70年生物不毛説

70年生物不毛説

被爆直後、広島には今後70年間放射能が残るため人が住むことができないとする説が流布していた。いわゆる70年生物不毛説(一説に75年間ともいわれる)である。この説は、8月8日付ワシントン・ポスト紙第一面に掲載されたH・ジェイコブソンというアメリカの原爆開発に関与した経験を持つ一科学者の談話に端を発していた。しかし、アメリカ国内では、FBIや軍事諜報部に脅迫されたジェイコブソン自身の取り消し声明と、アメリカ陸軍省の否定声明により即日葬り去られた。

資料:WASHINGTON POST(ワシントン・ポスト)紙の「70年生物不毛説」報道
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Dr. Harold Jacobson, in the following article, reveals that areas struck by an atomic bomb remain saturated with death for years. Secondary radiation will kill anyone entering the area. A graduate of the University of Chicago, Dr. Jacobson worked on the atomic bomb project in the Oak Ridge, Tenn., plant and at Columbia University.)

しかし、アメリカ軍は、直後から日本向けに「広島は75年間人畜の生存を許さぬ土地となった。また被害調査のため学者を派遣するがごとき行為は自殺に等しい」などの謀略放送をおこなっており(「読売新聞」1945年8月25日)、日本に知られるところとなった。

第12広島地区特設警備隊(山県部隊)の救援隊は、7日に広島入りするが、広島到着後、「市中の空気を吸うと身体にわるいから今夜から長束小学校に宿泊をとる様」命じられている(沢田義雄手記)。

また、同隊の八重の部隊の一部は、9日に引き上げているが、それは「長く広島にいると危険だ」といわれたためであった(森長応昇手記)。

8日に入市し爆心地付近に露営しながら清掃や死体整理に従事していた庄原の警備隊(比婆部隊)も、13日、西練兵場付近(爆心地からほぼ1キロメートル圏内)は危険であるといわれ市役所横の広場に移転し、同日帰途についている(横路雅一手記)。

また、広島逓信病院長は、その日記の8月13日の項に、広島には75年間住めぬというニュースを入手したことを記している(蜂谷道彦「ヒロシマ日記」)。

8月下旬、日本のマスコミがこの説を大々的にとりあげたことにより、この説は、単に地元での流布にとどまらず全国的に知られることとなった。

日本の新聞で70年生物不毛説を最初に伝えたのは、8月22日付『朝日新聞』(大阪版)の浅田常三郎による原爆被害の解説記事である。浅田は、この説に対する見解を間かれたのに答えて「75年間はどうか判らないが75日位は残るだろうと思う」と否定していた。ところが、翌23日の『毎日新聞』は、この説を、つぎのような見出しのもとに肯定的に報じた。

世紀の恐怖 原子爆弾 残虐性更に暴露さる
傷者も漸次悶死 今後七十年間は生物の棲息不能 廃墟両市 戦争記念物に
また、同日の『日本経済新聞』も、「火傷程度で相次いで死亡 なお惨状続く広島と長崎」の見出しで、原爆の人体に及ぼす持続的影響を、つぎのように報じた。

広島・長崎両市における原子爆弾による惨状は真に言語に絶し爆弾の性質が特に人体に及ぼす影響が甚大であるため、負傷者はその後も続々死亡し健康者も間もなく症状を呈するという有様で一般市民の被害死傷者は続出している。
25日には、朝日・読売・毎日各紙がそろって、被爆一週間後、西練兵場(爆心地から約1キロメートル)で復旧作業に従事した陸軍軍人の血液に異常があるとの検査結果を引用して、放射線の持続作用を裏づけるとともに、70年生物不毛説に言及した。

『朝日新聞』見出し=広島に取り憑いた”悪霊” 二週間後には死亡者倍増
『読売報知』見出し=広島では癒らぬ負傷 ウラニウム放射で復興も絶望か
事実、広島では、8月20日前後から、爆心地付近で罹災したものに、傷害の有無にかかわらず脱毛・皮膚点状出血・発熱・下痢などの症状が現われていた。

陸軍軍医学校は、すでに帰郷していた広島災害調査班から「外科的方面よりもむしろ内科的・細菌学的及び防疫学的方面の調査及び対策の必要性」を訴えた報告を受けていた(「原子爆弾ニ依ル広島戦災医学的調査報告」)。

また、東京帝国大学医学部の都築正男は、16日以来自分の教室に入院していた移動劇団さくら隊の女優仲みどりの症状に、エックス線過度照射傷害の実験例に相応する定型的臨床例を認め、8月23日陸軍軍医学校を訪問し、その方面からの研究の必要性を強調するとともに、自らも研究調査に行くことを申し出た。

そこで陸軍軍医学校では、本橋・秦の両軍医少佐を広島に急派し、引つづき、都築・三宅仁(東京帝大)、杉本朝雄・山崎文男(理研仁科研究室)らを嘱託として広島に送った。