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南京の日本軍―南京大虐殺とその背景(藤原彰)

『南京の日本軍―南京大虐殺とその背景』(藤原彰、大月書店、19970801)

内容

はじめに
南京攻略戦と大虐殺
1 南京戦への道程
2 南京攻略戦の展開

南京攻略に参加した日本軍主要部隊

中支那方面軍
(松井石根大将)
[1937年
11月7日編合]
上海派遣軍
(朝香宮鳩彦王中将)
[略] [略] [略]
第10軍
(柳川平助中将)
[1937年
10月20日編成]
第6師団 [略] [略]
第114師団 [略] [略]
国崎支隊(第5師団の一部)
(国崎登少将)
歩兵第9旅団 歩兵第41連隊
(山田鐵二郎大佐)

3 捕虜の組織的殺害
4 市内掃蕩と集団処刑
5 市民への残虐行為
6 南京大虐殺の本質と規模
事件の背景と原因
1 日本軍隊の特質
2 軍の素質の低下

第5師団の兵の役種区分調査結果

(1937年7月27日動員、同年8月20日調査)

人数 百分比
現役兵 6615 27.4
予備兵 7527 31.2
後備兵 3313 13.7
補充兵 6645 27.7
合計 24100 100.0

3 指揮官と幕僚の変質
4 軍機風紀の退廃
5 志気の衰退

「満州事変」と広島

「満州事変」と広島

 1931(昭和6)年9月18日、関東軍は、奉天(現・瀋陽)北方の柳条湖の満州鉄道線上で爆薬をしかけ、これを中国軍による爆破であるとして、張学良軍を奇襲、翌日には満鉄沿線を制圧した。この「満州事変」は、以後、日中戦争・太平洋戦争と足かけ15年にわたる戦争(「15年戦争」)の発端となった。

呉では、1931年10月9日に呉鎮守府所属の巡洋艦「天龍」が、「邦人保護」を名目として、上海に向け出動、上海事件直後には、巡洋艦「大井」および駆逐隊4隻が、特別陸戦隊2個中隊を乗せ上海に向った。また、11月以降、広島の宇品は増援軍の乗船港として利用され、12月には、第5師団の一部が天津・北平(北京)方面の警備に出動した。

政府は、英米との対立を避けるため事件の不拡大方針をとったが、関東軍はこれを無視してつぎつぎと軍事行動を起こし、翌年1月までに満州(中国東北部)全域を占領した。この間、軍部は、満州に傀儡国家を樹立する工作をすすめ、1931年11月には天津事件を起こして清朝最後の皇帝溥儀を満州に連れ出した。そして翌32年1月18日には、列強の目を満州での新国家樹立工作からそらせるため、上海事変を引き起こした。1932年3月1日の満州国建国後、日本政府は、国際連盟を脱退(1953年)し、1936年11月25日には日独防共協定を締結した。

国内では、「満州事変」後、血盟団事件(1932年2月9日)、5・15事件が相次いで起こり、「満州事変」を契機に日本の社会は、急速に戦争とファシズムの時代に突入した。

軍隊の歓送迎

県内では広島・福山・呉を中心に、市民が歓送迎にかり出され、戦争熱に巻き込まれた。県は、1931年11月列車で来広し、宇品を出発する第8師団(弘前)混成第4旅団の見送りのため、沿線各町村は国旗または提灯を掲揚、各駅および沿線には各種団体が出て歓送するよう通牒した。弘前部隊は16日の広島駅頭での大歓迎を受けた後、翌17日には10万人の市民に見送られて出発した。また、この日の鈴木旅団長の訓示が広島放送局を通じ全国放送された。

12月の第5師団の出発では、第41連隊(福山)連隊長が同師団の派遣隊長であり、福山での歓送が盛り上がった。市議会が満場一致で採択した送別文を決議して激励した。19日には、市民が提灯行列を行って門出を祝うとともに、21日の福山駅出発にあたっては10万人が見送った。同日の宇品港出発に際しても、1000隻の船が歓送し、宇品付近で13万人の人出が見られた。こうした宇品港・広島駅での歓送迎は、事変後から翌1932年10月末までに462回にも達している。

1932年2月6日、呉市で挙行された上海事変後最初の呉鎮守府所属戦死者2名(三重・岡山出身者)の海軍合同葬(第1次)には、4万人が会葬した。(『呉日日新聞』1932年2月7日)

慰問金・国防献金

戦争支持の具体的行動は、慰問金・国防献金への参加という形でも現れた。広島連隊区司令部は、事変発生から1か月後、在満将兵と山海関警備にあたっていた歩兵第11連隊細川中隊への慰問金品募集を始めた。最終締め切りの1931年11月末には、慰問金の総額は、1万円余となった。ところが、12月10日に、第5師団長、広島・山口・島根各県知事、帝国在郷軍人会第5師管連合支部長らが呼びかけた国防献金では、37万円という桁違いの額に達した。これは、「勅諭拝受50周年記念事業兵器献納」と銘打って募金運動で、集まった金は、37万円余で軍用機5機が建造され、残りの22万円は高射砲などの防空兵器に当てられた。

1932年7月24日、広島市の東練兵場で軍用機5機の命名式が、梨本宮・小磯陸軍次官などの来賓のほか5万人の市民の参加のもとに挙行され、愛国第32号~35号、第40号の模範飛行が行われた。

陸軍で起こった軍用機献納熱は、海軍にも波及した。呉では献納のための後援会が1932年2月14日に結成され、献金11万5000円余で戦闘機2機を建造し、1932年5月13日、広工廠で命名式(報国第3号、第4号)を挙行した。このほか1933年7月30日にも、呉海工会・広工僚会・徳山燃工会による献納機2機(報国第23号、第24号)の命名式が行われている。

「満州事変」下の主な軍国主義的諸行事

「満州事変」以後、軍国主義的な各種行事が大々的に開かれるようになった。その主なものとしては、つぎのようなものがあった。これらの諸行事は、時局の緊迫した折には、民衆を動員する一大決起の場となり、時局が一段落した折には、意図的に「非常時」を演出する役割を果たした。

年 月日 記念日・関連諸行事、大会など
1932
0424 軍人勅諭拝受50年。
記念式典。広島=在広部隊5000人、市民数千人、呉=2万人、福山=15000人参加。
記念時局博覧会。広島市西練兵場・広島県商品陳列所などで開催。総入場者34万人。
0918 満州事変記念日。
在広部隊・郷軍・小中学生・青年訓練校生など9000人、市中行進。
広島国防研究会主催時局講演会、広島偕行社で開催。
土肥原歩兵第9旅団長・三宅陸軍運輸部長・二宮師団長、満州事変を回顧し講演。
FK、全国に実況中継。
1025 リットン報告に対する広島国民大会(広島西練兵場)。
広島県・広島市・広島商工会議所・在郷軍人会広島市聯合分会・広島国防研究会共同主催。5万人参加。
1933
0211 建国祭・広島国民大会(広島西練兵場)。
県・市・商工会議所・郷軍広島市連合会・国防研究会・広島市町総代連合会共催。7万人参加。
0429 天長節。
在広部隊の観兵式(広島西練兵場)。観衆3万人。
0527 海軍記念日。
記念行事(呉二河公園)。2万人参加。
1229 東宮命名記念行事。
広島市主催奉祝式(比治山御便殿)。招待者2000人、有志5000人参列。
中等学校生徒1万人、西練兵場で奉祝。
尾道市式典(久保小学校)6000人参列、市内を旗行列。
1934
0211 建国祭および皇太子殿下生誕奉祝大会(広島西練兵場)。
広島県・広島市・第五師団・商工会議所その他24団体主催。5万余人参加。
0310 陸軍記念日。
92式装甲自動車献納命名式(広島東練兵場)。
1101 大本営御進転40周年。
記念式典(広島西練兵場)。5万余人参加。
明治天皇行幸記念展覧会、広島城で開催。拝観者総数23万余人。
1935
0327 国防と産業大博覧会(~5月10日)。呉市主催。第1会場二河公園、第2会場川原石海軍用地。
入場者(両会場観覧者)136万余人。
0527 海軍記念日。日本海海戦三十周年記念日。
祝賀会(呉市)。県在住の日露戦争海軍従軍者1000人、呉市在住の陸軍従軍者1000人を招待。
1936
0918 満州事変5周年記念大会(広島招魂社前)。2万人参加。
午後10時30分(柳条湖爆破時刻)、全市で30分の黙祷。

 

国防団体の結成

広島には、帝国軍人後援会・海軍協会・愛国婦人会といった軍事後援団体の支部が存在していたが、「満州事変」後、より積極的な団体が新たに生まれた。上海事変が勃発し海軍が本格的に戦争に介入するようになってまもない1932年2月15日、呉市対支時局後援会が設立された。市当局を中心に市内の各種団体・在郷軍人会・男女青年団など全市をあげての軍事援護機関であった。同会は、翌33年9月30日、呉市国防協会と改称した。広島でも同様の機関として、1932年7月24日に広島国防研究会が設立された。また、「事変」3周年にあたる1933年9月18日には、広島市で広島国防研究会の肝いりで広島国防婦人連合会が発足した。さらに、同月29日には、こうした県内の組織の連合体として広島国防研究会が発会した。

防空演習

広島においては、1932(昭和七)3月、陸軍記念日の行事として広島市青年訓練所連合主催・第5師団後援の防空・市街戦演習が2日間にわたり行なわれた。初日の9日夜半には、3分間の燈火管制が実施され、全市民がこれを実行した。呉においても、同年7月設立された呉・広連合防護団が、秋の陸・海軍合同演習に呼応して、10月24日防空演習を実施した。

防護団というのは、法的根拠はいっさいなく、軍部が市町村長に奨励してつくらせたものであったが、昭和8年2月1日には、広島市防護団が発会式をあげ、3月にかけて、尾道・福山・三原の各市にも防護団が設立された。3月8~9日には、これらの防護団を中心とした第5師管下防空警備演習が実施された。

広島県が直接防空演習に関係するのは、昭和9年からである。7月21日実施された呉鎮守府・第五師団・第11師団連合中国・四国四県下防空演習にさきだって、広島県は、『防空演習必携』を発行し、県内各市町村に演習内容・防護団囲設置基準などを明らかにするとともに、演習中は、知事が県統監を勤めた。こうした軍と広島県の共同主催になる防空演習は、昭和10年・11年にも実施された。演習の模様を、広島・呉周辺の学校日誌から摘記すれぱつぎのとおりである。

年 月日  記事
1932
1020 (広小)第4校時防空演習をなす。
1021 (二河小)午前9時40分毒ガス弾防護演習。午後1時毒ガス弾防護避難映画撮影。
1933
0222 (幟町小)宿直中、防空講演会講堂において行なわる。大盛会なり。
0301 (幟町小)午後1時45分より防空警備予行演習あり。
本校は第5分団本部となり児童の避難訓練をなす。
0308 (幟町小)本日より第5師団管内の防空演習。
午後1時40分爆弾並に毒ガス弾本校に落下の想定の下に3年以下は西練兵場に、
4年以上は泉邸前松原にそれぞれ避難す。
1934
0712 (二河小)燈火管制演習、午後8時半~10時。
1935
0728 (二河小)本校炊事室にて防護団第7分団の炊出をなす。
1936
0909 (広小)防空演習予行。
0912 (広小)防空予行演習(催涙弾投下演習)挙行さる。
よって尋4以下学年は第1時限のみにて授業を打切る。
午前9時半北庭集合(西南高等、北東6年、中央尋5以上)。
0915 (広小)御進転記念日。防空演習午前9時より開始さる。
呉鎮守府長官、広工廠長その他の参観あり。

注:広(呉市)・二河(呉市)・幟町(広島市)各小学校保存の日誌より抜粋

 防空演習とともに、防空展・防空講演会・防空映画会などが開催され、防空思想の普及がはかられているが、軍の記念日や軍事演習の付随行事として行なわれたものが多く、一般には、空襲が現実のものと理解されるというよりも、戦意高揚の行事としてうけ取られたであろう。

東大闘争 その事実と論理(井上清)

『東大闘争 その事実と論理』(井上清、現代評論社、19690520)

章節
はしがき
東大90年の歴史と大学の「自治」
1 天皇制と帝国大学
1東京帝国大学の確立とその役割
2天皇制・帝国主義と大学の「自治」
2 現代日本の大学と全学連
1 占領下の民主改革と大学祁
2 義務教育の統制・産学協同・近代化路線
3 大学の帝国主義的再編と全学連
東大闘争の事実と論理
3 東大闘争の底流
1 学生運動・階級闘争の新段階
2 「師弟関係」の永遠の破綻
3 医局制と医療の帝国主義
4 医学部無期限ストと安田講堂封鎖
1 青医連・医学生の闘争と「理性の府」の実態
2 安田講堂の封鎖と警察機動隊の導入
5 医学部闘争から全東大闘争へ
1 安田講堂の再封鎖=解放と学内諸潮流
2 東大全共共闘の結成とその基盤
6 大学革命の論理と体制内改良の論理
1 全学無期限ストと封鎖の拡大
2 民青の民主化論と全共闘の根元的否定論
7 全国学園闘争の頂点へ
1 加藤近代化路線と11・22総決起集会
2 全共闘の危機とその克服
3 1969年1月の悲壮劇
8 むすび
1 「10項目確認書」と東大改革の行方
2 東大闘争の意義
装幀・片岡真太郎/扉写真・遊佐隆昭

レポート 揺れる京大 紛争の序章

『レポート 揺れる京大 紛争の序章』(京大問題記録編纂会編、現代教学社、19690415)

内容

章―節
はしがき
1 学生部封鎖から自主防衛まで
1-1 寮問題から学生部封鎖へ
1-2 自主防衛と封鎖実力解除
2 教養部無期限ストから2・14代議員大会まで
2-1 教養部無期限ストをめぐって
2-2 2・14教養部代議員大会をめぐって
3 2・21京大ゼネストから本部封鎖まで
4 入試前後の状勢
4-1 労学習会、府市民集会、機動隊問題
4-2 入試実施をめぐって
4-3 入試後の状勢
5 大学の理念の追求
京大紛争日誌
編集後記(植松正、大谷敏夫)

現代歴史学と戦争責任(吉田裕)

『現代歴史学と戦争責任』(吉田裕、青木書店、19970725)

内容

見出し 備考
戦争責任論の現在
日本近代史研究とオーラル・ヒストリーー兵士の戦争体験を中心として
「天皇の軍隊」研究の一視角
南京事件と国際法
敗戦前後における公文書の焼却と隠匿
極東国際軍事裁判と戦争責任問題
占領期における戦争責任論
日本の加害責任と広島・長崎―ワークショップ「原爆被害と国家補償」での報告
閉塞するナショナリズム―日本近現代史研究はどう応えるのか―
日本近代史をどうとらえるのか―自由主義史観研究会の歴史観・戦争観
あとがき

天皇の逝く国で(ノーマ・フィールド)

『天皇の逝く国で』(ノーマ・フィールド著、大島かおり訳、みすず書房、19940210)(作業中

内容

見出し 備考
はじめに
003 「真のパラドックス」(詩)
007 プロローグ
039 Ⅰ 沖縄
  スーパーマーケット経営者
129 Ⅱ 山口
  ふつうの女
211 Ⅲ 長崎
  市長
214 ***1988年12月7日、長崎の定例市議会で、ある共産党議員が市長への質問に立ち、天皇回復祈願の記帳所と、天皇の戦争責任問題について見解をただした。***
314 ***[本島市長]あのときに広島市長が「本島君の言うとおりだ」と言ってくれとったら、日本は変わったとおもうけどねえ***
327 エピローグ
337 後記 ジャパン・ベッシング
344 日本語版へのあとがき
348 訳者あとがき

大久野島毒ガス資料館

大久野島毒ガス資料館
広島県竹原市・大久野島
1988年4月16日開館

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設置団体
大久野島毒ガス障害者対策連絡協議会
会長 竹原市長
副会長 川尻町長 坪川蔵之助
同 大久野島毒瓦斯障害者対策連絡協議会・三原地区対策協議会長 西原栄
広島市長 荒木武
呉市長 佐々木有
三原市長
東広島市長 讃岐照夫
安芸津町長 三好祐三
本郷町長 木原一男
安浦町長 林田健児
豊町長 多武保清水
大崎町長
豊浜町長 石井周
東野町長 望月正博
木江町長 高田大介
瀬戸田町長 和気成祥
大久野島毒瓦斯傷害者互助会会長 梶村政夫
大久野島毒瓦斯傷害者厚生会会長
大久野島毒ガス障害者徴用者協議会会長 山崎一男
大久野島学徒親和会会長
大久野島毒ガス障害者(瀬戸田・因島)久野島会会長 平田清
大久野島毒ガス障害者幸崎地区協議会会長 薬師嘉平
忠海分廠毒ガス障害者協議会会長 梅田光夫
忠海分廠動員児童の会会長 中島市次郎
旧忠海分廠動員学徒の会会長 竹城孝
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大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑

大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑

1984年6月1日 大久野島毒ガス障害慰霊碑建設委員会発足
1985年5月12日 除幕式

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[右より]副碑1(宣言)、主碑、歌碑、副碑2(概要)
主碑
大久野島毒ガス障害死没者
慰霊碑
広島大学医学部長
西本幸男書
歌碑
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くのしまの
けむりに逝きし
同胞の
み霊よ とわに
安らけく
あれ
副碑(宣言)
碑(表)
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宣言

化学兵器は無差別かつ広範囲に人間を殺りくすることでは核兵器、生物兵器と同じであるから、ただちに廃絶されなければならない。
ここ大久野島には、かつて東京第二陸軍造兵廠忠海製造所があり、国際条約で禁止された毒ガスを密かに製造していた。事情を知らされることなく働いた工員・徴用工・学徒・勤労奉仕ほかの人々は、働いているときはもとより、仕事をやめた後も呼吸器などの毒ガス障害に悩まされ、癌の恐怖におびえた毎日を送っている。死没者はすでに千名を超えたが、その多くは毒ガス障害の解明のため身をささげ、国からの救済の道を開くべく、その礎となった人々である。
ここに毒ガス障害による死没者の冥福を祈って慰霊碑を建立し、再びこのような不幸なことを繰り返さないよう広く世界に警告する。

昭和六十年五月十二日
竹原竹原竹原市長 森川繁喜

 副碑(裏)
大久野島毒ガス障害者慰霊碑建立委員会

委員長 広島大学医学部長 西本幸男
副委員長 大久野島毒瓦斯障害者対策連絡協議会会長 竹原市長 森川繁喜
参与 広島大学医学部教授 重信卓三
同  国家公務員等共済組合連合会忠海病院長 行武正力
委員 広島市長 荒木武
同 呉市長 佐々木有
同 三原市長 土居山義
同 東広島市長 讃岐照夫
同 川尻町長 坪川蔵之助
同 安芸津町長 三好祐三
同 本郷町長 木原一男
同 安浦町長 林田健児
同 豊町長 多武保清水
同 豊浜町長 石井周
同 大崎町長 浜中忠一
同 東野町長 望月正博
同 木江町長 高田大介
同 瀬戸田町長 和気成祥
同 大久野島毒瓦斯障害者対策連絡協議会副会長・三原地区対策協議会長 西原栄
同 大久野島毒瓦斯傷害者 互助会会長 梶村政夫
同 大久野島毒瓦斯傷害者 厚生会会長 野川龍一
同 大久野島毒ガス障害者 徴用者協議会会長 山崎一男
同 大久野島毒ガス障害者 久野島会会長 平田清
同 大久野島毒ガス障害者 幸崎地区協議会会長 薬師嘉平
同 忠海分廠毒ガス障害者 協議会会長 梅田光夫
同 大久野島学徒親和会会長 村上照八郎
同 忠海分廠動員児童の会会長 中島市次郎
同 旧忠海分廠動員学徒の会事務局長 竹城孝

建設委員会事務局 竹原市環境保全課長 大頭尚作  同 主査 中谷清
設計施工 (株)竹原造園

 副碑(表)
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毒ガス工場と毒ガス障害
東京第二陸軍造兵廠忠海製造所は、日本陸軍の毒ガス工場として昭和四年に大久野島に設置され、昭和二十年終戦後米軍により破壊された。この工場では各種の毒ガスや信号筒が製造されたが、イペリットの生産に重点が置かれた。
従業員の総数は約五,〇〇〇名に達したが、その多くはせき・たん・呼吸困難を伴う難治の慢性気管支炎にかかり、イペリットが発癌物質であったため喉頭癌・肺癌・などが多発している。広島大学医学部(内科・病理)及び国家公務員等共済組合連合会忠海病院は昭和二十七年以来、毒ガス障害の解明と治療を行っている一方、障害者の切実な要望にこたえ、国は昭和二十九年「ガス障害者のための特別措置要綱」を制定して救済を開始し、その後医学的研究の結果に基づいて救済の範囲の拡大を行っている。また現在では、広島陸軍兵器補給廠忠海分廠の従事者も救済に加えられている。
 副碑(裏)

製造された毒ガスの種類

名称 化学式 陸軍呼称 性質 性状 月産能力
ドイツ式イペリット (略) 黄1号甲(A1) びらん性 黄褐色粘液液体
(気体は無色)
200トン
フランス式イペリット (略) 黄1号乙(A2) 200
ドイツ式不凍イペリット (略) 黄1号丙(A4) 50
ルイサイト (略) 黄2号甲(A3) 淡黄色粘液液体 50
ヂフェニールシアンアルシン (略) 赤1号 くしゃみ性 淡緑色固体 50
青酸ガス (略) 茶1号 窒息性 無色気体 50
クロールアセトフェノン (略) 緑1号 催涙性 微黄色固体 25
ホスゲン (略) 青1号 窒息性 無色~白色気体 初期のみ

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ヒロシマから生物・化学兵器を考える

『全国シンポジウム「ヒロシマから生物・化学兵器を考える」―過去・今・未来全廃のシナリオ―』(広島県教職員組合「広島教育」編集部(編)、広島教育会館(刊)、19931101)<作業中

タイトル 発言者など 備考
01 基調講演「人類はBC兵器を棄てられるか」 常石敬一
第1部 生物・化学兵器の過去と現在
18 ABC兵器廃絶そしてDへ 水島朝穂
20 C兵器廃絶にむけた日本の「国際貢献」 粟屋憲太郎
21 禁止条約の抜け道 常石敬一
22 「私たちの叫びが通じた」条約締結 村上初一
23 水で洗うことを教わった軍国少女 沼田鈴子
31 毒ガス障害者援護の長い道のり 梶村政夫
39 窮地に「毒ガス使え」の命令 谷菅静夫
第2部 全廃へのシナリオ
42 竹田
45 七沢
54 岡田
56 松江澄
59 木原省二
63 岩野
64 宝木
65 中土
67 伊藤
76 生物・化学兵器に対するヒロシマアピール(要旨)

「ヒロシマから生物・化学兵器を考える―過去・今・未来全廃のシナリオ―」<資料集> 1993年1月30日(土) 東方2001(広島教育会館)