吉野源三郎
よしの・げんざぶろう | 18990409生19810523没 | 享年82歳 | 雑誌「世界」初代編集長。日本ジャーナリスト会議初代議長(1955年2月19日)。「被爆30周年国際フォーラム」の代表世話人。1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人。 |
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吉野源三郎
よしの・げんざぶろう | 18990409生19810523没 | 享年82歳 | 雑誌「世界」初代編集長。日本ジャーナリスト会議初代議長(1955年2月19日)。「被爆30周年国際フォーラム」の代表世話人。1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人。 |
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岡本直正
おかもと・なおまさ | 1921生20120523没 | 岡本直正 | 享年91歳 | 広島大学原爆放射能医学研究所所長(第3代 1970.4.1~1977.3.31)。 |
資料年表:岡本直正<作業中>
年月日 | |||
1921 | 生 | ||
1967 | |||
0330 | 岡本直正 「放射線被爆が胎児に及ぼす影響 -中性子照射による心臓並びに大血管系の形成異常 」(『原子爆弾後障害研究会講演集 第7回』218) | ||
1969 | |||
0620 | 岡本直正「原爆症認定の問題点 病理の立場より」(『原子爆弾後障害研究会講演集 第9回』22) | ||
1970 | |||
0401 | 広島大学原爆放射能医学研究所所長(~1977.3.31)。 | ||
19730806 | 『原爆の記録ヒロシマ―米国返還資料から』(中国新聞社) | ||
「人体傷害」(岡本執筆) | |||
1977 | |||
0910 | 『原爆と広島大学 「生死の火」学術篇』(広島大学原爆死歿者慰霊行事委員会) | ||
岡木直正「原爆放射能医学研究所における将来計画と協同研究への歩み」61 | |||
2012 | |||
0523 | 没 |
止
『小さな窓から』(新藤兼人著、朝日新聞社、1985/09/05)
内容<作業中>
頁 | |||
009 | 夫婦とは 9 | ||
012 | 男と女 | ||
15 | 台所革命 | ||
18 | 母の思い出 | ||
21 | 加害者はだれか | ||
24 | 姉の地平線 | ||
27 | アメリカ製日本人 | ||
30 | ぜんそく考 | ||
33 | ある結婚 | ||
36 | 父の肖像 | ||
39 | 酔いどれ妻 | ||
42 | ライバル | ||
45 | 雪が舞う | ||
48 | 三匹の猫たち | ||
51 | ふり向いた女の目 | ||
54 | ある少女の出発 | ||
57 | 荷風忌 | ||
60 | 恩師 | ||
63 | 兄の生涯 | ||
66 | 家 | ||
70 | 足跡 | ||
74 | 三文役者 | ||
77 | 砂漠の中の森の町 | ||
80 | 青春の町 | ||
83 | 子どもたちよ | ||
87 | 生き証人 | ||
90 | 紫陽花のひと | ||
93 | ああ離婚 | ||
96 | 朝顔 | ||
100 | 原爆を落とした男 | ||
103 | 八月十五日 | ||
106 | 俺はあとでいいよ | ||
110 | 溝口忌 | ||
114 | 墓のある場所 | ||
117 | あるカメラマンの一生 | ||
120 | N君の仕事 | ||
123 | 竜安寺門前町 | ||
126 | 雨の日の朝 | ||
129 | 裏切りの心 | ||
132 | 無声映画の詩 | ||
135 | 栗ごはん | ||
139 | 私は脱がない | ||
143 | 遠足 | ||
146 | 風の中の三味線 | ||
149 | あなたに従います | ||
152 | めしを食ったか | ||
156 | 同窓会 | ||
159 | 現代風俗 | ||
162 | 結婚しない女 | ||
165 | 友ありて | ||
168 | 蔵の中 | ||
171 | 正月餅 | ||
175 | D氏の碑 | ||
179 | ふるさとの声 | ||
183 | 幕切れは | ||
187 | 縄文の足跡 | ||
190 | 人間の姿 | ||
194 | 女ひとり | ||
197 | あによめ | ||
201 | 役者根性 | ||
204 | おもちゃ | ||
207 | 水ぬるむ | ||
210 | ひいばあさん | ||
213 | はんてん | ||
216 | あとがき | ||
1984年1月8日~85年3月31日、連載。 | |||
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資料年表:新藤兼人<作業中>
1912 | ||
0422 | 生 | |
1950 | ||
09 | 新藤監督:松竹映画「長崎の鐘」完成。 | C |
1952 | ||
0515 | 近代映画協会による「原爆の子」映画化。広島市で吉村公三(制作)、新藤兼人(脚本・監督)ら、「原爆の子友の会」メンバーと初打ち合わせ。 | C |
0707 | 原爆傷害者懇談会(広島市基町・朝日ホール)。新藤・乙羽信子らも出席。 | C |
08 | 「原爆の子友の会」、新藤監督の映画「原爆の子」制作に協力した会員5人を除名にするなど内紛。 | C |
1953 | ||
0429 | 「原爆の子」(新藤監督)、カンヌ国際映画祭グランプリ受賞を逸す。 | C |
1956 | ||
0212 | 英映画協会、「原爆の子」(新藤監督)を1955年度世界優秀映画の国連賞受賞作品に決定。 | C |
1957 | ||
02 | 西ドイツで上映中の「原爆の子」(新藤監督)、反戦映画として軍当局に没収される。 | C |
1958 | ||
09 | 映画「第5福竜丸」(監督:新藤・主演:宇野重吉、乙羽信子)撮影中 | C |
1959 | ||
02 | 映画「第5福竜丸」(近代映画協会・新世紀映画の共同製作、監督:新藤)、広島市の帝劇で特別試写会。 | C |
1982 | ||
0331 | 『広島市公文書館紀要 第5号』 | |
有田嘉伸「 新藤兼人の人と作品 」 | ||
「新藤兼人資料目録」 | ||
1983 | ||
01 | 『追放者たち -映画のレッドパージ-』(岩波書店) | |
0310 | 『日本名作映画76選』(佐藤忠男著、広島市映像文化ライブラリー編、広島市教育委員会) | |
1985 | ||
0905 | 『小さな窓から』(朝日新聞社) | U |
1996 | ||
0614 | 『追放者たち -映画のレッドパージ-』(岩波書店 同時代ライブラリー) | |
1998 | ||
0220 | 『弔辞』(岩波新書、) | U |
1980 | ||
0315 | 『私の足跡 : 独立プロ三〇年のあゆみ(新藤兼人映画論集 1)』 (汐文社, 1980.3) | U |
1981 | ||
09 | 『仕事場の出会い : 監督とはシナリオとは女優とは(新藤兼人映画論集 2)』 (汐文社, 1981.9) | U |
1988 | ||
0420 | 『さくら隊散る』(未来社) | U |
0420 | 『さくら隊8月6日 広島で被爆した若き新劇人たち』(岩波ブックレット No.114) | U |
1993 | ||
1006 | 『青春 新藤兼人の足跡1』(岩波書店) | U |
2002 | ||
1103 | 文化勲章発令・宮中親授式 | |
2003 | ||
0411 | 「原爆の真実を残す 広島で90歳対談 映画監督・新藤兼人さん・元本社カメラマン・松重美人さん」(『中国新聞』20030411) | C |
2004 | ||
0721 | 『シナリオ人生』(岩波新書) | U |
2010 | ||
1220 | 『広島県現代文学事典』(岩崎文人編、勉誠出版)<佐藤武・記> | U |
2012 | ||
0529 | 没。享年100歳。 | |
0531 | 「新藤兼人監督が死去 反戦貫き人間愛描く 100歳」(『中国新聞』20120531、串信考・記) | |
2022 | ||
0413 | 広島市映像文化ライブラリー、新藤兼人生誕110年記念の特集上映開始。(『中国新聞』20220402) | |
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大庭みな子
おおば・みなこ | 19301111生20070524没 | 享年76歳 | 作家。広島県立賀茂高等女学校在学中、原爆のきのこ雲を西条町より望見。8月末~9月、広島市に救援隊として動員される。『広島県現代文学事典』(瀬崎圭二・記) |
資料年表:大庭みな子<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1930 | ||
1111 | ||
1972 | ||
0501 | 大庭みな子(芥川賞作家)、雑誌『潮』原爆特集の取材で広島市を訪問。 | C |
2007 | ||
0524 | 没。享年76歳 | |
2010 | ||
1220 | 「大庭みな子」(『広島県現代文学事典』〈瀬崎圭二・記〉、勉誠出版) | |
2016 | ||
0612 | 東広島青少年オーケストラ、「ひがしひろしま音楽祭」で、被爆の惨状をつづった大庭みな子のエッセイの朗読を取り入れた演目を上演。(『中国新聞』20160609、森岡恭子・記) | |
止
佐藤月二
さとう・つきに | 19090215生19880522没 | 享年79歳 | 元広島大学教育学部教授。広島県史跡名勝天然記念物調査委員(1947年2月~)。1949年当時、原爆ド-ムの保存を主張。著書『むさしあぶみ』(溝本積善館、19720215)。 |
資料年表:佐藤月二<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1909 | ||
0215 | 生 | |
1988 | ||
0522 | 没 | |
止
『平家納経の世界』(小松茂美著、六興出版、19761226 新装第1版)
内容
章 | |||
1 | 平家納経の成立ドラマ 11 | ||
謎みちた女神 11 法華信仰と「平家納経」 15 平家勃興の波に乗って 20 祖父正盛・父忠盛のこと20 清盛登場 27 実説ご落胤27 十二歳の次官殿29 安芸守平清盛の霊 夢31 栄達の血塗道32 二条帝現説と立太子騒動35 長寛二年における清盛の心情 38 怨霊騒ぎと皇子誕生38 忠通の死40 関白・基実の幼 な妻42 頼長の子・師長を夜宮44 帝の皇子誕生46 崇徳院の崩御51 願文の内容54 筆者は清盛64 “他 人を以って名と為す”74 櫛筆の謎84 厳島繁昌記 87 厳島詣での大流行87 名花・厳島の内侍たち96 平家 の落日102 佐伯景弘という男111 厳島内侍発願説の虚構 121 |
|||
2 | 高く、広く、大きく―平家納経と歩んだ三十年 127 | ||
死神と美神の出合い 127 手習い草紙 128 死の淵に立って 133 その名を恋人のごとく 137 一冊の古本 139 「平家納経」を見る 141 無知の蛮勇 146 生涯のことば 152 「伊都岐嶋千僧供養日記」 155 厳島文書を読む 157 『いつくしま』を刊行 161 上京、池田亀鑑先生 163 念願の博物館勤務 171 |
|||
3 | 不思議な本 175 | ||
4 | 王朝の女性の夢を追って 190 | ||
5 | 王朝の教養と和洋書道の源を探る 197 | ||
6 | 栄華と末法におののく美の殿堂 213 | ||
7 | 子筆額の成立へ 227 | ||
王朝のこころ十選 247 三十六人家集(貫之集上)247 木彫一字金輪坐像249 普 賢菩薩像250 扇面写経251 金銅秋草文薫炉252 伴大納 言絵詞253 藤原行成筆白氏詩巻254 秋草文壷255 平等 院鳳鳳堂256 戸隠切257 |
|||
人と書とのかかわり 対談/小松茂美・松井如流 259 | |||
小松茂美・丸夫妻の世界―編集部編― 273 | |||
後記 282 |
小松茂美
こまつ・しげみ | 19250330生20100521没 | 享年75歳 | 古筆学者、美術史学者。広島で被爆。「死の淵にたって」(『平家納経の世界―国宝の謎を推理する』(六興出版、19861226)pp.133-136。 |
資料年表:小松茂美
年月日 | ||
1925 | ||
0330 | 山口県岩国市生まれ | |
1938 | 崇徳中学校(旧制、現崇徳高校)進学。 | |
1942 | 柳井中学校(旧制、現山口県立柳井高校)卒業。広島鉄道局勤務。 | |
1945 | ||
0806 | 広島駅近くの庁舎内(爆心地から1.7キロ)で原爆被爆。 | |
<作業中> | ||
止
島薫
しま・かおる | 18970702生19770516没 | 享年79歳 | 外科島病院(広島原爆爆心地)院長。 |
資料年表:島薫<作業中>
年月日 | ||
1897 | ||
0702 | 誕生(本籍地:広島県安芸郡瀬野川) | |
1917 | ||
03 | 広島県立第一中学校卒業 | |
1924 | ||
0325 | 大阪医科大学卒業 | |
1930 | これより欧米留学、米国メイヨークリニックにても研究晩学。 | |
1931 | ||
04 | 大阪帝国大学医学博士。 | |
1933 | ||
08 | 広島市細工町にて外科島病院を開設、診療開始。 | |
1945 | ||
0806 | 「県下世羅郡甲山町植田病院に出張手術中広島島病院上空に世界始めての原子爆弾降下の報により帰広し、市袋町戦災者仮設病院に於いて罹災者の処置に尽力し後中野村の本宅に於いて診療を開始す。」 | |
1948 | ||
1030 | 「広島市大手町戦災被害地を整理し復興、病院を建設し診療を開始す」 | |
1977 | ||
0516 | 没 | |
1983 | ||
0515 | 『島薫あれもこれも』発行 | |
止
『島薫あれもこれも』(島薫[著・刊]、紺野耕一編、1983/05/15)
内容<作業中>
ご挨拶 島忍 | ||
Ⅰ | ||
大学医局時代の思い出…3 入局…6 恩師 岩永先生の御魂に…8 古武先生の想い出…11 日本臨床外科医会創立のこと…12 医学上より見たる広島の復興…13 広島外科会100回を迎えて…17 広島外科会40年のお祝の言葉…23 予後…24 朝風に乗って…26 |
||
Ⅱ | ||
原爆直後のこと…31 | ||
運命というもの…35 | ||
「ゲランを流す」…37 | ||
ピカドンと婦人たち…38 | ||
呉の空襲…41 | ||
警防団ところどころ…43 | ||
「教育随想」鍛えられた土性骨…45 | ||
Ⅲ | ||
広島信用金庫理事長あいさつ…49 戦争と金…50 最高の福祉…51 ひかり園理事長のあいさつ…54 ユース・ホステル15年を迎えて…56 年頭の所感 正月を迎えて 1969年の日の出 瀬戸内海周遊ホステリング 海底より 無言の囁き 第四国高校生ユースラリー 迎春 かおり高き品格…67 見て喜ぶ…71 |
||
Ⅳ | ||
「私の愛蔵品」精進湖 南薫造作…76 二人展出品作品…78 白青会・杏林画会合同展覧会 第21回合同展を迎えて 国際美術展に出品 |
||
Ⅴ | ||
「雲雀物語」…85 秋に思う…87 |
||
Ⅵ | ||
よみがえるあの日爆心地島病院・ただ余熱と死臭…93 紅バラのヤグラ…爆心地の庭に…96 ヒロシマの戦後見続けた27年―生れ変る爆心の島病院…97 瓢鮎図…99 微笑み…100 幽霊…102 洋モクで一札取られの巻…104 西村徳一氏に呈す…106 還暦に思う…108 還暦のうた…109 一丁のピストル…110 人権擁護…112 広島市民交響楽団生みの親高橋理事長の追想…113 わが十代―雲井浪子に片思いこがす…115 秋の夜ばたし―花つくり・碁・ゴルフ…121 外科医追放が文化…124 わたしの散歩道…127 ヒロシマに生きる…130 協力は健康者の義務―「かたすみの人生」…134 晴れの叙勲―スポーツで人心復興…136 国鉄マン「ゲスト・トリオ」島車掌…138 |
||
Ⅶ | ||
忘れ得ぬ人びと…141 谷川昇君 立石吾一氏 高橋定氏 三戸俊美氏 上田太郎氏 越智しげる氏 河野先生 島薫博士「原爆後の広島についての彼の回想録」 ウォーナー・ウエルズ…157 |
||
Ⅷ | ||
筆談 喉頭癌手術後の大学病院生活と退院後…187 恵声会発会の思い出…565 恵声会誌創刊によせて…569 |
||
Ⅸ | ||
遺徳を偲んで…571 大内五良 長崎孝 国信玉二 斉藤環 中本カツコ |
||
偲び草(年譜)…586 | ||
あとがき(紺野耕一)…593 | ||
止