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2000年日本平和大会(宇吹メモ)

2000年日本平和大会(宇吹メモ)2000年12月1日~3日

日時 事項【敬称略】 備考
1日
沖縄行きのため年休を取る。
11:40 広島空港2階全日空カウンター前集合。車は無料の臨時駐車場に置くことができた。これなら、飛行機を利用しやすい。
12:55 ANA 277広島空港発-畿内で**(備北平和委員会)と話す-
15:00 那覇空港着。長袖では暑いが、着替えることができず。直ちにバス乗車。周辺は工事中。後でモノレールを作っていることを知る。15:30発。大学生協のハテルマのガイド。
16:20 南部戦跡めぐり。糸満市の平和祈念公園・沖縄県平和祈念資料館見学のみ。ゆったりとしたスペース。建物・展示いずれも金をかけていることは理解できた。閉館直前なので、入館者は、ほとんどいない。
17 那覇市民会館到着。弁当(300円)が夕食。
18:00 日本平和大会in沖縄開会集会。須田博基調報告。ジョセフ・ガーソン(アメリカ)、イアヌゼッリ(イタリア)、イム・サンジン(韓国)、グアダルーペ(プエルトリコ)海外代表挨拶。各地からの報告。-20:30。
22:00 ワシントンホテル(那覇市久米2-32-1、TEL098-869-2511)のロビーで泉忠直より説明。**(全労働・職安)と同室。2~3年の予定で専従をやっている由。労働省の定員削減は無いとのこと。ひどいアトピー。
2日
 07:00 ホテルで朝食バイキング。徒歩で一緒に沖縄バス旭町車庫へ。8時半、沖縄本島北部・中部基地調査バス出発。3号車。**(三重県代表)が車長。ガイドは名嘉。
 09:00  浦添市の牧港補給地区・キャンプキンザーKINZERを海岸側から見学。沖合いに立っている白い波が珊瑚礁のある場所で自然の防波堤になっている。-9:30。車中から、普天間飛行場(宜野湾市)、基地内にある北谷町役場を見る。
 10:00 安保(嘉手納基地)の見える丘。旧日本軍の北飛行場。3000Mの滑走路。灰色はP3C。平和委員会が見つけた場所だが、現在では修学旅行生など観光客を対象に整備。11:00伊芸SAで小休憩。
 11:45  辺野古海岸。金城祐治(辺野古命を守る会代表)の解説。キャンプ・シュワブSHWABの一部。ジュゴンの住んでいた海岸。普天間飛行場代替予定地。-12:20。
 12:40  名護市体育館到着。館の前の路上に座り込んで昼食弁当。
 13:30  名護交流集会。イサ(東村=ジャングル戦闘訓練センターがある。ヘリパット移設問題をかかえる)、コウキアツコ(11月28日に結成したやんばる統一連代表)、トグチタケキヨ(二見以北10区の会)、金城祐治、キナタ(本部モトブ町)、ウエヤマカズオ(一坪反戦地主の会)、宮城サチ(女性ネット)、青森(三沢基地)、愛知県岡崎(富士演習場)の報告。-3時。
 17:00  那覇市民会館着。近くのブックオフに沖縄コーナーがあったので、関係の本を数冊購入。近くのピザ屋で簡単な夕食。
 18:00  P文化の夕べ。子ども獅子舞、琉球舞踊、琉球民謡、琉球舞踊、沖縄空手、真志喜トミのパフォーマンス、エイサーなど沖縄の芸能を楽しむ。-7:30。
 20:30 ワシントンホテル近くの飲み屋「居酒屋六文銭」で、広島県代表団の壮年・老年グループの交流会。10数人参加。オリオンビール、泡盛など、沖縄料理を堪能。-10:30。
3日
 07:00  P ホテルで朝食。タクシーで与儀公園へ。周辺を歩く。
 09:00  分科会テーマ「核密約」。於JA真和志農協ホール。岸本直美(日本原水協)の問題提起。宇吹発言=「各政党は各密約でどういう立場をとおているのか」。-12時。
 13:30  閉会集会。於那覇市民会館。参加者は1500人あったとのこと。広島県代表は、途中で退出。-14:10。
 15:00  那覇空港全日空カウンター前集合予定。那覇マラソン(2万人近く参加)の列で道路を遮断されタクシーを乗り継いで間に合う。土産も買うことができた。職場に3000円の泡盛。
 5:50  ANA 280那覇空港発-17:30広島空港着。7時ごろ帰宅。

2022年5月(日録)

2022年5月(日録)

できごと
01 メーデー。水俣病犠牲者慰霊式。
01 ヒロシマ遺文への投稿=「広島合唱団」
02  ヒロシマ遺文への投稿=「2022年5月(日録)」、「年表:石田原爆訴訟 1973~78年」
03 休日(憲法記念日)。日本国憲法施行75年。
03  ヒロシマ遺文への投稿=「文献:憲法とヒロシマ」、「現代憲法読本」。
04 休日(みどりの日)。ヒロシマ遺文への投稿=「憲法9条を守る音楽と講演の集い(呉)」、「那須正幹」、「くずれぬ平和と人民の解放を求めて」、「日本共産党史関係文献一覧」。
05  休日(こどもの日)。日経コラムに「ヒロシマ戦後史」への言及ありとのこと。
05  ヒロシマ遺文への投稿=「『日本共産党の70年』目次(概要)」、「『日本共産党の70年』目次(第7章)」。
06  ヒロシマ遺文への投稿=「『日本共産党の70年』目次(第8章)」
07  ヒロシマ遺文への投稿=「『日本共産党の70年』目次(第9章)」
08  ヒロシマ遺文への投稿=「『日本共産党の70年』目次(第10章)」
09  ヒロシマ遺文への投稿=「『日本共産党の70年』目次(第11章)」、「『日本共産党の70年』目次(第12章)」、「浄土真宗本願寺派(西本願寺)」、「非核の政府を求める広島の会ニュース」
10  ヒロシマ遺文への投稿=「非核の政府を求める広島の会ニュース 第25号 19950720」、「3・1ビキニデー広島集会(広島県原水協主催)一覧」、「森脇勝義」
11  ヒロシマ遺文への投稿=「非核の政府を求める広島の会ニュース 第26号 19951101」、「非核の政府を求める広島の会ニュース1996年・第27~30号」、「李実根」。
12  ヒロシマ遺文への投稿=「非核の政府を求める広島の会ニュース1997年・第31~34号」、「現代の発見(春秋社)」、「ヒロシマを侵略戦争の基地にするな(広島県平和委員会)」
13  東京にいる息子夫婦、初帰省。大阪・広島から兄・姉も来宅。
13  ヒロシマ遺文への投稿=「非核の政府を求める広島の会ニュース1998年・第35~38号」
14  ヒロシマ遺文への投稿=「遺骨奉還宗教者市民連絡会と壱岐への朝鮮人遺骨移管」
15  沖縄本土復帰50年。野呂山学園へ、花苗を購入。
15 ヒロシマ遺文への投稿=「沖縄本土復帰50年報道(2022年5月15日)」
16  ヒロシマ遺文への投稿=「婦人のあゆみ80年(日本婦人団体連合会編・刊)」、「広島民報 19650425-2」
17  **問題研究会、初のZOOM会議。
18  ヒロシマ遺文への投稿=「広島民報 19650801-12号」、「被爆20年を生きて_『広島民報』連載」、「原爆ゆるすまじ」。
19  ヒロシマ遺文への投稿=「02犬丸義一」
20  ヒロシマ遺文への投稿=「日本共産党(国際問題)重要論文集」、「書誌(日本共産党中央委員会編・刊)」
21  ヒロシマ遺文への投稿=「自衛隊の『観閲式』に反対しよう(広島民報号外)」、「第12回原水禁世界大会特集(『広島民報』1966年)」。
22  ヒロシマ遺文への投稿=「非核の政府を求める会」、「PEACE FOCUS ピースフォーカス(日本平和委員会)」
23  ヒロシマ遺文への投稿=「日本平和委員会発行資料(集)」、「2000年日本平和大会(宇吹メモ)」、「2000年日本平和大会(宇吹メモ)2000年12月3日」、「2000年日本平和大会(宇吹メモ)2000年12月2日」
24  桜が丘へ。倉庫の沖縄関係資料3箱を自宅に持ち帰る。
ヒロシマ遺文への投稿=「2000年日本平和大会(宇吹メモ)2000年12月1日」、「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」
25  ヒロシマ遺文への投稿=「沖縄世界遺産調査 2006年9月12日~14日」、「書誌:琉球王国のグスクおよび関連遺産群」、「今帰仁城跡(なきじん)」
26  ヒロシマ遺文への投稿=「座喜味城跡(ざきみ)」、「勝連城跡(かつれん)」、「中城城跡(なかぐすく)」
27  ヒロシマ遺文への投稿=「斎場御獄(セーファウタキ)」、「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」、「首里城跡(しゅりじょうあと)」、「玉陵(タマウドゥン)」、「識名園(しきなえん)」
28  ヒロシマ遺文への投稿=「書誌:オキナワの心と行動」、「沖縄人民党の歴史」
29  ヒロシマ遺文への投稿=「沖縄人民党の歴史 第1章~第3章」
30  ヒロシマ遺文への投稿=「沖縄人民党の歴史 第4章 弾圧の激化と”島ぐるみ”土地闘争の高まり」、「沖縄人民党の歴史 第5章 瀬長那覇市政と民主主義擁護、祖国復帰運動の発展」、「沖縄人民党の歴史 第6章 軍事的植民地的支配の新段階と県民運動の前進」
31  ヒロシマ遺文への投稿=「沖縄人民党の歴史 第7章 専制支配の強化とそのもとでの共闘と分裂」、「沖縄人民党の歴史 第8章 ベトナム侵略戦争の拡大と大衆闘争の高まり」、「沖縄人民党の歴史 第9章 革新共闘の発展と三大選挙の勝利」、

ヒロシマから生物・化学兵器を考える

『全国シンポジウム「ヒロシマから生物・化学兵器を考える」―過去・今・未来全廃のシナリオ―』(広島県教職員組合「広島教育」編集部(編)、広島教育会館(刊)、19931101)<作業中

タイトル 発言者など 備考
01 基調講演「人類はBC兵器を棄てられるか」 常石敬一
第1部 生物・化学兵器の過去と現在
18 ABC兵器廃絶そしてDへ 水島朝穂
20 C兵器廃絶にむけた日本の「国際貢献」 粟屋憲太郎
21 禁止条約の抜け道 常石敬一
22 「私たちの叫びが通じた」条約締結 村上初一
23 水で洗うことを教わった軍国少女 沼田鈴子
31 毒ガス障害者援護の長い道のり 梶村政夫
39 窮地に「毒ガス使え」の命令 谷菅静夫
第2部 全廃へのシナリオ
42 竹田
45 七沢
54 岡田
56 松江澄
59 木原省二
63 岩野
64 宝木
65 中土
67 伊藤
76 生物・化学兵器に対するヒロシマアピール(要旨)

「ヒロシマから生物・化学兵器を考える―過去・今・未来全廃のシナリオ―」<資料集> 1993年1月30日(土) 東方2001(広島教育会館)

在韓被爆者問題を考える

『在韓被爆者問題を考える』(在韓被爆者問題市民会議(代表:高木健一)編、凱風社、19880915)

内容

「在韓被爆者の援護問題を考えるシンポジウム」(1988.3.20-21、東京)の記録

発言者 タイトル 備考
001 高木健一 いまこそ戦後処理を!
在韓被爆者問題市民会議代表
009 Ⅰ.在韓被爆者とは
010 平岡敬 Ⅱ.法的問題と政府の対応の戦後史
027 伊東壮 「原子爆弾被害者援護法」制定要求と在韓被爆者問題
042 中島竜美 「朝鮮人被爆」の歴史的意味と日本の戦争責任
059 Ⅱ.法的問題と政府の対応
060 高木健一 渡日治療打ち切りまでの経緯と現状
072 椎名麻紗枝 Ⅱ.法的問題と政府の対応に対する法的責任
085 Ⅲ.海峡を越えて
辛泳洙 「一等国」としての義務を果たせ
金拗根 人知れず、被爆の苦しみに耐えて
金分順 字も書けない、言葉も出せない
111 Ⅳ.支援の現状と今後の課題
124 石川洋 「戦争責任」追及で支援の輪を―WCRPの活動報告
134 各地の活動報告
鎌田定夫 1 長崎より
豊永恵三郎 2 広島より
松井義子 3 大阪より
李命根
167 発言者紹介
168 資料

アジアの声-侵略戦争への告発

『アジアの声-侵略戦争への告発』(戦争犠牲者を心に刻む会編、東方出版、1987年3月27日)

見出し 備考
001 集会報告集の刊行にあたって
003 趣意書
009 呼びかけ人名簿
015 開催にあたって(小山仁示)
019 第1部 各国からの証言
021 強制連行指揮官の戦争犯罪(日本)吉田清治
戦争犯罪者の証人として/従軍慰安婦の悲劇/被爆者は日本人だけではない
026 日本軍の侵略と泰緬鉄道の惨状(タイ)テーパンヤ・スティー
泰緬鉄道の犠牲者たち/ジェス博物館を世界中の人々に
031 非人道的な日本軍の虐待(シンガポール)陸培春
母の戦争体験/イナゴに似た残酷な日本軍/拷問の手口/許しがたい靖国神社公式参拝/日本人に期待したい良識ある行動
043 捕虜への虐待、バターン死の行進(フィリピン)マリア・フェリア
バターン降伏で約八万人の捕虜が死の行進/母の死/日本軍の無差別な拷問と虐殺/今も続く日本の侵略
〈日本軍によるフィリピン住民虐殺のレポート〉
はじめに/バタンガス/日本軍によるフィリピン占領/聞き取り/日本人に対して思うこと
059 広島が私の顔を奪った(韓国)辛泳洙
日本語は屈辱の言葉/いまだ迷える韓国人の霊たち/被爆によって別人になった/「不幸な歴史」を再び繰り返さない/真の日韓親善を
068 父の死と日本人の戦争犯罪(中国)陳貞馥
日本軍が約三○万人の中国人を虐殺/過去の罪を認めない日本
073 沈黙の時(上杉聰・沙田明)
一五分間の沈黙に思いを馳せる/詩
080 不戦の誓い(大島孝一・伊勢谷功・松井義子)
当集会開催までの経過/不戦の誓い
087 第2部 シンポジウム アジアの中の日本-過去と今
日本人は、いま何をすべきか/タイの八月一五日/在日アジア人は虫けらか/関西新空港はアジア侵略の基地/広島・長崎には本当に原爆が落ちたのか!/平和のために/良識を問う日本政府の言動/歴史をゆがめた教科書に抗議の輪を/各地の運動からの肉声/すべての日本人が加害者の立場で
123 第3部 タイ現地集会
悲願の平和寺院を建立/泰緬鉄道建設隊の死の体験/タイの地に立って思うこと/敗戦前後の模様/教育の場で伝えたい日本の戦争犯罪/親日感情に甘えは禁物/一人一人の心で世界平和を
145 第四部 経過報告・資料
第一回呼びかけ人会議/第二回呼びかけ人会議/賛同人と事務局について/第一回実行委員会/第二回実行委員会/ホームステイ/知事訪問と戦争資料室/八・一五集会/関連集会/会計報告/反省と今後
161 賛同人名簿
173 「一五年戦争」と靖国神社にかんする参考資料目録
181 あとがき-集会アンケートにふれて

趣意書

 一九八五年八月一五日、中曽根首相による靖国神社公式参拝は、内外からの厳しい批判の声にさらされました。私たちの多くも、さまざまな形で、この公式参拝に異議を申し立ててきました。その理由の一つは、憲法が強く要求している政教分離の原則を踏みにじり、信教や思想の自由を侵すものであると考えるからです。

しかし、私たちの批判は、それにとどまりません。靖国神社への公式参拝は、本当の意味で、戦没者を追悼することにならないという思いを強く抱きつづけてきたからなのです。

靖国神社に祀られた戦没者の多くは、侵略戦争に駆り出されていった人たちです。たとえば、全合祀者の九五パーセントは、「満州事変」以来の「一五年戦争」ヘの参加者です。そこには、周知のように、A級戦犯さえも含まれています。靖国神社は、これらの人々を「英霊」とし、誉め讃える施設です。首相がいかに宗教色を除くように配慮したと強弁しても、この施設に崇敬の意思表示をしたことは、紛れもない事実です。

首相自ら、一九八五年七月の自民党第五回軽井沢セミナーで、靖国神社に祀られた人たちを「国のために殉じた人」と呼ぴ、「感謝をささげるのは当然。さもなくば誰が国に命をささげるか」と演説しました。

これは、アジア・太平洋地域および対戦国の人たちに重大な惨害をもたらした戦争犯罪を免責するだけでなく、人々の死を政治的に利用し、再び同じ誤ちを繰り返すと宣言したと同じことです。アジアからの強い抗議は当然のことですが、加えて、死者を著しく冒涜するものであると言わざるをえません。

これまで、私たちは、靖国神社に祀られている戦没者の多くを、むしろ侵略戦争に強制動員された被害者であると考えてきました。したがって、その追悼は、「英霊」として讃えることではなく、戦争犠牲者として苦しみと悲しみを胸に刻みつけ、悲劇を二度と繰り返さないために、私たちこそが責任を果たしつづけることでなければならないと考えてきました。そして、ささやかながら今日まで、私たちは、それぞれの立場と方法でそれを実践してきました。

私たちの親や兄弟、親族そして友人、またその周囲には数多くの戦死者がいます。そして、その人たちに悲しみの思いを馳せるにしたがい、私たちは重大なことに気付いてきました。

それは、私たちの知己、親族を、戦争による「犠牲者」と呼ぶなら、私たちの国によって踏みにじられ、辱めを受け、虐殺されていったアジア・太平洋地域での死者を何と呼べばよいのか、ということです。むしろ、私たちが真っ先に思いを馳せ、心に刻み、悲しみのうちに記憶しつづけなければならなかったのは、私たちの親族や友人によって傷つけられ、殺されていった人たちの方ではなかったか、ということなのです。

南京で無差別に虐殺された二○万人とも三○万人とも数えられる人たち、重労働や拷問で殺され、捨てられ、埋められた万人坑の人たち、生体実験や解剖に付され、「丸太」と呼ばれて人間の尊厳の一切を奪われて死んでいった七三一部隊による犠牲者、強制連行によって奴隷労働を強いられ、従軍慰安婦として軍人に凌辱され、空襲で、原爆で、病で、異邦の地に絶望のうちに死んでいった朝鮮の人たち、銃剣や日本刀によって切り裂かれたルソン島の幾千とも幾万ともいわれる老若男女、バターン半島の「死の行進」で斃れた幾千ものアメリカ軍捕虜の人たち、食糧の供出と苛酷な労働で殺されていったインドネシアの人たち、「枕木の数だけ死者をだした」といわれる泰緬鉄道の建設現場に斃れていったタイ・ビルマ・マレーシアの「ロームシャ」や、イギリス軍捕虜の人たち、そして、シンガポールで虐殺された数万の「華僑」の人たち、皇民化政策によって文字や文化を奪われ、侵略者である日本のために徴兵され、傷つき、斃れていった台湾の人たち、そして、アジア全域に広がる抗日闘争での犠牲者。私たち日本人の多くは、四○年間にわたって、この人たちのことを忘れ、頬かむりをし、ただ ひたすら身内の死のみを悼んできたというのは言い過ぎでしょうか。

一九五二年以来、八月一五日に開かれる政府主催の「全国戦没者追悼式」には、原爆や空襲による民間日本人の被害者が加えられていますが、アジア・太平洋地域で命を奪われた人たちは除外されています。そして、戦後四一年目の八月、中曽根首相は、それにもあきたらず、日本の軍人・軍属のみを神と祀る靖国神社へ、国の最高責任者として崇敬の意を表したのです。

私たちは、激しい憤りを押さえきれません。同時に、心の奥深くに強い苦悩を抱かざるをえません。私たちの国を代表するはずの戦後歴代の政府は、過去の誤ちを世界の人たちの前に、一度として慚愧したことがありません。そして、私たち自身も、そのことを真の課題となしえないままに、ここまできてしまいました。政府は、再び新たな誤ちへとすすみつつあります。

今、首相が過去の罪責を忘れることを「戦後政治の総決算」と呼ぴ、新たな犯罪へすすもうとするのであれば、私たちは、それに正面から抵抗して、過去の罪責を深く心に刻み、そこから立ち直る新しい道を捜し求め、渾身のカで歩みはじめるほかありません。そのためには、四○年間放置してきたところから出発する必要があります。

このような考えから、私たちは、靖国神社の公式参拝にかわる、すべての戦争犠牲者と向き合う新たな追悼と平和追求のあり方を生みだすために、模索を開始することにしました。

これまでの討議から、私たちは、次のような原則と方法を提案したいと思います。多くの方がたが賛同くださり、集会の実現に協力、参加いただきますよう呼びかけます。

一、原則

(1)「一五年戦争」における日本の戦争犯罪の犠牲となった人たちに、さらに広く深く思いを馳せ、それを心に刻もうとすること。そのために、関連する事実の発堀に努めるとともに、アジア・太平洋地域で亡くなった人たちの遺族を訪れ、また招き、交流しつつ、直接被害者の声にぷれながら、私たち自身の変革をめざすこと。

(2)以上を基礎とし、日本の戦争犠牲者-思想的、宗教的信条ゆえに弾圧を受け、生命を奪われた人たち、原爆・空襲・沖縄戦で斃れた民間人、またアジア・太平洋各地で、また日本本土内で犠牲になった日本人軍人・軍属など-ヘの思いを整理し、「英霊」として讃えるのではなく、悲しみのうちに記憶し、長く語り継ぐ努力を積み重ねる。

(3)犠牲者の死は、また生き残った人たちの苦しみは、今日生きる私たちが過去の誤ちを反省し、再び同じ誤ちを繰り返さないために、あくまで平和を守る責任を負いつづけることによってしか償うことができないことを明らかにし、そのための道を捜し、また歩みつづけることを言う。

(4)以上について同意する人たちが、宗教や思想・信条・社会的立場の違いを超えて、共同して集まりをもてるよう、相互に最大限の努力をはらう。

二、方法

(1)以上の原則を実現するために、宗教的儀式等によらないで、「一五分間の沈黙の時」を中心に据え、内外の犠牲者の証言や表現活動などで構成する集会を開催する。

(2)集会は、アジアの人たちにとって解放の日であるとともに、日本の民衆にとっても解放の日となるべき八月一五日に大阪地区において開催し、その前後に可能な限り日本全国とアジア各地で同趣旨の集会を実現するよう努める。

(3)集会の実現、とりわけアジア・太平洋地域の遺族への訪問、招請に向けて広範に賛同人を募り、一口一○○○円の基金を集める。賛同人は個人の資格とするが、団体の協力は広く求める。

以上

一九八六年三月二六日


OATH OF PEACE--NO MORE WAR

First of all, we would like to extend our heartful thanks to the guests from abroad for their participation in this forum.

It is 41 years since the end of the ‘Fifteen-Year-War’ which was provoked by Japan and has brought about. the great and severe damages and left the scars to the various parts of Asia.

Today’s forum gave us an opportunity to listen to the strong appeals from the war victims and their families in the Asian-Pacific region.

We find no words to express our astonishments and grief by learning the brutarity of the war crimes which were committed by Japan in the past as well as the seriousness of continuing discrimination, oppression and economic invasion by Japan against countries in the region.

On August 15, 1985, Prime Minister Nakasone visited Yasukuni Shrine which symbolizes worship of the Japanese dead soldiers as gods and praises a death for war as the highest virtue. His visit was made in the capacity of a head of state, which no other post-war prime ministers had ever done.

However, severe criticism arose immediately after his visit in different parts of the world, and it finally became a great power to make him refrain from this year’s visit.

Comparing with these critical voices from abroad, criticism inside the country was very weak, of which we are deeply ashamed.

Moreover, some people have started fighting back with hostility, claiming that the sensible voices from overseas are “interference in the internal aftairs”.

However, Iistening to the acute and grave cries of the foreign guests, we ascertained that the criticism from abroad has no single indication of interference. On the contrary, it is a warning of the risk that Japan may repeat the same error since the Japanese society as a whole has shown no reflection on the invasion into the Asian countries during the war, which was the worst “mterference m the mternal affairs”.

We will engrave in our mind the seriousness of the war crimes cornmitted in the pas_t and the great weight of the innumerable deaths thereupon, and we will act to come up to the expectations of those who gave us valuable speech today.

We hereby swear :

1 . that we will further strengthen our movement for peace and disarmament so that the Japanese military and weapons will never crush and destroy your land again,

2 . that we will strengthen our appeal for prompt and sincere measures on behalf of the Hibakushas living in Korea towards the Japanese govern-ment, who does not yet clearly admit the responsibility for war and has not made even the minimum compensation to them as pointed out in the speech of the Korean Hibakusha,

3 . that we will give our thorough consideration to the fact that the Japanese society still has bias and discrimination against people in the Asian-Pacific region and economically oppresses them, and we will further strengthen our efforts to change our society and way of living.

On August 15, 1986

By all participants of “Forum to Ponder on the War Vrctims m the Asran Pacific Region and Engrave It in Our Mind”.

 

2022年4月(日録)

2022年4月(日録)

できごと
01 SとZOOMで話す。原爆関係資料について。
01 ヒロシマ遺文への投稿=「広島県の近代化遺産」
02 N君(学生時代の研究室で同期)死亡。
02  ヒロシマ遺文への投稿=「2022年4月(日録)」、「アジアの声-侵略戦争への告発」
03  ヒロシマ遺文への投稿=「中国人戦争被害者の要求を支える会」
04 **(ガーデン夢工房)、桜が丘庭木で道路に枝がはみ出したものを伐採。
04  ヒロシマ遺文への投稿=「中国人戦争被害者の要求を支える会ニュース」。
05  ヒロシマ遺文への投稿=「日本の戦争責任センター」、「文献:戦争責任・戦後補償」。
06  ヒロシマ遺文への投稿=「広島・長崎と戦争責任─原水爆禁止運動以前の動向」、「季刊 戦争責任研究」。
07  ヒロシマ遺文への投稿=「年表:チェルノブイリ原発事故1986~88」
08 呉市民劇場。前進座「くずーい 屑屋でござい」。新日本造機ホール。<市民劇場は解散したが、残務整理で確定した予算残金での公演。7月19日にも。>
08  ヒロシマ遺文への投稿=「年表:チェルノブイリ原発事故 1989」、「同前 1990」、「同前 1991」、「同前 1992」、「同前 1993」、「同前 1994」、「同前 1995」
09 ヒロシマ遺文への投稿=「年表:チェルノブイリ原発事故1996」、「年表:チェルノブイリ原発事故1997」、「年表:チェルノブイリ原発事故1998」、「
年表:チェルノブイリ原発事故1999」、「年表:チェルノブイリ原発事故2000~」
10 ヒロシマ遺文への投稿=「「桑原裁判」の証人尋問記録」、「原爆医療法に基づく認定申請却下処分の取消請求事件(昭和44年(行ウ)第8号)」、「年表:桑原原爆訴訟」、
11 ヒロシマ遺文への投稿=「『桑原裁判判決(全文)-昭和48年4月19日言渡』(水爆禁止広島県協議会・広島県原爆被害者団体協議会)」、「桑原裁判の経過と問題点」
12 ヒロシマ遺文への投稿=「桑原訴訟に対する田辺判決の矛盾について 佐久間澄」、「桑原裁判の判決について 相良勝美」、「三菱広島・元徴用工裁判を支援する会」、「深川宗俊関連資料」
13 **より電話。森滝資料40箱分が広島大学文書館へ託された由。
14 ヒロシマ遺文への投稿=「在韓被爆者渡日治療広島委員会」、「年表:在韓被爆者渡日治療広島委員会」、「在韓被爆者問題を考える」、「在韓被爆者問題市民会議」、「見捨てられた在韓被爆者-日・韓両政府は彼らを見殺しにするのか-」
15 ヒロシマ遺文への投稿=「土居和江」。
16 ヒロシマ遺文への投稿=「ヒロシマから生物・化学兵器を考える」
17 ヒロシマ遺文への投稿=「大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑」、「大久野島毒ガス資料館」。
18 ヒロシマ遺文への投稿=「戦争記念館 戦争展 読売新聞大阪本社社会部」
19 ヒロシマ遺文への投稿=「資料:日本現代史研究会」
20 ヒロシマ遺文への投稿=「現代史サマーセミナー開催一覧」、「731免責の系譜-細菌戦部隊と秘蔵のファイル」、「イラン毒ガス被害者とともに」。
21 ヒロシマ遺文への投稿=「戦争はどのように語られてきたか」、「8ケ国語訳「世界の人へ」 朝鮮人被爆者の記録」、「天皇の逝く国で(ノーマ・フィールド)」。
22 ヒロシマ遺文への投稿=「現代歴史学と戦争責任(吉田裕)」
23 ヒロシマ遺文への投稿=「レポート 揺れる京大 紛争の序章」.
24 ヒロシマ遺文への投稿=「東大闘争 その事実と論理(井上清)」、「嵐の中に育つわれら――東大闘争の記録」、「「満州事変」と広島」、「南京の日本軍―南京大虐殺とその背景(藤原彰)」。
25 ヒロシマ遺文への投稿=「年表:沖縄・広島 1972年~」、「沖縄文化共同取材ツアー(日本機関紙協会広島県本部)」。
26 ヒロシマ遺文への投稿=「シナリオ 世界の人へ 朝鮮人被爆者の記録」、「朝鮮人被爆者と私(岡正治)」、「年表:沖縄・広島 1995年」、「年表:沖縄・広島 1972年~94年」、「年表:沖縄・広島 1996年~2000年」
27 赤帽、桜が丘の書庫に来る。資料15箱を広島へ。
27 ヒロシマ遺文への投稿=「タブーへの挑戦ー本島(長崎市長)発言に市民は…」。
28 ヒロシマ遺文への投稿=「広島県原爆被害者団体協議会陳情書(市長宛、1970年6月16日)」
29 ヒロシマ遺文への投稿=「長崎の証言20年」、「日印サルダボヤ協会」、「機関紙サルダボヤ」
30 ヒロシマ遺文への投稿=「沖縄を返せ 荒木栄作品集「不知火」所収」。

 

2022年3月(日録)

2022年3月(日録)

できごと
01 ビキニデー
01 ヒロシマ遺文への投稿=「京都大学文学部平和委員会(学生) 1967年10月~3月」、「資料:学生運動」。
02  ヒロシマ遺文への投稿=「平城宮跡保存の呼びかけ(1967年9月12日)」、「万葉一日旅行(1967年5月21日)」。
03  ヒロシマ遺文への投稿=「資料:京都大学美術研究会」、「刀剣(工芸班 線の美術 京大11月祭スライド会)記録」
04  ヒロシマ遺文への投稿=「紀元節問題に関する資料集 1966年1月」、
05  ヒロシマ遺文への投稿=「連盟通信(全日本学生新聞連盟)ヒロシマ関係記事」、「8・6広島学生平和会議(1954年)」、「文化財を守る会」、「文化財を守る会(宇吹メモ)」、「ニュース 平城と藤原」。
06  ヒロシマ遺文への投稿=「宇吹レジメ(発表・報告・講演)一覧」。
07  ヒロシマ遺文への投稿=「広島市立洛陽工業高等学校要覧」、「教育実習ノート(指導案)」、「実習日誌(第12日)」。
08  国際女性デー
08 ヒロシマ遺文への投稿=「原動機付自転車運転免許証」
09  ヒロシマ遺文への投稿=「明治百年祭・式典(1968年10月23日)批判資料」、「資料:家永三郎教科書検定訴訟」。
10  桜が丘へ。母屋の写真帳をチェック。家族史に役立ちそうなものを自宅に持ち帰る。
10 ヒロシマ遺文への投稿=「京大闘争 京大神話の崩壊」。
11  東電福島第一原発事故10年。
11 朝日新聞紙面ビューアーインストール。
11 昭和図書館で山形県・秋田県・青森県・新潟県の歴史(山川出版社)を借り出す。
11 ヒロシマ遺文への投稿=「宇吹暁の先祖」、「宇吹静男の兵籍」。
12  桜が丘へ。幸男の資料など母屋の資料を見る。
12 ヒロシマ遺文への投稿=「創立百周年記念誌(呉市立吉浦小学校)」、「修道高等学校卒業記念(昭和39年度)[アルバム]」、「道重哲男」、「香川亀人」。
13  ヒロシマ遺文への投稿=「誕生~保育所 アルバムより」、「呉市立吉浦小学校 アルバムより」、
14  ヒロシマ遺文への投稿=「宇吹静男のアルバム」、「宇吹ヤスのアルバム」、「呉市第1回鉱山勤労報告隊 昭和17・8・22」。
15  BSプレミアム「アナザーストーリー この世界の片隅に」視聴。
15 ヒロシマ遺文への投稿=「祖母と母」、「父の納骨のため京都旅行 1995年10月14~15日」、「宇吹ヤス私歌集(8月分抄録)」。
16  ヒロシマ遺文への投稿=「日本の原爆被爆者数(都道府県別)」、「北海道のヒバクシャ」
17  ヒロシマ遺文への投稿=「青森のヒバクシャ」
18  昭和図書館に山形県・秋田県・青森県・新潟県の歴史(山川出版社)を返却。
18 ヒロシマ遺文への投稿=「秋田のヒバクシャ」、「山形のヒバクシャ」、「新潟のヒバクシャ」、「宮城のヒバクシャ」、
19  尾関周二著『21世紀の変革思想に向けて―環境・農・デジタルの視点から』、届く。
19 ヒロシマ遺文への投稿=「年表:青森のヒバクシャ」
20  ヒロシマ遺文への投稿=「富山のヒバクシャ」、「沖縄のヒバクシャ」、「年表:岩手のヒバクシャ」
21  ヒロシマ遺文への投稿=「年表:富山のヒバクシャ」
22  3度目の千羽鶴製作開始。<千羽鶴製作 20181203~20190427=目標達成。中断。20210331~20211027=目標達成>再開。
22 ヒロシマ遺文への投稿=「群馬のヒバクシャ」、「年表:群馬のヒバクシャ」、「山梨のヒバクシャ」、「長野のヒバクシャ」、「
石川のヒバクシャ」、「福島のヒバクシャ」、「福井のヒバクシャ」、「高倉山温泉被爆者療養センター」
23  ヒロシマ遺文への投稿=「元広島文理科大学(旧広島大学理学部1号館)の保存を考える会」、「ウクライナの世界遺産」。
24  ヒロシマ遺文への投稿=「Ukraine: UNESCO statement 20220303」、「Ukraine: UNESCO statement 20220224」、「Struve Geodetic Arc」、「Struve Geodetic Arc–map」
25  ヒロシマ遺文への投稿=「沖縄県在住被爆者対策推進調査団報告集(1973年6月)厚生大臣および沖縄県知事への要望書 1972年9月25日」。
26  ヒロシマ遺文への投稿=「年表:長野のヒバクシャ」。
27  ヒロシマ遺文への投稿=「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」
28  ヒロシマ遺文への投稿=「年表:韓国の原爆被害者を救援する市民の会」
29  『生きる 被爆者の自分史 第6集』(20220323)、『こころの病は人生もよう―統合失調症・ユング・人類精神史』(尾関夢子・尾関周二、本の泉社刊、20210322)届く。
29 ヒロシマ遺文への投稿=「広島県立文書館だより 記事抄録」。
30  ヒロシマ遺文への投稿=「広島県立文書館紀要」。
31  ヒロシマ遺文への投稿=「年表:中国人被爆者」。