資料年表:新藤兼人

資料年表:新藤兼人<作業中

1912
0422
1950
09 新藤監督:松竹映画「長崎の鐘」完成。 C
1952
0515 近代映画協会による「原爆の子」映画化。広島市で吉村公三(制作)、新藤兼人(脚本・監督)ら、「原爆の子友の会」メンバーと初打ち合わせ。 C
0707 原爆傷害者懇談会(広島市基町・朝日ホール)。新藤・乙羽信子らも出席。 C
08 「原爆の子友の会」、新藤監督の映画「原爆の子」制作に協力した会員5人を除名にするなど内紛。 C
1953
0429 「原爆の子」(新藤監督)、カンヌ国際映画祭グランプリ受賞を逸す。 C
1956
0212 英映画協会、「原爆の子」(新藤監督)を1955年度世界優秀映画の国連賞受賞作品に決定。 C
1957
02 西ドイツで上映中の「原爆の子」(新藤監督)、反戦映画として軍当局に没収される。 C
1958
09 映画「第5福竜丸」(監督:新藤・主演:宇野重吉、乙羽信子)撮影中 C
1959
02 映画「第5福竜丸」(近代映画協会・新世紀映画の共同製作、監督:新藤)、広島市の帝劇で特別試写会。 C
 1982
 0331  『広島市公文書館紀要 第5号』
有田嘉伸「 新藤兼人の人と作品 」
 「新藤兼人資料目録」
1983
01  『追放者たち -映画のレッドパージ-』(岩波書店)
 0310 『日本名作映画76選』(佐藤忠男著、広島市映像文化ライブラリー編、広島市教育委員会)
1985
 0905  『小さな窓から』(朝日新聞社) U
 1996
 0614   『追放者たち -映画のレッドパージ-』(岩波書店 同時代ライブラリー)
 1998
 0220  『弔辞』(岩波新書、) U
 1980
 0315 『私の足跡 : 独立プロ三〇年のあゆみ(新藤兼人映画論集 1)』 (汐文社, 1980.3) U
 1981
09 『仕事場の出会い : 監督とはシナリオとは女優とは(新藤兼人映画論集 2)』 (汐文社, 1981.9) U
1988
0420 『さくら隊散る』(未来社) U
0420 『さくら隊8月6日 広島で被爆した若き新劇人たち』(岩波ブックレット No.114) U
1993
1006 『青春 新藤兼人の足跡1』(岩波書店) U
2002
1103 文化勲章発令・宮中親授式
2003
0411 「原爆の真実を残す 広島で90歳対談 映画監督・新藤兼人さん・元本社カメラマン・松重美人さん」(『中国新聞』20030411) C
2004
0721 『シナリオ人生』(岩波新書) U
2010
1220 『広島県現代文学事典』(岩崎文人編、勉誠出版)<佐藤武・記> U
2012
0529 没。享年100歳。
 0531  「新藤兼人監督が死去 反戦貫き人間愛描く 100歳」(『中国新聞』20120531、串信考・記)
2022
0413 広島市映像文化ライブラリー、新藤兼人生誕110年記念の特集上映開始。(『中国新聞』20220402)

女たちの八月十五日

『女たちの八月十五日』(相賀徹夫編、小学館、1985/08/01)

内容<作業中

勤労動員
重兼芳子 4  十七歳の特攻隊
 郷静子 18 戦時下の女学生
教師として
 大村はま 32  千人針と学校工場
石牟礼道子 42 赤い苦瓜
戦時下の結婚
佐藤愛子 56  坩堝の中の女たち
 萩原葉子 69 苦しかった毎日
飢餓と耐之
原邦子 84 葦ヒロシマを歌いたい
塚文子 100 戸飢えの記憶
松谷みよ子 114 軍国少女の敗戦
学童疎開
 中川李枝子 130  家族一緒に暮らしたい
疎開
早船ちよ 144  本を焚く
官憲とのたたかい
山代巴 162 仲間づくりと戦争
空襲
高木敏子 177  父、母、妹を失って
ヒロシマとナガサキ
竹西寛子 192 時の縄
林京子 206 九日から十五日へ
その日“八月十五日”
住井すゑ 220  愛する故に戦わず
引揚げ
藤原てい 236  新京脱出
吉田知子 252 父を残して引揚げる
戦後の窮乏
 田中澄江 267  ゆきてかへらぬ
上坂冬子 282 敗戦で得たもの
次の世代へ
大庭みな子 296 私をこう言わせるもの

大庭みな子

大庭みな子

おおば・みなこ 19301111生20070524没 享年76歳 作家。広島県立賀茂高等女学校在学中、原爆のきのこ雲を西条町より望見。8月末~9月、広島市に救援隊として動員される。『広島県現代文学事典』(瀬崎圭二・記)

資料年表:大庭みな子<作業中

年月日 事項 備考
1930
1111
1972
0501 大庭みな子(芥川賞作家)、雑誌『潮』原爆特集の取材で広島市を訪問。 C
2007
0524 没。享年76歳
2010
1220 「大庭みな子」(『広島県現代文学事典』〈瀬崎圭二・記〉、勉誠出版)
2016
0612 東広島青少年オーケストラ、「ひがしひろしま音楽祭」で、被爆の惨状をつづった大庭みな子のエッセイの朗読を取り入れた演目を上演。(『中国新聞』20160609、森岡恭子・記)

佐藤月二

佐藤月二

さとう・つきに 19090215生19880522没 享年79歳 元広島大学教育学部教授。広島県史跡名勝天然記念物調査委員(1947年2月~)。1949年当時、原爆ド-ムの保存を主張。著書『むさしあぶみ』(溝本積善館、19720215)。

資料年表:佐藤月二<作業中

年月日 事項 備考
1909
0215
佐藤月二01
1988
0522

炎の墓標 被爆体験記

『炎の墓標 被爆体験記』(〔双三郡〕三和町原爆被爆者友の会被爆体験編集委員会 編・刊、1984/08/06)

序にかえて……三和町被爆者友の会会長 村上弘
出版によせて……三和町長 冨野井利明
被爆体験記
1 その朝わたしは広島で
1.床屋の椅子に坐った途端に……戸政志六 1
2.牛田の山中に三日間かくれて……為平忠志 2
3.私の被爆体験を詩に託して……村上弘 3
4.学徒動員で被爆……坂田尚也 5
5.そのとき私は長崎で……広田進 6
6.長女三女も後遺症で逝く……金光村一 8
7.絶対に許せない憤り……前金茂 9
8.死んだ母の乳房にしがみつく乳児……細美数人 11
9.少年の日のショック……大平昭義 12
10.薬も包帯もない……広田正子 13
11.満身ガラスの破片で……笹岡寛 14
12.鶴見橋下へ飛び込んで……森村納 15
13.動員学徒の頭上に火の玉……伊藤トミコ 16
14.河土手で一週間暮らす……金光み弥 17
15.忘れるな.あの日の出来事……鍛治川道夫 18
16.少年の日の悲痛な思い出……前岡一敏 19
17.その日の救護活動……政岡義人 20
18.野宿して被爆者の治療に従事……長尾和子 20
19.原爆.あの日の記憶をたどって……毛利恭典 21
20.言語に絶する生き地獄……山田省三 22
21.戦争のない平和な社会を……今谷美代子 23
22.爆弾で皆んな死んだげなーと……近村春子 25
23.姉の声が耳に残る……信原妙子 26
24.学徒動員として……竹川義則 26
25.母と妹を失って……中田美智子 27
26.真赤に焼けた大砲のような物を見た……松山政子 28
27.意識を失って一か月……後藤アツコ 29
28.生き地獄から這い出て……宗末綾子 30
29.死体にガソリンをかけて……行政繁子 31
30.建物が頭上にのしかかって……梶川一女 32
31.歩きつづけて井原まで……大平春子 33
32.同僚をたづねて……光原哲夫 34
33.妻の安否を気遣いながら……大平高雄 35
34.可部線を横切って三滝へ……恒森徳 35
35.砂雨の中を逃げる……増井季子 36
36.一部始終をこの目で……渡辺聡 37
37.近距離の被爆……難波アサノ 38
37.おびえた長い一日……佐藤フジエ 39
39.後頭部の髪は抜けて……後藤初人 40
40.起きてみると隣の人は死んでいた……梶谷幸夫 41
41.被爆者の訴え……寺川年行 42
42.中隊毎に工兵隊近くの竹やぶに行け……松山定夫 43
43.体験を通して世界平和を祈る……光森一 44
44.背中に電気の焼けつく熱さを……佐藤連 45
45.主人を送り出して……為平房子 46
46.学校の運動場は火葬場と化す……藤原佐恵子 46
47.灰かぐらのように舞い上って……山崎益夫 47
48.防空壕で命拾い……長尾薫 48
49.隣家の親娘の手を引いて逃れたが……宍戸開・宍戸チエ子 49
50.旧福屋の一階で被爆……倉東亀雄 50
51.江波の三菱造船所で……広川武司 51
2 安否をたずねて広島へ
1.耳に灼きついたB29の爆音……石丸辰美 53
2.従姉の家族を捜し求めて……佐々木正人 55
3.元の職場は原爆ドーム……児玉美智子 57
4.軍人だった夫の影を求めて……田中モモヨ 58
5.思い出したくないあの日の出来事……大山八重子 59
6.疎開児童の親はいずこに……山本隆司 60
7.地獄のような光景だけが残る……曲田ハマヨ 61
8.重傷の隣人救援に馬車を挽いて……岡田益太郎 62
9.死者の山の間で一夜をすごす……日南義男 63
10.白骨の山に合掌……寺光忠之 64
11.被爆の姉.迎えの馬車上にて死す……実広守 64
12.義弟の遺骸を求めて……重信多作 65
13.兄弟の安否をたずねて……児玉盛円 66
14.知人を尋ねて……平田ハナエ 67
15.竹やぶの中に夫の部隊がいた……恒森カスミ 68
16.夫の骨と信じて持ち帰る……渡辺ハルヨ 68
17.妹の遺骸を捜し求めて……和泉清子 69
18.近所の娘さんの遺体を掘り出す……山本一男 70
19.被爆者の姿が忘れられない……本川英子 71
20.憲兵だった夫を捜し求めて……佐々木キミエ 71
21.近所の娘さんをさがして……佐々木コユミ 72
22.三滝分院の弟をたずねて……川崎忠志 73
23.夫の遺体を求めて四度五度……佐々木ヲアイ 74
24.兄をたずねて広島から庄原へ……森川艶子 75
25.義弟の安否をたずねたが……黒川フジコ 76
26.人類最大の悲劇……児玉福一 77
27.曳光性特殊高性能爆弾と発表……徳川清子 78
28.召集を受けて歩兵第二部隊入隊の朝……長尾和文 79
29.何も知らされず航空機部品を運んで……森川道子 80
30.一発の爆弾の威力……増田初一 81
31.三十八年間原爆症に苦しむ……後藤〓 [食部に誉] 81
32.夫を捜して劫火の中を……中村マサコ 82
33.知人をたずねて歩き廻る……行原ノブコ 83
34.交代勤務で直爆から免がれる……田上時夫 84
35.帰還兵を馬車で迎えに入前……後藤正俊 84
36.帰郷していたのが幸運……益田一枝 85
37.十六日.甲種合格入営の弟と共に……福原俊壮 86
38.一望焼野原と美しい安芸の小富士と……益田浅枝 87
39.無名の遺骨と共に供養塔に眠っている妹……木原二男 88
40.入隊の日は終戦の日であった……中丸正利 89
41.農繁休暇のお蔭で命ながらえて……細美半二 90
42.兄の再召集日は原爆の日……竹間スミ子 91
43.むすび・草履をもって義弟さがし……細美ヤス子 93
44.必死に救いを求める重傷者を見て見ぬふりして……土井毅 94
45.二日間日帰りで探し求めた主人は……塚本ハルミ 95
46.捜し求めた父との対面は火葬場で……間弓澄子 97
47.救いを求められても何もできなかった悲しさ……福間只四郎 100
48.思い出したくない.考えたくない……長尾緑 101
49.遺体の髪と袖を切り取って帰る……山本勝己 102
50.八月十四日召集令状で……渡辺光明 104
51.見ぬ人には話しにならぬ……平野忠之 105
52.原爆と私……時丸卓爾 105
53.原爆病院で死んでゆく友から……細美繁人 106
54.放心状態のある婦人の思い出……上岡武雄 107
55.捜し出して連れて帰った人は二日後には……山本利美 109
56.背中一面ざくろのようになった伯母……和田トモエ 110
57.今.母が死んだと泣きすがる妹……片岡貞子 111
58.学徒動員高女生に付き添って……難波護 113
3 救援活動に従事して
1.高射砲陣地から射撃命令を持つ……佐藤月二 117
2.勤労奉仕隊から被爆者救護へ……仁科美代子 119
3.ラバウルから帰って……上陰政義 120
4.着のみ着のままで救護活動を……岡野ミヨ子 121
5.被爆者を病院に運んで……岩見秋人 122
6.負傷者のうめく被爆地獄を歩き続けて……寺川調江 123
7.警防団出動命令により……谷重柳一 125
8.被爆死者を焼く苦悩……佐々木佐一 126
9.猛暑と悪臭の中の奉仕活動……水野義夫 127
10.警防団員として出動……松山春二 128
11.警備隊員として動員されて……渡辺頼己 128
12.軍の救援活動に参加して……今谷昇 129
13.海軍工廠から派遣されて……豊田丈三 130
14.会社の命令で救援に……矢井好 131
15.防衛隊の非常召集により救援に……山根静間 132
16.警備隊として救援に出動……児玉升雄 133
17.看議隊に属して……佐縁馬信子 134
18.農業会職員の救護活動……長尾博子 135
20.暑さと悪臭の中で……細美春江 136
21.いつもの通り迎えた朝なのに……小島文子 137
22.赤チンキで○印と×印……山崎正行 138
23.在郷軍人として被爆軍人の収容に……新川護 139
24.ダルマのようにふくれた死骸……栗橋鎮雄 140
25.生死の境に叫ぶ被爆者の食事を担当して……佐々木美佐子 141
26.重患から番号をつけて宇品倉庫に運ぶ……信政則人 143
27.役場より救援出動命令……岡光久夫 144
28.東練兵場にテントを張って救援……中村広登 145
29.死んだ母親の胸の下に生きている幼児……田上竹一 146
30.お寺で見た地獄絵を現実にみる……佐々木雪江 147
31.出張の日の出来事……山田実徳 148
32.死んで行く被爆者の看護に明けくれた二週間……石丸清子 149
33.荘ばくとした真暗闇の中で……桃田辮 151
34.あの時の悲惨さがよみがえる……殿重稔 151
35.傷口から蛆がはい出る……中森玉子 152
36.隣保班から救護活動に……殿重清 153
37.警察署の自動車で広島へ……津川義一 154
38.婦人会にも出動命令がくだる……殿重シゲ子 155
39.岡竹隊の遺骨を抱いて……小川行登 156
40.学徒動員で救護活動に……若林悦子 157
41.焼け残った建物は救護所に……難波真一 158
42.海軍衛生学校から救援に……岡光次郎 158
43.日赤病院等の電気取付工事に……今谷恵 159
44.今も消えない.被爆患者のあの叫び……吉田光枝 159
45.敵機の中を縫って.再召集に向う……松本徳勝 161
46.水!水と叫ぶ声が今も耳底に……田中角美 162
47.警防団員として出動……寄宗文夫 163
48.私の心に悔だけを残して……山田芳江 164
49.止められている水をコッソリと……福原アサ子 165
50.悠々と飛ぶ十四機の敵機……益田静磨 167
51.猛暑と渇水の救援活動……蔵谷照男 168
52.世羅防衛隊大原隊員として……細美寿一 170
53.平和な日々を迎えて……津島アキミ 172
54.戦争の悲劇を二度と繰り返さないためにも……橿原寿子 173
55.死体を集めて焼く救援活動……佐々木昭二 175
56.看護婦の見習のような女学生……長尾鈴子 176
57.板木診療所で救護にあたる……中原花子 177
58.入院中私は看護婦に早変り……竹川真佐子 179
59.死にゆく患者を団扇で扇ぐ……新川スミ子 180
60.太陽をにらんで死んで行く人たち……素利昭三 181
61.私の被爆体験記……福馬君子 182
62.消防団の救護班で広島へ……貞広幸夫 184
63.被爆死体火葬用燃料輸送に従事……森川清 185
64.挺身隊から救護活動へ……難波ユキ子 186
65.米軍偵察機の下で救護作業……福馬博美 187
4 焦炎の街を通過して
1.学校報国隊の腕章をつけて……還来地忠子 189
2.被爆者の責務を痛感……平岡苗香 190
3.呉海軍施設部へ徴用されて……片岡守 192
4.負傷者のうずまく広島駅での九時間……片岡ミツエ 193
5.闇の広島駅での長い一夜……佐々木咲江 193
6.学徒動員から帰郷中死体と骨の山に勧奨………佐々木佐和子 195
7.原爆白内症に悩む……後藤敏子 196
8.女子挺身隊解除の帰途……渡辺信子 197
9.「海ゆかば」を歌い終わって……米沢繁子 198
10.空襲に馴れた私もこれは……原田武清 199
11.余生をがん張りたい……安川敏子 200
12.広海軍工廠を解除されて……箕岡照子 201
5 村役場の対応の思い出
1.対応の思い出……片岡輝雄 203
あとがき……207

平家納経の世界

『平家納経の世界』(小松茂美著、六興出版、19761226 新装第1版)

内容

1 平家納経の成立ドラマ   11
 謎みちた女神  11
法華信仰と「平家納経」  15
平家勃興の波に乗って   20
祖父正盛・父忠盛のこと20
清盛登場   27
実説ご落胤27 十二歳の次官殿29 安芸守平清盛の霊
夢31 栄達の血塗道32 二条帝現説と立太子騒動35
長寛二年における清盛の心情   38
怨霊騒ぎと皇子誕生38 忠通の死40 関白・基実の幼
な妻42 頼長の子・師長を夜宮44 帝の皇子誕生46
崇徳院の崩御51 願文の内容54 筆者は清盛64 “他
人を以って名と為す”74 櫛筆の謎84
厳島繁昌記    87
厳島詣での大流行87 名花・厳島の内侍たち96 平家
の落日102 佐伯景弘という男111
厳島内侍発願説の虚構  121
2 高く、広く、大きく―平家納経と歩んだ三十年  127
 死神と美神の出合い  127
手習い草紙   128
死の淵に立って 133
その名を恋人のごとく  137
一冊の古本   139
「平家納経」を見る  141
無知の蛮勇   146
生涯のことば  152
「伊都岐嶋千僧供養日記」  155
厳島文書を読む      157
『いつくしま』を刊行   161
上京、池田亀鑑先生    163
念願の博物館勤務     171
3 不思議な本 175
4 王朝の女性の夢を追って 190
5 王朝の教養と和洋書道の源を探る 197
6 栄華と末法におののく美の殿堂 213
7 子筆額の成立へ 227
王朝のこころ十選             247
三十六人家集(貫之集上)247 木彫一字金輪坐像249 普
賢菩薩像250 扇面写経251 金銅秋草文薫炉252 伴大納
言絵詞253 藤原行成筆白氏詩巻254 秋草文壷255 平等
院鳳鳳堂256 戸隠切257
人と書とのかかわり 対談/小松茂美・松井如流  259
小松茂美・丸夫妻の世界―編集部編― 273
後記  282

 

小松茂美

小松茂美

こまつ・しげみ 19250330生20100521没 享年75歳 古筆学者、美術史学者。広島で被爆。「死の淵にたって」(『平家納経の世界―国宝の謎を推理する』(六興出版、19861226)pp.133-136。

資料年表:小松茂美

年月日
1925
0330 山口県岩国市生まれ
1938 崇徳中学校(旧制、現崇徳高校)進学。
1942 柳井中学校(旧制、現山口県立柳井高校)卒業。広島鉄道局勤務。
1945
0806 広島駅近くの庁舎内(爆心地から1.7キロ)で原爆被爆。
作業中

島薫

島薫

しま・かおる 18970702生19770516没 享年79歳 外科島病院(広島原爆爆心地)院長。

資料年表:島薫<作業中

年月日
1897
0702 誕生(本籍地:広島県安芸郡瀬野川)
1917
03 広島県立第一中学校卒業
1924
0325 大阪医科大学卒業
1930 これより欧米留学、米国メイヨークリニックにても研究晩学。
1931
04 大阪帝国大学医学博士。
1933
08 広島市細工町にて外科島病院を開設、診療開始。
1945
0806 「県下世羅郡甲山町植田病院に出張手術中広島島病院上空に世界始めての原子爆弾降下の報により帰広し、市袋町戦災者仮設病院に於いて罹災者の処置に尽力し後中野村の本宅に於いて診療を開始す。」
1948
1030 「広島市大手町戦災被害地を整理し復興、病院を建設し診療を開始す」
1977
0516
1983
0515 島薫あれもこれも』発行

 

島薫あれもこれも

『島薫あれもこれも』(島薫[著・刊]、紺野耕一編、1983/05/15)

内容<作業中

ご挨拶 島忍
大学医局時代の思い出…3
入局…6
恩師 岩永先生の御魂に…8
古武先生の想い出…11
日本臨床外科医会創立のこと…12
医学上より見たる広島の復興…13
広島外科会100回を迎えて…17
広島外科会40年のお祝の言葉…23
予後…24
朝風に乗って…26
原爆直後のこと…31
運命というもの…35
「ゲランを流す」…37
ピカドンと婦人たち…38
呉の空襲…41
警防団ところどころ…43
「教育随想」鍛えられた土性骨…45
広島信用金庫理事長あいさつ…49
戦争と金…50
最高の福祉…51
ひかり園理事長のあいさつ…54
ユース・ホステル15年を迎えて…56
年頭の所感
正月を迎えて
1969年の日の出
瀬戸内海周遊ホステリング
海底より
無言の囁き
第四国高校生ユースラリー
迎春
かおり高き品格…67
見て喜ぶ…71
「私の愛蔵品」精進湖 南薫造作…76
二人展出品作品…78
白青会・杏林画会合同展覧会
第21回合同展を迎えて
国際美術展に出品
「雲雀物語」…85
秋に思う…87
よみがえるあの日爆心地島病院・ただ余熱と死臭…93
紅バラのヤグラ…爆心地の庭に…96
ヒロシマの戦後見続けた27年―生れ変る爆心の島病院…97
瓢鮎図…99
微笑み…100
幽霊…102
洋モクで一札取られの巻…104
西村徳一氏に呈す…106
還暦に思う…108
還暦のうた…109
一丁のピストル…110
人権擁護…112
広島市民交響楽団生みの親高橋理事長の追想…113
わが十代―雲井浪子に片思いこがす…115
秋の夜ばたし―花つくり・碁・ゴルフ…121
外科医追放が文化…124
わたしの散歩道…127
ヒロシマに生きる…130
協力は健康者の義務―「かたすみの人生」…134
晴れの叙勲―スポーツで人心復興…136
国鉄マン「ゲスト・トリオ」島車掌…138
忘れ得ぬ人びと…141
谷川昇君
立石吾一氏
高橋定氏
三戸俊美氏
上田太郎氏
越智しげる氏
河野先生
島薫博士「原爆後の広島についての彼の回想録」 ウォーナー・ウエルズ…157
筆談 喉頭癌手術後の大学病院生活と退院後…187
恵声会発会の思い出…565
恵声会誌創刊によせて…569
遺徳を偲んで…571
大内五良
長崎孝
国信玉二
斉藤環
中本カツコ
偲び草(年譜)…586
あとがき(紺野耕一)…593

草野信男

草野信男

くさの・のぶお 19100111生20020514没 享年92歳 病理学者。元日本原水協理事長。

資料年表:草野信男

年月日 事項 備考
1910
0111 誕生
1952
 1201  『原子爆弾の話』(志田信著、東京大学出版会)
 草野「序」
 1953
 0505  『原子爆弾災害調査報告集 第二分冊』(日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編、日本学術振興会刊)
 119 広島における原子爆弾症の病理解剖(西条療養所の剖検例)(草野信男、東大・伝研・病理)1346
1957
 0710  『人類の危機と原水爆禁止運動 第3回原水爆禁止世界大会討議資料』(原水爆禁止日本協議会)
草野「 放射能被害と人体」135
 1967
 1101  『原水爆禁止科学者会議の記録 第2回』(第2回原水爆禁止科学者会議準備委員会事務局)
 草野「経過報告」 6
1969
1120
 『平和運動20年記念論文集』(日本平和委員会編、大月書店)
 草野「原水禁運動の始まった頃」 387
1976
 0331  『ビキニ水爆被災資料集』(第五福龍丸平和協会編、東京大学出版会)
 草野「久保山さんの解剖に立会って)」 324
 0730  『20年の大義を世界へ』(原水爆禁止長野県協議会、)
 発刊を祝す…草野信男…6
 1977
 1101  『原水爆禁止世界大会の記録 1977年』(原水爆禁止統一実行委員会)
 草野「開会あいさつ…草野信男 29」「議長団代表あいさつ…草野信男 60」
1980
 0815  『わが戦後行動 いま原水爆禁止は』(吉田嘉清著、新興出版社)
「座談会 原水爆禁止運動と吉田君 238」
(中野好夫 古在由重 草野信男 吉田嘉清)
 1983
 0806  『道 安井郁 生の軌跡』(「道」刊行委員会編、法政大学出版局)
草野「 安井さんを偲び業績をたたえる」 297
2002
0514 死去
0516  「元原水協理事長 草野信男氏死去」(『中国新聞』)
 0517  「天風録」(『中国新聞』)
0604 金井淳一郎「悼記 草野信男さん 医学研究からヒロシマと向き合う」

 

別冊 新評 梶山季之の世界 <追悼特集号>

『別冊 新評 梶山季之の世界 <追悼特集号>』(新評社、19750720)

内容(抄)<作業中

16 告別式レポート
藤本義一、澤村三木男、吉行淳之介、今東光、柴田錬三郎
幻のライフワークといわれた遺稿集
40 遺稿その1 積乱雲
79 原爆記者とのつき合い(大牟田稔)
82 梶山季之の壮絶な死! 柴田錬三郎
86 梶山季之の経緯 山口瞳
132 座談会 トップ屋時代の梶山季之(岩川隆・中田建夫・加藤憲作・有馬將祠)
162 梶山季之人脈図 有馬將祠
211 丈夫、志あるも 竹中労
250 梶山季之完全年譜(季節社・編)
256 梶山季之単行本リスト(季節社・編)

編年資料:梶山季之

編年資料:梶山季之<作業中

年月日
1930
0102 京城(現・韓国ソウル)に生まれる。京城中学校4年の時終戦。1945年末、広島県地御前村に引揚げ。広島二中に編入。
1948  広島高等師範学校入学。
1966
0225 『松田重次郎』
「はしがき」の巻頭
 自叙伝というものがある。よんでみると、なかなかに面白いものである。だが、私は、自叙伝というものを、あまり信用していない。(中略)また伝記というものがある。政財界の大立者が物故すると、必ずといってもよいぐらいに、伝記が刊行される。なかには良心的なものもあるが、故人を追慕するのあまり、美しい面ばかりを取り上げて、欠点や短所はとり上げない傾向の方が強い。人間だから長所もあれば短所もあるはずなのだが、どういうものか、人間の醜い面が取り上げられないのは不思議である(日本に不足しているのは、真の伝記文学とユーモア小説ではあるまいか?)というのは私の持論だが、伝記を書く以上は正確に、その人間像を浮き彫りに、私生活も描かねばならないと、私は考えていた。
 1973
 1020  『広島の文芸 小説・評論 知的風土と軌跡』(岩崎清一郎 著、広島文化出版)
「第五章 死の影―原 民嘉・大田洋子 阿川弘之…88」
1975
 0511  没。享年46歳。
0720 『別冊新評 梶山季之の世界 追悼号』
 0731  『ヒロシマの原風景を抱いて』(栗原貞子著、未来社)
 「梶山季之作「ケロイド心中」をめぐって 87」
1977
0415 『旅とその世界』(山と溪谷社)
1979
0313 『定本原民喜全集 別巻』(山本健吉他編、青土社)
「梶山季之 「天邪鬼」のころ 362」
1991
0615 『梶山季之のメジャー・コンタクト(17回忌・文学碑建立 記念号)』(季節社・代表梶山美那江)
2007
1110 時代を先取りした作家梶山季之をいま見直す 没後33年記念事業』(梶山季之記念事業実行委員会、中国新聞社)
 2010
 1220  『広島県現代文学事典』(天野裕康・記)

反核燃の日全国集会

反核燃の日全国集会

出典: 青森県史デジタルアーカイブス
検索条件:被爆者

第04章 巨大開発と原子力の時代
第2節 むつ小川原巨大開発
3 核燃料サイクル施設の建設
資料番号12 反核燃の日全国集会
ページ 236~238
反核燃の日全国集会

人類とは共存できぬ/六ケ所で反核燃の日全国集会
建設断固阻止を決議/県内で最大級 1万1千人参加
上北郡六ケ所村で進められている核燃料サイクル施設の建設を阻止し脱原発を目指そうという「4・9反核燃の日全国集会」が九日、同村尾駮浜を中心に開かれ、全国の市民団体や社会党、県労などの労組員ら約一万一千人が参加し「核燃サイクル断固阻止」を決議した。また、参加者全員で建設予定地を「人間の鎖」で包囲した。この日の参加者数は県内では過去最大級で、反核のうねりが全国規模で大きく広がっていることを見せつけた。
この集会は、四年前の昭和六十年四月九日に青森県が核燃サイクル施設の受け入れと協力を決めたことから、反原発を掲げる市民グループがこの日を「反核燃の日」として位置付けている。集会は、社会党や県労で組織する「青森県反核実行委員会」(委員長・鳥谷部孝志県議)の呼び掛けに応じた東北、北海道を中心とする労組員のほか、全国各地の市民グループら約一万一千人が参加して開かれた。
午後零時半から尾駮浜で開かれた全国集会では、社会党の山口鶴男書記長が「F16の模擬弾誤射や活断層のある六ケ所村に核燃料サイクル基地を建設するのは国民を無視するもの。建設を阻止するまで断固戦い抜く」とあいさつ。広島から集会に加わった森滝市郎原水禁代表委員も「核と人類は共存できない。核がある限り、このような過程で被爆者が増える」と、建設阻止を訴えた。
さらに、現地六ケ所村から坂井留吉核燃から漁場を守る会副会長が「第一回の集会はわずか七十人の参加者だった。六ケ所の現地をよく見て全国の人に教えてほしい」と訴えた。続いて、「いまからでも遅くはない。原発・核燃NO!」のアピールを決議。
このあと、参加者全員はウラン濃縮工場予定地と再処理工場予定地の二手に分かれてデモ行進、花火を合図に手をつなぎ、核燃サイクル予定地の東西側の約八キロを「人間の鎖」で包囲した。
一方、尾駮浜での集会に先立って市民グループの約三百人は同村泊の泊漁港荷揚げ場で反核燃集会を開き、泊地区をデモするとともに毎戸にチラシを配布し、漁業と核燃は共存しないと訴えた。市民グループは十日には、青森県庁のほか日本原燃サービス㈱、日本原燃産業㈱などを訪れ、抗議の文書を手渡すなどの抗議行動を行う予定でいる。
国政の場で歯止め/参院立候補予定者の姿も
解説 一万人を超すこの日の集会は、反核燃が単に六ケ所村や青森県内だけにとどまるものではないことを全国にアピールした。だが、「核燃建設断固阻止」の訴えの中に、具体的にどのようにして建設を中止に追い込むかの方法論が欠けていたのは否めない。具体策のない集会は一過性のお祭りに終わる危険性があるとの批判の声も出た。
その具体的な答えのひとつが、この集会の参加者の中にあった。この夏の参院選に反核燃・反原発を掲げ立候補を予定している人と、それを支援する市民グループの参加が目立ったことである。原燃事業二社が合法的に建設を進めるなら「その法律自体を変えるか、脱原発法を成立させよう」とする動きである。当選後はひとつの政党に結集し発議権を得ていこうとする方法である。そのための全国ネットワークづくりの準備も進んでいるという。
青森県を振り返って見ても、農業者の代表が立候補を予定している。人選が難航しているが、候補者が決まれば建設中止一万人原告訴訟団も「積極的に支持する」との考えを明らかにしている。
核燃サイクル事業二社は、建設中止を求める人々が〝特殊な人たち〟ではなく、全国のごく普通の人々であることを今一度、考える時期と言えよう。

核燃基地を〝人間の鎖〟で包囲
反核に揺れる六ケ所/切実な願い 大きな輪
核燃料サイクル基地を封じ込めるようにつながった一万人の「人間の鎖」―。四回目の反核燃の日4・9大行動は、かつてない盛り上がりを見せた。参加者は昨年の三百人から一挙に一万九百十五人(主催者発表)。組織動員に加え、全国から自費で参加した市民グループの人々の数は六ケ所村の人口に匹敵し、村を揺り動かした。「事が起きてしまってからではだれも責任をとれない」と車いすから訴える水俣病患者。「子供のためにも核燃はあってはならない」と話す主婦。時折小雨の降るこの日の尾駮浜は、反核燃の切実な願いが大きな輪となった。
車イスの水俣病患者も訴え
泊漁港
市民団体主催による六ケ所村泊漁港での集会で始まった。地元六ケ所村の坂井留吉さんが「原発、核燃は断固阻止しなければならない」と口火を切ったのをはじめ、各地、各市民団体の代表が次々とマイクを握った。
仲間八人とともに熊本から駆けつけた<伏せ字 A>さん(五三)は、水俣病の後遺症で車イスの生活。「水銀もウランも、人間をむしばむもの。事が起こってからでは遅い。水俣の二の舞を踏んではならない」と語気を強めた。
デモ
泊漁港での集会参加者約三百人はそのまま、泊部落内のデモ行進に移った。「原発なしの暮らしにかえろう」「とめろ! 核燃」など思い思いのスローガンをゼッケンにしたため、千枚のチラシを村内に配りながら「核燃阻止」を訴えた。
四歳の長女の手を引きながらデモに参加した<伏せ字 B>さん(三八)=大阪府大東市=は「大東市の命と食べ物を考える会」のメンバー。「核燃はあまり関心なかったのですが、チェルノブイリの事故が大きなきっかけになりました。知れば知るほど怖くなりました。将来困っても解決できない原発は、子供たちには残せません」ときっぱり。
大集会
核燃サイクルからの温排水が三キロ沖合の海底に放出されることから、一部漁業権を譲り渡した六ケ所海水漁協のある同村尾駮浜。湿った海風が吹きつけるこの砂浜に、一万一千人が大型バス百九十台で駆けつけた。主催者の一人、花田敏夫県労議長は「私の記憶ではこれまでの最高は昭和三十八年、F105反対三沢集会に集まった八千五百人。これは軽く上回った」と大きな反響に表情を引き締めた。
山口鶴男社会党書記長のあいさつのあと、農業団体を代表して木村義雄東北町農協理事、寺下力三郎・核燃から郷土を守る上十三地方住民連絡会長らが「ふんどしを締め直して反対を戦い抜こう」と訴えると、参加者からは「そうだ!」の大合唱が起こった。
会場には各労組の旗に混じって、東北町農協の「反核燃」と朱書きされたムシロ旗も立ち、単なる労組の組織動員ではないことを印象づけた。
対応
原燃二社はこの日は休日。社員が待機しているはずの寮に人気はなく、逆に閉まっているはずの建設予定地内の事務所裏にはマイカーがずらり。同村大石平にある原燃PRセンターの入口には「都合により四月八、九日は臨時休館」のはり紙があり、正面駐車場は鎖で閉鎖したままだった。
世代、組織のワク超えて
人間の鎖
全国集会のあと、参加者は二手に分かれて、約八キロ離れた核燃サイクル基地建設地の包囲行動へ。世代や職業や組織のワクを超えたデモ行進が続いた。
約二時間のデモ行進のあと、のろしを合図に一斉に参加者が手をつなぎ、〝人間の鎖〟で核燃基地を取り巻いた。「核燃基地を包囲したぞ!」「子供たちに核燃を残すな!」―シュプレヒコールが渦巻いた。
埼玉県からきた<伏せ字 C>さん(二四)は「本当は核燃なんて他人事のように考えていたんです。でも六ケ所にきて危機感が実感できました。埼玉に帰ったら友達にもっと核燃の現状を伝えたい」と話し、仲間と一緒に「核燃反対」のハチマキをサイクル基地のフェンスに結びつけていた。

(資料年月日)1989年4月10日 (出典)『デーリー東北』デーリー東北新聞社所蔵
(解説) 原子力発電とは、燃料となるウランの核分裂による熱で水蒸気を発生させ、蒸気タービンや発電機を回して発電することである。この使用済み核燃料を再処理し、核分裂で生成したプルトニウムと核分裂しなかったウランを回収して、高速増殖炉などで核燃料として再利用することを核燃料サイクルといい、再処理をおこなう施設を核燃料サイクル施設という。日本はウラン資源を海外に依存しており、核燃料サイクルができればウランエネルギーの自給率が高まることから、政府や電気事業連合会(電事連)はこの計画を推進している。
1980(昭和55)年、再処理工場を経営する日本原燃サービス会社が設立され、施設建設の適地に受け入れがいくつかの地域に要請された。しかし、ウランの核分裂でできるプルトニウムは、半減期が2万4000年以上と長く、放射性廃棄物の処理に危険性が高いということで、要請された地域はいずれも拒否する。そこで六ヶ所村に受け入れ要請がくることになった。六ヶ所村には、むつ小川原開発における広大な買収用地と核燃料荷揚げ用の港があった。さらに60年代にむつ市大湊が原子力船むつの母港だったことで、国は下北半島を原子力基地と位置づけようと考えていた。
一方、開発を進めたい青森県は、むつ小川原石油備蓄会社に続く進出企業が決まらないことから、開発区域内への核燃料サイクル施設立地を構想し、電事連に受け入れの意向を伝えていた。こうして85年4月18日、青森県、六ヶ所村、事業主の日本原燃サービス株式会社、日本原燃産業株式会社、電事連の5者が立地基本協定(資料121)に調印し、核燃料サイクル施設が建設されることになった。資料122は、協定の調印を報じた新聞記事である。
その後、建設される核燃料施設は次の5施設となった。
①再処理工場
②ウラン濃縮工場
③高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター
④低レベル放射性廃棄物埋設センター
⑤MOX燃料工場
六ヶ所村において、核燃料施設建設反対運動は、寺下元村長らの「六ヶ所を守る会」・泊地区の「核燃から漁場を守る会」・女性がつくる「核燃から子供を守る母親の会」が中心となった。そして85年と86年の海域調査問題で高まりを見せたが、一方で建設推進派もおり、両派は対立していた。そうしたなか、86年4月26日、ソビエト連邦チェルノブイリで原子力発電所の爆発事故が勃発し、深刻な放射能汚染が起こった。この事故は世界中に衝撃を与え、各国エネルギー政策の転換や地球環境問題への関心を高めることになった。青森県においても弘前市の主婦グループが「放射能から子どもを守る母親の会」を結成、八戸市の市民グループ「死の灰を拒否する会」は、「核燃サイクル阻止一万人訴訟原告団」を結成するなど、88年になると反対運動は全県的に広がっていった。翌89年4月9日、六ヶ所村での集会には、県内外から約1万人が参加する大規模なものとなり、反対運動はピークを迎えることになった(前掲『巨大地域開発の構想と帰結』)。ここでは反核燃の日の全国集会を報じた新聞記事を資料123に掲載した。
反対運動にもかかわらず、核燃料施設は建設され、ウラン濃縮工場、高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター、低レベル放射性廃棄物埋設センターはまもなく操業を始め、再処理工場は建設後稼働が試みられている。
2011(平成23)年3月11日の東日本大震災の後、福島第1原子力発電所が爆発し、放射能汚染事故が発生した。その後、全国の原子力発電所や原子力関連施設は停止となり、再稼働は点検終了後に判断されることになった。
使用条件:改変可能・営利目的可能です。

三沢大集会に万余の人々結集

「三沢大集会に万余の人々結集」

出典: 青森県史デジタルアーカイブス
検索条件:被爆者

第02章 日米安保体制下の青森県
第3節 「同盟」の深化と自衛隊
1 基地と装備の拡充
資料番号62 三沢大集会に万余の人々結集
ページ 105~107
核兵器廃絶、F16くるな!!
三沢大集会に万余の人々結集/日米両政府に抗議文核攻撃機F16の三沢米軍基地配備に反対する大集会は五月二十六日正午から三沢市中央公園で、北は北海道から南は沖縄県、二十六都道府県から一万人を超す参加者によって開かれました。
大集会の中央舞台には大きく、核戦争阻止、核兵器全面禁止、日米安保条約廃棄、F16核攻撃機配備反対、三沢基地撤去、5・26三沢大集会とくっきり書かれ、文化行事にはじまり、きたがわてつ、のオープニング演奏、各県のうたごえ集団の賛助出演で集会は開始されました。
大集会の主催団体は、原水爆禁止日本協議会、日本平和委員会、基地対策全国連絡会議、安保破棄諸要求貫徹中央実行委員会と東北六県のF16・トマホークくるな連絡センター。四月二日三沢基地にF16が三機配備されてから初の全国的な規模の反対集会です。F16配備で最前線基地に
文化行事のあと、青森県原水爆禁止協議会大塚英五郎理事長が主催者を代表してあいさつに立ち「F16配備で三沢米軍の部隊名は第四三一戦術戦闘航空団という。これが彼等の名前、いかにも対ソ核戦争の最前線部隊であることが、名称によっても表われているではありませんか。
津軽海峡封鎖作戦演習もふくめ日米合同軍事演習はヒンパンに行われており、もし米ソ戦となれば中曽根の言う日本は、不沈空母になることを如実に物語っています。  我々は人類絶滅の核爆弾廃絶のため、F16反対運動を続けると同時に、広島、長崎からのアピールを支持する署名を国民の過半数から集めることに全力をあげながら今年の原水爆禁止世界大会を成功させましよう」と力強く述べましした〔ママ〕。

立木参議員〔立木参院議員〕のあいさつ
来賓の日本共産党常任幹部会委員の立木洋参院議員は「加藤防衛庁長官は十七日、三沢に視察にきて、F16配備は日本の安全と防衛にとっても重要であると述べましたが、とんでもないことです。
核爆弾を積むF16は戦闘爆撃機で、しかも天ケ森で爆弾投下訓練をおこなうなど、明らかに核戦争をおこなう基地となることであり日本を核戦争の脅威にさらすものです。」と述べ日米両国政府の好戦政策をきびしく糾弾、日米安保条約廃棄を強く要求しました。
同議員はまた、「こうした危険な三沢基地に、思いやり予算と称して中曽根政府は三百億円以上もF16配備に必要な金を支出しています。
国民の生活が苦しいときに、ひどいことをするもので許せません」と訴えました。
続けて立木議員は、昨年末の核兵器廃絶をめざした日ソ両党共同声明以後の情勢についてふれ、米ソ外相会談での共同声明など国際政治舞台での核兵器問題で大きな変化があるが、まだこの核兵器廃絶を永遠のかなたに追いやるレーガン米大統領、日本の国会決議など逆流も生れていると指摘、「反核国際統一戦線の結成、ヒロシマ、ナガサキからのアピール支持署名をいっそう広める決意を固めましよう」と呼びかけ、核基地撤去のためたたかおうと結びましした〔ママ〕。

千歳・沖縄各代表が決意表明
つづいてF16と共同作戦をおこなう自衛隊の戦闘機F15駐屯の千歳基地の市平和団体代表、横田基地のある東京平和委員会代表、沖縄の代表、東北を代表して岩手県代表、地元三沢のF16・トマホークくるな!センター代表などが次々と核兵器ノー、F16くるな!と気迫をこめ決意表明しました。

政府への抗議文
大集会は参加者の大きな拍手で政府に対する次のような抗議文を提出することを決めました。

抗議書
去る四月二日、核攻撃の任務をもつF16戦闘機の三沢配備が強行された。
このF16核攻撃機の三沢配備は国是である「非核三原則」をふみにじる公然たる核兵器の持ち込みであり、三沢基地を極東最大の対ソ最前線核攻撃基地とするものである。
F16核攻撃機の三沢配備によって、我が国は文字通りアメリカの「不沈空母」とされ、日本全土が核戦場化される危険が飛躍的に高まっている。
自民党中曽根内閣は、このF16核攻撃機の三沢配備を認め、今国会で、日米共同作戦の際の米軍による核兵器先制使用と三沢基地での核模擬爆弾演習を容認する発言を行っている。
このような中曽根内閣の態度は核戦争阻止、核兵器全面禁止、廃絶の国民の願いと要求にそむくものであり、断じて許すことができない。
5・26三沢大集会に参加した我々は、F16核攻撃機三沢配備を容認する日本政府に断固抗議し、その撤去を強く要求する。
右、決議する。

レーガン米大統領へ抗議文
広島、長崎への原爆投下によって三十数万人の無コの命が奪われた被爆四十周年をわれわれは迎えている。
いまなお日本には四十万人に近い原爆被爆者が「いのち」「くらし」「こころ」の苦しみに耐え、過酷な日々を生き抜いている。
被爆者は「原爆は人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許しません。
核兵器はもともと「絶滅」だけを目的とした狂気の兵器です。人間として認めることのできない絶対悪の兵器なのです」とその廃絶を訴えている。
そして日本国民の圧倒的多数も核兵器の使用を認めず、その全面禁止を要求している。
しかるに貴国政府は、核兵器の開発競争を続けるばかりか、日米安保条約をタテに、わが国に核戦争のためのシステムを設置し、さらに四月、ここ青森県三沢市に、核攻撃機F16の配備を開始した。
日本国民は、世界最初の被爆国が核戦争の基地とされ、核戦場となることを絶対に拒否する。
われわれは、満身の怒りをこめて、貴職に厳重に抗議し、要求する。F16の三沢配備計画を中止せよ。配備ずみのF16三機を、直ちに撤去せよ。

(資料年月日)1985年5月30日 (出典)『北奥民報 第184号』三沢市立図書館所蔵
(解説) 資料51は1962(昭和37)年3月刊行の『米軍三沢基地の実態』に掲載された米軍三沢基地の現状報告である。同年2月にはアメリカ大統領ケネディがベトナム戦争を拡大し、戦略村と称する農耕集落を建設して農民を戦略村に移住させ、戦略村に移住しない農民は南ベトナム解放民族戦線のゲリラと見なして攻撃する作戦を開始した。B52戦略爆撃機の三沢飛来が確認され、三沢基地がベトナム戦争に組み入れられていることが強調されている。三沢基地はソ連と対峙するばかりでなく、アジア全体の米軍戦略上の拠点となっていた。
資料52は1970年の日米安全保障条約の改定を翌年に控えた1969年6月に刊行された『青森県下の軍事基地』のうち天ヶ森射爆場と基地関連労働の部分を収録したものである。天ヶ森射爆場は旧海軍航空隊の射爆場を1949年に米軍が接収したもので、天ヶ森の740万平方メートルが演習場で、海側は46.6平方キロメートルが漁業制限区域となっている。
また、基地で働く労働者3000人のほか、国鉄・日本電信電話公社など基地に附帯する事業で働く労働者の概要を知ることができる。労組の反戦・基地撤去の方針と基地撤去が自らの生活手段を奪うことの矛盾の中に生きる基地労働者について言及している。
防衛施設庁による在日米軍基地の実態調査が資料53である。調査は1970年3月から5月上旬までで、当然沖縄の基地は含まれていない(沖縄返還は1972年)。青森県の施設数は7か所で、神奈川・東京・福岡・長崎に次いで、北海道と同数の5位である。
使用条件:改変可能・営利目的可能です。

 

放射線被曝の歴史

中川保雄『放射線被曝の歴史』(技術と人間、19910920)

内容

タイトル 備考
1 放射線被害の歴史から未来への教訓を -序にかえて-7
2 アメリカの原爆開発と放射線被曝問題 15
全米放射線防護委員会の誕生 15
マンハッタン計画の放射線科学者 19
戦前の被曝基準と放射線の被害 21
3 国際放射線防護委員会の誕生と許容線量の哲学 27
ICRPの生みの親 27
許容線量の誕生 31
アメリカの核開発と許容線量 36
ICRP1950年勧告 38
4 放射線による遺伝的影響への不安 43
原爆傷害調査委員会(ABCC)の設立 45
ABCCによる遺伝的影響調査 49
倍加線量と公衆の許容線量 51
5 原子力発電の推進とビキニの死の灰の影響 57
原子力発電でのアメリカの巻き返し 58
ビキニの死の灰の影響 63
BEAR委員会の登場 68
許容線量の引き下げ 71
ICRP1958年勧告 73
国連科学委員会 77
6 放射線によるガン白血病の危険性をめぐって 83
微量放射線の危険性への不安の広がり 84
死の灰によるミルクの汚染 86
ガン・白血病の「しきい」線量 88
広島・長崎での放射線障害の過小評価 90
7 核実験反対運動の高まりとリスク-ベネフィット論 101
核実験反対運動の高まり 102
リスク-ベネフィット論の誕生 104
1960年の連邦審議会報告とBEAR報告 107
ICR1965年勧告 110
8 反原発運動の高まりと経済性優先のリスク論の“進化” 113
反原発運動の高揚 113
科学者による許容線量批判の高まり 115
原発推進策の行きづまり 119
放射線被曝の金勘定とコスト-ベネフィット論 123
BEIR-1報告 127
ICRPによるコスト-ベネフィット論の導入 129
生命の金勘定 132
原子力産業は他産業より安全 135
ICRP1977年勧告 137
9 広島・長崎の原爆線量見直しの秘密 145
原爆線量見直しの真の発端 146
マンキューソのハンフォード郭施設労働者の調査 149
絶対的とされたT65D線量の再検討へ 151
軍事機密漏らしの高等戦術 156
BEIR-3報告をめぐる争い 158
日米合同ワークショップによるDS86の確定 161
10 チェルノブイリ事故とICRP新勧告 165
ICRP勧告改訂の背景 166
新勧告につながるパリ声明 170
チェルノブイリ事故と一般人の被曝限度 174
新勧告とりまとめまでの経過 177
アメリカの放射線防護委員会と原子力産業の対応 182
国連科学委員会報告 184
BEIR-5報告 186
線量大幅引き下げのカラクリ 189
新勧告最大のまやかし 190
11 被曝の被害の歴史から学ぶべき教訓は何か 195
時代の変化とともに拡がる被曝の被害 196
防護基準による被害への対応の歴史 200
現在の被曝問題の特徴 204
日本の被曝問題の特徴 214
放射性による食品汚染問題 227
12 おわりに 233
あとがきにかえて(中川慶子) 241

今川卓治

今川卓治

いまがわ・たくじ 18961109生19810510没 享年84歳 『被爆医師 今川卓治』(今川静子、19870510)

資料年表:今川卓治<作業中

 年月日  事項 備考
 1896
 1109  群馬県で誕生
 1922  旧九州帝国大学医学部卒業
 1927  東京帝大より医学博士号を受ける
 1928
 03  広島市猫屋町に医院を開業
 1945
 0806  往診中に広島市観音町で被爆。多くの被爆者の救護活動にあたる
 1947  社団法人広島市医師会初代会長に就任。~1949年2月。
 1955  広島市医師会会長。~1957年2月。
 1981
0510  旧制心不全で死去。享年84歳。
1987
0510 『被爆医師 今川卓治』(発行:今川静子)

資料年表:菊池武彦

資料年表:菊池武彦<作業中

年月日 事項 備考
出典:C=『中国新聞』
 **** 誕生
1947
0401 戦後初の日本医学会総会。於:大阪。菊池武彦京大教授らがについて特別講演。 C
1010 菊池武彦京都大学教授ら、広島市で被爆者健康調査のため無料巡回診療。~19日。 C
 1949
1202 菊池武彦京都大学教授、ABCCで被爆生存者の病状記録について協議。 C
 1953
 0505  『原子爆弾災害調査報告集 第二分冊』(日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編、日本学術振興会)
 1954
0919 原子爆弾災害調査研究班第5回研究会議。会場:広島大医学部付属病院(呉市)。都築正男・塩田広重・中泉正徳・菊池ら出席。 C
 1961
 0331  『原子爆弾後障害研究会講演集 第2回 [昭和35年]』(長崎県・長崎市・長崎原爆障害対策協議会編)
1985
0504 死亡。
 1991
 0615  『医師たちのヒロシマ 原爆災害調査の記録』(核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会「医師たちのヒロシマ」刊行委員会編、機関紙共同出版)
 1993
 0901  『京都大学原子爆弾災害綜合研究調査班遭難 「記念碑建立・慰霊の集い」のあゆみ』(芝蘭会広島支部、京都大学)

消えた十字架

『消えた十字架』(碓井静照著、ガリバープロダクツ刊、19950806)

内容

見出し 備考
はじめに 2
1 消えた十字架 9
・心のふるさと-アメリカ 11
/ボストン大学へ… 12
/ボストン近郊にて~ヨットや釣りのこと~ 27
/消えた十字架~ボストンのクリスマスに思いを馳せながら~ 37
/変わりゆくマンハッタン・ハーレム 45
・アフリカ、メヘバ難民キャンプを訪ねて… 51
/アフリカ、難民キャンプを訪ねて… 52
/南部アフリカ回想 56
・世界を語る 73
米ソの穀物事情と世界の緊張 74
/ドルと鯨と核利用 77
/二十世紀最大の疫病-エイズ 80
/真の国際化とは 84
/トイレットペーパーと文明度 86
・友ありユーゴより来る 89
ユーゴの友 90
/友あり、ユーゴより来る 92
/ホームスティのお話 95
2 ノーモアヒロシマの決意新たに 99
・私と原爆 101
時は流れる 102/私と原爆 103/語り継ぐ夏~四十七年目のヒロシマ~ 109/転機を迎えた核時代~処方せんは一つ「核廃絶」~ 110
・ノーモアヒロシマの決意新たに…~IPPNWの活動から~ 113
IPPNW平和学術講演会の印象記 114
/〈座談会〉IPPNWによせて~IPPNW国際会議出席者に聞く~ 121
/IPPNW広島大会、一九八九年に開催決定の瞬間 136
/ノーモアヒロシマ、この決意永遠に…139
/第二回IPPNWアジア太平洋地域会議(マニラ)開かれる 140
/ヒロシマの教訓~第二回IPPNWアジア太平洋地域会議(マニラ)での講演より~ 144
/はじめてチェルノブイリ原発事故被害の真相にせまる・IPPNW日本支部代表団、モスクワなどソ連四都市を公式訪問 154
/「安全保障の共有と健康のための地球規模のコミュニケーション」をテーマに~IPPNW第十回世界大会開催~ 162
/IPPNWストックホルム大会とヒロシマ 167
/ソ連クーデター直後、核管理の揺らぐモスクワに入る・IPPNW「ソ連共和国非核化教育キャンペーン」準備会議へ出席して 170
/IPPNW日本支部・碓井氏が帰国報告 173
/日ソ非核化キャンペーン・ロシアウインターキャンペーン(医療援助募金)について 175
/中国、北朝鮮(DPRK)、韓国、日本によるIPPNWアジア太平洋地域会議のための準備会議開催 183
/エリツィン大統領らに核廃絶を申し入れる・旧ソ連非核化教育キャンペーンの代表団の一員として 187
/国連軍縮会議が広島で行われたことの意義 199
/IPPNWボルゴグラード支部活動について 200
/ 朝鮮半島の非核化と日本のプルトニウム保有について 203
3  CUREとCARE 211
・医師として生きる 213
医学部を志す人達へ、一医師の日常 214/医者の不養生 221/週休二日制を考える 225/四面楚歌の中で 228/心に残った患者さん 232/医師をめざす後輩に物申す 234/〈座談会〉医の原点を求めて~海外医療活動経験者は語る~237
・地域医療の充実を求めて 257
春爛漫 258/広島市医師会創立一〇〇周年記念行事から 259/橋田寿賀子「ドラマの中の女たち」評・広島市医師会創立一〇〇周年記念~文化講演より~ 260
・医療経営を考える 265
規則緩和を求めて-病院協会の在り方 266/生き残れるか民間医療〈座談会〉医療経営について 268
・高齢化を見つめる 289
老人福祉制度への雑感 290/甘露の雨とこしえに 293/ボケ防止について 294
・老人保健施設について 297
都市医師会での老人保健に関する分科会から 298/老人保健施設短評 300
・深刻な看護婦不足 303
書評「ナースコール」を読んで 304/深刻化する看護婦不足 305/診療報酬体系と看護婦不足 309
4 GALLERY 313
・ゴルフ顛末記 315
大学の会報で同級生に紹介されたら 316/B組優勝者の弁 317/B組ブービー残念記 319/広島カントリー倶楽部「成人の日杯」に優勝して 321/またまたB組ブービー賞残念記 323
・写真に魅せられて 327
写真に魅せられて 328/街を撮る〈座談会〉写真放題~〝わがブロック〟担当カメラマン~ 332
・GALLERY 351
天神嶽の石佛 352/モスクワの子供たち 353/カレメグタンの丘にて 354/N・Y・ハーレムにて 355/エニセイ川(ロシア)上流の山脈 356/芽花、白い穂 357
・徒然なるままに 359
なくて七癖 360/徒然なるままに 361/一冊の本「徒然草」 369/英訳「宇津保物語」評・「The Tale of Cavern(Utsuho Monogatari)」について 371/高瀬堰随想~太田川に想う~ 375
あとがき 392

碓井静照

碓井静照

うすい・しずてる 201209没 享年74歳 広島県医師会会長、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)日本支部長などを歴任。第67回(2010年)中国文化賞(中国新聞社主催)。8歳の時被爆。

 

資料年表:碓井静照<作業中

年月日 事項 備考
1937
** 広島市牛田本町生まれ
1945
0806 8歳のとき、原爆被爆。
1989
0720 『ヒロシマ医師のカルテ』(広島市医師会)
座談会:あの日  (小山綾夫・横山滋・福原照明)67
碓井静照 「私と原爆」 147、「核戦争の危機-第3回大会」282、「’89年広島大会開催決定の瞬間」314、
川堀耕平・福原照明・茶幡隆之・碓井静照「IPPNWによせ」 338
1992
0130 『核戦争防止国際医師会議日本支部報告 平成4年1月30日(その1)』(IPPNW日本支部)
日本支部1990年度報告 碓井静照 4
0130 『核戦争防止国際医師会議日本支部報告 平成4年1月30日(その2)』(IPPNW日本支部)
「安全保障の共有と健康のための地球規模のコミュニケーション」をテーマに日本支部から30名参加 碓井静照 10
IPPNW「ソ連共和国非核化教育キャンペーン」準備会議に出席して 碓井静照 67
0130 『核戦争防止国際医師会議日本支部報告 平成5年1月30日』
(1)ロシアウィンターキャンペーン(医療援助募金)について
ボストンIPPNW執行委員会報告 碓井静照 7
(4)IPPNW代表団による旧ソ連邦非核化教育キャンペーンに参加して 碓井静照 14
中国、北朝鮮(DPRK)韓国、日本によるIPPNW
アジア太平洋地域会議のための準備会議開催 碓井静照 22
IPPNWボルゴグラード支部活動について 碓井静照 36
ヒロシマからの教訓-第3回IPPNWアジア太平洋地域会議に於ける講演- 福原照明 48
朝鮮半島の非核化と日本のプルトニウム保有について
-第3回IPPNWアジア太平洋地域会議の位置づけ- 碓井静照 64
1995
0806 『消えた十字架』(ガリバープロダクツ刊)
1996
0701 『エドナ・ライル夫人の死』(ガリバープロダクツ刊)
第1章 ミンスク(ベラルーシ)への旅 13
1998
0806 『語り継ぐ夏 Abolition 2000をめざして』(ガリバープロダクツ刊)
2002
0329 『ニューヨーク午後の日射し 続ヒロシマ2001』(ガリバープロダクツ刊)
2004
1212 『哀しみの虹 ある美しき韓国女性の死』(ガリバープロダクツ刊)
2007
1008 『シアトルからの手紙』(ガリバープロダクツ刊)
2009
0331 『核戦争防止国際医師会議日本支部報告 平成20年度(2008年度)』
2.IPPNW日本支部理事会・総会・広島県支部総会 柳田実郎 2
・日本支部長挨拶 碓井静照 5
0911 『ピョンヤンの春 望春-北朝鮮の核廃絶と被爆者医療』(ガリバープロダクツ刊)
2012
0127 『放射能と子ども達 ヒロシマ、チェルノブイリ、セミパラチンスク、そしてフクシマ』(ガリバープロダクツ、20120127)
0509 没。享年74歳。

故議員砂原格君に対する追悼演説

故議員砂原格君に対する追悼演説

出典:『第68回国会 衆議院 本会議 第31号 昭和47年5月23日』

  • 002 船田中

    ○議長(船田中君) 御報告いたすことがあります。  議員砂原格君は、去る八日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。  同君に対する弔詞は、議長において去る二十一日贈呈いたしました。これを朗読いたします。   〔総員起立〕  衆議院は多年憲政のために尽力しさきに逓信委  員長運輸委員長の要職にあたられた議員従三位  勲二等砂原格君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞  をささげます     —————————————  故議員砂原格君に対する追悼演説

  • 003 船田中

    ○議長(船田中君) この際、弔意を表するため、大原亨君から発言を求められております。これを許します。大原亨君。   〔大原亨君登壇〕

  • 004 大原亨

    ○大原亨君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員砂原格君は、去る五月八日逝去されました。まことに痛恨の念にたえません。
     私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしんで哀悼のことばを申し述べたいと存じます。
    (拍手)
     顧みれば、昭和二十年八月六日午前八時十五分、広島市に史上最初の厚子爆弾が投下され、ただ一発のこの原爆によって全市は一瞬の閃光とともに灰じんに帰し、未曽有の惨状が現出いたしたのであります。このとき、砂原さんは爆心地にほど近い自宅において被爆され、建物の下敷きとなり、文字どおり九死に一生を得られたのであります。あなたは口にこそ出されなかったが、あなたのからだは、その後終生放射能の恐怖にさらされることになったのであります。
     砂原さんは、それに加えて宿痾の糖尿病が悪化して、本年初めから東京において入院加療し、さらに三月中旬からは被爆者治療の権威である郷里の広島赤十字病院に移って治療に専心しておられました。しかし、私が、去る三月、病院にお見舞いしたときには、奥さまと差し向かいでおいしそうに食事をしておられ、「もうだいじょうぶだよ」と言って、病人とも思えぬほど元気であり、かたい握手をして別れたのであります。また、最近は、再起を期して病院の廊下で歩行練習もされ、「六月になったら東京に行くんだ」と言われていたとのことであります。その御様子から、私はあなたが登院される日の近いことを信じ、心からお待ちしていたのでありますが、五月八日夜、だれもが思いもかけなかった病状の急変を来たし、奥さまの手を、しっかりと握ったまま、生けるがごとく大往生を遂げられました。主治医は、あなたの生命を断った要因に原爆症があったことを指摘されましたが、私は、原爆の悲惨さに思いをいたし、深い悲しみとともに強い憤りを抱かずにはおられません。  私は、昭和三十三年本院に議席を得て以来十四年余になりますが、この間五回にわたる選挙を通じて砂原さんと相争ってまいりました。互いに党派を別にし、主義主張を異にしておりましたが、庶民的政治家としての砂原さんに対し、心からの尊敬の念を抱き、あなたを相手として戦うことを誇りとしていたのでありまして、いまここに砂原さんの急逝にあい、私は、いまさらのように人生の無常を感ずるとともに、心から痛惜の念を覚えるものであります。(拍手)
     砂原さんは、明治三十五年四月、広島県高田郡白木町の農家にお生まれになりました。高等小学校を卒業後一たん農業に従事されましたが、独立独行の志かたかったあなたは、広島市に出て、幾多の辛酸をなめつつ未来への模索を続けた末、二十二歳にして土木建築事業を興し、事業家としての第一歩を踏み出されました。その後事業は次第に拡大され、やがて砂原組をはじめ各種の分野で幅広く活躍されることになりました。その間、広島商工会議所副会頭にもあげられ、地方産業界の指導的役割りを果たされたのであります。
     砂原さんが地方政界に入られたのは昭和十七年でありました。あなたは、時のいわゆる翼賛選挙に憤慨をし、持ち前の反骨精神から、敢然として広島市会議員の選挙に非推薦で立候補し、初当選をされたのであります。以来、市会議員として、その庶民性と実行力をもって市政の推進にこん身の熱意を傾け、多くの業績をあげられたことは、広島市民周知の事実であります。
     そして、昭和二十年八月六日、突如としてあの原爆に襲われたのであります。戦後十六年間にわたって広島市長であった故濱井信三氏は、その著書「原爆市長」の中で、「焼け跡にもようやく秋の気配が動きはじめた。八月の終りから九月の初めにかけて身に傷を受けず、火傷もしなかった人たちが、次々に倒れていった。被爆直後から市役所に出て来て、さかんに活躍していた市会議員の砂原格氏も姿を見せなくなった」と書いていますが、砂原さんもついに原爆症のため病床に伏すのやむなきに至りました。原爆のため肉親を失い、みずからも脱毛や歯ぐきよりの出血などの重症におちいりましたが、不屈の砂原さんは、よくこれを乗り越えて再び不死鳥のように立ち上がり、地元町内会長、消防団長をはじめ市会議員として、混乱の極にあった市民の救済に挺身をされました。
     翌二十一年には市会議長の要職につかれ、焦土と化した広島市の復興に全力を傾注し、また、昭和二十二年からは県議会にも議席を占めて、戦後の復興と民生の福祉増進に尽くし、県民の信望を大いに集められたのであります。(拍手)
     そして、昭和二十七年十月、第二十五回衆議院議員総選挙が行なわれるや、あなたは、祖国の再建と郷土広島の復興のため努力したいとの決意を固め、激戦の広島県第一区から勇躍立候補し、みごと当選の栄を獲得されたのであります。(拍手)  本院に議席を得られた砂原さんは、長年地方政界においてつちかわれた経験と、あくまでも庶民の生活に根ざした実際的感覚をもって国政に当たられ、その活躍ぶりは独自のものがありました。
     昭和三十五年には、第二次池田内閣の通商産業政務次官に就任をされ、中小企業の振興、特に零細企業について、商工会の制度創設に尽力をされました。昭和三十八年には、同じ池田内閣の厚生政務次官となり、みずからの貴重な体験に基づいて原爆被爆者対策に積極的に取り組み、また当時から、「街に緑を」と提唱するなど、公害問題に対して先駆的な考えを示されました。
     本院においては、運輸、商工、逓信、建設その他各委員会の委員あるいは理事となって、各方面にわたり幅広い活躍をされました。そして、逓信委員長あるいは運輸委員長の要職にもあげられ、よくその重責を果たされたのであります。
     しかしながら、砂原さんの本領は建設行政にありました。特に、通路問題については、実務を知悉した経験とその卓越した実行力をもって貴重な意見を吐き、欠くことのできない権威として、つとに同僚議員の認めるところでありました。「近代的な交通網の整備は、その国の発展の証左であり、国民の生活や生産を向上させる基本である。」これは、道路の重要性がなお実感として受け取られていない当時からの国土開発に対する砂原さんの政治信念であり、砂原さんが政治生命をかけて提唱してこられたところであります。
     昭和四十一年には、国土開発縦貫自動車道建設法の改正案が成立しましたが、砂原さんは、この法律の制定あるいはまた道路建設の実施にあたって、献身的な努力をいたされました。  最近におきましても、本州四国連絡橋公団法案の制定あるいは道路整備五カ年計画の推進に、陰ともひなたともなって努力をされたのでありまして、この間の砂原さんの尽力は高く評価されなければなりません。(拍手)
     それにつけましても、砂原さんが執念を燃やしておられた地元の中国縦貫自動車道あるいは中国横断道が完成半ばにして急逝されたことは、砂原さんにとって大きな心残りであったでありましょう。
     自由民主党にあっても、道路調査会副会長として、また政務調査会審議委員として、党の政策の立案推進に大きな発言力を持っておられたのであります。
     かくして、砂原さんは本院議員に当選すること前後六回、在職十四年八カ月に及び、この間国政に残された功績はまことに偉大なものがあります。
     思うに、砂原さんは真の大衆政治家であり、きっすいの政党政治家でありました。「政治は、足と真心だ。これに尽きる。奉仕の気持ちで三百六十五日、足を使わなければだめだ」、あなたはこれを政治活動の基本姿勢とし、いたずらに理想に走らず、常に大衆に接し、大衆の心の中に政治の方向を求めてこられました。「困った人があったらまず救済の手を差し伸べ、理屈や法律はそのあとについてくればいいではないか」と言いつつ、はだで感じ取った真実を黙々として現実の政治の上に具現してこられたのであります。そして、時にその政治姿勢に向けられる批判も甘受し、断固としてわが道を歩み続けられたのでありますが、私は、そこにこそ大衆政治家砂原格君の真骨頂があったと信ずるものであります。(拍手)
     砂原さんは、裸一貫から身を起こし、あらゆる辛酸をなめながら、不撓不屈の信念を堅持して、独立独歩、よく今日を築かれました。世人は、そのあなたを立志伝中の人、あるいはまた、その風貌も加えて、今太閤と評しております。しかし、私は、砂原さんが、人生の試練に直面するごとに、それをみずからを高めみがくかてとし、大衆を愛する至情に転化し、政治家としての、また人間としての形成に昇華してこられたことにこそ、惜しみない敬意と拍手を送りたいと思うのであります。  あなたの訃報に接し、広島のお宅には次々と弔問客が訪れたのでありますが、その中には、砂原さん直筆の手紙の束を両手にしっかりと握りしめ、ぼう然として涙にくれながら霊前にただずむ一市民の姿も見られたのであります。(拍手)それはまさに、みずからを顧みず寸暇をさいて世のため人のためをはかってこられた砂原さんをいたむにふさわしい情景でありました。
     御年七十歳。あなたの生命のともしびは静かに消えて、平和の象徴としてよみがえった広島の地において永遠の眠りにつかれたのでありますが、その全生涯をただ一筋に大衆にささげられたあなたのみたまは、多くの人たちの胸中に不滅の灯としていつまでもいつまでも燃え続けていくことでありましょう。  現下、内外の情勢は激しい流動を続けております。このときにあたり、庶民の中から生まれ、常に庶民とともにある砂原さんのごとき政党政治家を失いましたことは、返す返すも残念なことであり、まことに大きな損失と申さなければなりません。  人の値打ちは棺をおおうてきまる。いま私は、病床で最後の握手をかわしたときのあなたのがんじょうでしかもあたたかい手のぬくもりをしみじみと感じつつ、砂原さんの人となりをしのび、その功績をたたえ、心から御冥福をお祈りして、追悼のことばといたします。(拍手)