「広島市平和記念式典」カテゴリーアーカイブ

特別来賓の案内数(1991年)

特別来賓の案内数(1991年)

区分 人員
国機関 9
県関係 2
名誉市民 4
特別名誉市民 3
被爆者代表・遺族代表 55
長崎市民代表 3
地元選出・出身国会議員 18
22人委員会 24
国の出先機関 49
財界代表 17
市政功労者 40
平和問題調査会 18
平和文化センタ- 35
平和団体関係 8
広島市原爆被爆者協議会 9
広島原爆障害対策協議会 20
医療機関・研究機関 8
その他 10

出典:広島市『平成3年平和記念式典資料』

合唱団の構成(1991年)

合唱団の構成(1991年)

NO. 合唱団名 人員
1  広島大学合唱団 10
2 広島大学グリークラブ 14
3  広島大学東雲混声合唱団パストラール 24
4  広島女子大学 フラウエン・コール 6
5  広島少年合唱隊 72
6  広島少年合唱隊 母親コーラス 28
7  広島ジュピター 少年少女合唱団 76
8 広島放送児童合唱団 80
9  広島中央合唱団 13
10 広島ジュニアコーラス 48
11 エコー合唱団 11
12 広島合唱同好会 9
13 袋町小学校PTAコーラス部 23
14 コール・テンマ 31
15 基町小学校PTA 2
16  尾長小学校PTA ママさんコーラス 12
17 鈴が峰小学校PTAコーラス 12
18 舟入高校音楽部 8
19 ィンランド・タピオラ少年少女合唱団 39
(19団体) 518

 

 

原爆死没者名簿奉納数

表3

追加数 内数①②③ 総数
1952 57902 57902
1953 391 58293
1954 212 58505
1955 523  59028
1956 680  59708
1957 185 15   59893
1958 173  60066
1959 187  60253
1960 161 95 66 60414
1961 139 64   60553
1962 125 83 42 60678
1963 127 29   60805
1964  169 44  60974
1965 469 69   61443
1966 550 68 61993
1967 430 157 43 62423
1968 1101 521 428 121 63524
1969 9211 1390 6764 1035 72735
1970  3606   1228   1122  1196 76341
1971  1745  243   389  1107 78086
1972  2097   204 319  1567 80183
1973  2650   321  742   1575 82833
1974  1970  139  396    1429 84803
1975  2172  128  450  1590 86975
1976   2159   114  392 1647 89134
1977  2282  1 43   528  1611 91416
1978  2179  97   370  1712 93595
1979   2090  59  318 1713 95685
1980  2279  71   355  1853  97964
1981    2753  82   656  2015  100717
1982   3060  112  792   2153  103777
1983  5179  65  2648    2466  108956
1984   4315  56  1685   2573  113271
1985  25419  123  22009 3234  138690
1986   4941  165  1018 3656  143590
1987   4619  110   993  3473  148177
1988   4476   114  931  3428  152650
1989 4 424   23  921  347 4  157071
1990  10175  1565  5117 3483  167243
1991 4787 20 1081 3682 172024
 2021

注:①1945年8月6日死没者
②1945年8月6日~前年8月5日死没者
③前年8月6日~当年8月6日死没者
出典:1967年までは新聞報道、68年以降は広島市原爆被害対策部資料

平和式典(1947・52・91年)の式次第

平和式典(1947・52・91年)の式次第

1947年 1952年 1991年
開会挨拶  開会の辞  慰霊碑献水
平和塔除幕 慰霊碑除幕 開式
平和の歌合唱 原爆死没者過去帳奉納 原爆死没者名簿奉納
平和宣言 式辞 式辞
平和の鐘 平和の鐘・黙とう 献花
(平和への祈り) 平和宣言 黙とう・平和の鐘
メッセージ 放鳩 平和宣言
祝電披露 メッセージ朗読 放鳩
放鳩 平和の歌合唱 あいさつ
平和記念樹植樹 閉式の辞 ひろしま平和の歌
平和賛歌合唱 閉式
閉会の辞

出典:『中国新聞』、広島市『平成3年平和記念式典資料』

 

 

海外での関心(平和式典への関心)

平和式典への関心

(5) 海外での関心
広島市の平和へのよびかけは、世界中に大きな関心を呼び起こした。このような関心の高まりは広島市長に送られてくる海外からの書簡の増加にも見ることができる(表11)。市長あての書簡数は、第3回平和祭が開催された1949年(昭和24年)末までに300通を超えた。また、平和祭が中断を余儀なくされた50年1年で315通もの書簡が届いていることは、この時期の広島への関心がいかに高かったかを示している。書簡の内容は、同情・激励的なものから、次第に具体的な協力・支援・要望となった。国別では、アメリカからのものが大半であるが、ドイツ平和協会、ベルギー・ストップ・ウォー協会、オーストラリア平和誓約同盟、デンマーク・ノー・ウォー協会などヨーロッパの平和団体からのものも見られた。また、これらの書簡は、MRA大会(スイス)、世界連邦政府樹立運動の会議(スウェーデン)、世界平和主義者会議(インド)といった世界的な平和会議における広島への関心やニューヨークにおける広島ピース・センタ-建設準備委員会の結成の動きなどを伝えた。
平和宣言が、初めて海外に送られたのは1948年のことである。広島市あての海外からの書簡には、これに対する返書が多く含まれていた。49年の宣言に対する返書は、1月後に約30通あった(「中国新聞」48年9月10日)。また、占領期の書簡の多くは、「ノーモア・ヒロシマズ運動」関係者のものであった(「第2回平和祭」、「第3回平和祭」参照)。52年の平和記念日に中国新聞社の要請に応えて、アルフレッド・パーカー、ノーマン・カズンズ、パール・バックなど8人が広島市民にメッセージを送っているが、そのほとんどは、この運動の関係者であった(「中国新聞」52年8月6日)。
1952年には、チェコのプラーグ市平和委員会も、広島市の平和式典に電報を寄せた。広島市が平和宣言を社会主義諸国に初めて送ったのは、54年のことであるから、平和・独立・民主主義のための共同闘争を呼びかけたこの電文は、広島市への返信ではなく、独自のものであった。54年には、インドネシア平和委員会、北カリフォルニア平和会議をはじめ、日本放送協会の働きかけでエレノア・ルーズベルト夫人からも原爆記念日へのメッセージが寄せられた。また、
社会主義国の諸都市や世界各国の平和団体から平和宣言への返書が、続々広島市に届いた。これらのほとんどは、原水爆禁止についての広島のメッセージに賛同するという内容のものであった。都市からの返書には、ホノルル、シカゴ、サンフランシスコ(アメリカ)、バンクーバー(カナダ)、ジュネーブ(スイス)など欧米の諸都市をはじめ、モスクワ、スターリングラード、レニングラード、北京、プラーグ、ドレスデン、ソフィア、カール・マルクスなど社会主義諸国の諸都市からのものがあった。
原爆10周年の1955年には、前年以上に多くの関心が式典に寄せられた。8月15日までに海外から広島市に届いた書簡は、約60通にも及んでいる。また、翌年1月に宣言への反響をまとめたところ、238通(うち社会主義国からは82通)という宣言発送数151通をはるかに上回る書簡が届いていた。寄せられた書簡を国別に見ると、フランス88通、東独62通、米国とオーストリア17通、ハンガリー15通などとなっている(「中国新聞」56年5月2日)。
1956年8月6日の日本向けモスクワ放送は、つぎのような内容の「再び広島の悲劇を繰り返させるな」と題する解説を放送した。
今日では8月6日は悲しみの日であるだけでなく、闘いの日となった。「広島の悲劇を繰り返させるな」という言葉は、文明とこどもの幸福な将来を尊ぶすべての人々のスローガンとなった。原子兵器の禁止を要求する人類の声はいま世界のいたるところで響いている。(以下略)
(「中国新聞」1956年8月7日)
この年には、11月下旬までに、世界各国の都市長、平和団体やヘレン・ケラーなど著名人から20通の返書が届いた。また、57年の宣言の返書は17通、60年には40通あったことが報じられている。
広島市は、1968年6月下旬、ノーモア・ヒロシマの訴えを一層盛り上げるために平和記念日に向けてメッセージを送るよう海外29人、国内17人の著名人に要請した。この要請に海外15人、国内11人、合わせて26人が応えた。また、この年には、山田市長が5月27日にローマ法王パウロ6世に会見し、式典への招待状を渡したことから、法王より式典にメーッセージが届けられた。
1960年代後半から、世界の関心はベトナムに向けられた。69年の平和記念日に広島に寄せられたメッセージは、3通だけという低調ぶりである。74年以降、広島市は前述のように平和宣言の普及に様々な工夫をこらすようになった(「平和宣言の普及」参照)。80年には、海外の172人を対象に平和宣言についてのアンケート調査を実施し、宣言への意見や提言を求めた。その結果、17国47人から宣言の内容を支持する感想や意見が寄せられた。同様の調査は、翌81年にも実施されたが、33国128人から感想や意見が寄せられている。
海外の新聞も、式典に大きな関心を寄せてきた。ニューヨーク・タイムズは、毎年、平和記念日に関連した報道を行なっている。1947年には、マッカーサーのメッセージを中心とした東京発のAP電を掲載し、91年には、海部総理の式典でのあいさつを紹介したAP電を紹介した。ザ・タイムズ(ロンドン)が、広島の式典を初めて報道したのは51年である。これ以後、ほぼ毎年、広島または長崎への原爆投下日に関連した報道を行なっている。91年には、8月6日に広島の平和記念公園で祈りを捧げる人々を取材した写真を掲載した。
被爆40年(1985年)の広島の式典は、世界的に反核運動が高まっていたことと節目の年であることから、テレビ20社、新聞13社、通信8社、ラジオ4社など計49の海外のマスコミが取材した。米国3大ネットワークであるCBS、NBC、ABCが、それぞれ中国放送、広島テレビ、NHKの協力を得て、式典の模様を衛星中継した。このうちNBCとABCのものは、自局のニュースキャスターを広島に派遣しての放映であった。

マスコミの関心(平和式典への関心)

平和式典への関心

(4) マスコミの関心
日本のマスコミは、平和式典を初期の段階から積極的に報道した。NHKは、1947年(昭和22年)の第1回から実況放送を行なっている。47年は、ローカル放送であったが、48年と49年には、全国中継がなされた。51年と52年は、ローカルに戻ったが、53年以降、再び全国放送となり現在に至っている。広島局のテレビ放送が、56年3月に開始され、16ミリフィルムなどで取材された式典の模様がニュースとして放映された。テレビ中継は、開局から3回目に当たる58年から始まった。当時、広島局にはテレビ中継車は配備されておらず、中継は、福岡から派遣された中継車と技術スタッフが担当した(『NHK広島放送局60年史』)。
広島の民間放送局は、1952年10月に中国放送(ラジオ)が開局したのを手はじめに、59年4月の同局のテレビ、62年9月の広島テレビ放送、70年12月の広島ホームテレビ、75年10月のテレビ新広島と続いた。中国放送は、53年8月6日午前8時から30分間、平和式典を実況放送したが、これは、大阪朝日放送、ラジオ九州、ラジオ長崎などに中継された。テレビ各局も、開局直後の平和式典から中継を継続的に行ない、系列局を通じて全国各地に放映されている。
中国放送は、1970年の式典の模様を、8時13分から17分までの4分間、米国CBS系を通じて衛星中継した。この中継は、式典の衛星中継としては初めてのものであり、中国放送-TBS-国際電電十王無線局(茨城県)-インテルサット3号-CBSのルートで送られた。NHKは、89年の8月5日午後3時から7日午前0時までの33時間、衛星第2放送で「BSサマースペシャル-ヒロシマから世界へ、世界からヒロシマへ」を放送し、この中で式典の模様を世界に伝えた。NHK衛星第2による同様の放送は、90年と91年にも実施されている。
新聞各社も、式典の模様を報道し続けてきた。報道は、地元紙のみでなく、全国紙においても行なわれた。たとえば、朝日新聞(東京版)は、すべての式典を報じており、しかも、そのほとんどは、夕刊一面のトップかそれに準ずる扱いをしている。また、各紙は、早い時期から、8月6日前後の社説で平和記念日に言及している。朝日、読売、毎日、日経各紙の社説を追ってみると、この日に関連した社説は、1949年8月6日の朝日(「広島に残る“生きた影”」)、毎日(「平和のいしずえ」)、日経(「原爆4周年を迎う」)の社説を始めとして、51年朝日「原爆6周年」、52年朝日「“力による平和”への反省」、53年朝日「原爆貯蔵量と国際情勢」、毎日「原爆の日に思う」、54年朝日(「原子兵器の使用禁止」)、読売(「原爆記念日に答えるの道」、毎日(「原子力を平和の道へ」)と続き、55年以降は、4紙が、ほぼ毎年、8月6日前後に、広島・長崎に関連した社説を掲げ続けている(日経の場合、8月6日前後に原爆に関連した社説の無い年は、56年・66年・68年の3年)。これらから、日本の全国紙が、戦後の早い時期から原爆被害や平和記念日を特別の被害あるいは特別の日として意義づけてきた ことを知ることができる。こうした意義付けは、現在では多数のローカル紙においても見ることができる。表10は、91年8月6日前後のローカル紙の社説である。

日本政府の関心(平和式典への関心)

(3) 日本政府の関心
片山哲内閣総理大臣は、1947年(昭和22年)の第1回平和式典に対し、つぎのようなメッセージを寄せた。

広島の市民諸君、原子爆弾2周年の記念日はまさに本日である。しかし諸君はこの事より深く三たび平和記念の年を迎えた事を心から祝福しているであろう。古来戦争こそは暗黒の世界に国民を導入する。しかも多くの惨禍と犠牲の伴う事を吾々に訓えている。かつて軍都として栄えた広島市が僅か一箇の原爆によってヴェールを吹き飛ばしかつ日本を平和へ導いた、あの感慨深き回顧の数々は吾々日本国民のみに止らず、世界の人々にまでこよなき教訓となったと私は確信するものである。
すなわち世界平和発祥の地広島の未来永劫に記念さるべきは当然であり、第2のメッカと称さるるも故なきに非ずと私は思う。その広島市が、今日の記念すべき日を卜して平和祭を挙行し世界平和礼賛のシンボルとなり、かつ平和の旗幟を妙なる聖鏡愉楽のメロデーと共に高く掲げた事は一広島、一日本としてでなくその意義は深淵にしてかつ高遠であると感激に堪えない。(後略)

中国新聞は、このメッセージに「世界の誇り広島 賛えん平和のメッカ」との見出しを付して掲載した(「中国新聞」1947年8月6日)。この式典には、松岡駒吉衆議院議長や松平恒雄参議院議長も、メッセージを寄せており、それを報じた中国新聞の見出しは、それぞれ「新日本建設の先駆」、「微笑め十万犠牲者 霊に誓わん文化日本」である。これらは、いずれも広島の被害を国家的・世界的なものととらえ、廃墟の中から復興に立ち上がる広島市民の意欲に敬意を表するとともに、復興への努力を期待している。総理のメッセージには、原爆被害への同情や弔意の言葉を見ることができないが、衆参両院議長は、いずれも犠牲者に同情を寄せ、参議院議長は、死者の霊に弔意を示した。
その後平和式典にメッセージを寄せるか、式典で挨拶(代理出席を含む)をおこなった総理は、芦田均(1948年)、吉田茂(49年・51-54年)、鳩山一郎(55-56年)、岸信介(57-59年)、池田勇人(60-64年)、佐藤栄作(65-71年)、田中角栄(72-74年)、三木武夫(75-76年)、福田赳夫(77-78年)、大平正芳(79年)、鈴木善幸(80-82年)、中曽根康弘(83-87年)、竹下登(88年)、宇野宗佑(89年)、海部俊樹(90-91年)と続いた(式典への参列状況は、表70)。これらの挨拶の内容から、日本政府が式典に寄せた関心を伺うことができる(挨拶は、全文か要旨かは不明のものが多いが、63と64の両年を除き新聞紙上に紹介されている。また、原文が確認できる最も早いものは、52年の式典へのメッセージである)。
1952年のメッセージは、原爆犠牲者への弔意を表明するとともに、日本国憲法の理想を世界に明らかにしようとする広島市の平和都市建設を進めつつある広島市民に敬意を表した。後者は、それまでのメッセージにも見ることができた。しかし、前者つまり犠牲者への弔意は、この年が初めてであり、これ以後常に盛り込まれるようになった。
「原爆被害国」と「誓う」という表現も関心の変化を示している。「原爆被害国」という表現は、1959年までは見あたらないが、60年には「わが国は世界最初の原爆被害国として今後も原水爆の禁止を世界に訴えねばなりません」という形であらわれ、以後、ほぼ毎年確認することができる。この表現は、広島・長崎の原爆被害を地方レベルと被害としてではなく、国家レベルの被害としてとらえることを意味している。それゆえ政府が、この表現を採用したことは、採用前と比べ、より主体的に式典にかかわっていると理解することができよう。一方、「誓う」という表現が初めて使用されたのは、65年である。それまでは「世界に訴えねばなりません」といった教訓調が一般的であった。ところが、65年には「原爆犠牲者の霊前に人類恒久平和確立のため最前の努力を尽すことを誓う」という形で、自らの決意を明らかにした。
このほかに、「被爆者」への言及が1969年に現れた。69年のあいさつは、「当市には10万に近い原爆被爆者が今なお生命の不安に脅かされながら生活し、また多数の原爆死没者の遺族が忘れえない悲しみを秘めて生活しておられます」と述べている。さらに、71年からは被爆者に対する「福祉の増進をはかる」決意を明らかにするようになった。
1991年の海部総理のあいさつは、(a)原爆犠牲者への弔意表明、(b)都市建設と平和に努力する広島市民への敬意表明、(c)国際状勢と日本平和外交の紹介、(d)被爆者対策充実の決意表明、(e)恒久平和達成への努力の誓いの五つの要素から構成されているが、こうした挨拶が確立したのは71年のことであった。
総理大臣の式典への参列状況(本人か代理か)や、式典参列のため広島に来訪した時の行動からも、政府の式典に対する関心を知ることができる。前述したように、政府は、1965年(被爆20周年)以降、広島県と地縁関係のない閣僚クラスを総理代理として式典に派遣するようになった。このことは、政府の式典に対する関心の強度が、以前と比べて高まったと理解することができよう。
一方、総理代理を閣僚の誰が務めたかは、政府の関心の内容を示している。初期の総理のメッセージは、広島平和記念都市建設法に基づく広島市の復興に敬意を表していた。同法の所管が建設省であることからすれば、建設大臣の代理も考えられる。また、浜井市長は、被爆20周年の式典にあたり平和宣言を総理自身に読み上げて欲しいとの希望を持っていたが、そのためであれば外務大臣の代理も不自然ではない。しかし、総理代理を務めたのは、総務長官や官房長官以外はすべて厚生大臣である。このことは、政府が、総理の式典でのあいさつに含まれるさまざまな要素の中で、「被爆者対策」や「原爆犠牲者への弔意」を特に重視していることを示している。
式典に参列した大臣の行動は、1970年以降、マスコミで詳しく取り上げられるようになった。70年の内田厚生大臣は、式典参列を機会に、広島原爆病院(現、広島赤十字・原爆病院)と原爆被爆者養護ホームの慰問、71年の佐藤総理大臣は、平和記念資料館の見学と原爆養護ホームの慰問を行なっている。このように、式典参列に際し市内の平和記念資料館や被爆者の医療・援護機関を見学あるいは慰問するという総理(もしくは代理)の広島での行動は、その後も続けられ、現在にいたっている。また、76年の三木総理大臣の時、「被爆者代表から要望を聞く会」が開かれ、以後、恒例となった。91年に来広した海部総理は、式典参列後、原爆養護ホーム(神田山やすらぎ園)を慰問し、在日本大韓国居留民団広島県地方本部原爆被害者対策特別委員会、広島県原爆被害者団体協議会(森滝市郎理事長)、広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会、広島県原爆被害者団体協議会(佐久間澄理事長)、財団法人広島市原爆被害者協議会、広島県朝鮮人被爆者協議会、広島被爆者団体連絡会議の7団体代表の要望を聞いた後、離広した。
式典の中に直接現れるわけではないが、1979年以降、式典に国庫から補助金が支出されるようになったことも、政府の式典への関心の変化を示すものである。補助金は、79年度は約300万円であったが、81年度には、全国の原爆遺族の招へい旅費など補助対象が拡大され、約600万円に増額された。さらに、85年に約900万円に増額され、現在に至っている。

一般参列者(平和式典の参列者)

平和式典の参列者

(7) 一般参列者

平和式典への参列者の顔ぶれは、広島市当局の招待者と同様、一般参列者も、年ごとに多彩となってきた。賀茂郡西条町(現西広島市)の原爆被害者の会は、1958年(昭和33年)に地元で第1回慰霊祭を開催したが、翌59年には、第5回原水爆禁止世界大会への参加をかねて、貸切りバスで式典に参列した。こうした被爆者団体の組織的な式典への参加は、その後も見ることができる。73年には西宮市原爆被害者の会の会員44人が参列した。この旅費は、原水爆禁止西宮市協議会が結成15周年を記念して全額負担していた。被爆40年にあたる85年には、被爆者団体の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会が、墓参団を組織し、平和記念式典に参列した。
甲府市は、1984年の平和式典に市民代表約50人を派遣した。甲府市議会は、82年7月に県庁所在地の都市としては初めて「核兵器廃絶平和都市宣言」を決議したが、広島の式典への市民の派遣は、宣言に基づく具体的な行動の一つとして企画されたものであった。自治体による式典への市民派遣は、非核宣言自治体の増加とともに増えていった。広島市に連絡された限りの数(配席要望数)であるが、89年24団体422人、90年36団体603人、91年38団体1,005人となっている。91年の式典に多くの市民を派遣した自治体としては、東大阪市(「広島平和バスツアー」100人)、甲府市(80人)、藤井寺市(「平和バス」50人)、高知市(「広島平和のバス」50人)、藤沢市(「広島平和ツアー」48人)などがあった。

遺族、被爆者、市民、平和団体代表(平和式典の参列者)

平和式典の参列者

 

(6) 遺族、被爆者、市民、平和団体代表
当初の式典は、占領軍関係者、政府代表を中心とした官製色の強いものであった。しかし、遺族代表の花輪奉呈(1954年)、「原爆乙女」の平和の鐘点打(57年)、被爆者代表の献花(61年)など、市民的色彩を強める工夫が徐々になされた。
1970年(昭和45年)の式典で採用された「流れ献花」は、市民的色彩の強化という点では、画期的な試みであった。この年、市長、総理大臣代理などの献花に引き続いて、10才から75才までの市民代表男女各25人計50人が、白と黄の菊を各3輪計6輪ずつ原爆死没者慰霊碑に献花した。50人の大半は、市内の各地区社会福祉協議会などから推薦された日本人であったが、在日本大韓民国居留民団広島地方本部と在日本朝鮮人総連合広島県本部から推薦された韓国人・朝鮮人代表の姿もあった。この式次は、被爆25周年という節目の年にあたり広島市が採用したものであった。しかし、その後も続けられ現在に至っている。参加する市民の数は、70年に倍増された。91年には市内の地区社会福祉協議会(67人)、広島市原爆被爆者協議会(6人)、広島被爆者団体連絡会議(6人)、日本原水爆被害者団体協議会(1人)、在日本大韓民国居留民団広島地方本部(1人)、広島県朝鮮人被爆者協議会(1人)、日本労働組合総連合会広島県連合会(2人)から推薦された84人が、流れ献花を行なった。
このほか、1981年からは全国の各都道府県から毎年1人ずつ原爆犠牲者の遺族代表が招へいされるようになった。厚生省は、80年12月の原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申に沿う犠牲者に対する特別な弔意として、81年度予算に式典参列に対する補助金394万円(うち広島分169万円)を計上したが、この招へいは、これに伴う措置であった。広島市は、厚生省の予算に市費57万円を上積みして実施した。81年には、47都道府県から参列した遺族のうち、北海道と沖縄から参列した遺族2人が、全国の遺族代表として「献花」を行なった。なお、遺族代表の枠は、被爆40周年の85年のみ1県1人から3人に増やされている。これは、被曝40周年記念事業として「原爆被爆者援護事業功労者厚生大臣表彰」が広島市で行なわれたためである。
原水禁運動関係者の公式の参列は、1964年以降途絶えていたが、68年から再び見られるようになった。同年6月24日、山田広島市長は、原水禁運動を進めている3団体(原水協、原水禁、核禁会議)の代表を3団体の統一を願って特別来賓として招待すると発表した。また、世界連邦主義者である山田市長は、この年から、原水禁団体の代表とともに世界連邦諸団体(世界平和アピール7人委員会、世界連邦建設同盟、世界連邦宣言自治体全国協議会)の代表も招待している。91年の式典には、原水禁3団体、世界連邦諸団体(世界平和アピール7人委員会、世界連邦日本国会委員会、世界連邦建設同盟)のほかに核戦争防止国際医師会議日本支部、原水爆被害者団体協議会の代表が、「平和団体関係者」として招待された。このほかに、最近では、広島平和文化センタ-、核軍縮を求める22人委員会、平和問題調査会の関係者やメンバーも、招へいされている。

海外からの参列者(平和式典の参列者)

平和式典の参列者

(5) 海外からの参列者

1955年(昭和30年)の原水爆禁止世界大会(第1回)には、14か国52人の海外代表が参加した。この中のインドから参加した夫妻が、平和式典において「花輪奉呈」を行なった。この後、広島市が再び世界大会の会場となった59年(第5回)および61年から63年(第7-9回)にかけても、「花輪奉呈」という形で、世界大会参加の海外代表が式典に公式に参列していた。しかし、広島市は、63年の世界大会の混乱を契機に、世界大会外国代表の「花輪奉呈」を廃止した。
1967年4月に広島市長となった山田節男は、同年6月2日に開かれた平和式典実施要項を検討する市の幹部会議で、世界の著名人を式典に招く構想を明らかにした。しかし、在任中に、この構想が具体化することはなかった。ところが、この構想は、つぎの荒木市長により、国連関係者の参列という形で実現された。70年代中ごろから、非同盟諸国や国際的な平和団体は、核軍縮への関心を高め、そのイニシアティブを国連に求めるようになっていた。広島・長崎両市長も、76年12月1日、国連本部を訪問し、ワルトハイム事務総長とH.S.アメラシンゲ国連総会議長に核兵器廃絶への措置を要請した。さらに、両市長は、翌77年5月15日、式典への招請状を発送した。こうした両市の働きかけに応え、77年の式典には、アメラシンゲ総会議長と国連事務総長代理(マイケル・クラーク国連広報センタ-所長)が両市の式典に参列した。その後も、85年にはヤン・モーテンソン国連事務次長が、また86年と89年には明石康国連事務次長が、それぞれ国連事務総長代理として出席している。
広島市は、1984年から名誉市民および特別名誉市民を招へいするようになった。84年には、フロイド・シュモーとメアリー・マクミラン、85年にノーマン・カズンズとバーバラ・レイノルズと、復興期の広島に救済の手をさしのべたアメリカ人が、特別名誉市民として招へいされている。また、85年以降、広島市は、国際会議(シンポジウム)を毎年開催するようになったが、会議(シンポジウム)参加者は、来賓として式典に参列した。
外国人の参列は、式典の中で目だち、マスコミはこれを大きく取り上げた。1969年の式典には、約30人の広島在住の韓国婦人が民族衣装で参列した。同年3月14日にソウルの韓国原爆被害者援護協会と広島折鶴の会が姉妹団体となったことが、この参列の契機となった。その後も、日米学生会議の90人(75年)、婦人国際平和自由連盟一行60人(77年)などの海外からの参列者が見られた。84年には、580人という多数の外国人が参列した。原水爆禁止1984年世界大会参加の90人、7月下旬東京で開催された国際自由宗教者世界大会で来日中の宗教者265人などであった(「朝日新聞」1984年7月28日)。外国人の参列者は、この後も例年300人を超えている。広島市に配席の希望があったものだけでも、85年252人、86年521人、87年354人、88年299人、89年388人、90年312人となっている。広島市は、91年の式典において、こうした外国人参列者のためにレシーバーを貸し出し、英語の同時通訳を流すという試みを初めて採用した。なお、91年の外国人の参列状況は、表8のとおりであった。