広島文学資料保全の会活動日記(抄)
出典:『広島に文学館を 広島の心を21世紀に伝えよう!』(編集人:尾津訓三・池田正彦 発行人:好村冨士彦、1999年4月30日)
年月日 |
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1987 |
ヒロシマに関わる文学資料の調査、収集・保存、そのための施設建設を求め、広島市長への<要請>署名運動。発起人11人=磯貝英夫、今堀誠二、大原三八雄、北西允、栗原貞子、好村冨士彦、四国五郎、立川昭二郎、深川宗俊、松元寛。発起人の呼びかけに応じた、被爆者、文化人、学者、市民72人は参道呼びかけ人として活動に参加。 |
2月 |
仮称「広島の文学資料の保全をすすめる会」を結成(代表者:広島大学学長・沖原豊)。幹事・事務局を選出し、要請署名と活動資金を訴える活動にとりかかる。 |
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広島婦人問題研究会 1974年発足。代表世話人:中村朋子。
参考資料:『未来を拓く ひろしまの女性 1983』(広島婦人問題研究会、1984年3月21日)
目次
山代 巴 |
私の歩んだ道 |
中村 朋子 |
山代巴研究と私たち -中間報告- |
今中 保子 |
近代日本女性史と広島の婦人 -備後の女性を中心に- |
内田 千寿子 |
原爆を語る場を求めて |
永見 和子 |
福山の母親運動 |
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山代巴年譜 |
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戦後広島県婦人の動き(1945~1955) |
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編集後記-広島県婦人問題研究会の紹介にかえて- |
『ヒロシマの青春 飛翔―広島文団連50年誌―』広島県文化団体連絡会議「50年誌」編集委員会、20121215刊
目次
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御庄博実(丸屋博) |
文団連50年を思う |
広島県文団連 代表委員 |
高橋正志 |
文化で生きる力を |
文化団体連絡会議(全国文団連) 事務局長 |
一、文団連50年の歴史 |
1.前史 2.広島県文化会議結成から文団連へ 3.70年代~80年代 4.90年代から今日まで |
<ぶんだんれんトピックス> |
◆昭和21年、横川劇場で観た◆「河」◆原水禁文化集会と文団連◆峠三吉碑前祭◆第一学習社労組闘争支援◆平和とうろう集会◆「ヒロシマの夜打つ太鼓」◆ヒロシマ学習 |
二、加盟団体の結成と今日(結成年順) |
1954 |
広島合唱団 |
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1954 |
国鉄広島ナッパーズ |
(前身から) |
1956 |
広島映画サークル協議会 |
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1959 |
劇団月曜会 |
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1960 |
広島市民劇場 |
(前身から) |
1964 |
広島詩人会議 |
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1965 |
広島県美術会議 |
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1965 |
日本民主主義文学同盟広島支部 |
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1967 |
日本ジャーナリスト会議広島支部 |
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1967 |
青年法律家協会広島支部 |
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1972 |
広島映画センター |
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1987 |
音楽センターひろしま・太鼓センターひろしま |
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1992 |
ひろしま音楽鑑賞協会 |
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三、資料 |
1.文団連5年譜、2.文団連歴代役員、3.物故役員の経歴、現在の役員、文団連加盟団体一覧 |
亀岡恭二 |
あとがき |
事務局長 |
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編集委員のひとこと |
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三、資料、3.物故役員の経歴
名前 |
生・没年 |
経歴 |
大月洋 |
1960-1973 |
広島演劇鑑賞会事務局長、広島県文団連副議長 |
中川秋一 |
1910-1980 |
「夕刊ひろしま」記者、皆実町二丁目青年連盟結成に参加、民主主義科学者協会会員、広島県労働組合協議会議長、劇団「八月座」結成に参加、前進座広島後援会会長、広島県文団連代表委員 |
土屋清 |
1930-1987 |
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柿手春三 |
1909-1993 |
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山下正人 |
1924-1995 |
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堀博自 |
1921-1996 |
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植田知基 |
1934-1997 |
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村上忠人 |
1917-1996 |
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水原肇 |
1934-2004 |
読売新聞記者、日本ジャーナリスト会議広島支部代表幹事、広島県文団連代表委員 |
下村仁一 |
1918-2008 |
広島県美術会議幹事長、アンデパンダン展全国実行委員長、広島平和美術展代表、広島県文団連代表委員 |
深川宗俊 |
1921-2008 |
反戦詩歌人集団結成に参加、広島県平和のための文化会議幹事長、峠三吉詩碑建設委員会委員長、短歌研究会「青史」代表、広島県文学会議幹事長、広島県文団連代表委員 |
新江義雄 |
1947-2009 |
日本のうたごえ全国協議会常任委員、(有)音楽センターひろしま役員、広島県文団連常任委員 |
広島県文化団体連絡会議(略称:文団連)略年表
年月日 |
事項 |
196911 |
広島県文化会議第4回総会。広島県文化団体連絡会議に名称変更。22団体が加盟。 |
197109 |
文団連呉支部を結成 |
197203 |
文団連ニュース第1号発行。 |
197203 |
文団連機関誌「ひろしま」創刊号発行 |
197701 |
文団連ニュース復刊(第6号) |
19780212 |
文団連第4回総会。会則改正 |
19821003 |
~5日。第11回文団連全国交流集会。テーマ「平和と文化」。会場:広島市・寿殿。 |
19820124 |
第11回文団連全国交流集会記録集 |
19830401 |
文団連ニュース(第52号) |
19830601 |
文団連ニュース(第53号) |
19930307 |
三吉忌碑前祭ー峠三吉没後四〇年。ところ:平和公園・峠三吉碑前 |
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20121215 |
『ヒロシマの青春 飛翔―広島文団連50年誌―』発行。 |
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20170212 |
広島文団連「2017ヒロシマ学習 ”ヒロシマ文化”の過去・現在・未来~ヒロシマ郷土史家の思い~」。講師:宇吹暁、会場:小劇場「アッカー」(広島市中区榎町)。参加者34人。 |
広島文学協会 1950年発足
機関誌 『広島文学』
巻号 |
発行年月日 |
備考(出典・所蔵など) |
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『原爆被災資料総目録第4集』(以下『総目録第4集』)。広島平和記念資料館所蔵(以下「原資」) |
1-1創刊号 |
19511115 |
『総目録第4集』「原資」 |
3(10月) |
19571005 |
『総目録第4集』「原資」 |
3-2(2月) |
19530201 |
「原資」「ピカ」 |
3-3(3月) |
19530301 |
「原資」「ピカ」 |
3-4(5月号) |
19530420 |
「ピカ」 |
3-5(8月) |
19540901 |
「ピカ」 |
4-1(9月) |
19540901 |
「原資」「ピカ」 |
3-5(9月号) |
19540901 |
「ピカ」 |
8月号 |
19550815 |
「ピカ」、宇吹蔵 |
6-1(新年) |
19560101 |
「原資」「ピカ」 |
6-2(春季) |
19560405 |
「原資」「ピカ」 |
6-3(夏季) |
19560801 |
「ピカ」 |
7-1(秋季) |
19561120 |
「ピカ」 |
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19580410 |
広島文学協会ニュースNO.15 |
8-1(秋季) |
19580915 |
「ピカ」 |
9-1(通関5) |
19590510 |
「ピカ」 |
平和のための広島県文化会議 結成日:1962年8月5日
広島県文化会議・第二回定期総会議案書 1963年10月20日
一年間のあゆみとまとめ
1、一年間のあゆみ
一九六二年八月五日、私たちは広島県内在住の芸術創造にたずさわる人びとによって、「平和のための広島県文化会議」を結成しました。文化会議の性格を「平和のための」と意味づけたのは、文化そのものは本来平和そのものの成果であるにもかかわらず、なお「平和のための」といわざるをえなかったなど、世界の平和の状況が必ずしも平和でなかったからです。
そのかんの事情についての詳細は、結成総会アピールにあきらかにされているとおりですが、私たちはあらゆる人びとの平和への願いをもとにし、人類社会から戦争をなくすることを、芸術創造活動をとおしておし進めたいと考えました。
私たちは幹事会に提出された六項目の議案、すなわち、一、機関紙、誌の発行。二、秋の文化祭。三、峠三吉詩碑の建設。四、広島平和文化賞の設定。五、県内巡回講演などの計画。六、広島県戦後文化史の編さん。以上について、文学、美術、演劇の各専門部会で話あわれた内容を基にして、第三回幹事会は、八月六日へ向けて綜合文化祭を企画する。峠三吉詩碑の建設。広島県戦後文化史の編さん。の三つの主な創造のための作業を決議しました。この幹事会決定は、十一月十一日の臨時総会に提案され、年間の活動方針として決定されました。私たちはこの三つの作業を、たんなる行事というふうには考えませんでした。綜合文化祭、峠三吉詩碑、県戦後文化史の編さんの作業は、私たちの芸術創造の仕事と深くかかわりをもつと同時に、平和の問題と離れがたく結びついていると考えたのです。
一九六三年二月七日、私たちは文化会議会員によって「峠三吉詩碑建設委員会」を設置し、この日から具体的な活動に入りました。
この活動のこまかを点については、別誌「人間の世のあるかぎりくずれぬ平和を」において報告しておりますから略します
八月六日へ向けての綜合文化祭は、文化会議内に実行委員会を設置し、いろいろと話しあいの結果、県文化会議、広島職場演劇サークル協議会、広島勤労者演劇協議会の三団体共催にすることとし、後援および協賛団体として、原水爆禁止広島県協議会、広島県原爆被害者団体協議会、広島県労働組合会議、広島県青年連合会、日本民主青年同盟広島県委員会、日本社会主主義青年同盟広島地区本部、広島県教職員組合広島支部、広島県平和委員会、広島民主商工会、第三回西日本うたごえ実行委員会の協力を得ました。公演は八月三日昼夜二回行われ観客一千八一二人の入りで、一応実質的に成功させることができました。
そのほか、無名戦士の碑文の決定。原潜寄港反対のアピール、二回にわたるソ連作家を囲む懇談会をひらきました。
2、まとめ
その成果と問題点
これらの運動の中で、文学部会は峠三吉詩碑に刻む作品の選こうについて、美術部会は詩碑のデザイン、設計、あるいは第九回平和美術展について、音楽部会は「西日本のうだごえ」の成功のために、演劇部会はシナリオ「河」の作成から公演に向けて、その大きい流れの中にあって、それぞれのジャンルで創造活動が熱っぽく話しあわれ、実を結んでゆきました。
この実践の中で、私たちは八月三日「河」の合同公演、八月二日より七日間広島平和美術展、八月四日西日本のうたごえ、八月六日詩碑除幕式、第九回原水禁世界大会へ代表派遣という具体的な成果をあげると同時に、対外的には一定の基礎をつくることができました。これら諸運動に参加した人びとは二万人以上をがぞえ、九月末現在、詩碑建設と、「河」公演によせられたカンパ額は五三五、八二○円に達しました。このことは私たちの方針の正しさを実証するものといえましょう。
しかし、これら成果の反面、文化会議内部における日常活動の不足、事務局体制の弱体からくる財政の不備、内面的な活動の遅退は、会員個々の活動があったにもかがわらず、いちぢるしく後退するという現しょうを見たことは、特に重要な問題として残されております。
このことは文化会議の動脈ともいうぺき機関紙が速報をあわせて二回発行にとどまった事実にもうかがえます。会員はそれぞれの創造活動をとおして、多くの出版物を刊行し、あるいは執筆し、おうやけにしました。たとえぱ三原の「地方」、広島の「青史」「われらのうた」、土屋清のシナリオ「河」(テアトロ)、南雅子共著童話「つるのとぶ日」(東都書房)、加川次男歌集「標的」(白樺社)、原爆症患者の手記「かえらぬつる」再版、絵画グループ展の開催、職場演劇、職場美術展等を他にも多くあげるこどができます。
だがこのように見るべきものががず多くあつたにもかかわらず、内部において集約されず、したがって独自の評価もあたえられず放置されたのであります。もっとも大切にしなくてはならない会員個々の創造活動が会の中で充分生かされなかつたことの事実の解明は、今後の大きな課題として私たちの前にあります。書くことがあとまわしになったという問い、行動に参加し、ひとりびとりがどう高まり、どうひろげたか、芸術創造と政治的実践のむすびつきを考えるぺきだという問い、それら困難でしかも重要な課題を私たち一年のあゆみは提出しました。
これは私たちの実践の中からひきだされた具体的な課題であるだけに、一年のあゆみは必ずしも一方的に否定されるべきでなく、このあゆみの中から、新しい方針が創造されてゆくべきでありましょう。その萌芽が私たちのひとつの成果としてここに提出されているのであります。
[以下略]
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組織名 |
設立年月日 |
確認年月日 |
は |
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ひ |
広島市女性団体連絡会議 |
199502 |
202002 |
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http://www.hiroshima-wenet.net/ 広報紙「ひろしまWENET」 |
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広島市地域女性団体連絡協議会
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1948 |
202002 |
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https://cyberbb.com/hjd/
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広島平和記念公園被爆遺構の保全を促進する会 |
20170402 |
201705 |
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出典:『朝日』2017.0419『毎日』2017.05.13 |
ふ |
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|
へ |
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ほ |
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広島平和美術展
1955年8月4~8日、初の広島平和美術展が平和記念館を会場で開催。
開催趣旨「いつの時代においても戦争は文化の破壊者でした。核戦争がはじまれば、人類の絶滅を意味します。八月六日を中心に集まり、作品を通して世界平和への願いを現すために」
第2回以降は、広島平和美術協会の主催。時には、広島市教育委員会(第4回)、広島市中央公民館・中国新聞社(第10回)、広島平和文化センターなど、他機関との共催。
広島平和美術展 |
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平和美術展 |
「平和の推進1980」 |
広島平和美術展 |
「平和の推進1982」 |
広島平和美術展 |
「平和の推進1983」p.34 |
広島平和美術展 |
「平和の推進1985」 |
広島平和美術展 |
「平和の推進1986」 |
平和美術展 |
「平和の推進1987」 |
広島平和美術展 |
「平和の推進1988」p.55 |
(1)広島平和美術展 106 |
「センター20年誌」pp.106-107 |
(1)第43回広島平和美術展の共催…………91 |
「平和と交流1998」pp. |
(1)第44回広島平和美術展の共催 83 |
「平和と交流1999」pp. |
(1)第45回広島平和美術展の共催 129 |
「平和と交流2000」pp. |
(1)第46回広島平和美術展の共催 122 |
「平和と交流2011」pp. |
平和と学問を守る大学人の会
会の結成
1953(昭和28)年2月21日,広島県内の大学に教職を持つ有志約50人は,平和と学問を守る大学人の会(略称・大学人会)を結成した。結成の背景について同会会報創刊号(1953年6月1日)は次のように述べている。
昨年の破防法問題の時には,広島の大学人は結局これを見送ったのであったが,見送りながらも刻々民主々義の基盤が侵蝕され,平和が危機に曝されて行く事実を見逃すことはでぎなかったのである。さらに昨年末から本年にかけて問題となった科学技術庁案は,侵略の魔手が直接研究の現場にまで迫ってきていることを気づかせたのである。そして,このことはかって支那事変から太平洋戦争の時代にかけて,軍事科学の偏重のために人文・社会の研究は勿論,自然科学といえども,基礎的研究は経済的に圧迫されて事実上閉塞し,さらに軍国主義思想が学問の自由を破壊したという,まだ去って間もない過去の苦しい経験を,まざまざと思い起させたのである。この反省が,今度こそはわれわれ自身の手によって学問の自由を確保し,平和を擁護しなければならないという自覚を促し,その自覚がわれわれを,今,ここに結集させているのである。春秋の筆法を以てすれば,破防法に始まる悪法が--さらに遡ってサンフランシスコ条約以来の反平和的情勢が,われわれ広島の大学人会を結成させたものである。
大学人会の目的は,「平和を擁護し良心と学問自由を守ること」(規約第2条)とし,事業として,1.共同研究会の開催,2.公開講演会・公開討論会・座談会等の開催,3.本会と目的を同じくする諸団体との連絡提携などが定められた(規約第3条)。発足以後,3月末には会員数は90入に達し,5月末現在では100人を超した。
大学人会の発足当初の活動は,地味なものであったが,この会は,のちの広島の社会運動,とりわけ原水爆禁止運動・安保闘争の中で重要な役割を果すこととなる。
大学人の会の研究活動
平和と学問を守る大学人の会は,同会研究論集として『原爆と広島』(1954年12月10日),『広島の農村』(1955年7月20日)を発行し,高い評価を受けていたが,これらは同会の共同研究の成果というよりも,個人的労作を編集したものであった。1956(昭和31)年には会の共同研究を推進することを決め,石井金一郎を中心に検討がなされた。その結果,次のような計画がまとめられ,6月12日の常任委員会で承認された。
1.広島の平和運動の過去と現状及び将来の展望(世話役=今中次麿・石井)-運動実践家を囲んで運動の実態を聞く会と,研究参加会員によるその運動の評価の研究会とを交互にもって,研究をすすめる。平和運動としては原水爆禁止運動・平和憲法擁護運動・平和文学の運動等々を含めた広い運動を対象とする。
2.原子力問題(伊藤満・庄野博允)=肩のこらない軽い気持で参加できる研究会にする。原子力をめぐる各方両の問題を一つづつとりあげて懇談を行うことから出発する。自然科学部門の人と社会科学部門の人との共同研究の場にしたい。
3.日本における学問の自由=欧州の学問の自由の歴史・日本の学問の自由の歴史・大学自治の問題,現在われわれが直面している問題等々を問題としたい。
(「広島大学人会会報」NO.16)
このほか,平和文学(または国民文学)の問題を取りあげることも検討されたが,結局見送ることになった。
平和運動の研究班は,8月17日に大原亨(広島県労議長)・松江澄(平和擁護委)・棗田金治(広大自治会)から労組・学生団体の平和運動について,同月20日に円辺耕一郎・藤居平一(広島県原水協)・山口勇子(広島子供を守る会)・松江澄から原水爆禁止運動について,また,23日には米田栄作・望月久・島陽二(詩人)・佐々木豊・志木寥波(歌人)・小林健三・土谷厳郎(平和問題談話会)・桑原英昭(人類愛善会)・河本一郎(FOR友和会)・金井利博(中国新聞社記者)から宗教・文化関係の話を聞く会を開いた。この3回の懇談会の記録は,同年12月に石井金一郎により『広島の平和運動(平和運動研究班(中間報告)」としてまとめられた。同書は,「広島の平和運動研究資料一」と銘打たれていたが,1957(昭和32)年中に「同二」として『原爆被害者の歩み』(庄野博允執筆)が、また「同三」として『原爆被害者救援の動き』(佐久間澄執筆)がそれぞれ発行された。
なお,原子力の班は,討議の資料として原子力に関する自然科学・社会科学各方面にわたる国内文献目録の作成と原子力問題についての歴史年表の作成を計画,前者については,1957(昭和32)年3月に「原子力問題研究資料1原子力関係文献目録』(佐久間澄編)として発行している。
広島平和委員会
昭和33年9月27日,広島市内の光道会館で広島平和委員会の結成総会が開かれた。
これは,在広の日本平和委員会々員十余名の集まりであった広島平和協議会が原水爆問題に限定されがちな広島県原水協の制約を越えて、原水爆問題のみならず、民主主義の確保、憲法擁護,基地撤廃など広範な平和運動を進めるための組織として準備したものであった。(広島平和協議会「広島平和協議会へ参加のお願い」昭和33年9月)。
成総会には県内から50人が参加(総会当日の入会者は60人)し,日中関係・勤評問題・国際続一行動の点について討議を行った。また,当日,会長(佐久間澄)・幹事(佐久間・板倉静夫・三宅登・石井金一郎・村中好穂・石田千鶴子・松江澄)を決定している(「広島平和ニュース」No.1)。
広島平和委は,10月末に労働者を中心とした部会を開いたが,40人近く参加した。この時の討議で岩国基地行進を成功させようということが強く主張された。この行進というのは,10月16日に広島で開催された日本原水協中国ブロック山陽側会議で決定されたものである。この時,11・1国際共同行動デーの取り組みとして,広島・山口両県原水協共催で,核武装阻止岩国墓地平和大行進と岩国市における大衆集会を開催することとなった(「広島原水協情報」No.1 昭和33年10月30日)。
11月8日から9日にかけて広島から岩国まで40人近くの人々が徒歩行進を行ったが,その半数以上は広島平和委の労働者部会に参加した者かあるいはその働きかけによる参加者であった。広島平和委員会が結成後初めて取り組んだ続一行動である岩国基地行進の成功は,その後の平和運動に少なくない影響力を与えた(「広島大学人会会報」N。.22)。同会自身の総括によれば,その意義は次のようである。
①平和委員会グルーブによる目的意識的な活動によって基本的に成功した。労働者部会の果した役割はこの成功を決定づけた。
②運動の目標の面で,不充分ながらも警職法闘争を平和を守る運動の一環としてとらえ,この闘争に組織された力を意識的な行動方向をうちだすことによって,民主主義と平和の闘争を統一的に発展させた。
③運動の方法の面で,従来くりかえされた官僚的な上からの動員方法を打破し下からの自主的参加とそのための活動を強調し,それは基本的に実現され,今回の「行進」の重要な特徴としてその成功を保障する主要な原因となった。
④この「行進」は従来の一般的,抽象的な原水禁運動を,昨年の美保基地闘争から発展させ,具体的な基地反対の行動にたかめ広島の平和運動を前進させた。
⑤さらにこの「行進」は国鉄第二支部の経験にみられるように,行動を通じて活動家をつくりだし,今後の平和活動の一層の発展を保障した。
昭和33年12月初めには,会員数は100人を越え,各地・各職域に,平和委員会結成の動きが生まれた。
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。