消えた十字架

『消えた十字架』(碓井静照著、ガリバープロダクツ刊、19950806)

内容

見出し 備考
はじめに 2
1 消えた十字架 9
・心のふるさと-アメリカ 11
/ボストン大学へ… 12
/ボストン近郊にて~ヨットや釣りのこと~ 27
/消えた十字架~ボストンのクリスマスに思いを馳せながら~ 37
/変わりゆくマンハッタン・ハーレム 45
・アフリカ、メヘバ難民キャンプを訪ねて… 51
/アフリカ、難民キャンプを訪ねて… 52
/南部アフリカ回想 56
・世界を語る 73
米ソの穀物事情と世界の緊張 74
/ドルと鯨と核利用 77
/二十世紀最大の疫病-エイズ 80
/真の国際化とは 84
/トイレットペーパーと文明度 86
・友ありユーゴより来る 89
ユーゴの友 90
/友あり、ユーゴより来る 92
/ホームスティのお話 95
2 ノーモアヒロシマの決意新たに 99
・私と原爆 101
時は流れる 102/私と原爆 103/語り継ぐ夏~四十七年目のヒロシマ~ 109/転機を迎えた核時代~処方せんは一つ「核廃絶」~ 110
・ノーモアヒロシマの決意新たに…~IPPNWの活動から~ 113
IPPNW平和学術講演会の印象記 114
/〈座談会〉IPPNWによせて~IPPNW国際会議出席者に聞く~ 121
/IPPNW広島大会、一九八九年に開催決定の瞬間 136
/ノーモアヒロシマ、この決意永遠に…139
/第二回IPPNWアジア太平洋地域会議(マニラ)開かれる 140
/ヒロシマの教訓~第二回IPPNWアジア太平洋地域会議(マニラ)での講演より~ 144
/はじめてチェルノブイリ原発事故被害の真相にせまる・IPPNW日本支部代表団、モスクワなどソ連四都市を公式訪問 154
/「安全保障の共有と健康のための地球規模のコミュニケーション」をテーマに~IPPNW第十回世界大会開催~ 162
/IPPNWストックホルム大会とヒロシマ 167
/ソ連クーデター直後、核管理の揺らぐモスクワに入る・IPPNW「ソ連共和国非核化教育キャンペーン」準備会議へ出席して 170
/IPPNW日本支部・碓井氏が帰国報告 173
/日ソ非核化キャンペーン・ロシアウインターキャンペーン(医療援助募金)について 175
/中国、北朝鮮(DPRK)、韓国、日本によるIPPNWアジア太平洋地域会議のための準備会議開催 183
/エリツィン大統領らに核廃絶を申し入れる・旧ソ連非核化教育キャンペーンの代表団の一員として 187
/国連軍縮会議が広島で行われたことの意義 199
/IPPNWボルゴグラード支部活動について 200
/ 朝鮮半島の非核化と日本のプルトニウム保有について 203
3  CUREとCARE 211
・医師として生きる 213
医学部を志す人達へ、一医師の日常 214/医者の不養生 221/週休二日制を考える 225/四面楚歌の中で 228/心に残った患者さん 232/医師をめざす後輩に物申す 234/〈座談会〉医の原点を求めて~海外医療活動経験者は語る~237
・地域医療の充実を求めて 257
春爛漫 258/広島市医師会創立一〇〇周年記念行事から 259/橋田寿賀子「ドラマの中の女たち」評・広島市医師会創立一〇〇周年記念~文化講演より~ 260
・医療経営を考える 265
規則緩和を求めて-病院協会の在り方 266/生き残れるか民間医療〈座談会〉医療経営について 268
・高齢化を見つめる 289
老人福祉制度への雑感 290/甘露の雨とこしえに 293/ボケ防止について 294
・老人保健施設について 297
都市医師会での老人保健に関する分科会から 298/老人保健施設短評 300
・深刻な看護婦不足 303
書評「ナースコール」を読んで 304/深刻化する看護婦不足 305/診療報酬体系と看護婦不足 309
4 GALLERY 313
・ゴルフ顛末記 315
大学の会報で同級生に紹介されたら 316/B組優勝者の弁 317/B組ブービー残念記 319/広島カントリー倶楽部「成人の日杯」に優勝して 321/またまたB組ブービー賞残念記 323
・写真に魅せられて 327
写真に魅せられて 328/街を撮る〈座談会〉写真放題~〝わがブロック〟担当カメラマン~ 332
・GALLERY 351
天神嶽の石佛 352/モスクワの子供たち 353/カレメグタンの丘にて 354/N・Y・ハーレムにて 355/エニセイ川(ロシア)上流の山脈 356/芽花、白い穂 357
・徒然なるままに 359
なくて七癖 360/徒然なるままに 361/一冊の本「徒然草」 369/英訳「宇津保物語」評・「The Tale of Cavern(Utsuho Monogatari)」について 371/高瀬堰随想~太田川に想う~ 375
あとがき 392

碓井静照

碓井静照

うすい・しずてる 201209没 享年74歳 広島県医師会会長、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)日本支部長などを歴任。第67回(2010年)中国文化賞(中国新聞社主催)。8歳の時被爆。

 

資料年表:碓井静照<作業中

年月日 事項 備考
1937
** 広島市牛田本町生まれ
1945
0806 8歳のとき、原爆被爆。
1989
0720 『ヒロシマ医師のカルテ』(広島市医師会)
座談会:あの日  (小山綾夫・横山滋・福原照明)67
碓井静照 「私と原爆」 147、「核戦争の危機-第3回大会」282、「’89年広島大会開催決定の瞬間」314、
川堀耕平・福原照明・茶幡隆之・碓井静照「IPPNWによせ」 338
1992
0130 『核戦争防止国際医師会議日本支部報告 平成4年1月30日(その1)』(IPPNW日本支部)
日本支部1990年度報告 碓井静照 4
0130 『核戦争防止国際医師会議日本支部報告 平成4年1月30日(その2)』(IPPNW日本支部)
「安全保障の共有と健康のための地球規模のコミュニケーション」をテーマに日本支部から30名参加 碓井静照 10
IPPNW「ソ連共和国非核化教育キャンペーン」準備会議に出席して 碓井静照 67
0130 『核戦争防止国際医師会議日本支部報告 平成5年1月30日』
(1)ロシアウィンターキャンペーン(医療援助募金)について
ボストンIPPNW執行委員会報告 碓井静照 7
(4)IPPNW代表団による旧ソ連邦非核化教育キャンペーンに参加して 碓井静照 14
中国、北朝鮮(DPRK)韓国、日本によるIPPNW
アジア太平洋地域会議のための準備会議開催 碓井静照 22
IPPNWボルゴグラード支部活動について 碓井静照 36
ヒロシマからの教訓-第3回IPPNWアジア太平洋地域会議に於ける講演- 福原照明 48
朝鮮半島の非核化と日本のプルトニウム保有について
-第3回IPPNWアジア太平洋地域会議の位置づけ- 碓井静照 64
1995
0806 『消えた十字架』(ガリバープロダクツ刊)
1996
0701 『エドナ・ライル夫人の死』(ガリバープロダクツ刊)
第1章 ミンスク(ベラルーシ)への旅 13
1998
0806 『語り継ぐ夏 Abolition 2000をめざして』(ガリバープロダクツ刊)
2002
0329 『ニューヨーク午後の日射し 続ヒロシマ2001』(ガリバープロダクツ刊)
2004
1212 『哀しみの虹 ある美しき韓国女性の死』(ガリバープロダクツ刊)
2007
1008 『シアトルからの手紙』(ガリバープロダクツ刊)
2009
0331 『核戦争防止国際医師会議日本支部報告 平成20年度(2008年度)』
2.IPPNW日本支部理事会・総会・広島県支部総会 柳田実郎 2
・日本支部長挨拶 碓井静照 5
0911 『ピョンヤンの春 望春-北朝鮮の核廃絶と被爆者医療』(ガリバープロダクツ刊)
2012
0127 『放射能と子ども達 ヒロシマ、チェルノブイリ、セミパラチンスク、そしてフクシマ』(ガリバープロダクツ、20120127)
0509 没。享年74歳。

故議員砂原格君に対する追悼演説

故議員砂原格君に対する追悼演説

出典:『第68回国会 衆議院 本会議 第31号 昭和47年5月23日』

  • 002 船田中

    ○議長(船田中君) 御報告いたすことがあります。  議員砂原格君は、去る八日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。  同君に対する弔詞は、議長において去る二十一日贈呈いたしました。これを朗読いたします。   〔総員起立〕  衆議院は多年憲政のために尽力しさきに逓信委  員長運輸委員長の要職にあたられた議員従三位  勲二等砂原格君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞  をささげます     —————————————  故議員砂原格君に対する追悼演説

  • 003 船田中

    ○議長(船田中君) この際、弔意を表するため、大原亨君から発言を求められております。これを許します。大原亨君。   〔大原亨君登壇〕

  • 004 大原亨

    ○大原亨君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員砂原格君は、去る五月八日逝去されました。まことに痛恨の念にたえません。
     私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしんで哀悼のことばを申し述べたいと存じます。
    (拍手)
     顧みれば、昭和二十年八月六日午前八時十五分、広島市に史上最初の厚子爆弾が投下され、ただ一発のこの原爆によって全市は一瞬の閃光とともに灰じんに帰し、未曽有の惨状が現出いたしたのであります。このとき、砂原さんは爆心地にほど近い自宅において被爆され、建物の下敷きとなり、文字どおり九死に一生を得られたのであります。あなたは口にこそ出されなかったが、あなたのからだは、その後終生放射能の恐怖にさらされることになったのであります。
     砂原さんは、それに加えて宿痾の糖尿病が悪化して、本年初めから東京において入院加療し、さらに三月中旬からは被爆者治療の権威である郷里の広島赤十字病院に移って治療に専心しておられました。しかし、私が、去る三月、病院にお見舞いしたときには、奥さまと差し向かいでおいしそうに食事をしておられ、「もうだいじょうぶだよ」と言って、病人とも思えぬほど元気であり、かたい握手をして別れたのであります。また、最近は、再起を期して病院の廊下で歩行練習もされ、「六月になったら東京に行くんだ」と言われていたとのことであります。その御様子から、私はあなたが登院される日の近いことを信じ、心からお待ちしていたのでありますが、五月八日夜、だれもが思いもかけなかった病状の急変を来たし、奥さまの手を、しっかりと握ったまま、生けるがごとく大往生を遂げられました。主治医は、あなたの生命を断った要因に原爆症があったことを指摘されましたが、私は、原爆の悲惨さに思いをいたし、深い悲しみとともに強い憤りを抱かずにはおられません。  私は、昭和三十三年本院に議席を得て以来十四年余になりますが、この間五回にわたる選挙を通じて砂原さんと相争ってまいりました。互いに党派を別にし、主義主張を異にしておりましたが、庶民的政治家としての砂原さんに対し、心からの尊敬の念を抱き、あなたを相手として戦うことを誇りとしていたのでありまして、いまここに砂原さんの急逝にあい、私は、いまさらのように人生の無常を感ずるとともに、心から痛惜の念を覚えるものであります。(拍手)
     砂原さんは、明治三十五年四月、広島県高田郡白木町の農家にお生まれになりました。高等小学校を卒業後一たん農業に従事されましたが、独立独行の志かたかったあなたは、広島市に出て、幾多の辛酸をなめつつ未来への模索を続けた末、二十二歳にして土木建築事業を興し、事業家としての第一歩を踏み出されました。その後事業は次第に拡大され、やがて砂原組をはじめ各種の分野で幅広く活躍されることになりました。その間、広島商工会議所副会頭にもあげられ、地方産業界の指導的役割りを果たされたのであります。
     砂原さんが地方政界に入られたのは昭和十七年でありました。あなたは、時のいわゆる翼賛選挙に憤慨をし、持ち前の反骨精神から、敢然として広島市会議員の選挙に非推薦で立候補し、初当選をされたのであります。以来、市会議員として、その庶民性と実行力をもって市政の推進にこん身の熱意を傾け、多くの業績をあげられたことは、広島市民周知の事実であります。
     そして、昭和二十年八月六日、突如としてあの原爆に襲われたのであります。戦後十六年間にわたって広島市長であった故濱井信三氏は、その著書「原爆市長」の中で、「焼け跡にもようやく秋の気配が動きはじめた。八月の終りから九月の初めにかけて身に傷を受けず、火傷もしなかった人たちが、次々に倒れていった。被爆直後から市役所に出て来て、さかんに活躍していた市会議員の砂原格氏も姿を見せなくなった」と書いていますが、砂原さんもついに原爆症のため病床に伏すのやむなきに至りました。原爆のため肉親を失い、みずからも脱毛や歯ぐきよりの出血などの重症におちいりましたが、不屈の砂原さんは、よくこれを乗り越えて再び不死鳥のように立ち上がり、地元町内会長、消防団長をはじめ市会議員として、混乱の極にあった市民の救済に挺身をされました。
     翌二十一年には市会議長の要職につかれ、焦土と化した広島市の復興に全力を傾注し、また、昭和二十二年からは県議会にも議席を占めて、戦後の復興と民生の福祉増進に尽くし、県民の信望を大いに集められたのであります。(拍手)
     そして、昭和二十七年十月、第二十五回衆議院議員総選挙が行なわれるや、あなたは、祖国の再建と郷土広島の復興のため努力したいとの決意を固め、激戦の広島県第一区から勇躍立候補し、みごと当選の栄を獲得されたのであります。(拍手)  本院に議席を得られた砂原さんは、長年地方政界においてつちかわれた経験と、あくまでも庶民の生活に根ざした実際的感覚をもって国政に当たられ、その活躍ぶりは独自のものがありました。
     昭和三十五年には、第二次池田内閣の通商産業政務次官に就任をされ、中小企業の振興、特に零細企業について、商工会の制度創設に尽力をされました。昭和三十八年には、同じ池田内閣の厚生政務次官となり、みずからの貴重な体験に基づいて原爆被爆者対策に積極的に取り組み、また当時から、「街に緑を」と提唱するなど、公害問題に対して先駆的な考えを示されました。
     本院においては、運輸、商工、逓信、建設その他各委員会の委員あるいは理事となって、各方面にわたり幅広い活躍をされました。そして、逓信委員長あるいは運輸委員長の要職にもあげられ、よくその重責を果たされたのであります。
     しかしながら、砂原さんの本領は建設行政にありました。特に、通路問題については、実務を知悉した経験とその卓越した実行力をもって貴重な意見を吐き、欠くことのできない権威として、つとに同僚議員の認めるところでありました。「近代的な交通網の整備は、その国の発展の証左であり、国民の生活や生産を向上させる基本である。」これは、道路の重要性がなお実感として受け取られていない当時からの国土開発に対する砂原さんの政治信念であり、砂原さんが政治生命をかけて提唱してこられたところであります。
     昭和四十一年には、国土開発縦貫自動車道建設法の改正案が成立しましたが、砂原さんは、この法律の制定あるいはまた道路建設の実施にあたって、献身的な努力をいたされました。  最近におきましても、本州四国連絡橋公団法案の制定あるいは道路整備五カ年計画の推進に、陰ともひなたともなって努力をされたのでありまして、この間の砂原さんの尽力は高く評価されなければなりません。(拍手)
     それにつけましても、砂原さんが執念を燃やしておられた地元の中国縦貫自動車道あるいは中国横断道が完成半ばにして急逝されたことは、砂原さんにとって大きな心残りであったでありましょう。
     自由民主党にあっても、道路調査会副会長として、また政務調査会審議委員として、党の政策の立案推進に大きな発言力を持っておられたのであります。
     かくして、砂原さんは本院議員に当選すること前後六回、在職十四年八カ月に及び、この間国政に残された功績はまことに偉大なものがあります。
     思うに、砂原さんは真の大衆政治家であり、きっすいの政党政治家でありました。「政治は、足と真心だ。これに尽きる。奉仕の気持ちで三百六十五日、足を使わなければだめだ」、あなたはこれを政治活動の基本姿勢とし、いたずらに理想に走らず、常に大衆に接し、大衆の心の中に政治の方向を求めてこられました。「困った人があったらまず救済の手を差し伸べ、理屈や法律はそのあとについてくればいいではないか」と言いつつ、はだで感じ取った真実を黙々として現実の政治の上に具現してこられたのであります。そして、時にその政治姿勢に向けられる批判も甘受し、断固としてわが道を歩み続けられたのでありますが、私は、そこにこそ大衆政治家砂原格君の真骨頂があったと信ずるものであります。(拍手)
     砂原さんは、裸一貫から身を起こし、あらゆる辛酸をなめながら、不撓不屈の信念を堅持して、独立独歩、よく今日を築かれました。世人は、そのあなたを立志伝中の人、あるいはまた、その風貌も加えて、今太閤と評しております。しかし、私は、砂原さんが、人生の試練に直面するごとに、それをみずからを高めみがくかてとし、大衆を愛する至情に転化し、政治家としての、また人間としての形成に昇華してこられたことにこそ、惜しみない敬意と拍手を送りたいと思うのであります。  あなたの訃報に接し、広島のお宅には次々と弔問客が訪れたのでありますが、その中には、砂原さん直筆の手紙の束を両手にしっかりと握りしめ、ぼう然として涙にくれながら霊前にただずむ一市民の姿も見られたのであります。(拍手)それはまさに、みずからを顧みず寸暇をさいて世のため人のためをはかってこられた砂原さんをいたむにふさわしい情景でありました。
     御年七十歳。あなたの生命のともしびは静かに消えて、平和の象徴としてよみがえった広島の地において永遠の眠りにつかれたのでありますが、その全生涯をただ一筋に大衆にささげられたあなたのみたまは、多くの人たちの胸中に不滅の灯としていつまでもいつまでも燃え続けていくことでありましょう。  現下、内外の情勢は激しい流動を続けております。このときにあたり、庶民の中から生まれ、常に庶民とともにある砂原さんのごとき政党政治家を失いましたことは、返す返すも残念なことであり、まことに大きな損失と申さなければなりません。  人の値打ちは棺をおおうてきまる。いま私は、病床で最後の握手をかわしたときのあなたのがんじょうでしかもあたたかい手のぬくもりをしみじみと感じつつ、砂原さんの人となりをしのび、その功績をたたえ、心から御冥福をお祈りして、追悼のことばといたします。(拍手)

砂原格

砂原格

すなはら・かく 19020403生19720508没 享年70歳 『砂原格追想録』(砂原格先生顕彰会・会長森本亨、1978.5.8)

資料年表:砂原格<作業中

年月日 事項 メモ
1902
0403 誕生
1952
0425 『藤野七蔵氏追懐録』(広島瓦斯)
砂原格「産業界の巨星」445
0920 『川よとわに美しく 詩集』(米田栄作著、第二書房)
砂原格「跋」
1954
0625 『ながれ』(村上哲夫著)
砂原格:信用は真実、真剣 <318~320頁>
1965
0330 『砂原組40年史』
1972
0508 死亡
1974
0120 『高田郡史 下巻』
「砂原格」< 518頁>
1978
0508 『砂原格追想録』(砂原格先生顕彰会・会長森本亨)
1995
0301 『砂原組70年史』

 

渡辺忠雄

渡辺忠雄

わたなべ・ただお 18980715生19800506没 享年81歳 元広島市長(1955~59年)。

資料年表:渡辺忠雄<作業中

年月日
1898
0715 山県郡大朝町生まれ。
1928
** 弁護士開業
1946
0411 ~460622衆議院議員(日本自由党)。公職追放。
1955
0430 広島市長選挙。当選。5月2日就任、1959年5月1日退任。
0730 臨時市議会「原子炉導入については世界の科学的水準が高い国々ではすべて原子炉の平和利用の試験が行われ、実用化の段階に入っているので日本だけ、広島市だけが原子力の平和利用に狭量であってはならない。適当な時期に受け入れる気持ちである」
0806 広島市平和記念式典。平和宣言。
1007 第7回広島建設促進協議会、参院議員会館(東京)で開催。渡辺市長の提案で同協議会規約「平和記念都市建設の促進をはかる」を「産業都市建設の促進をはかる」に変更し、協議会の新発足を決める。
1123  原水爆禁止広島県民協議会発足。代表委員7名の一人にに選ばれる。
 1956
0103 中国新聞紙上で柴田重暉市議会議長と対談。「選挙で公約したように私は従来の『平和都市建設』をさらに進めて『産業都市建設』へすべての施策をもっていきたい」
0215 原水爆禁止広島市協議会の結成大会、広島市公会堂で開催。会長に渡辺市長。
0705 広島市、米から帰国した原爆乙女8人を招き、市社会館で渡辺市長を囲み座談会。
0806 広島市平和記念式典。平和宣言。
0928 渡辺市長の平和宣言に米ハワイ・ホノルル市長から返書。
1012
1015
1022
1956
0207
0806
1959
04 広島市長選挙。落選
1978
0508 『砂原格追想録』
渡辺「情熱に燃え実行型の士」pp.55-57
1980
0506

 

高橋和巳

高橋和巳

たかはし・かずみ 19310831生19710503没 享年39歳 作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)<投稿>

資料年表:高橋和巳<作業中

年月日 事項 備考
1931
0831 大阪市浪速区で誕生。
1949
07 京都大学文学部(旧制)入学。
1965
1130 『憂鬱なる党派』(河出書房新社)
1967
06 京都大学文学部助教授。
1969
03 大学闘争の最中、学生側を支持して京都大学文学部助教授を辞職
0615 『京大闘争 京大神話の崩壊』(京大新聞社編・京大全共闘協力、三一書房)
「大学問題をめぐって」ティーチイン(大学変革委員会 講師:高橋和巳)
学生H:僕は4回生ですが、今現実的に卒業や大学院入試がせまっていて、どうしようか迷っています。現実の問題として入試中止といった事態も起こりかねない時に、先生や闘争を組んでいる諸君は一体どんな展望を持っているのか。卒業や入試をひかえた者のことも考えてほしい。
1110
1971
0503 死亡。享年39歳。
0705 『文芸臨時増刊 高橋和巳追悼特集号』(河出書房新社)
1130 『高橋和巳作品集3 憂鬱なる党派』(河出書房新社)
1976
 0115  『わが解体』(河出書房選書)
 1978
 1201  笠原伸夫「高橋和巳論 暗鬱志向の原拠」(『現代思想12月号』青土社)

原爆体験記読書会(198604~198703)

原爆体験記読書会
呼び掛け人:田原幻吉・宇吹暁
全11回(198604~198703)

原爆体験記研究会1986a

 

出席者
1 04 08 「絶後の記録」

参加者:大野・中川・豊永・宮道・舟橋・冨沢・春日・羽原・内田・宇吹・田原

2 05 13 参加者:中川・若林・江崎・豊永・宮道・冨沢・羽原・内田・渡辺・宇吹・田原
3 06 10 「原爆の子」。

参加者:大野・若林・江崎・豊永・宮道・舟橋・宇吹・田原

4 07 08 参加者:大野・中川・豊永・羽原・内田・宇吹・田原
5 09 09 「星は見ている」。

参加者:大野・若林・江崎・豊永・舟橋・宇吹

6 10 14 参加者:大野・若林・舟橋・内田・宇吹・田原
7 11 11 「天よりの声」。

参加者:中川・豊永・舟橋・内田・宇吹・田原

8 12 09 「もうひとつのヒロシマ」。

参加者:中川・若林・江崎・豊永・舟橋・羽原・内田・宇吹・田原

9 01 13 参加者:若林・江崎・舟橋・内田・渡辺・宇吹・田原
10 02 10 参加者:江崎・豊永・宮道・内田・宇吹・田原
11 03 10 参加者:大野・若林・豊永・宮道・舟橋・羽原・内田・島津・宇吹・田原

ヒロシマは問う(田原伯197107)

ヒロシマは問う(「ヒロシマは問う③」『朝日新聞』連載)

幻の原爆白書 作製の熱意、国になし 死者数も不明確なのに
40年8月6日、首相官邸で、世界平和アピール七人委員会から原爆被災白書づくりなどの陳情を受けた佐藤首相。
「私のオイも、広島で原爆を受けて死んだ。原爆は大事な問題だと思う。あらゆる手をつくすよう関係の大臣に指示する」
役所やめ資料集め 口先だけの「調査」 苦闘の記録も廃棄
<写真キャプション>
「ひとつでも多くの惨禍の物証を」
――足で集め回った被爆資料を整理する田原さん。が、貴重な文献類が生かされる日はいつくるのか。むなしい気持ちに襲われることもある。
a197107b2
参考資料「広島・長崎は問う<2>幻の白書」(197007**)
a197107a2<写真キャプション追加>「広島平和記念資料館で」

 

原爆資料の収集と保存を考える(今堀・山崎・田原)

原爆資料の収集と保存を考える(今堀・山崎・田原)

中国新聞連載

年月日
19680307(上) 今堀誠二
特質無視のウ報告 資料の不足で迫力欠く  原爆被災資料広島研究会への期待
19680308(中) 山崎与三郎(原爆資料保存会幹事)
原爆資料の重要性 体験と実証で平和を 年とともに困難さ増す
19680308(下) 田原伯(原爆文献研究家)
個人の体験からの発言 分類・整理が急務 独力で一万点を集める
tahara19680309
気違い扱いの十年
 10年余り前、それまでの務めをやめて、ただ原爆資料の収集に全生活を当てたので私は「原キチ」と呼ばれ、変り者扱いにされてきた。
現在約一万点の原爆資料を集めることができた。
資料不備な図書館
全国の古本屋捜し
整理・研究が日課
収集三原則と分類
これは田原氏の談話をまとめたものである。

 

ピカ研の指摘により作成した正誤表

ピカ研の指摘により作成した正誤表(20200704現在)
作成:宇吹 暁

年月日 書名
19710806 広島原爆戦災誌 第1巻
19710906 広島原爆戦災誌 第2巻
19711006 広島原爆戦災誌 第3巻
216 広島中央電話局(1.0km) 広島中央電話局(500m)
19711106 広島原爆戦災誌 第4巻
888上 田原伯 幻吉
19711206 広島原爆戦災誌 第5巻
19720331 広島県史 原爆資料編
19840329 広島県史 年表
19880325 広島県戦災史 116 天主閣 天守閣
19800715 原爆被災学術資料センター蔵 原水爆関係資料目録(Ⅰ)1974年4月~1978年12月
「お国がつくる見本の本 学者用 税立図書館」
19850301 原爆被災学術資料センター 原爆関係蔵書目録(Ⅱ)1979年1月~1983年12月
多数の指摘
19900731 原爆被災学術資料センター 原爆関係蔵書目録(Ⅲ)1984年1月~1988年12月
多数の指摘
1985 IMAGES FOR SURVIVAL <Exhibition of American and Japanese Peace Posters>
19890401 図説広島市史 172 「広島平和記念都市建設法」は、広島市民の平和への決意の結実であるとともに国内外のノーモア・ヒロシマズの声の象徴である。
この法に基づく広島の復興と市民のたゆみない平和への努力を基盤として、今日の広島市は国際平和文化都市を目指して進んでいる。
なぜか
172 ピカドン(昭和25年8月刊) (昭和25年8月6日刊)
172 原爆詩集(昭和26年9月刊) 原爆詩集(昭和26年9月20日刊)
173 『アサヒグラフ』 原爆特集号 『アサヒグラフ』 原爆被害の初公開
174 (写真15)原爆被災全体像調査のための市民集会
(所蔵者・提供者等)中国新聞社
(所蔵者・提供者等)金井・幻吉
174 (写真17)平和公園 (写真17)平和大通り
226 グアム島<「原爆投下機はグアム島発進!? 図説広島市史に誤記」『中国新聞19920331』
255 峠三吉「一九六五年のヒロシマ」(昭和二十一年八月二日) 峠一夫 21.12.1
1992 原爆文献にみる戦後史 平成4年度広島市公文書館常設展示
1992 都築・弓野資料にみる占領下の原爆災害調査 平成4年度広島市公文書館常設展示Ⅱ
多数の指摘
19960331 ヒロシマの被爆建造物は語る
098 『ニューヨーカー』 使用了解を
308 李将軍
365 原爆被災資料総目録1.2.3 原爆被災資料総目録1.2.3.4
383 ピカ研究所提供 ピカ資料研究所
386 年表広島 年表ヒロシマ
19960331 被爆50周年 図説戦後広島市史 街と暮らしの50年<本なし、ピカ研メモのみ>
19990726 原爆手記掲載図書・雑誌総目録 1945-1995
田原伯(ピカ研主宰) 田原幻吉(ピカ研所長)
1収録基準(5)改版? (内容変更)=改訂
2収録期間(1)1945年8月~1995年末
2収録期間(2)確認できる最も古い手記=1946年2月 逆あがり、1945.8.31大田洋子
3記載事項(2)多重者 多重者=記入法
3記載事項(5)所蔵 原医研・国会図 所蔵 原医研・国会図・以外
003 [0011]
013 [0106]<[]内は一連番号>原爆詩集 所蔵:国会図
014 お父さんを生かしたい―平和を叫ぶ子らの訴え 残念もう少し?四集5冊、三集5冊、10冊
031 [0284]<発行年月日日=19580401> <発行年月日日=195606>
201 [2015]原爆を吊ってあった落下傘
289 <19880331上原敏子>

 

 

「ピカより〇〇〇〇〇日」の会

ピカ暦19680706「ピカより〇〇〇〇〇日」の会
設立日:

資料:配布ビラ

年月日 ピカより何日
19680606 8341
 8時15分=8341日=201万1040分=7億2066万2400秒
19680706 8371
19680806 8402
19680906 8433
19681006 8463
19681106 8493
19681206 8524
19690106 8555
19690206 8586
19690306 8614
1240万4160分=7億4424万9600秒
pika2
「読売新聞(広島市内版)」(19740101)掲載広告
 田原幻吉(長崎市万才町3-33)

 

 

菊池武彦

菊池武彦

きくち・たけひこ 生19850504没 享年91歳 京都大学原爆災害調査班の一員として1945年8月に広島を調査。『京都大学原子爆弾災害総合研究調査班の成立と活動』、『大野陸軍病院における京大原爆総合研究調査班の山津波による遭難の状況(私の日記から)』。お宅を訪問。被爆直後の写真について教示をいただく。

ビル・シェリフ

ビル・シェリフ

ビル・シェリフ 1927生200905没 享年82 オーストラリア陸軍入隊(1945年4月)後、1948年2月~1953年3月、英連邦占領軍の一員として日本で勤務。

資料

『広島大学文書館蔵 ビル・シェリフ関係文書目録』(広島大学文書館、2014年2月)

 

森戸辰男

森戸辰男

18881223生19840528没 もりとたつお 享年95
1950年広島大学初代学長。(13年間)。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。[51広島大学平和問題研究会会長]。[52広島平和問題談話会]。1951年に、「広島大学平和問題研究会」を発足させる。
資料
『広島大学所蔵 森戸辰男関係文書目録 (上・下巻)』(森戸文書研究会編、広島大学・松下視聴覚研究財団刊)

献花(5月)

献花(5月)

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しゅろ(棕梠) 撮影日時 2018.5.4 撮影場所:実家
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シラン(紫蘭) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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ツルギキョウ 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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ポピー(芥子 けし) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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アガバンサス 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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いちご(苺) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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キソケイ? 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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?? 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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アジサイ(紫陽花) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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アイリス 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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やぐるまそう(矢車草) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:倉庫
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アイリス 撮影日時 2018.5.9 撮影場所:自宅
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サルビアとガザニア 撮影日時 2018.5.10 撮影場所:実家
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しゅんぎく(春菊) 撮影日時 2018.5.10 撮影場所:実家
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アガバンサス 撮影日時 2018.5.10 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.14 撮影場所:実家と自宅の道路
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撮影日時 2018.5.14 撮影場所:実家と自宅の道路
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撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:倉庫
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:自宅
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:自宅
 DSC08362
  撮影日時 2018.5.16 撮影場所:自宅
 DSC08394DSC08395
 撮影日時 2018.5.19 撮影場所:実家
 DSC08399
松   撮影日時 2018.5.19 撮影場所:実家
 撮影日時 2018.5.19 撮影場所:実家
 DSC08408
ホオヅキ  撮影日時 2018.5.20 撮影場所:倉庫
 撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)

 

 

5月忌(一覧)

5月忌(一覧)

没年 氏名 読み 享年 備考
01 1951 永井隆 ながい・たかし 43 長崎医科大学付属医院内で原爆被爆
01 1981 中村敏 なかむら・さとし 72 共同通信社元編集局総務。広島被爆の第一報を打電した元同盟通信広島支社編集部長。
01 1985 ジェンキンズ、クニコ・ じぇんきんず 59 全米被爆者協会副会長。1973年から副会長を務め、在米被爆者検診の実施などに貢献。
02 2009 忌野清志郎 いまわの・ きよしろう 58 ロック・ミュージシャン。本名:栗原清志(くりはら・きよし)。
02 2016 新屋英子 しんや・えいこ 87 本名:鶉野英子(うずの)。大阪の劇団「関西芸術座」の創立メンバー。一人芝居「チョゴリの被爆者」。『女優新屋英子 私の履歴書』(2005年、解放出版社)
03 1955 千葉亮 ちば 広島で被爆した東京在住の高校生。
原爆症発症以来、全国の高校生らが支援カンパ。9日、成城高校、生徒会葬を執行。約2000名が参列(読売新聞)。
03 1971 高橋和巳 たかはし・かずみ 39 作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)<投稿
03 2017 月丘夢路 つきおか・ゆめじ 95 宝塚歌劇団、女優。本名:井上明子。広島市中区出身。映画「ひろしま」に出演。
04 1985 菊池武彦 きくち・たけひこ 91 京都大学名誉教授。
京都大学原爆災害調査班の一員として1945年8月に広島を調査。『京都大学原子爆弾災害総合研究調査班の成立と活動』、『大野陸軍病院における京大原爆総合研究調査班の山津波による遭難の状況(私の日記から)』。お宅を訪問。被爆直後の写真について教示をいただく。<資料年表:菊池武彦
06 1964 佐藤春夫 さとう・はるお 詩人・小説家。原民喜の葬儀委員長。
1951年11月15日広島城址に建立された原の詩碑に撰文「詩碑の記」を記す。『広島県現代文学事典』竹原陽子・記)
06 1980 渡辺忠雄 わたなべ・ただお 81 元広島市長(1955~59年)。<投稿
08 1972 砂原格 すなはら・かく 『砂原格追想録』(砂原格先生顕彰会・会長森本亨、1978.5.8)〈投稿
08 2008 伏見康治 ふしみ・こうじ 98 物理学者。1953年日本学術会議会長。1958年参議院議員(公明党)。
09 2012 碓井静照 うすい・しずてる 74  8歳の時被爆。<投稿
広島県医師会会長、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)日本支部長などを歴任。第67回(2010年)中国文化賞(中国新聞社主催)。
09 1965 田谷春夫 たたに・はるお 詩人・歌人。
1932年5月赤色救援会広島支部の責任者として検挙・起訴される。広島で被爆。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記)
09 2018 村井志摩子 むらい・しまこ 89 劇作家・演出家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)
09 2024 文沢隆一 ふみさわ・りゅういち 96 作家。資料年表:文沢隆一(本名:増本勲一)
10 1981 今川卓治 いまがわ・たくじ 84 被爆医師 今川卓治』(今川静子、19870510)
10 1991 中川保雄 なかがわ・やすお 神戸大学教養学部教授。科学技術史。
著書に『放射線被曝の歴史』。広島大学原医研資料センター所蔵資料を熱心に調査。直接の面識無し。
10 2017 田原伯 たはら・つかさ 84 原爆文献研究家。<投稿>。
11 1975 梶山季之 かじやま・としゆき 46 1948年広島高等師範学校入学。[広島大学]『広島県現代文学事典』(天瀬裕康・記)編年資料:梶山季之
11 2004 山本達雄 やまもと・たつお 88 「原爆の火」保存者。兵役に就いていた広島で、原爆投下直後に残り火をカイロに採取し、故郷の福岡県星野村で20年以上保存。広島に投下された人類史上初めての原子爆弾の火=世界で唯一の「火」。
12 1979 塩月正雄 しおつき・まさお 58 東北大学医学部を卒業後見習士官として大村病院に所属。
被爆者治療に従事。。「初仕事は安楽殺だった」(光文社 1978.8.15 )の著者。
14 1998 山田典吾 やまだ・てんご 81 映画監督。作品に「はだしのゲン」・「白い町ヒロシマ」。
14 2002 草野信男 くさの・のぶお 92 病理学者。元日本原水協理事長。投稿
15 1973 ラビノビッチ、ユージン・ らびのびっち 71 Eugene Rabinowitch マンハッタン計画の主任研究者。[70ヒロシマ会議]
15 2009 豊田利幸 とよた・としゆき 89 核物理学者。「パグウォッシュ会議」に日本代表としてかかわり、その日本版の「科学者京都会議」でも活躍。
16 1977 島薫 しま・かおる 79 外科島病院長。
原爆は島病院の上空でさく裂。『島薫あれもこれも』(紺野耕一編、島忍発行、1983.5.15)
16 2006 渡辺正治 わたなべ・しょうじ 広島大学原医研時代の先輩。
5月20日葬儀・告別式。<別記予定>
18 1952 中井正一 なかい・まさかず 52 美学者・哲学者。1946年9月、広島県労働文化協会を創設。1948年、国立国会図書館副館長に就任。『広島県大百科事典』(板根俊英・記)。『広島県現代文学事典』(佐々木暁美・記)。
18 2007 前野良 まえの・りょう 94 原水禁国民会議顧問。
広島湾の軍艦上で被ばく。その後の1ヵ月あまりの救護活動。1955年の最初の世界大会から原水禁運動に参加。http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0707_4.htm
21 1991 斗桝良江 とます・よしえ 『私の原爆記』
21 2010 小松茂美 こまつ・しげみ 75 古筆学者、美術史学者。広島で被爆。<投稿
「死の淵にたって」(『平家納経の世界―国宝の謎を推理する』(六興出版、19861226)pp.133-136。
22 1964 下田隆一 しもだ・りゅういち 65 原爆裁判の原告の一人。
22 1988 佐藤月二 さとう・つきに 79 元広島大学教育学部教授。広島県史跡名勝天然記念物調査委員(1947年2月~)。
1949年当時、原爆ド-ムの保存を主張。著書『むさしあぶみ』(溝本積善館、19720215)。
23 1981 吉野源三郎 よしの・げんざぶろう 82 雑誌「世界」初代編集長。
日本ジャーナリスト会議初代議長(1955年2月、)。「被爆30周年国際フォーラム」の代表世話人。1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人。
23 2012 岡本直正 おかもと・なおまさ 91 広島大学原爆放射能医学研究所所長(1970.4.1~1977.3.31)。
24 1956 中林智子 なかばやし・ともこ 原爆乙女の会のメンバー。
アメリカのマウント・サイナイ病院で手術中に死去。日本時間25日。
24 2007 大庭みな子 おおば・みなこ 作家。『広島県現代文学事典』(瀬崎圭二・記)
26 1982 植村環 うえむら・たまき 91 日本YWCA名誉会長。
原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員。日本原水協代表委員。世界平和アピール七人委員会のメンバー。1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人。
26 1999 辛泳洙 しん・よんす 80 元韓国原爆被害者協会会長。
国外に住む外国人としては始めて原爆被爆者手帳を取得。http://www.asahi-net.or.jp/~hn3t-oikw/kaihou/No_25/9907_1shin.html
26 2000 阿左美信義 あさみ・のぶよし 65 広島弁護士会長・日本弁護士連合会副会長などを歴任。
「石田原爆訴訟」の弁護団に加わる。「悼記 衰えなかった弱者救済への情熱」(『中国新聞』2000.7.4)
28 1984 森戸辰男 もりと・たつお 95 広島大学初代学長(13年間)。
[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。[51広島大学平和問題研究会会長]。[52広島平和問題談話会]。1951年に、「広島大学平和問題研究会」を発足させる。
29 1986 松崎寿和 まつざき・ひさかず 72 日本史研究者。広島大学教授。中国文化賞(1974年)
30 1978 片山哲 かたやま・てつ 90 元総理大臣。
憲法擁護国民連合議長、衆議院議員、[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。
30 1983 山本康夫 やまもと・やすお 105 歌人。
短歌誌「真樹」主宰者(被爆者)。『広島県現代文学事典』(山本光珠・記)。
30 2006 今村昌平 いまむら・しょうへい  79 映画監督、脚本家、映画プロデューサー.
『広島県現代文学事典』(佐藤武・記)

 

田原伯

田原 伯 たはら

つかさ

原爆文献研究家。終戦時に朝鮮半島から引き揚げる際、傷ついた被爆者や広島の廃虚を目撃したのが活動の原点に。1968年、今堀誠二広島大教授(当時)らと原爆被災資料広島研究会を結成し、原爆文学や被爆体験記、占領期文献などを網羅した「原爆被災資料総目録」第1~4集を発行。(『中国新聞』)
  生

 

20170510没

84歳

資料

1985 04  01 宇吹暁「蔵書あれこれ」『河図洛書―渓水社10周年記念』(渓水社、1985年4月1日)pp.140-143
原爆問題についての私の師の一人であるT(田原)氏との出会いは、広島市内のあるガレージであった。そこには、T氏の管理する原爆関係の本が持ち込まれていた。私は学生時代から平和、原爆問題に関心を持っていた。広島県の歴史の中でも重要なテーマと思い、その関連の本について、卒業後も気をつけていた。しかし、T氏の本の大半は、初めて目にするものであった。その後、T氏は、しばしば「蔵書を前の議論」の機会をつくってくれた。それは、私が、学生時代以来、久しく忘れていたものであった。私の原爆文献漁りが、T氏との出会いを契機に始まった。
2017 05 12 「田原伯氏死去 原爆文献を調査」『中国新聞』2017.5.12
2017 05 18 「悼記 綿密調査 非条理を告発 原爆文献研究家 田原伯さん 10日、84歳で死去」

「9年前に脳出血で倒れ、リハビリを続けたが、第5集の発行という執念は果たせなかった。「お疲れさま」と声を掛けたくなる。ただ、あの圧倒的な仕事ぶりに一度でも触れると、「後は任せて」とたやすく口にできない自分がもどかしい。原爆犠牲者の無念をしっかり継承できているのかどうか。核兵器が廃絶できない人類全体に対し、幻さんが残した宿題は重い。」(編集局長・江種則貴)『中国新聞』2017.5.18