
 「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。

資料

 『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815)
 『 閃光を背負って―原爆第一号の足跡』毎日新聞(広島版)連載1989年8月16日~9月6日
『 吉川清氏資料概要(中間報告)』(広島平和記念資料館、20030317)
リンク:吉川生美(きっかわ・いきみ)20131228没 享年92歳。「原爆1号」と呼ばれた故吉川清は夫。 約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆した。 広島市東区のグループホームで死去。

森滝日記

森滝日記

『中国新聞』連載 1984年1月1日~8月1日 200回

第部 見出し 日記日付
運命の日 1~14 19170113~19460314
反核への道 15~30 19461203~19550803
世界への訴え 31~50 1950920~11995590806
分裂の軌跡 51~88 19600116~19630805
被爆地の願い 89~128 19630818~19690814
風化に抗して 129~158 19700101~19741009
7 統一への模索 159~200 19750302~19820805

 

 

 

献花(1月)

献花(1月)

2021年
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ロウバイ(蝋梅)  撮影日:5日、場所:実家
2019年
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ウメ(梅) 撮影日:7日、場所:自宅
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ロウバイ(蝋梅)  撮影日:1日、場所:実家
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キク(菊)  撮影日:1日、場所:実家
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ハボタン(葉牡丹)  撮影日:1日、場所:実家
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センリョウ(千両) 撮影日:1日、場所:実家
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)
2018年
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棕梠の実 撮影日:21日、場所:実家
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ろうばい(蝋梅) 撮影日:5日、場所:実家
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蕗の薹(ふきのとう) 撮影日:2日、場所:実家
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すいせん(水仙)撮影日:2日、場所:実家
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)

 

 

0-01月忌(一覧)

  1月に亡くなった人々
没年 名前 よみ 享年 備考
02 1994 日詰忍 ひづめ・しのぶ 91 広島県被団協理事。1955年皆実原爆被害者の会会長。原水爆禁止広島母の会の活動、機関紙「ひろしまの河」。<別記
02 2011 林幸子 はやし・さちこ 81 原爆詩「ヒロシマの空」の作者。「林幸子さん遺影登録 広島祈念館」(『中国新聞』2018.6.7 西本雅実の紹介記事)
03 2000 山口勇子 やまぐち・ ゆう 83 児童文学者。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆)。1982年3月25日、平和親善センターで面会。三宅・網岡両氏、同席。別記
04 1969 高野源進 たかの・げんしん 73 広島原爆被爆時の広島県知事。広島原爆被爆時の広島県知事。参考文献:安藤福平「原爆被災と行政」(国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会(広島県・広島市)編『広島の復興経験を生かすために 廃墟からの再生 第3巻 ひろしま復興・平和構築研究事業報告書』2017年)
04 2010 山口彊 やまぐち・つとむ 93 三菱重工業長崎造船所設計技師。広島と長崎で被爆。
04 2015 金子一士 かねこ・かずし 89 船舶会社に勤めていた19歳の時入市被爆。広島県被団協理事長。「本川小学校平和資料館」(1988年5月開設)の開設前に面談。「金子一士さんを偲び意志をつぐ会」(2015年5月16日、広島国際会議場)に参列。<金子一士さんを偲び遺志をつぐ会
04 2016 ヨシダ・ヨシエ よしだ・ 86 本名:吉田早苗。出典:岡村幸宣「ヨシダ・ヨシエさんを悼む 「原爆の図に新たな命」」(『中国新聞』20160119)。本名=吉田早苗=よしだ・さなえ、美術評論家。『戦後前衛所縁荒事十八番』(ニトリア書房、19720805)
05 2000 伊藤サカエ いとう・さかえ 88 日本原水爆被害者団体協議会代表委員。広島県被団協理事長。広島県呉市生まれ。広島市鶴見橋で建物疎開作業の勤労動員中に被爆。矢野町議会議員、同町婦人会長などを歴任。「伊藤サカエさんを語る会」(広島市原爆被害者の会主催、2013年4月16日。4回目の「先人を語る会」)
05 2012 林光 はやし・ひかる 80 作曲家。1971年合唱曲「原爆小景」。「反核・日本の音楽家たち」の呼びかけ人」。
06 1998 安江良介 やすえ・りょうすけ 62 岩波書店社長。大江健三郎の広島取材を編集者として支える。1998年8月15日、日本ジャーナリスト会議広島支部「8・15不戦の夕べ」で講演「戦後民主主義とヒロシマ」。
07 1989 裕仁 ひろひと 87 追号:昭和天皇。宮内庁ホームページhttp://www.kunaicho.go.jp/
07 1996 岡本 太郎 おかもと ・たろう 84 芸術家。メキシコで制作した壁画「核の神話」の広島市への誘致運動が起こる。
08 1975 山田節男 やまだ・せつお 76 広島市長。1969年ハマーショルド記念国際平和賞受賞。[70ヒロシマ会議]。『山田節男追想録』。<別記>
08 1994 サマヴィル、ジョン・M・ 88 米国の哲学者。『平和のための革命』(ジョン・サマヴィル、芝田進午訳、岩波書店、19741216)
09 1978 久保良敏 くぼ・よしとし 64 [51広島大学平和問題研究会理事(皆)]。広島大学名誉教授。産業社会心理学専攻。被爆直後の人間の心理を初めて学問的に分析。遺された資料を一時預かる。
09 1885 藤井日達 ふじい・にちだつ 99 日本山妙法寺の山主。1982年の国連軍縮特別総会に参加するなど平和運動に貢献。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。『毒鼓(どっく)』(藤井日達、わせだ書房、1961.5.10)。『写真集 撃鼓宣令』 (柏樹社、19850528) http://nipponzanmyohoji.net/
09 2005 小川修三 おがわ・しゅうぞう 81 『小川修三博士を偲んで』(小川修三先生追悼文集発行呼びかけ人、200606)
10

 

1951

 

仁科芳雄 にしな・よしお 61

 

物理学者。岡山県生まれ。理化学研究所で1943年に原爆開発のための「二号研究」を発足させる。被爆直後の広島・長崎で調査。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<別記予定>。『広島県史 原爆資料編』に関連資料を収録。
10 1967 パールRadhabinod Pal 71 インド人法律家。東京裁判でインド代表判事を務める。彼の原爆慰霊碑の碑文についての発言をめぐり論争が起こる。『日本無罪論』、『平和の宣言』。
11 1966 大原博夫 おおはら・ひろお  71 衆議院議員。広島県会議員、同議長。広島県知事。広島県医師会長。『大原博夫伝』(大原博夫追想録編集委員会、1971.3.20)
11 1998 レイノルズ、アール れいのるず 87 広島の反核運動の先駆者で米国の人類学者。1960年、広島女学院客員教授。参考サイト=「バーバラ・レイノルズ」、「年表 レイノルズ夫妻」、「広島平和科学研究所
11 2015 カートライト、T 90 米軍B24爆撃機の元機長。広島で捕虜となった同僚を原爆で失う。出典:『中国新聞』20150116(金崎由美・記)
11 2020 八杉康夫 やすぎ・やすお 92 戦艦大和の元乗組員で生還者。広島の救援活動で入市被爆。著書『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』(八杉康夫著、栗野仁雄<構成>、ワック、20021208)
12 2021 半藤一利 はんどう・かずとし 90 作家。日本近現代史を対象とした。
12 2019 市原悦子 いちはら・えつこ 82 俳優。映画「黒い雨」(今村昌平監督)に出演。
13 2000 赤松俊子 あかまつ・としこ 87 →丸木俊。『広島県現代文学事典』
13 2000 丸木俊 まるき・とし 87 画家。疎開先の浦和市から広島に入市し被爆。夫・位里と『原爆の図』全15部を制作。世界平和文化賞(1953年)、国際童画ビエンナーレのゴールデンアップル賞(1971年)、朝日賞(1995年)などを受賞。
13 2016 広瀬方人 ひろせ・まさひと 85 長崎被爆者。
14 1992 於保源作 おぼ・げんさく 87 広島市医師会副会長。被爆者の癌の疫学的研究の草分け。広島原爆障害研究会。『面影 原爆ガンと取組んだ町医者 於保源作』(小川加弥太・於保信義編、渓水社、1993.1.14)
15 1983 大西良慶 おおにし・りょうけい 107 京都、清水寺貫首[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]1981年、7月、京都の宗教家らと「核兵器廃絶アピール」発表。[82推進連絡会議呼びかけ人]
15 1984 中津泰人 なかつ 『慟哭・川柳句集』(中津泰人、19740725)。串かつ川柳会主宰。1973年に呉原爆被爆者友の会結成、同会会長。
15 1988 マクブライド、ショーン 83 アイルランドの政治家。1974年ノーベル平和賞、77年レーニン平和賞受賞。1977年広島市でのNGO主催の被爆問題国際シンポジウムに参加。
15 2005 松江澄 まつえ・きよし 85 1959年に日本共産党初めての県議。元広島県原水禁常任理事、元統一労働者党議長。
16 2002 いぬいとみこ いぬい・とみこ 77 本名乾富子。児童文学者。「いぬいとみこさんとヒロシマ 「体験」の壁執念の取材」(『中国新聞』2002.1.22 石井伸司記)。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆)
18 2015 御庄博実 89 →丸屋博
18 2015 丸屋博 まるや・ひろし 89 1945年8月8日、広島入市。詩人(御庄博実)。広島共立病院名誉院長。
18 2015 丸屋博 ピカに灼かれて―被爆体験記(広島医療生活協同組合原爆被害者の会) | ヒロシマ遺文 (hiroshima-ibun.com)
ピカに灼かれて 第28集 終刊号 2005年7月15日
丸屋博『ヒロシマ随想 医師として被爆者として』
20 1974 ブランデン、エドモンド・ 77 英国の詩人。1948年広島訪問。広島市立中央図書館前に詩碑(1975年8月3日建立)。『広島県現代文学事典』(植木研介執筆)。
20 1990 田淵昭 たぶち・あきら 83 元広大医学部付属病院長。胎内被爆小頭症の調査に尽力。
20 2019 北西允 きたにし・まこと 93 「生きて 政治学者 北西允さん」(『中国新聞』2013年4月9日~27日、15回連載、担当:編集委員・西本雅実)。<別記
21 2008 浜本万三  はまもと・まんそう 87 広島県選出の元社会党参院議員。1974年に初当選し、通算3期。『花は想う人の側に咲く 浜本万三回顧録』(浜本万三、広島大学文書館(編)・現代史料出版・東出版(出版)2009.1)<別記
22 1994 灘尾弘吉 なだお・こうきち 94 江田島市出身。元衆議院議長。『灘尾弘吉先生追悼集』(中国新聞社メディア開発局出版部/編集協力、1996.12)
22 2018 河内光子 こうち・みつこ 86 広島女子商業学校2年の時、学徒動員先の広島貯金支局で被爆。御幸橋の救護所ので様子が松重美人撮影の写真に残る。出典:『読売新聞』20120805、『中国新聞』20180209、『朝日新聞』20180210(宮崎園子・記)
23 2008 相原秀次 あいはら・ひでつぐ 98 日本映画社の企画部員として広島・長崎への原爆投下直後から記録映画の製作に従事。
久保田明子「広島における原爆被災の映像と相原秀二資料について」
23 2011 喜味こいし きみ・こいし 83 漫才師。「喜味こいしさんを悼む 上方漫才の正道歩む」(権藤芳一記)「戦争やったらあかん 被爆体験とつとつと」(岩崎秀史記)(『中国新聞』2011.1.26)
23 2012 栗原真理子 くりはら・まりこ 76 被爆詩人・栗原貞子の長女。広島女学院大学の栗原貞子記念文庫開設に尽力(『朝日新聞』20120125)
24 2018 香川龍介 かがわ・りゅうすけ 85 画家。(『中国新聞』20180210)
25 1986 吉川清 きっかわ・きよし 74 「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。<別記
25 1994 森滝市郎 もりたき・いちろう 101 京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。広島大学。自宅で面識、資料閲覧。<別記
25 2011 石田忠 いしだ・ただし 94 一橋大名誉教授・社会学、元日本原水爆被害者団体協議会専門委員)。<別記
25 2023 林紀子 はやし・としこ  81 元アナウンサー。元参議院議員(2期)。日本共産党。宇吹メモ=1990年5月15日午後2時、 共産党国会調査団来所(=広島大学原爆放射能医学研究所)。林紀子、児玉健次など12人。宇吹助手が応対。
26 2019 葉佐井博巳 はさい・ひろみ 87 広島大名誉教授。広島の原爆被爆時、広島一中2年生。学徒動員先の兵器製作所(現廿日市市)できのこ雲を目撃。翌日に入市被爆。被曝線量推定方式を見直す日米合同研究グループの日本側座長。2002年、新しい推定方式「DS02」をまとめる。<別記「被爆建物等継承方策検討委員会」(広島市が1991年7月24日に設置)で同席。
27 2003 川村智治郎 かわむら・としじろう 96 明39(1906)年滋賀県生まれ。広島高等師範学校・広島文理科大学卒業。京都帝国大学理学部講師、広島文理科大学助教授等、広島大学理学部教授、同理学部長を経て、昭和41(1966)年、広島大学第3代学長。広島大学長に就任。両生類研究者、カエルの染色体の分析研究。広島大学附属両生類研究所所長。第52回日本学士院賞受賞。元広島文理科大学(旧広島大学理学部1号館)の保存を考える会(設立:1995年1月7日)会長<別記
27 2005 竹内武 たけうち・たけし 77 広島平和会館。
29 1986 鈴木直吉 すずき・なおきち 90 1948年広島県立医科大学教授。広島大学医学部教授。「鈴木直吉先生の御逝去を悼む」(片岡勝子記、『(広島大学)学内通信』1985.3.25)<別記
29 2013 熊田重邦 くまだ・しげくに 92 広島女子大学教授、広島県史編さん室室長、広島県立文書館館長<別記
30 2016 亀本和彦 かめもと・かずひこ 69 小学校・高校の同級生。「祖母も伯母もその日路面電車に乗っていて被爆し、また、父も翌日軍務で広島市街地に入って被爆」(彼のブログより)
31 2018 吉田治平 よしだ・じへい 95 845年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定>
31 2023 久留島恵一 くるしま・けいいち 94

 

音戸高校時代に指導を受けた先輩教員。「呉を中心とした軍事基地の現状」(ビラ「米軍・自衛隊 基地調査告発全国交流呉集会の集まろう!!」(1975年)

森滝市郎

森滝市郎

 もりたき・いちろう 19010428生
19940125没
享年92歳 [51広島大学平和問題研究会会長理事(文)]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。広島県君田村生まれ。京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。[70ヒロシマ会議]。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。

熊田重邦

 

くまだ しげくに
192002生
20130129没
享年92歳

 

資料

『熊田教授退官記念事業会』(記念録、1983年3月)
『熊田重邦先生勲三等旭日中綬章受章記念祝賀会(式次第・出席者名簿)』(1994年6月24日)

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ヒロシマを”追体験”
貴重な未公開資料を収める  本年度中に刊行へ  原爆資料の”紙碑”をめざして
編集を進める広島県史編さん室
「被爆の実相を明らかにするとともに、広島県民の責務としてそれを後世に伝えるための”紙碑”をたてる」。広島県史編さん室(広島市宇品東、広島女子大内・熊田重邦室長)はこういった趣旨で、現在「広島県史・原爆資料編」の編集を進めている。あの日から26年。この間いろいろな機関、団体、個人により、さまざまな形で被爆体験の記録がまとめられている。広島県が独自に原爆に関する諸資料を集大成するのは初めて。いま編集中途ではあるが、再び同じ体験が繰り返されてはならないという願いを”紙碑”にきざみ込む作業が続けられている「原爆資料編」の編集意図や方針、それに沿って収録される資料のあらましなどをまとめた。
本文 「広島県史」全32巻の編集は43年度から10ヵ年の継続事業として始められた。3年間の資料調査・収集をおえ46年度からは本格的な編集作業にはいり、「原爆資料編」ほか1巻が本年度中に、出版第1号として刊行される。この資料編が最初に、発行されるのも、県史全体からみてその意義が大きく、重いからだろう。
今日・将来の問題
編集の意図は、被爆体験を単に過去の事実として記録にとどめるだけでなく、今日・将来にわたる問題としてとらえることにある。つまり「死者の復権を図ると同時に、今日もなお放射能障害によって生命の危機を内在させている被爆者、胎内被曝者、被爆二世など、将来に不安を残す生者の問題を鋭く社会に問いかけるものとして原爆関係資料を最大限に生かす」ことである。そして、核兵器が人類滅亡の危険性をはらんで巨大化している今日「ヒロシマを全世界に”追体験”させることにより、核兵器全廃の世論を起こすこと」を大きなテーマにしている。これらの意図を踏まえ、被爆体験を郷土の歴史-ひいては人類の歴史-の中に正しく位置づけながら、広島の”個別体験”を”人間一般の体験”にまで高める努力をし、原爆が人間に与えた悲惨さを明らかにすることによって”人間の尊厳”を考えさせるようすがとする-といった理念をこの資料編に盛り込んでいる。また「原爆資料編」の編集方針については、国内はもとより国際的にもその集成が求められていることから、被爆の実態を明らかにするため、主として未公開資料を中心に、生の資料を骨子にしている。収集された資料は相当な点数になるようだが、その中で被爆直後の実態、救護活動のもようを通して「被爆の実相」を明らかにするため、戦災の記録、調査活動の詳細な資料が特に重視される。それらを通して「被爆者の苦悩や被爆前後の状況を歴史的、科学的に正しく理解することにより、未来への展望を妨げるような”偏見”をなくする。「被爆後の物質的、精神的復興に果たした行政や団体、個人の役割の長短を見きわめて将来の指針とする」ことにしている。
軍関係の記録も
収録される資料群は、主として軍関係の調査記録と官公庁や町村の記録文書の2つに大別される。そのおもなものをあげると軍関係では8月8日、本格的な調査団として広島入りした「大本営調査団」の調査資料がある。この調査団は参謀本部の有末中将らの一行で、目的は使用爆弾が何かを究明することだった。そして同行した理化学研究所の仁科芳雄博士が「原子爆弾」であることをつきとめ、報告している。「陸軍省広島災害調査班」の資料は、陸軍軍医学校、臨時東京第一陸軍病院から大本営調査団と同時に広島へ派遣された軍医による医学的調査を内容としたものである。この2つの資料は、最悪の状態の中で軍当局がどのような調査を行い、非常事態に対処したかがうかがえる記録で、当時はいずれも”極秘”の資料であった。のちに一部は断片的に発表されたり、資料として引用されているが、系統だって総合的に資料化されるのは初めて-という。またこのほかに呉鎮守府関係の諸調査資料が多数含まれている。
混乱の状況克明に
次に県や市町村関係の資料では、まず広島県の「戦災記録」がある。これはすでに新修広島市史や続広島原爆医療史にも収録されてはいるものの、当時広島県行政の動きを知る上で貴重な資料であり、被爆直後の処置、救護活動、調査などの公式記録として取り上げられる。町村役場関係の文書では佐伯郡廿日市町宮内・地御前、安佐郡佐東町八木・川内、安芸郡坂町など主として広島市周辺の町役場にあった被災者調査資料がある。坂や八木、宮内などの諸資料は、県史の資料所在調査中に発見されたものが多数あり、資料としても価値の高いものである。特に「宮内村日誌」などは被爆直後の混乱した状況を克明に記載しており、救護活動の実態がかなり具体的に知られる。また、広島市草津本町で発見された国民義勇隊の記録も救護所の動きや義勇隊の救護状況を知る資料として貴重なものとされている。このように「原爆資料編」の編集は、これまで埋もれていた多くの資料をも発掘してきた。「町村役場の資料がいかに無視されてきたかがわかる」と関係者がいうように”埋蔵資料”をもう一度総点検する必要があり、そういった資料を被爆実態の究明に役立てるよう県全体として取り組むべきだ-という指摘もある。
人間の尊重ふまえて
このほか広島地方気象台の8月6日付け「気象日誌」や「津田町日記」など公的な日記、日誌類や調査団の記録としては、東大をはじめ当時広島へ調査団を出した各大学関係の公・私的な資料も収録の予定である。「原爆資料編」の全般について熊田重邦室長は「8月6日の時点で、広島市や周辺町村ではどうなっていたか、生の記録をもとにして”被爆の実相”を明らかにすることであり、人間の尊厳-人間の尊重という理念をふまえて、あくまでも科学的に資料をとらえること。広島市民としてはもちろんだが、もっと広島県民という広い観点で資料を集成していきたい」と話している。いずれにしても、1,000ページ余りの資料編では、収録される資料に限界のあることはやむをえない。だが、集成される資料の1つ1つに重い意味があり、さらに資料の紙背にある”文字なき記録”は多くの被爆の実態について語りかけてくれるだろう。

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被爆体験の風化をくいとめるために、被爆の実相を明らかにする資料集成が進められている(広島県史編さん室で)

『中国新聞』1971年8月2日