「01 月忌」カテゴリーアーカイブ

資料年表:フロイド・シュモー

フロイド・シュモー

18950921生20010420没 享年105歳 米国の平和活動家。シュモーハウス。

資料年表:フロイド・シュモー<作業中

年月日 事項 備考
1895
0921 アメリカ中西部の一農家に誕生。
1949
 0702  フロイド・シュモー(クエーカー教徒)ら4人、広島市に育児診療所建設のため17日にサンフランシスコを出港予定。  C
1951
0331 『外國人より廣島によせることば』(広島県土木部計画課)
「(7)廣島の家 計画主任 フロイド・シュモー博士 13」
 1952
1001 『日本印象記』(フロイド・シュモー(Schmore,Floyd)(著)・大原三八雄(訳)
広島ピース・センター(刊))
1995
0801 『けんみん文化 1995.08』(広島・県民センター文化情報課)
まちかど シュモー会館
2013
0201 『平和文化 2013.2』(広島平和文化センター)
シュモーハウスがオープン………1~2
 2017
 1201  『平和文化 2017.12』(広島平和文化センター)
 Sarayama Village ―フロイド・シュモーが写した広島・江波・皿山…⑬
 2004
 ?? 原爆資料館のヒロシマ・ピース・ボランティア 3人、「シュモ―さんの『ヒロシマの家』を語りつぐ会」を結成。
 2012
1101 「シュモーハウス」、広島平和記念資料館付属展示施設として開館(広島市中区江波二本松一丁目)
 2014
1101  『ヒロシマの家 フロイド・シュモーと仲間たち』(シュモーに学ぶ会)
2018
1001 『月刊放送ジャーナル 2018.10』(第48巻第9号)
ETV特集 ~シリーズアメリカと被爆者第1回『シュモーさんを探して』~…鈴木典之…36
1101 『歴史地理教育 2018.11』( 886号)歴史教育者協議会
探訪ミュージアム112 シュモーハウス[広島平和記念資料館付属展示施設](広島市) 谷本真由美
2020
 1221  『広島平和記念資料館総合図録 ヒロシマをつなぐ』(広島平和記念資料館編、広島平和文化センター)
  コラム「シュモーハウス フロイド・シュモーと『広島の家』計画」

 

日本印象記-ヒロシマの家

『日本印象記-ヒロシマの家』(フロイド・シュモー著、大原三八雄訳、広島ピース・センター発行、19521001)

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内容

フロイド・シュモー博士の横顔―序文にかえて 訳者 1
日本印象記(ヒロシマの家) 1
71 シュモー博士と広島の家 浜井信三
75 跋 谷本清
Japan Journey by Floyd Schmoe (Silver Quoin Press 1950)

川端康成

川端康成

かわばた・やすなり 18990614生19720416没 享年72歳 日本ペンクラブ会長[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。

資料年表:川端康成<作業中

年月日
1899
0614 誕生
1949
1126 川端日本ペンクラブ会長ら、国際ペンクラブ大会(1950年・英国)出席に備え広島市を訪問。 C
1950
0415 日本ペンクラブ主催「広島の会」。川端会長らペンクラブ会員約80人参加。講師:川端、石川達三、真杉静江、阿部知二、原民喜ら18人。平和宣言を発表。 C
1959
0814 川端から広島「憩いの家」(広島市宇品町)に小説990冊が届く。
1961
0730 日本ペンクラブ、広島「憩いの家」の運営資金にと42枚の色紙を贈る。寄贈者:川端、井伏鱒二、井上靖、徳川無声、丹羽文雄、佐藤春夫、東郷青児ら。
1967
0612 世界平和アピール7人委員会の4人(茅誠司・川端康成・上代たの・内山尚三)、佐藤首相に文化人18人が署名した原爆被爆者援護法制定に関する要望書を手渡す。
1969
0816 広島「憩いの家」主催「被爆者援護第7回文芸家・画家・国際色紙展」(会場:広島市・福屋百貨店)。川端ら約120人、300点を出品。サルトルらの被爆者へのメッセージも展示。
1970
0814 広島「憩いの家」主催の被爆者救援の色紙展(会場:広島市・福屋百貨店)。川端らの色紙300点を展示。
1972
0416 神奈川県逗子市のマンションでガス自殺。72歳。
2016
0921 森本穫「緑地帯 川端康成と広島<1>」(『中国新聞』連載)~<8>(9月30日)。

駆けぬけて 羽原好恵追悼集

 

『駆けぬけて 羽原好恵追悼集』(羽原好恵追悼集刊行委員会、1993/12/01)

内容

003 吉見弘(中国放送) 序にかえて
015 日記(抄) 19921124~19930412
023 追悼文
025 松林俊一 一枚の写真から 広島市公文書館
028 磯崎弘幸 もう、好恵さんのすがすがしい声をきくことはできない 民放労連書記長
031 市川美根 羽原さんと真珠の指輪 東京放送
033 隅井美沙子 浅草デート 東北放送
036 宮崎安男 羽原さんの笑顔 原水爆禁止広島県協議会代表委員
040 尾津訓三 透明な人 日本演劇学会
042 大林進 働く仲間の中にはいつも好恵さんがいた 元山陽新聞
045 古浦千穂子 無念の死 作家
048 岡本美紀 放送局で女性の数が半分になったら ラジオ日本
051 原田東岷 羽原さんを悼む 医師
054 川上三夫 歌わなくなったうた 元山陽新聞
056 井口泰子 彼女の闘いの終りに 作家
059 安部親雄 羽原かあちゃんを偲んで 「寿司富」店主
061 水藤晉 残酷な地雷 共同通信
063 岡野信子 ホンモノの優しさ 梅光女学院大学名誉教授
067 河井章子 イチ抜-けない 元中国放送
070 杜師弘一 人間を そして哲学を 中国放送
073 松本洋 明るく親切だった ヤンちゃんへ 元・元宇品小学校教諭
075  高岡日出子 まだまだ生きてほしかった   東京放送
078  森悦子 勇気ある旅立ち  広島市役所
080  田辺昭太郎 好っちゃんの怒ったとき  映画プロデューサー
082  岡本純江 ゆっくり休んで…  毎日放送
083  今田純子 いまごろになって 朝日放送
084  寺本真名 爽やかな人  元放送映画製作所
085  野崎清 精一ぱい生きた人   朝日放送
086  井上俊逸 メッセージ・フォー・あす  中国新聞
089  酒井幸 ボルゴグラードでの思い出 中国新聞
093  香川そのみ 女性記者であること  中国放送
095  中川幹朗 羽原さんの思い出  皆実高校教諭
098  徳光国弘 年上の女 は婆らさん  中国放送
101  須山楓 羽原さん 力をかして 南海放送
104  丸屋博 友よ、さらば 羽原さんの残した課題  広島共立病院名誉院長
109  栗本陽子 私達にできること  大阪文学学校研究生
111  天野茂 羽原好恵さん逝去の悲報に  元比治山女子短大教授
112  芝田進午 羽原好恵さんへの感謝  広島大学名誉教授
115  池谷洋二 チロ  毎日新聞
118  柴田和広 宿題 中国放送
122  三宅芙由  大芝小学校4年
123  長谷川洋 遠い声  共同通信
127  石田明 ヒロシマからあなたへ  被爆者
132  坂本治子 まるでマリア様のように  民放労連中四国地連・広島テレビ労組書記長
134  沼田鈴子 羽原好恵さんとの「きずな」  語り部の会
137  荒井栄子 姉のようだった好恵さんへ 中国放送
138  水野喬 牛んでも「モーン」  RCCミュージック
142  石嵜隆博 拝啓 羽原さま
広島市役所
144  古島哲朗 羽原さんの死が問いかけるもの  歌人
146  籔井和夫 クラブの母  中国新聞
149  川路恵理子 平和公園で会いましょう  毎日新聞
151  栗原貞子 ヒロシマの人体実験はまだ続いている  詩人
159  中村一郎 しっかりしんちゃい  読売新聞
161  田代真理子 天国でどうしていますか  中国放送
163  松本愛子 あなたの声を聞いてみせます  山陰放送
165  奥村宗洋 いつもの笑顔で  読売新聞
167  T・U 実録 好っちゃんの失敗
169  佐々木典明 『ヒロシマ記者』ヨッチャンの軌跡 中国放送
173  高木春美 沖縄大会を無事終えて  西日本放送
175  赤松怜子 この人好きだな…  西日本放送
177  大元誠司 一緒に伝えたい  CGオペレーター
181  藤原茂 思い出を語るにはあまりにも…  読売新聞
183  谷上朋子 青空グループ  中学校同級生
187 水原肇 雑誌『正觀』生みの親だった羽原好恵さん ジャーナリスト
191 遺稿
193 ささやくキャンパス― 1970年8月
195 とうとう社員にさせました― 1972年4月
201 白馬が跳ぶ海のことば― 1979年7月
217 ボルゴグラード友好の旅 1987年7月
220 ある日突然 海・外・取・材― 1990年3月
226 みつめる90 平和の夢を追いつづけて― 1992年4月
242 中四国地連第14回婦人集会へのメッセージ― 1993年2月
244 在広民放4組合婦人部合同「お花見」へのメッセージ― 1993年4月
245 おもいで
247 45歳いのち見つめて 新聞記事より
家族より
251 山根喜美子 好恵が生まれたころ
254 羽原博子 好恵さんに逢えて 義妹
256 羽原幹男 好恵とのこと
267 堀口勲 弔辞 中国放送社長
269 原森勝成 お別れの言葉 中国放送労組
273 田端佐紀子 弔辞 友人代表、広島テレビ放送
275 羽原好恵年譜
279 原森泉 あとがき
池本恵子、田端佐紀子、野田恵美、原森勝成、三宅泰次、山原玲子、三宅文枝

 

羽原好恵

羽原好恵

はばら・よしえ 19450730生19930418没 享年47歳 RCC中国放送勤務。

羽原好恵年譜<『駆けぬけて 羽原好恵追悼集』(羽原好恵追悼集刊行委員会、1993/12/01)>

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平和をもとめて 長田新論文・追想記

『平和をもとめて 長田新論文・追想記』(広島大学新聞会編・刊、19620325)

内容

はしがき(岡本明)
長田新論文
03 ノーモーア広島か、ワンスモーア広島か 『広島大学新聞』第13号、19520417
07 原子爆弾は何故投下されたか 『世界』195309
24 原爆をつくる人、こわす人 『改造』195310
46 原水爆と日本の子供たち 『思想』195408
68 松川事件に思うこと 『松川通信』19581107,1115号
73 核武装激化の歴史―原水爆禁止大会を迎えて 『中国新聞』19590806,0807
80 安保条約改訂のもたらすもの―危機日本のピーク 19590505
93 学生運動と危機にたつ日本 『広島大学新聞』第75号、19590408
96 大学の自由と独立 『広島大学新聞』第84号、19591125
98 国民教育の大道―危機を突破せよ 『広島大学新聞』創刊100号、19601210
103 青年学徒の使命 『広島大学新聞』104号、19610330
107 民衆の中へ-若き日のペスタロッチー 『広島大学新聞』96,97、101号
114 ペスタロッチーに還れ―上からの教育学より下からの教育学へ
126 最近の体育問題
追想記
157 長田新博士のこと 南原繁
159 平和のための闘士 末川博
162 「同志」だけではなかった長田さん 上原専禄
164 熱烈なヒューマニスト 田畑忍
167 その面影をしのびつつ 前芝確三
169 あやまちは二度とくりかえさせませんから 坂田昌一
171 長田さんにつながる想い出 福島要一
176 フィヒテと同じ道を歩んだ人 細谷俊夫
178 荒けずりな人・朴訥な人 三井為友
181 戦時中の長田さん 小川太郎
184 日本民主教育の先達 砂沢喜代次
190 長田教育学の発展 船山謙次
195 学者として市民として 柴谷久雄
197 実践的な学者 鈴木直吉
200 「幼き神の子の声を聞け」 森滝市郎
204 長田先生についての私記 金子金治郎
213 大学の研究室における晩年の長田先生 沖原豊
221 いかに生くべきか 玉置孝
235 偉大なおやじをうしなって 篠原孝義
239 敬・愛・信 西原章
246 ペスタロッチーと長田先生と 清水慶子
253 原爆孤児を守るために 山口勇子
257 原爆の子の父-長田先生を喪いて 武内利忠
273 「真理は最後の勝利者である」 大内昭三
278 若き学徒の渇仰の的 為藤五郎
279 日本の自由教育史の先駆者 上田庄三郎
281 長田教育学の本質 矢川徳光
292 偉大なる生涯 森徳治
304 長田先生の片影 島為男
312 先生と先生の最初の弟子達 島為男
323 不滅の真理をかかげて 李東準
329 日本におけるペスタロッチー運動創設者の追想のために ハンス・シュテットバッハー
333 長田新略伝
362 あとがき

勅使河原宏

勅使河原宏

てしがわら・ひろし 19270128生20010414没 享年74歳 映画監督、草月流家元。

資料年表:勅使河原宏<作業中

年月日 事項 備考
1927
0128 東京・青山で誕生。
1956
記録映画「生きていてよかった」(監督:亀井文夫、助監督:勅使河原宏)
1957
06 記録映画「世界は恐怖する」(監督:亀井文夫、助監督:勅使河原宏)
1981
0905 『創造の森』(草月出版編集部著・編、草月出版)
1982
0325 勅使河原宏(草月流家元)、広島原爆病院に100万円寄付。(出典:『中国新聞』)
0325 ~30日。「中国地区草月展」(広島・福屋)
0325 草月流レセプション。於福屋。藤居・松原<宇吹メモ>
1110 『勅使河原宏カタログ』(草月出版編集部、草月出版刊)
1988
1013 勅使河原宏「東京駅をいける」<(『東京駅と煉瓦 JR東日本で巡る日本の煉瓦建築』(東京ステーションギャラリー編集・デザイン、東日本旅客鉄道刊)>
1997
04 「ART 勅使河原宏展」<『けんみん文化 1997.04』(広島・県民センター文化情報課)>
1998
0331 『1997話題の展覧会から ◎勅使河原宏展「舞竹」』<『’98美術ひろしま』(広島市文化振興事業団)>
2001
0414

 

 

蜂谷道彦

蜂谷道彦

はちや・みちひこ 1903生19800413没 享年76 蜂谷道彦 『ヒロシマ日記』(朝日新聞社、1955)

資料年表:蜂谷道彦<作業中

年月日 事項 備考
1903 岡山県生まれ
1929 岡山医科大学卒
1942 広島逓信病院院長就任
1945
0806 逓信病院近くの自宅で原爆被爆、大怪我。8月11日職場復帰。原爆投下直後の56日間の職務記録、1955年に『ヒロシマ日記』として出版(朝日新聞社)。
1952
0601 「原爆放射線病の回顧 蜂谷道彦」(『広島医学』)
1959
0613 土木学会第45回通常総会記念講演「原爆の災害と家屋の放射遮蔽効果」(学会誌 (jsce.or.jp)
1966
0815 広島逓信病院院長辞職。
1980
0413 死去。

ペンギラン・ユソフ

ペンギラン・ユソフ

19210502生20160411没 享年94歳 元南方特別留学生として広島文理科大学に在学中被爆。元ブルネイ首相。

資料年表:ペンギラン・ユソフ<作業中

年月日
1921
0502 誕生
1964
0516 旧広島大学在学中に被爆死したマレーシア人留学生の遺族、広島市を訪問 C
2013
0422 元南方特別留学生ペンギラン・ユソフへの広島大学名誉博士号授与式、在ブルネイ日本大使館で実施。<広島大学 (hiroshima-u.ac.jp)
名 誉 博 士 候 補 者 調 書
2016
0411 死去。広島文理大に在学していた南方特別留学生9人のうちの最後の存命者。 C

小黒薫

小黒薫<作業中

おぐろ・かおる ****生20040410没 享年90 1974~1978年、広島女学院大学長?院長?<投稿>

資料年表:

年月日 事項 備考
1956
1201 小黒薫「音楽談義」(『トルソ 創刊号』(広島女学院大学文芸部)所収)
1970
小黒薫「ヒロシマとは何か」(『現代における平和への条件-1970ヒロシマ会議』)
1973
0625 ヒロシマの意味』(日本評論社、19730625)
1976
1001 「女学院教育の特色と創立100周年への展望(小黒薫院長)」<『九拾年の歩み』(広島女学院創立90周年記念誌編集委員会)>
1979
0110 ソ連地下核実験。12日、原爆慰霊碑前(広島)で抗議の坐り込み。小黒薫前広島女学院大学長、大原亨代議士ら約100人が参加。
2004
0410