「05月忌」カテゴリーアーカイブ

高橋和巳

高橋和巳

たかはし・かずみ 19310831生19710503没 享年39歳 作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)<投稿>

資料年表:高橋和巳<作業中

年月日 事項 備考
1931
0831 大阪市浪速区で誕生。
1949
07 京都大学文学部(旧制)入学。
1965
1130 『憂鬱なる党派』(河出書房新社)
1967
06 京都大学文学部助教授。
1969
03 大学闘争の最中、学生側を支持して京都大学文学部助教授を辞職
0615 『京大闘争 京大神話の崩壊』(京大新聞社編・京大全共闘協力、三一書房)
「大学問題をめぐって」ティーチイン(大学変革委員会 講師:高橋和巳)
学生H:僕は4回生ですが、今現実的に卒業や大学院入試がせまっていて、どうしようか迷っています。現実の問題として入試中止といった事態も起こりかねない時に、先生や闘争を組んでいる諸君は一体どんな展望を持っているのか。卒業や入試をひかえた者のことも考えてほしい。
1110
1971
0503 死亡。享年39歳。
0705 『文芸臨時増刊 高橋和巳追悼特集号』(河出書房新社)
1130 『高橋和巳作品集3 憂鬱なる党派』(河出書房新社)
1976
 0115  『わが解体』(河出書房選書)
 1978
 1201  笠原伸夫「高橋和巳論 暗鬱志向の原拠」(『現代思想12月号』青土社)

原爆体験記読書会(198604~198703)

原爆体験記読書会
呼び掛け人:田原幻吉・宇吹暁
全11回(198604~198703)

原爆体験記研究会1986a

 

出席者
1 04 08 「絶後の記録」

参加者:大野・中川・豊永・宮道・舟橋・冨沢・春日・羽原・内田・宇吹・田原

2 05 13 参加者:中川・若林・江崎・豊永・宮道・冨沢・羽原・内田・渡辺・宇吹・田原
3 06 10 「原爆の子」。

参加者:大野・若林・江崎・豊永・宮道・舟橋・宇吹・田原

4 07 08 参加者:大野・中川・豊永・羽原・内田・宇吹・田原
5 09 09 「星は見ている」。

参加者:大野・若林・江崎・豊永・舟橋・宇吹

6 10 14 参加者:大野・若林・舟橋・内田・宇吹・田原
7 11 11 「天よりの声」。

参加者:中川・豊永・舟橋・内田・宇吹・田原

8 12 09 「もうひとつのヒロシマ」。

参加者:中川・若林・江崎・豊永・舟橋・羽原・内田・宇吹・田原

9 01 13 参加者:若林・江崎・舟橋・内田・渡辺・宇吹・田原
10 02 10 参加者:江崎・豊永・宮道・内田・宇吹・田原
11 03 10 参加者:大野・若林・豊永・宮道・舟橋・羽原・内田・島津・宇吹・田原

ヒロシマは問う(田原伯197107)

ヒロシマは問う(「ヒロシマは問う③」『朝日新聞』連載)

幻の原爆白書 作製の熱意、国になし 死者数も不明確なのに
40年8月6日、首相官邸で、世界平和アピール七人委員会から原爆被災白書づくりなどの陳情を受けた佐藤首相。
「私のオイも、広島で原爆を受けて死んだ。原爆は大事な問題だと思う。あらゆる手をつくすよう関係の大臣に指示する」
役所やめ資料集め 口先だけの「調査」 苦闘の記録も廃棄
<写真キャプション>
「ひとつでも多くの惨禍の物証を」
――足で集め回った被爆資料を整理する田原さん。が、貴重な文献類が生かされる日はいつくるのか。むなしい気持ちに襲われることもある。
a197107b2
参考資料「広島・長崎は問う<2>幻の白書」(197007**)
a197107a2<写真キャプション追加>「広島平和記念資料館で」

 

原爆資料の収集と保存を考える(今堀・山崎・田原)

原爆資料の収集と保存を考える(今堀・山崎・田原)

中国新聞連載

年月日
19680307(上) 今堀誠二
特質無視のウ報告 資料の不足で迫力欠く  原爆被災資料広島研究会への期待
19680308(中) 山崎与三郎(原爆資料保存会幹事)
原爆資料の重要性 体験と実証で平和を 年とともに困難さ増す
19680308(下) 田原伯(原爆文献研究家)
個人の体験からの発言 分類・整理が急務 独力で一万点を集める
tahara19680309
気違い扱いの十年
 10年余り前、それまでの務めをやめて、ただ原爆資料の収集に全生活を当てたので私は「原キチ」と呼ばれ、変り者扱いにされてきた。
現在約一万点の原爆資料を集めることができた。
資料不備な図書館
全国の古本屋捜し
整理・研究が日課
収集三原則と分類
これは田原氏の談話をまとめたものである。

 

ピカ研の指摘により作成した正誤表

ピカ研の指摘により作成した正誤表(20200704現在)
作成:宇吹 暁

年月日 書名
19710806 広島原爆戦災誌 第1巻
19710906 広島原爆戦災誌 第2巻
19711006 広島原爆戦災誌 第3巻
216 広島中央電話局(1.0km) 広島中央電話局(500m)
19711106 広島原爆戦災誌 第4巻
888上 田原伯 幻吉
19711206 広島原爆戦災誌 第5巻
19720331 広島県史 原爆資料編
19840329 広島県史 年表
19880325 広島県戦災史 116 天主閣 天守閣
19800715 原爆被災学術資料センター蔵 原水爆関係資料目録(Ⅰ)1974年4月~1978年12月
「お国がつくる見本の本 学者用 税立図書館」
19850301 原爆被災学術資料センター 原爆関係蔵書目録(Ⅱ)1979年1月~1983年12月
多数の指摘
19900731 原爆被災学術資料センター 原爆関係蔵書目録(Ⅲ)1984年1月~1988年12月
多数の指摘
1985 IMAGES FOR SURVIVAL <Exhibition of American and Japanese Peace Posters>
19890401 図説広島市史 172 「広島平和記念都市建設法」は、広島市民の平和への決意の結実であるとともに国内外のノーモア・ヒロシマズの声の象徴である。
この法に基づく広島の復興と市民のたゆみない平和への努力を基盤として、今日の広島市は国際平和文化都市を目指して進んでいる。
なぜか
172 ピカドン(昭和25年8月刊) (昭和25年8月6日刊)
172 原爆詩集(昭和26年9月刊) 原爆詩集(昭和26年9月20日刊)
173 『アサヒグラフ』 原爆特集号 『アサヒグラフ』 原爆被害の初公開
174 (写真15)原爆被災全体像調査のための市民集会
(所蔵者・提供者等)中国新聞社
(所蔵者・提供者等)金井・幻吉
174 (写真17)平和公園 (写真17)平和大通り
226 グアム島<「原爆投下機はグアム島発進!? 図説広島市史に誤記」『中国新聞19920331』
255 峠三吉「一九六五年のヒロシマ」(昭和二十一年八月二日) 峠一夫 21.12.1
1992 原爆文献にみる戦後史 平成4年度広島市公文書館常設展示
1992 都築・弓野資料にみる占領下の原爆災害調査 平成4年度広島市公文書館常設展示Ⅱ
多数の指摘
19960331 ヒロシマの被爆建造物は語る
098 『ニューヨーカー』 使用了解を
308 李将軍
365 原爆被災資料総目録1.2.3 原爆被災資料総目録1.2.3.4
383 ピカ研究所提供 ピカ資料研究所
386 年表広島 年表ヒロシマ
19960331 被爆50周年 図説戦後広島市史 街と暮らしの50年<本なし、ピカ研メモのみ>
19990726 原爆手記掲載図書・雑誌総目録 1945-1995
田原伯(ピカ研主宰) 田原幻吉(ピカ研所長)
1収録基準(5)改版? (内容変更)=改訂
2収録期間(1)1945年8月~1995年末
2収録期間(2)確認できる最も古い手記=1946年2月 逆あがり、1945.8.31大田洋子
3記載事項(2)多重者 多重者=記入法
3記載事項(5)所蔵 原医研・国会図 所蔵 原医研・国会図・以外
003 [0011]
013 [0106]<[]内は一連番号>原爆詩集 所蔵:国会図
014 お父さんを生かしたい―平和を叫ぶ子らの訴え 残念もう少し?四集5冊、三集5冊、10冊
031 [0284]<発行年月日日=19580401> <発行年月日日=195606>
201 [2015]原爆を吊ってあった落下傘
289 <19880331上原敏子>

 

 

「ピカより〇〇〇〇〇日」の会

ピカ暦19680706「ピカより〇〇〇〇〇日」の会
設立日:

資料:配布ビラ

年月日 ピカより何日
19680606 8341
 8時15分=8341日=201万1040分=7億2066万2400秒
19680706 8371
19680806 8402
19680906 8433
19681006 8463
19681106 8493
19681206 8524
19690106 8555
19690206 8586
19690306 8614
1240万4160分=7億4424万9600秒
pika2
「読売新聞(広島市内版)」(19740101)掲載広告
 田原幻吉(長崎市万才町3-33)

 

 

菊池武彦

菊池武彦

きくち・たけひこ 生19850504没 享年91歳 京都大学原爆災害調査班の一員として1945年8月に広島を調査。『京都大学原子爆弾災害総合研究調査班の成立と活動』、『大野陸軍病院における京大原爆総合研究調査班の山津波による遭難の状況(私の日記から)』。お宅を訪問。被爆直後の写真について教示をいただく。

ビル・シェリフ

ビル・シェリフ

ビル・シェリフ 1927生200905没 享年82 オーストラリア陸軍入隊(1945年4月)後、1948年2月~1953年3月、英連邦占領軍の一員として日本で勤務。

資料

『広島大学文書館蔵 ビル・シェリフ関係文書目録』(広島大学文書館、2014年2月)