大田洋子
おおた・ようこ 19031120生 19631210没 享年60
[原爆被害者の会東京協力会世話人]。第4回女流文学賞(1952年)、文化人会議昭和29年度平和文化賞。『広島県現代文学事典』(岩崎文人執筆。Pp233-234)
資料
| 大田洋子文学碑 | ||
| 大田洋子文学碑建立記念誌 | ||
| 作品 | ||
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。
大田洋子
おおた・ようこ 19031120生 19631210没 享年60
[原爆被害者の会東京協力会世話人]。第4回女流文学賞(1952年)、文化人会議昭和29年度平和文化賞。『広島県現代文学事典』(岩崎文人執筆。Pp233-234)
資料
| 大田洋子文学碑 | ||
| 大田洋子文学碑建立記念誌 | ||
| 作品 | ||
関千枝子
| せき・ちえこ | 19320328生20210221没 | 享年88 | フリージャーナリスト。著書に「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」。姉=黒川万千代。級友・亀沢恵尼の姉=亀沢深雪。 |
書誌
| 書名 | 著者(無い場合は著者=関千枝子)・発行所など | 出版年月日 |
| 広島第二県女二年西組-原爆で死んだ級友たち | 筑摩書房 | 1985/2/28 |
| ヒロシマ花物語 | 汐文社 | 1990/7/15 |
| しらうめ 広島第二県女創立50周年記念誌 | 広島県立広島第二高等女学校同窓会(編・刊) | 1995/9/3 |
| 女がヒロシマを語る | 江刺昭子、加納実紀代、関千枝子、堀場清子編、 インパクト出版会 | 1996/8/6 |
| 証言-ヒロシマ・ナガサキの声1996 | 長崎の証言の会 | 1996/9/10 |
| ヒロシマから吹く風 | 横浜市立浦島丘中学校 | 1997/3/10 |
| ヒロシマの女たち 続 | 広島女性史研究会編著、ドメス出版 | 1998/4/11 |
| 広島第二県女二年西組 〔上〕 | 埼玉福祉会 | 1999/5/20 |
| 広島第二県女二年西組 〔下〕 | 埼玉福祉会 | 1999/5/20 |
| 日本原爆論大系 第7巻 歴史認識としての原爆 | 岩垂弘ほか、日本図書センター | 1999/6/25 |
| 若葉出づる頃 新制高校の誕生 | 西田書店 | 2000/6/10 |
| 8月の晴れた日に 7 | 埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)、さいたまコープ労働組合平和部 | 2002/4/13 |
| ゲンバクの日ぼくたちは10代だった | 桂寿美江、神南明子、野村恵利子取材・執筆 松本あゆみ英語翻訳 創文刊 | 2003/7/30 |
| 原爆被災証言記 忘れられた学徒たち | 県立広島女子大学同窓有志、広島県立広島第二高等女学校同窓有志 | 2007/8/6 |
| 修学旅行記録集[2006/10/25(水)~28(土)] | 埼玉県立飯能高等学校 | 2008/3/8 |
| 戦争と性 第27号 | 「戦争と性」編集室 | 2008/4/25 |
| ヒロシマ・ナガサキを考える 復刻版Ⅱ | ヒロシマ・ナガサキを考える会 | 2008/8/6 |
| 広島第二県女二年西組 構成台本 | 関千枝子著 岩田直二構成演出らくらく演劇塾 | 2010/3/1 |
| 広島第二県女二年西組-原爆で死んだ級友たち | 筑摩書房 | 2010/5/25 |
| ヒロシマ原爆地獄 ヒロシマの生き証人は語り描く | 河勝重美著、ヒロシマ「原爆地獄」を世界に弘める会(河勝重美) | 2011/1/1 |
| ヒロシマ原爆地獄 生き証人の描く被爆者一人ひとりの生と死 日英二カ国語版 | ヒロシマ「原爆地獄」を世界に弘める会(河勝重美) | 2011/1/1 |
| ヒロシマ・ナガサキを考える 復刻版Ⅲ-① | ヒロシマ・ナガサキを考える会 | 2011/8/6 |
| ヒロシマ・ナガサキを考える 復刻版Ⅲ-② | ヒロシマ・ナガサキを考える会 | 2011/8/6 |
| フィールドワークまっぷ 広島の少年少女たちの死をめぐって 2012年版 | 竹内良男 | 2012/8/1 |
| 広島・長崎から 戦後民主主義を生きる 往復書簡 | 関千枝子、狩野美智子著 彩流社 | 2012/10/31 |
| ヒバクシャからの手紙 被爆体験記集 第3巻 | 広島平和文化センター 編集 厚生労働省、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 | 2013/3/31 |
| 慟哭の廣島 | 今田耕二、木下印刷所(印刷) | 2014/7/22 |
| 金輪島と原爆 原爆死没者慰霊碑参拝 | 竹内良男 | 2014/10/26 |
| 原爆地獄 The Atomic Bomb Inferno ヒロシマ生き証人の語り描く一人ひとりの生と死 日英版 | 河勝重美編、コールサック社 | 2015/4/16 |
| ヒロシマの少年少女たち 原爆、靖国、朝鮮半島出身者 | 彩流社 | 2015/8/26 |
| 関千枝子 中山士朗 ヒロシマ往復書簡 第1集(2012-2013) | 関千枝子、中山士朗著 西田書店 | 2015/11/20 |
| ヒロシマを若い世代に 原爆で未来を絶たれた若い命は訴える 被爆者の語り描く失われた若い命の生と死のドラマ 日本語英語二カ国語版 = Hiroshima never again : an appeal to today’s young people from the young who lost their future : survivers witnessed the life and death of young people in Hiroshima : English-Japanese edition 河勝重美 | 2016/5/24 | |
| 関千枝子 中山士朗 ヒロシマ往復書簡 第2集(2013-2014) | 西田書店 | 2016/6/1 |
| 関千枝子 中山士朗 ヒロシマ往復書簡 第3集(2014-2016) | 西田書店 | 2017/6/1 |
| 証言 町と暮らしの記憶 中島本町・材木町・水主町 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2017/8/5 |
| ヒロシマ対話随想 | 関千枝子、中山士朗著、西田書店 | 2019/5/10 |
チェ・ゲバラ(本名:エルネスト・ゲバラ) 19280 614生、19671009没
資料
| 本 | ||
| 書名 | 著者、発行所、出版年など | 備考 |
| ゲバラのHiroshima | 佐藤美由紀、 双葉社、20170806 | |
| 目次 | ||
| プロローグ | ||
| 第1章 | ||
| キューバ親善使節団 カバーニャ要塞のコマンダンテ 外交模索が目的の長期外遊 経済成長を支える日本の工業力を注視 ゲバラ一行の金銭事情 通商第一主義を通した日々 大使の息子とチェの出会い 冷淡な対応の中での学びと思索 |
||
| 第2章 | ゲバラとヒロシマ | |
| 千鳥ヶ淵と広島と 強行突破 原爆慰霊碑の前に立って 翳りある顔に見える心の葛藤 原爆資料館で吐き出した感情 被爆者を抱きしめて ヒロシマからの言葉 カメラで切り取ったヒロシマ 持ち帰った強い思い |
||
| 第3章 | アメリカ嫌い | |
| 政治的な目覚め 運命の出会い キューバ上陸、革命成就 最大の反革命勢力・アメリカ 要注意人物 反帝国主義への新たな誓い 米支配に従属したニッポンを憂う |
||
| 第4章 | ミサイル危機と反核 | |
| 北の巨人の”いやがらせ” 要職歴任、昼夜の学び アメリカの侵攻計画とソ連への接近 国交断絶と社会主義革命 ケネディ大統領の陰謀 ミサイル配備の思惑 米ソ二大国の応酬 当事国を無視した危機の収束 ゲバラの本音 反核の思いを込めた国連演説 |
||
| 第5章 | それぞれのヒロシマ | |
| 四四年後に果たされた約束 フィデル・カストロのヒロシマ 絶対平和思想 娘アレイダのヒロシマ 一般市民たちの被爆地への認識 キューバに息づくゲバラの思い |
||
| エピローグ | ||
| 広島・キューバ展 | 2017年9月16日 会場:旧日本銀行広島支店 | |
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備考
児玉健次(こだま・けんじ) 1933年生 20210224没 享年87歳
日本の政治家。衆議院議員(通算4期)、日本共産党中央委員。
広島県生まれ。1956年広島大学学生細胞で入党。文学部卒業。同大学院中退。高校に奉職後、教諭として勤務する一方、北海道高教組副委員長等を歴任。
1986年第38回衆議院議員総選挙で北海道1区から立候補し初当選。4期当選(中選挙区北海道1区2期、比例北海道ブロック2期)議員在任中、社会労働委員、国会対策委員代理、文部科学委員などを歴任。
死亡欄掲載紙20210227=朝日新聞、赤旗。
参考資料<リンク>=8・6学生平和会議(主催:広島大学学生自治会、会場:広島児童文化会館 1956年8月5~7日)実行委員長=児玉健次(広島大学文学部)
宇吹メモ=1990年5月15日午後2時、 共産党国会調査団来所(=広島大学原爆放射能医学研究所)。林紀子、児玉健次など12人。宇吹助手が応対。
原爆補償法の思想(今堀誠二)
『つぐない 原爆補償』(創刊号、19731206)所収
昭和十二年に日中戦争がはじまると、日本の海軍航空隊は中国の主な都市に渡洋爆撃を加えた。それは文字通り、中国のほとんどの都市を、片端から攻撃目標を軍事施設においていたとは言え、一般市民の中からも、少なからぬ犠牲者を出した。世界の世論は、その点て激しく日本を非難し、日本は市民の被害者に対して賠償すべきだという主張が半ば常識として言われていた。とくにアメリカは、ほとんど毎日、日本の外務省に抗議を行った。例えば十一月十日に、日本の爆撃機が南京の軍官学校に攻撃を加えたとき、正門付近で、市民が負傷した。これは無差別爆撃であり、国際法違反だからこのような爆撃を直ちに中止せよ、といったような抗議であった。アメリカ国務省は、ねばり強くあくまで、日本の非を鳴らしてやまなかった。日本は馬耳東風ときめ込んでいたが、世界の良心はいつも中国を是とし、日本を非とする立場をとり続けていた。
私たちが、原爆被災者の国家補償を要求するのは、原爆投下
が無差別爆撃であり、違法な戦争手段だから、これに対する補
償を求めるわけである。そのことは同時に、日本軍が行った違
法な攻撃を反省して、これに対する中国人民の補償要求を支持
するのはもとより、ひいてはすべての戦争において、附随的に
起きざるを得ない。この種の犠牲者の発生を、未然に防ぐこと
を主張するわけで、戦争そのものを、根絶するための具体的な
運動に、ほかならないのである。
日本人は原爆に対して、被害者意識をもつことはあっても、加害者としての反省は皆無に近い。広島・長崎における外国人被爆者は朝鮮人・中国人をはじめとし、世界の各国人を含んでいるが、そうした外国人被爆者の大半は、日本の国策によって日本に連れて来られた人たちである。国家補償をうけるとすれば、アメリカと並んで、日本の責任に帰せられるべきケースが多い。その点でも日本は加害者なのだが、問題はもっと深刻である。
日本は日中戦争以来、到る所で非戦闘員に対し、あらゆる残
虐行為を加えてきた。南京大虐殺は戦時下の「軍事美談」であ
って、「事実」ではないという主張を展開している大もいるが、そうした「軍事美談」が作られたこと自体が、時代の風潮を示す「事実」である。むろん、日本軍だけが、こうした残虐行為
を行なったわけではない。昭和十二年の通州事件では、約三百
人の日本人が強姦され、虐殺されているし、昭和二十年には北
満の開拓地にいた日本の農婦たちが、夫の出征後に、ソ連軍に
よって蹂躙しつくされている。ただこうした事件は、日本軍が
やって来た行為の裏返しであって、当時、兵隊であった私たち
は、アメリカに上陸して女と言わず子供と言わず、皆殺しにせ
よというような教育を、うけていたわけである。われわれはす
べての非戦闘員に対して加えた不法な行為に対し、心から反省
するとともにその被害者に対する補償を行なう決意なしには、
原爆補償を求めることはできないのである。
昭和二十年、日本の都市はつぎつぎに焼き払われた。何十万
という市民が絨毯爆撃のために殺され、数百万人が貴重な富を失なった。こうした一般戦災の被害は、原爆被災と同一視すべ
きではないが、原爆被災のみに補償を要求し、一般戦災への補
償を拒否することは許されない。両者の間にはっきりした相違
かおることは事実だが、原爆補償は戦災補償のうちでもっとも
重要な補償であり、これを突破口にして、戦災補償全体に、運
動の輪をひろげていくことが、将来のねらいとなってしかるべ
きであろう。
広島は軍都を誇り、事実、ハンブルグ以上の防備都市でもあ
った。そこには徹底抗戦の熱意に燃えた四十万の市民が住んで
いた。
アメリカの戦略爆撃はすでに日本の大部分の都市を灰にして
いたから、広島が攻撃を受けるのは時間の問題だったし、全市
民もそれを覚悟していた。そこに普通の爆弾が落されたのだっ
たら、広島は何も言えなかったし、ノー・モア・ヒロシマ運動
もまた起らなかった。原爆という、完全な無差別大量虐殺攻撃
をしかけられたことで、歴史は変わったのである。
原水爆時代は一日も早く終らせればならない。原爆補償法制
定の意義は、その点にかかっているが、同時に、その運動の拡
がりの中から、すべての戦災者の補償が実現されることで、福
祉国家が実現することにも、意味があると言わねばならない。
昭和二十年までの日本は、軍事国家であり、軍閥国家であった。
そのことへの根本的な反省が、補償法の制定となり、補償法に
よって国家が国民生活を保証するようになれば、福祉国家への
脱皮となるわけである。
運動の前途は、きわめて困難であり、成功の可能性は少ない
が、われわれはそれだからこそ、勇往邁進したいと思っている。
歴史を作るというのは、そういうことなのである。(東洋史)
明田弘司 あけだ・こうし 192212 生 20150812没 享年92
| 『没後5年 明田弘司写真展』(10月23日~12月23日 会場:泉美術館) | |
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| 2020年12月3日撮影。 |
平山郁夫美術館 2003年9月15日
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今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)
内容
| 章 | キーワード(人物・著書・団体など) | 備考 |
| 3 | ||
| バーバラ・レイノルズ | 広島・長崎世界平和巡礼団 | |
| アメリカのピッツバーグを訪れたとき、市民の中から原爆被災資料がアメリカに持ち帰られていることが話題にされ、二ユーヨークタイムスがこれをスクープとしてとりあげようとした。事実関係がもう一つはっきりしなかった為に不発に終ったが、アメリカにある資料の返還は、在米の被爆者調査とともに、将来の宿題だと言える。 | ||
| ウ・タント | ||
| 巡礼団はニューヨークの国連本部でウ・タント事務総長に会い、 国連が被災白書を作るように要請。 1966年12月、国連総会はウ総長が「核兵器影響に関する 国連事務総長報告」をまとめるよう、満場一致で決議し、 翌年10月ウ報告は提出。 |
||
| この基礎データとなる広島・長崎の被災事実が明らかでなく、例えば死亡者の数なども終戦直後の県警報告78000が採用され、それが今後の災害を推定する基礎数字になっているという有様であるから、全体としてウ・タント報告の信頼度を弱める結果となったことは、まことに残念である。猶、広島・長崎の被爆者には、相当数の中国・朝鮮・東南アジア・ロシア・アメリカ人がいることを付言しておく。 | ||
| 金井利博 | 中国新聞社論説委員。 | |
| 1940年代から原爆関係文献の収集を行ない、その方面の開拓者の一人。 早い時期から被災白書の作成を中国新聞の紙上で提唱。 1964年8月、総評社会党系原水禁世界大会に出席、提案。 |
||
| 談和会 | 広島・山口の大学人で組織する平和のための研究団体 | |
| 被災白書を具体的なプランにまとめて発表、とくに国勢調査で被災者総数を明らかにして研究上の「分母」となる数字をつかむべきことを、政府に要求するとともに、広く全国民の協力をよびかけた。 | ||
| <以下未入力、要作業> | ||
| 世界平和アピール七人委員会 | ||
| 愛知揆一 | 文部大臣 | |
| 佐藤栄作 | 首相 | |
| 中山 | 文部大臣 | |
| 原爆被災学術資料標本センター | ||
| 予算も計上されたが、一部の保守系市議の積極的な妨害工作があって、結局、この予算案は、大蔵省査定を通ったあとで政治的につぶされ、資料館は実らなかった。 | ||
| 原爆被災資料収集協力委員会 | 日本被団協。日高六郎・大江健三郎氏らの協力 | |
| 近藤泰夫 | ||
| 原爆ドーム保存 | ||
| 広島折鶴の会 | ||
| 浜井広島市長 | ||
| 市会内部の保守系議員の妨害にも拘らず、42年8月までに、200万人の寄付者が、計画予算を5割も上廻る6500万円の浄財が寄せ、工事も美事に完成した。 | ||
| 原爆被災白書推進委員会 | ||
| 原爆被災白書 をすすめる市民の会 |
||
| 日本政府による原爆被災白書の作製に関する要望書 | ||
| 茅誠司 | 原爆被災白書推進委員会委員長 | |
| 今堀が、文部省在外研究員となって訪米した機会にアメリカ国務省に働きかけたことも契機となって、67年5月、アメリカは返還をほのめかすに到った。 | ||
| 原爆被災映画返還運動 | ||
| 談和会 | ||
| 学術会議 | ||
| 中国新聞 | 新聞協会賞 | |
| 朝日新聞 | 「原爆500人の証言-被爆者追跡調査レポート」 | |
| NHK広島 | ||
| 原爆地図の復元運動 | ||
| 平和文化センター | ||
| 山崎輿三郎 | ||
| 原爆被災資料広島研究会 | ||
| 田原伯 | ||
| 佐々木雄一郎 | ||
| 1968年の夏は、原爆被災資料ブームとよばれる程、多くの新資料が再発見された。広島東署がもっていた約二万人分の検視調書をはじめ、被災直後に臨時病院となっていた近郊の学校・公民館・役場などから、当時の日誌などが続々出て来た。広島県動員学徒犠牲者の会は各学校に紹介して、8月6日に各作業場で倒れた学生・生徒の記録をあつめ、「動員学徒誌」(68年5月刊)を出版したが、原爆資料館が小堺吉光氏を中心に、数年の歳月を費してまとめた「広島原爆戦災誌」も、完成を間近にひかえて最後のミガキをかけている。 | ||
今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)
内容
| 章 | キーワード(人物・著書・団体など) | 備考 |
| 1 | 別記 | |
| 2 | ||
| 仁科芳雄 | ||
| 都築正男 | ||
| 学術研究会議 | 日本学術会議の前身 | |
| 原子爆弾災害調査研究特別委員会 | ||
| 日映ニュース映画班 | 特別委員会の映画部を担当 | |
| 原爆記録映画 | ||
| GHQ命令 | ||
| 原子爆弾災害調査報告集 | ||
| アメリカは原爆の秘密がソ連にもれることを恐れて、原爆被災資料 の独占に全力をあげた。 |
||
| 大橋成一 | 臨時野戦病院(宇品の大和紡績)院長 | |
| 天野重安 | ||
| 玉川忠太 | ||
| アメリカ原子力委員会 | ||
| ABCC | Atomic Bomb Casualty Comission(1948) | |
| 国勢調査(1950年) | 母集団=10万人 | |
| レイノルズ | ||
| ABCCの調査は、科学的であり、系統的であって、すぐれた成果をあげたが、被災の実態そのものを明らかにして、被爆者の救援に役立てようとする姿勢をもたなかったので、被爆者からはモルモット扱いにするという悲難が絶えなかった。戦争準備のための研究ということもあって、原爆の残虐性をアメリカ市民の目からかくそうという気持が強く、レイノルズ博士の行なった小児への影響がいつまでもオクラになっていたり、胎内被爆による小頭症の調査を発表 しなかったり、その他原爆が恐ろしいものだという印象を与える調査結果は公表をさける傾向があったことは否定できない。 |
||
| 発表の上ではともかく、ABCCの蓄積した資料はまことにすばらしいもので、これを正しく活用することが、被災の研究にとって大切な条件である。ABCCの年間の研究費は10億円で、広島大学全体の研究費をはるかに上廻っている。 | ||
| 原爆乙女 | 独立の回復 | |
| 広島市原爆障害者治療対策協議会 | 1956年4月改組、財団法人広島原爆対策協議会(原対協) | |
| 原子爆弾後障害研究会 | ||
| 福祉センター | 「所感文集」 | |
| 長岡省吾 | ||
| 原爆資料保存会 | ||
| 原爆参考資料陳列館 | 1949年9月、市公民館の一室に原爆参考資料陳列館が開設。 | |
| 平和記念資料館 | 1955年にはと改称、現在の場所に。 | |
| 専門調査員も居らず、予算は人件費まで、入場料で賄われる等、不備な点が多かった。原爆資料館というのは市民の愛称。 | ||
| 原子力平和利用展示館 | ||
| 1958年、原爆資料を迫放して、平和記念資料館を原子力平和利用展示館に変更させようという動きがおこり、マジックハンドが中心にすえられて、遺物や写真は片すみに追いやられたりした。陳列遺物の一半は原爆資料保存会の所有であったから、保存会が強く抵抗して、10年がかりで、旧に帰していった。 | ||
| 巡回展覧会計画 | 1950年に立てられているが、朝鮮戦争のため、神戸の貿易博に出陳しただけで中止。 | |
| 要調査(宇吹)『日本貿易産業博覧会”神戸博”会誌』(日本貿易産業博覧会事務局、1950) | ||
| 広島長崎原爆資料公開展 | 1954年 東京・日赤本社 | |
| 全国巡回展 | 1967年 朝日新聞社 | |
| 沖縄 展覧会 | 1967年 | |
| 大阪 万国博出品 | 失敗 | |
| 国連本部(ニューヨーク)に展示室を設ける計画 | 失敗 | |
| (失敗の)一つの原因は、広島市当局の消極的態度にあるが、資料内容が貧弱なことも原因の一つである。原爆資料館に専門委員会を置き、遺物の科学的・体系的な蒐集に着手することが必要であって、世界の博物館の水準に比較した場合、原爆資料館の内容の貧弱 さは、目を覆うばかりである。 |
||
| 中野清一・久保良敏・山手茂 | 被爆者の社会科学的調査 | |
| 日本原水協専門委員会 | 「原水爆被害白書」(1961年) | |
| リフトン | R.J.Lifton ”Death in Life”(1967年) | |
| 渡辺正治・湯崎稔 | 中山村調査 | |
| 今堀誠二 | 「原水爆時代」(上・下) | |
| 中国新聞社 | 「広島の記録」(全三冊) | |
| 広島市 | 新修広島市史」 | |
| 長岡弘芳 | 「原爆文学史略説」(りいぶる13~15号) | |
| 広島平和文化センター | 「平和の歩み」 | |
| 3 | 別記 | |
| 4 | 別記 | |
今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)
内容
| 章 | キーワード(人物・著書・団体など) | 備考 |
| 1 | ||
| ロベルト・ユンク | ベルリン大学歴史学科出身、 | |
| 千の太陽よりも明るく | ||
| Robert Jungkには広島の災害と、戦後の被爆者の生活史をえがいた「灰墟の光- 甦えるヒロシマ」があるが、その作製のため来広した時、直接会って見聞したときの聴取による。 | ||
| 遠山茂樹 | 昭和史 | |
| 西島有厚 | 原爆はなぜ投下されたか | |
| 広島の災害については、歴史学から見た場合、ほとんど何も解明さ れていないと言っても過言ではない。被災者の数、死亡者の数、原爆孤児の数、原爆乙女や原爆孤老の数、どれ一つとして、概数さえつかめていない。まして家族の欠損がどんな意味をもったか、失われた富はどの位か、被爆者の精神はどんな点に特徴があるか等々、被災の基礎的事実を客観的にとらえようとする努力は、殆んどなされなかった。 |
||
| 原爆資料館 | ||
| ジョン・ハーシー | 「ヒロシマ」 | |
| ユンク | 「灰墟の光」 | |
| 2 | 別記<リンク> | |
| 3 | 別記<リンク> | |
| 4 | ||
| 被災資料の内容は、当時の記録や遺物だけでなく、その後の被爆者のあり方を、体系的に把握するため、聴取・写真・映画などにより、残していくことが大切なので、既存資料をあつめる作業のほかに、価値ある資料を作っていく作業が重要である。 その具体的方法は、原爆被災白書推進委員会が1966年に発表した 「日本政府による原爆被災白書の作製に関する要望書」が、 言わば第一次案と呼ぶべきものである。 学術会議が数回にわたってくりかえしたシンポジウムの報告書は、 いずれもまとめられているが、アンチテーゼに相当するレポート である。学術会議が政府に申入れて、発足も間近い特別委員会(ワーキングーグループ)が、この作業を本格的に始めれば、原案の作製が期待できる。 ここに、私の個人的見解を記してみるつもりであったが、紙幅の都合上割愛する。 いずれにしても、被爆者を含めた市民の積極的な協力と、創造力に富んだ研究者の専門的能力と、政府・県・市・大学等の全面的な支援か必要であって、自主・民主・公開の原則を守り、被爆者の立場に立って構想することが、プラン作製の原則であろう。歴史家の任務はまことに重大である。 |
||
『核を葬れ!森瀧市郎・春子父娘の非核活動記録 』(広岩近広、藤原書店、20170806)内容
| 章 | ||
| プロローグ | ||
| 1 | 「力の文明」の対極に「愛の文明」 | |
| 右目に突き刺さった原爆のガラス片 残された左目に映った広島の惨禍 原爆と敗戦の深い傷痕 同僚や子らの死に深い悲しみ 戦争は「力の文化」の必然的帰結 原子力時代に求められる新しい道徳 |
||
| 2 | 「ヒロシマ後の世界」を見据えて | |
| 「広島子どもを守る会」が発足 ビキニ事件に憤慨して原水爆禁止国民運動 六〇年安保に揺さぶられた平和運動 国民運動は原水協と原水禁に分裂 |
||
| 3 | 「不殺生」「非暴力」「生命への畏敬」 | |
| 国民平和使節として欧州に反核の旅 大学に辞表を提出して、重大決意を実行 「原水爆禁止広島母の会」の活動 三人の聖者の生き方に感銘 「人類は生きねばならぬ」と退官後も奮迅 |
||
| 4 | 幻想だった核の平和利用 | |
| 平和利用の名のもとに原発の建設計画 原発は原爆の材料プルトニウムをつくる 「核と人類は共存できない」と世界に訴える 反核の力を結集させたい 「ヒロシマの役割」を再認識する 非核の未来をつくらねばならない 「それでも原発は危険だ」と言いつづける 「いのちとうとし」のラストメッセージ |
||
| 5 | ウラン採掘に始まる放射能汚染 | |
| インド.パキスタンの若者と平和交流 ウラン鉱山の放射線被害を現地で調査 「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」が始動 「子どもの命を返してくれ!」 劣化ウラン国際大会が警告した内部被曝 |
||
| 6 | 原子力体制を問う | |
| 核廃絶は、原発廃絶と切り離せない 日本政府の原発輸出と核政策を問う 「国から二度、棄民にされた」 三つの課題と三つのキーワードで責任を追及 法廷で「核の人道に対する罪」を陳述 フクシマを忘れない、繰り返させない特別アピール |
||
| 7 | 地球規模で広がるヒバクシャ | |
| 核被害を総合的に捉える 「私たちには怒る義務がある」 ヒバクシャは世界的な用語になった 「核なき世界」を目指す取り組み オーストリアが「人道の誓約」 「平和の種」が「反核の息子」に 核兵器禁止条約に反対する被爆国 国連で、核兵器禁止条約を策定 |
||
| エピローグ | ||
| 資料 | ||
| 世界核被害者フォーラム 広島宣言 世界核被害者の権利憲章要綱草案 核兵器禁止条約 |
||
| 森瀧市郎・春子の活動年譜 | ||
| 主な引用・参考文献 | ||
『核兵器白書 ウ・タント国連事務総長報告』(鹿島平和研究所訳 、鹿島研究所出版会、19680425 )
内容
| 序文(鹿島守之助) | ||
| 日本版のための序文(ウ・タント国連事務総長) | ||
| 国連事務総長の報告 | ||
| 国連事務総長あて送付書 | ||
| 序説 | ||
| Ⅰ | 核兵器を使用した場合の影響 | |
| 広島および長崎 | ||
| 将来の戦争における核兵器のありうべき使用の意義 | ||
| ある国の一地方に対する核攻撃の影響の評価 | ||
| 野戦における核兵器の使用から生ずる影響 | ||
| 抑止か戦争か | ||
| Ⅱ | 核兵器の取得と一層の開発の経済的意義 | |
| 各種の核弾頭生産計画のコスト 39 調達コストのまとめ 44 経済的意義 45 プルトニウム資源の予想される増大の意義 |
||
| Ⅲ | 核兵器の取得および一層の開発の安全保障における意義 | |
| 序説 53 核兵器の歴史 53 現在の見通し 56 戦術的兵器の問題 61 政治的関連における核兵器 |
||
| 結論 | ||
| 付編Ⅰ | 核爆発の一般的特性 | |
| 付編Ⅱ | 核放射線の遺伝的影響 | |
| 付編Ⅲ | 本編Ⅰの参考文献 | |
| 付編4 | 核弾頭の基礎的コスト | |
国連歴代事務総長
| 名前 | 出身国 | 在職期間 |
| アントニオ・グテーレス | ポルトガル | 2017年1月1日~ |
| 潘基文 | 韓国 | 2007年1月~2016年12月 |
| コフィー・A・アナン | ガーナ | 1997年1月~2006年12月 |
| ?ブトロス・ブトロス=ガーリ | エジプト | 1992年1月~1996年12月 |
| ハビエル・ペレス・デクエヤル | ペルー | 1982年1月~1991年12月 |
| クルト・ワルトハイム | オーストリア | 1972年1月~1981年12月 |
| ウ・タント | ビルマ(現ミャンマー) | |
| 1961年11月に事務総長代行に任命され、1962年11月に正式に事務総長に任命。1971年12月まで在職 | ||
| ダグ・ハマーショルド | スウェーデン | |
| 1953年4月から1961年9月にアフリカでの航空機墜落事故で殉職するまで在職 | ||
| トリグブ・リー | ノルウェー | 1946年2月~1952年11月 |
出典:https://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/secretariat/secretary-general/list_sg/
ノーベル平和賞受賞者(ヒロシマ関連)一覧
| 年 | 名前 | 国等 | 備考 |
| 1949 | ボイド=オア | ||
| 1952 | シュヴァイツァー | ||
| 1959 | ノエルベーカー | ||
| 1962 | ボーリング | ||
| 1972 | 佐藤栄作 | 日本 | 非核三原則 |
| 1979 | マザー・テレサ | ||
| 1985 | IPPNW | ||
| 1997 | 地雷禁止国際キャンペーン(ICBL) | ||
| ジュリー・ホワイト講演(広島県庁) | |||
| 2009 | バラク・オバマ | 米 | 「核なき世界」 |
| 20160527広島訪問 | |||
| 2015 | 国民対話カルテット | チュニジア | 民主化に貢献 |
| 民間3団体代表が広島訪問 | |||
| 2017 | ICAN | ||
| 2018 | デニ・ムクゲ | コンゴ(旧ザイール) | 紛争下の性暴力被害者支援 |
| 20191006 原爆資料館で講演(『中国新聞』20191007) | |||
『ノーベル平和賞-90年の軌跡と受賞者群像』(堤佳辰、河合出版、19900910 )
目次
| 章節 | |||
| 序論 | |||
| 平和賞の起源 | |||
| 平和賞の軌跡 | |||
| ノーベル平和賞受賞者一覧(1901~1989年) | |||
| 平和賞受賞者内訳(国別、機関別) | |||
| 本論 | |||
| 1章 | 新世紀の曙光(1901~1910)平和運動の揺籃期-その希望と苦闘 | ||
| 1(1901) | 赤十字の父 | デュナン | スイス |
| 1 | 国際恒久平和同盟の祖 | パシー | 仏 |
| 2 | 常設国際平和局の中心 | デュコマン | スイス |
| 2 | 「列国議会同盟」(IPU)の推進者 | ゴバ | スイス |
| 3 | 「IPU」と「国際仲裁連盟」の創立者 | クリーマー | 英 |
| 4 | ゛万国の法理゛へ | 国際法学会 | |
| 5 | ゛ノーベルの恋人゛ | スットナー女史 | 墺 |
| 6 | ゛大きな杖゛の男 | テディ・ローズベルト | 米 |
| 7 | 熱血の平和ジャーナリスト | モネタ | 伊 |
| 7 | 国際生活法理の信奉者 | ルノー | 仏 |
| 8 | ノーベルの遺志の後継者 | アルノルドソン | 瑞 |
| 8 | ゛北欧中立゛の推進者 | バイエル | 丁 |
| 9 | 小国の論理を代弁した | ベールナルト | 白 |
| 9 | ゛平和宮゛を実現した | デストゥールネイユ | 仏 |
| 10 | 平和の拠点 | 「常設国際平和局」 | |
| 2章大いなる幻影(1911~1920年) | |||
| 1(1911) | 1)国際法学会の創設者 | アセル | 蘭 |
| 1 | 平和雑誌の出版者 | フリート | 墺 |
| 2 | 善隣外交の演出者 | ルート | 米 |
| 3 | 初の社会主義受賞者 | ラフォンテーヌ | 白 |
| 4 | 該当者なし 第1次世界大戦 | ||
| 5 | 該当者なし 第1次世界大戦 | ||
| 6 | 該当者なし 第1次世界大戦 | ||
| 7 | 戦時捕虜の看護と創刊 | 赤十字国際委員会 | |
| 8 | 該当者なし 第1次世界大戦 | ||
| 9 | 悲劇の国際連盟創設者 | ウイルソン | 米 |
| 10 | 国際連盟の法的軍事機関化を主張 | ブルジョア | 仏 |
| 3章 | つかの間の平和(1921~1930年)ベルサイユ体制の重圧 両大戦のはざまで | ||
| 1(1921) | 厳正中立を貫いた | ブランティング | 瑞 |
| 2 | 列国議会同盟の舵取り | ランゲ | 諾 |
| 探検家、博愛主義者 | ナンセン | 諾 | |
| 3 | 該 当者なし 委員会の不決断 | ||
| 4 | 該 当者なし 委員会の不決断 | ||
| 5 | 対独賠償の軽減者 | ドーズ | 米 |
| 5 | ロカルノの融和の名優達 | チェンバレン | 英 |
| 6 | ロカルノの融和の名優達 | ブリアン | 仏 |
| 6 | ロカルノの融和の名優達 | シュトレーゼマン | 独 |
| 7 | 最高齢の平和賞受賞者 | ビュイッソン | 仏 |
| 7 | 「ドイツ平和連盟」総裁 | クヴィデ | 独 |
| 8 | 該当者なし | ||
| 9 | ゛不戦条約゛に名を残す | ケロッグ | 米 |
| 10 | ノーベルも尊敬した大主教 | セーデルブロム | 瑞 |
| 4章 | 平和主義者の悪戦苦闘(1931~1940年)ファッシズムの台頭 第2次世界大戦の前夜 | ||
| 1(1931) | 「平和と自由の国際婦人連盟」創設 | アダムズ | 米 |
| 1 | ゛不戦条約゛の黒子 | バトラー | 米 |
| 2 | 該当者なし | ||
| 3 | 「大いなる幻影」の著者 | エンジェル | 英 |
| 4 | 平和の゛青い鳥゛を追う | ヘンダーソン | 英 |
| 5 | 獄中の平和賞 | オシエツキー | 独 |
| 6 | 「中南米不戦条約」を起草 | サーヴェドラ=ラマス | アルゼンチン |
| 7 | 終始一貫「国際連盟」を支持 | セシル | 英 |
| 8 | 戦前最後の平和賞 | ナンセン難民国際事務所 | |
| 9 | 平和賞の空白期 | ||
| 10 | 平和賞の空白期 | ||
| 5章 | 戦争、平和、そして冷戦(1941~1950年)国際連合の悩み 東西二大陣営の対立 | ||
| 1 | 平和賞の空白期(続) | ||
| 2 | 平和賞の空白期(続) | ||
| 3 | 平和賞の空白期(続) | ||
| 4(1944) | 第2次大戦中の人道的活動 | 赤十字国際委員会 | |
| 5(1945) | ゛国際連合の父゛ | ハル | 米 |
| 6(1946) | YMCAを通じ平和運動 | モット | 米 |
| 6(1946) | 婦人平和運動に挺身 | ボルチ | 米 |
| 7 (1947) | 絶対平和を求めて | フレンド奉仕団理事会 | 英 |
| 7(1947) | ゛平和の友゛の活動 | 米国フレンド奉仕委員会 | 米 |
| 8 | 該当者なし | ||
| 9(1949) | 「国連食料農業機関」(FAO) 創設者 | ボイド=オア | 英 |
| 10(1950) | 第1次中東戦争の名゛火消し゛ | バンチ | 米 |
| 6章 | 核時代の勢力均衡(1951~1960年)ガラスの城の不安 復興から人権へ | ||
| 1(1951) | 「国際労働機関」(ILO)の草分け | ジュオー | 仏 |
| 2(1952) | ゛ランバレネの聖者゛ | シュヴァイツァー | 仏 |
| 3(1953) | ゛マーシャル・プラン゛で西側を救う | マーシャル | 米 |
| 4(1954) | 第2次大戦後の難民処理 | 国連難民高等弁務官事務所 | |
| 5 | 該当者なし | ||
| 6 | 該当者なし | ||
| 7(1957) | 国連平和外交を推進 | ピアソン | 加 |
| 7(1957) | ゛少年の家゛゛欧州村゛を建設 | 白(1957) | |
| 8 | 該当者なし | ||
| 9(1959) | 平和運動の長距離ランナー「 | ノエルベーカー | 英 |
| 10(1960) | アパルトヘイトへ平和闘争 | ルツリ | 南ア |
| 7章 | 黄金の60年代?(1961~1970年)第3世界の台頭 内外の社会矛盾 | ||
| 1(1961) | 行動する国連事務総長の殉職 | ハマショルド | 瑞(スウェーデン) |
| 2(1962) | 化学賞と平和賞のダブル受賞 | ボーリング | 米 |
| 3(1963) | ゛100周年゛の栄光 | 赤十字国際委員会 | |
| 3(1963) | 平和時活動にも意欲 | 赤十字社連盟 | |
| 4(1964) | 非暴力の公民権運動に殉じた牧師 | キング | 米 |
| 5(1965) | 戦後の児童救済と栄養補給に貢献 | ユニセフ | |
| 6 | 該当者なし | ||
| 7 | 該当者なし | ||
| 8(1968) | ゛世界人権宣言゛を起草 | カサン | 仏 |
| 9(1969) | 戦前から労使の国際連帯 | ILO | |
| 10(1970) | ゛緑の革命゛の先達 | ボーローグ | 米 |
| 8章 | 動乱の70年代!(1971~1980年)民族、宗教、思想 反体制の力学 | ||
| 1(1971) | ゛東方政策゛の雄 | ブラント | 西独 |
| 2 | 該当者なし | ||
| 3(1973) | ゛ベトナム和平゛の実現へ | キッシンジャー | 米 |
| 3(1973) | 唯一の平和賞辞退者 | レ・ドク・ト | 北ベトナム |
| 4(1974) | 「国際アムネスティ」を創設 | マクブライド | アイルランド |
| 4(1974) | ゛非核三原則゛を推進 | 佐藤栄作 | 日 |
| 5(1975) | 不屈の反体制科学者 | サハロフ | ソ連 |
| 6(1976) | ゛ベルファストの平和行進゛のリーダー | ウィリアムズ | 英 |
| 6(1976) | ゛ベルファストの平和行進゛のリーダー | コリガン | 英 |
| 7(1977) | ゛良心の囚人゛解放へ | 国際アムネスティ | |
| 8(1978) | 中東和平へ大胆な賭け | サダト | エジプト |
| 8(1978) | 往年のテロリストに平和賞 | ベギン | イスラエル |
| 9(1979) | ゛カルカッタ゛の聖女 | マザー・テレサ | インド |
| 10(1980) | ゛暗黒政治゛中の灯火 | エスキベル | アルゼンチン |
| 9章 | 新たな秩序を求めて(1981~1989年)20世紀の総決算へ 語り部の役割 | ||
| 1(198) | 創 立30周年の軌跡 | 国連難民高等弁務官事務所 | |
| 2(198) | 世界初の軍縮相 | ミュルダール | 瑞 |
| 2(1982) | 中南米比較地域条約を実現 | ロブレス | メキシコ |
| 3(1983) | 自主労組゛連帯゛の指導者 | ワレサ | ポーランド |
| 4(1984) | 非暴力で黒人差別に対決 | ツツ大主教 | 南ア |
| 5(1985) | 核戦争防止国際医師の会 | IPPNW | |
| 6(1986) | アウシュヴィッツの語り部 | ウィーゼル | 米 |
| 7(1987) | ゛中米和平゛構想を推進 | アリアス | コスタリカ |
| 8(1988) | 創立40年の国連平和維持軍 | UNPKF | |
| 9(1989) | 亡命30年の゛活き仏゛ | ダライ・ラマ | チベット |
| 補論 | 平和賞の゛落ち穂゛ 受賞して然るべき人たち | ||
| 1 | ゛白衣の天使゛の母 | ナイチンゲール | 英国 |
| 2 | 無抵抗不服従運動の教祖 | ガンジー | インド |
| 3 | ゛死線を越えて゛ | 賀川豊彦 | 日本 |
| 4 | 北京゛動乱゛に対話路線を主張 | 趙紫陽 | 中国 |
| 5 | 米ハノイ北爆を名指しで批判 | パルメ | スウェーデン |
| 6 | 反戦、反核の行動する哲学者 | ラッセル卿 | 英国 |
| 7 | ゛近代五輪゛の創始者 | クーベルタン | 仏 |
| 8 | 三重苦の聖女 | ヘレン・ケラー | 米 |
| 9 | ゛獄中27年゛の闘士 | ネルソン・マンデラ | 南ア |
| 結び | 平和賞の使命 平和賞の進路 | ||
広島市公文書館開館30年講演会(2007年9月29日)
占領下における被爆者医療活動-医学博士・都築正男資料から
宇吹 暁(広島女学院大学)
はじめに
1972年2月3日、日赤に重藤文男院長を訪問。
都築著『医学の立場から見た原子爆弾の災害』借用。
1978年6月11日、80年11月17日~18日、都築家資料調査。
1994~96年度 科学研究費補助金
1995年12月23日、広島大学公開講座「原爆医療法制定前の被爆者問題」。
Ⅰ 占領下における被爆者医療活動
『広島大学公開講座・被爆50年-放射線が人体に与えた影響』
(広島大学1995.10.01)<資料1
Ⅱ 都築資料の概要
広島市寄贈(1981年7月6日)点数
書簡・葉書53点、論文247点、講演要旨27点、写真19点、雑誌17点、調査票9点、地図9点、その他264点 計645点 <『広島市公文書館紀要 第5号』(広島市、1981.03.31)>
『広島新史 資料編1(都築資料)』(広島市、1981.03.31)
目次<略>
Ⅲ 都築正男をめぐる現在
1.文献
1.文献
| No. | 発行年月日 | 書名 | 著者・編者 | 発行所 |
| 1959.07.21 | 原水爆時代-現代史の証言(上) | 今堀誠二 | 三一書房 | |
| 1972.03.31 | 広島県史・原爆資料編 | 広島県(編) | 広島県 | |
| 1979.07.25 | 広島・長崎の原爆災害 | 広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会(編) | 岩波書店 | |
| 1980.08.06 | 桜隊全滅-ある劇団の原爆殉難記 | 江津萩枝 | 未来社 | |
| 1981.03.31 | 広島新史・資料編Ⅰ-都築資料 | 広島市(編) | 広島市 | |
| 1981.03.31 | 広島市公文書館紀要 第5号 | 広島市(編) | 広島市 | |
| 1981.04.05 | 都築正男研究業績目録-都築正男大人命20年祭 | 広島市史編纂室(編) | 都築正和 | |
| 1982.11.10 | 長崎原爆体験-医師の証言 | 調来助・吉沢康雄 | 東京大学出版会 | |
| 1986.08.11 | DDT革命-占領期の医療福祉政策を回想する | サムス,クロフォード、F.、竹前栄治(訳) | 岩波書店 | |
| 1990.10.18 | 核と共に50年 | 木村一治 | 築地書館 | |
| 1995.03.30 | 漱石の脳 | 斎藤磐根 | 弘文堂 | |
| 1995.10.01 | 広島大学公開講座・被爆50年 -放射線が人体に与えた影響 |
広島大学 | 広島大学 | |
| 1997.02. | 原爆被爆者対策史の基礎的研究―原爆被爆者対策前史 1945年(昭和20)~1953年(昭和28)資料集― | 宇吹 暁 | 宇吹 暁 |
2.今堀誠二の評価
占領軍と日本人科学者:サムス、アレン、ケリー、 ジュノー
『原水爆時代-現代史の証言(上)』、『広島県史・原爆資料編』、(『広島・長崎の原爆災害』)、『広島新史・資料編Ⅰ-都築資料』
3.検閲
「所謂『原子爆弾傷』に就いて-特に医学の立場からの対策」(『総合医学』、1945年10月1日)
<ゲタバキ部分あり。「昭和20年9月8日米国原子爆弾損害調査団を案内して広島市へ向ふ時記す」>
4.調査データのプライオリティ
大橋成一(元陸軍軍医学校教官・少佐、宇品陸軍救護病院副院長)、井深健次(元陸軍軍医学校校長・中將)宛の書簡(1953年5月3日付)の中で原子爆弾災害調査報告集の中に軍関係者の名前が掲載されていないことを指摘。(「広島県史原爆資料編」)。
大橋書簡=「当時の軍関係者の研究分担者の名前が掲載されて居らず、大学の先生方等のみの名があり、之のレポートが大学の先生方によって主になされた如く誤解される恐れがあると愚考致します。」
5.政府機関
予防衛生研究所、文部省、厚生省研究班、
6.広島・長崎の医療関係者
*都築正男報告(新聞発表)『中国新聞』
1945.9.4 9.5 11.25 1946.5.22 12.21
『広島県史・原爆資料編』(広島県、1972.03.31)
*公開治療
*松坂義正(広島)、調来助(長崎)
*学研調査団資料 調査票
7.被爆者
1945年8月13日、仲みどり(移動演劇団桜隊の女優)、広島で被爆後、東大都築外科に入院。24日、仲みどり、東大病院で死亡。30日、東大医学部教授都築正男ら調査団、来広。
1956年4月15日、東京の原爆被災者の会(事務局長松尾明人)、東京で、原爆被災者の集いを開催(東京・群馬・神奈川などから約100人参加)。都築博士による講演。被災者対策の充実・促進などを申し合わせ。
「畑とし子」=<東京の日赤で都築博士の治療を受ける>『あの日から生きて生きて』(1986年2月20日)
宗藤尚三=<被爆場所:1.3キロ自宅。大学生。日赤・似島・庄原日赤で治療。庄原では都築の診断を受ける。>『いのちの塔-広島赤十字・原爆病院への証言』(1992年6月10日)
『大田洋子文学碑建立記念誌 1978・9』(岩崎清一郎編、[大田洋子文学碑]建立委員会事務局、19780925)
| 頁 | ||
| 口絵<いしぶみと大田洋子関係> | ||
| 01 | お礼 | 建立代表 斎木寿夫・栗原貞子 |
| 02 | 追憶・大田洋子 ―文学碑建立に際して | 佐多稲子 |
| 08 | 大田洋子文学碑について | 大原富枝 |
| 11 | 記録・資料 | |
| 11 | 碑文の由来 | |
| 12 | 爆風の中の碑 | 四国五郎 |
| 14 | 大田洋子略年譜 | |
| 18 | 記録・資料 | |
| 18 | 大田洋子文学碑建立についてのお願い | 安芸文学内 建立委員会事務局 |
| 20 | 協賛者 | |
| 23 | マスコミ関係のご協力 | |
| 25 | 経過報告 | 事務局・岩崎清一郎 |
| 29 | 除幕式に寄せられた祝電 | |
| 30 | 通信のなかから | |
| 34 | 募金協賛・御芳名録 | |
| 47 | 会計報告 | |
| 48 | 楽譜”少女たちは” | |
| 除幕式<於・中央公園/昭53・7・30> | ||
内容
広島平和記念都市建設方案 (昭和24.9.20立案)
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| 広島大学蔵 |
原爆にたをれむ人もやすらかに平和の光受けて眠らむ
| 広島平和記念都市建設方案 (昭和24.9.20立案) |
企画部 | 建設構想の研究、実施の促進 | ||
| 建設法に伴ふ国家各機関との交渉 | ||||
| 建設予算編成と財源捻出(県市、国家、外国) | ||||
| 都市形態整備 | 特殊的 | 記念保存物調査決定(産業奨励館、原爆十景等) | ||
| 新建設物 | 慰霊塔(平和塔) | |||
| 記念館 | ||||
| 美術館 | ||||
| 科学館 | ||||
| 一般的 | 土木工事 | 道路 公園 | ||
| 軌道 ガス | ||||
| 上下水道 | ||||
| 橋梁 | ||||
| 建築工事 | 公共文化、社会事業的建造物 | |||
| 個人住宅 | ||||
| 内容充実 | 霊場設置 | 二十万犠牲者の鎮魂場 | ||
| 原爆資料 | 実物、写真 | 調査蒐集 | ||
| 文書、統計 | ||||
| 平和精神涵養 | 講演会(教育、宗教、文化団体連絡) | |||
| 雑誌(平和協会ヨリ発行) | ||||
| 市旗(平和都市象徴・各戸掲揚) | ||||
| 平和祭発展 | 行事の研究(世界的構想へ) | |||
| 市民の熱意表現工夫 | ||||
| 世界平和運動 | 国際連合、ユネスコ連絡(行事) | |||
| 会場の建設 | ||||
| 文化施設内容 | 美術館 | 資料研究、調査、蒐集 | ||
| 科学館 | ||||
千田書房(店主=山崎与三郎)
| やまさき・よさぶろう | 19760704没 | 享年86 |
資料
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|
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|
| 広島大学原医研資料 20201030撮影 | |
『原水爆禁止運動』(今堀誠二、潮出版社、19740625)
目次
| 第*回大会 | タイトル<初出掲載誌紙> |
| プロローグ | |
| 原水禁運動の発足 | |
| 杉並アピール | |
| 見殺しにされた被爆者 | |
| 被爆者救援運動の発足 | |
| 1 | 三千二百万人の国民運動の進展 |
| <初出掲載誌紙:『歴史学研究』187号(195509)> | |
| 八月六日の回想 | |
| 発言の本音 | |
| 被爆者の生活と意見 | |
| 科学者の責任 | |
| 救援運動の出発 | |
| 基地闘争への賛否 | |
| ヒロシマ・アピール | |
| 歴史学研究会の問題点 | |
| 歴史をになうもの | |
| 2 | 被爆者・全国民・全世界との連帯が高まる |
| <初出掲載誌紙:『歴史学研究』200号(195610)> | |
| 世界を動かしたヒロシマ | |
| 世界の連帯 | |
| 進む戦争準備 | |
| 沖縄問題 | |
| 再軍備への告発 | |
| 被爆者救援運動との結合 | |
| 原子力の平和利用と大衆 | |
| 大衆運動の進め方への反省 | |
| 3 | 地方原水協の強化と中央および国際組織の空転 |
| <初出掲載誌紙:『歴史学研究』211号(195709)> | |
| 台所までもち込まれた運動 | |
| 専門家の告発 | |
| 歴史家は何をすべきか | |
| 六大陸にひろがった原水禁運動 | |
| 原水爆戦争体制との対決をうち出す | |
| 会議は空転する | |
| 全学連の誤謬 | |
| 大会決定の成果と不安 | |
| 問題点のかずかず | |
| 組織と理論に重大な欠陥 | |
| 4 | 日本の非核武装化にたちむかうために |
| <初出掲載誌紙:『歴史学研究』223号(195709)> | |
| 岸内閣を助けた原水協 | |
| ICBMの評価を誤る | |
| 欧米で核兵器反対運動高まる | |
| 平和行進 | |
| 原爆の加害国化する日本 | |
| 統一戦線 | |
| 日本の核武装 | |
| 空転する討論 | |
| 中国・朝鮮への差別 | |
| 運動の進め方への反省 | |
| 難航した国際会議 | |
| 実験禁止から核武装反対へ | |
| 原水協を全国民のものに | |
| 5 | 原水禁運動の正しい道と左右の日和見主義 |
| <初出掲載誌紙:『歴史評論』110号(195910)> | |
| 原水禁運動のマニフェスト | |
| 一千万人の平和行進 | |
| 自民党の妨害工作 | |
| 安保改定と原水禁運動 | |
| 大会からの脱退者 | |
| 左右の日和見主義者 | |
| 6 | 戦う平和運動の目標は軍備全廃か冷戦終結か |
| <初出掲載誌紙:『歴史学研究』246号(196010)> | |
| 二千二百万人の平和行進 | |
| 平和の敵は誰か | |
| 平和運動における二大潮流 | |
| 人類の導きの星 | |
| 日本と沖縄での戦いの報告 | |
| 大会の混乱と成果 | |
| 軍備全廃か冷戦終結か | |
| 7 | 帝国主義時代の平和理論と原水爆時代の平和理論 |
| <初出掲載誌紙:『歴史学研究』257号(196109)> | |
| 謀略工作 | |
| 平和運動における西欧方式とAA方式 | |
| AA地域別会議流れる | |
| 本会議でのかけひき | |
| 大会決議のおもてうら | |
| 原水爆時代の平和理論 | |
| 大衆の平和運動 | |
| 両派の自己批判と運動の進展 | |
| 8 | 社・共両党の激突と大衆の統一への願い |
| <初出掲載誌紙:『歴史学研究』269号(196210)> | |
| 矛盾の中で | |
| 総評まかり通る | |
| あらゆる核実験に抗議する問題 | |
| 核戦争の元凶は誰か | |
| 幅広い運動か、反帝政治闘争か | |
| 原水協の「内乱」と統一のエネルギー | |
| 9 | 国民運動の崩壊と再生への四つの芽 |
| <『思想の科学』19号(196310)> | |
| 宗平協―国民運動をはぐくむもの | |
| 地方原水協の活動 | |
| 原水協、国民を無視 | |
| 大会準備のなかでー国民運動にそむくもの | |
| 大会のうらおもて―国民運動の崩壊劇 | |
| 大会懇談会の諸報告―国民運動の新しい芽 | |
| すべての地域と職場に原水協をつくろう | |
| 10 | 毛沢東理論からみた日本原水協批判 |
| <初出掲載誌紙:『歴史学研究』299号(196504)> | |
| 原水禁運動と私 | |
| 毛沢東の平和理論の問題点 | |
| 中ソ対立と原水禁運動 | |
| 民族解放運動との接点 | |
| 資本主義国の平和運動の意義 | |
| 統一戦線への整風運動 | |
| 日本の平和運動の性格 | |
| 広島の平和運動の性格 | |
| 原水協はその基本原則で再統一を | |
| 核兵器のない世界をめざして | |
| <『聖教新聞』1973年2月21日~28日> | |
| 日本の安全はどうして守るのか | |
| 平和運動のゆくえ | |
| 新しい平和の条件 | |
| 国際連合の将来 | |
| あとがき | |