内田恵美子
| うちだえみこ | 1942年 | 19910305没 | 広島大学原医研事務官。 |
| 内田恵美子著 |
| 「図書・資料紹介 原爆被災資料総目録第四集=占領期文献の発刊」(『ヒロシマ・ナガサキの証言第13号 ’85冬』広島・長崎の証言の会1985.2.20) |
| 『図書館反核平和通信』準備号No.2 1985.9.14<下記> |
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| 追悼文 |
| 宇吹暁(原爆放射能医学研究所)「内田恵美子さんの御逝去を悼む 」(『広大フォーラム』23期2号No.289 1991.5.20) |
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。
| うちだえみこ | 1942年 | 19910305没 | 広島大学原医研事務官。 |
| 内田恵美子著 |
| 「図書・資料紹介 原爆被災資料総目録第四集=占領期文献の発刊」(『ヒロシマ・ナガサキの証言第13号 ’85冬』広島・長崎の証言の会1985.2.20) |
| 『図書館反核平和通信』準備号No.2 1985.9.14<下記> |
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| 追悼文 |
| 宇吹暁(原爆放射能医学研究所)「内田恵美子さんの御逝去を悼む 」(『広大フォーラム』23期2号No.289 1991.5.20) |
月忌(凡例)
*ここでは、宇吹(サイト作成者)が知己を得た人々のうち、すでに鬼籍に入られた方々を紹介します。
*生前に直接お会いすることはないが、私のヒロシマへの取組の中で、資料を通して大きな影響を受けた方々も含まれています。
*死亡が新聞などの死亡欄や人物事典で確認できた死亡年月日をもとに、月忌ごとにまとめます。
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 01 | 1974 | 竹内釼 | たけうち・けん | 1890年1月6日、福岡県生。 |
略歴
| 年月日 | 事項 |
| 1980.1.6 | 福岡県に生まれる。 |
| 1915. | 旧制第5高等学校(熊本)を経て、東京帝国大学医科大学医学部卒業。 |
| 1916. | 陸軍軍医中尉に任官。近衛師団に配属。 |
| 1919. | 陸軍軍医学校外科主任教官となる。 |
| 1926. | ドイツ留学(2か年)。帰途渡米視察。 |
| 1940. | 中国派遣(約1年) |
| 1939. | 広島日本赤十字病院新設のため責任者となり、設立と共に初代院長となる。 |
| 1945.8.6 | 院長室にて執務中被爆、二昼夜人事不省、6ケ所骨折の重傷。 |
| 1947 | 昭和天皇御訪広に際し、広島被爆の状況について御前講演。 |
| 1948 | 広島日本赤十字病院再建復興なり、辞職。 |
| 1974.8.1 | 逝去。 |
| 出典:『竹内釼画集』(竹内辰五郎、2005年3月) | |
<宇吹メモ>「廃墟に立てば去りがたし」(『月刊中国 8月号』中国新聞社、1946年8月)に被爆時の体験を記す。
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 01 | 1974 | 竹内釼 | たけうち・けん | 1890年1月6日、福岡県生。1939年広島日本赤十字病院新設のための責任者、設立と共に初代院長。1945年8月6日、院長室にて執務中被爆、二昼夜人事不省、6ケ所骨折の重傷。<竹内釼> | |
| 02 | 1989 | 鈴木喜代治 | すずき・きよじ | 88 | 日本映画社の原爆被災記録映画作り(生物植物調査班)に参加。 |
| 02 | 2017 | 磯野恭子 | いそのきょうこ | 83 | 34年ラジオ山口(現山口放送)にアナウンサーとして入社。のちディレクターとして,「聞こえるよ,母さんの声が…原爆の子,百合子」「祖国へのはるかな旅―ある中国残留婦人の帰国」など,戦争と平和をテーマにしたドキュメンタリーを制作。63年民放局初の女性取締役に就任。広島県出身。広島大卒。<ヒロシマの女たち・続> |
| 03 | 2015 | 阿川弘之 | あがわ・ひろゆき | 94 | 日本の小説家、評論家。広島県名誉県民。日本芸術院会員。日本李登輝友の会名誉会長。文化勲章受章。『広島県現代文学事典』(高木伸幸・記)<資料年表:阿川弘之> |
| 05 | 1990 | 桧垣益人 | ひがきますと | 94 | 元日本被団協代表委員(1970-81年)。広島駅地下道で被爆。1961-84年、広島県被団協事務局長。<資料年表:桧垣益人> |
| 06 | 1948 | 大塚惟精 | おおつか・いせい | 62 | 原爆被爆時の中国地方総監。『中国地方総監府誌 原爆被災記録』(刊行委員会、19720806) |
| 06 | 1945 | 粟屋仙吉 | あわや・せんきち | 48 | 被爆時の広島市長。津上毅一『粟屋仙吉の人と信仰:原爆にたおれた広島市長』待晨堂、1966年。 |
| 06 | 1945 | 森喬以 | もり・たかもち | 広島市立造船工業教諭として生徒を引率中、被爆死。 | |
| 07 | 1945 | 李鍝 | い・う | 韓国人犠牲者慰霊碑(1970年4月10日除幕)の碑文。『すぎた歳月』(李方子、1973年)。『資料・韓国人犠牲者慰霊碑』(ピカ資料研究所など編、碑の会刊、1989.8.5)、『昭和天皇実録』。<資料年表:李鍝> | |
| 09 | 1973 | 大月洋 | おおつきひろし | 67 | 民衆劇場。お宅で面談、資料閲覧 |
| 09 | 2000 | 田沼肇 | たぬまはじめ | 74 | 1950年、法政大学大原社会問題研究所に就職。64年同大学教授。93年退職し名誉教授に。日本原水協代表理事。<資料年表:田沼肇> |
| 10 | 1945 | 高木敏子 | たかぎ・としこ | 34 | 広島地方裁判所検事の妻。市内雑魚場町の家屋強制疎開後の跡片付づけにとりかかる前に被爆。『広島原爆犠牲者高木敏子追想録』(高木尊之編集発行、19730810) |
| 10 | 1988 | 清水幾太郎 | しみず・いくたろう | 81 | 社会学者。原爆孤児精神養子運動に協力。<資料年表:清水幾太郎> |
| 12 | 1987 | 増本量 | ますもと・はかる | 金属物理学者。東北大学名誉教授。日本金属学会会長。広島県安芸郡矢賀村(現:広島市東区矢賀)出身。『増本量伝』 | |
| 12 | 2006 | 小林文男 | こばやし ・ふみお | 72 | 中国研究者。アジア経済研究所主任調査研究員、広島大学名誉教授。<資料年表:小林文男> |
| 12 | 2015 | 明田弘司 | あけだ・こうし | 92 | 写真家。「戦争から復員後の48年、広島市内で写真展を開業。仲間とヒロシマ・フォト・クラブを結成。写真家の名取洋之助から広島の復興を記録するよう助言され、市民生活や街の活気を撮り続けた」(『中国新聞』2015.8.13)。<資料年表:明田弘司> |
| 14 | 1989 | 長岡弘芳 | ながおかひろよし | 57 | 本名:奥村弘芳。原爆文献研究家。『広島県現代文学事典』(大西昭・記) |
| 15 | 1989 | 源田実 | げんだみのる | 84 | 広島県加計町出身。1941年第1航空艦隊参謀、真珠湾攻撃を立案、指導。1954年航空自衛隊に、1959年空将で航空幕僚長。1962年退官、参議院全国区で当選、以後4期、自民党国防部会長などを歴任。 |
| 15 | 1996 | 丸山 真男 | まるやま・ まさお | 82 | 政治学者、思想史家。東京大学 名誉教授 、 日本学士院 会員。<資料年表:丸山 真男> |
| 16 | 1945 | 丸山定夫 | まるやま・さだお | 44 | 俳優。日本移動演劇連盟桜隊を引率して慰問巡回中、広島で被爆。『俳優・丸山定夫の世界』(菅井幸雄編、未来社、19890806) |
| 16 | 1945 | 手島守之輔 | てしま・もりのすけ | 31 | 竹原生まれ。県立第二中学校卒、東京美術学校油画科。8月1日臨時召集先の広島連隊で被爆、死亡。 |
| 16 | 2004 | 沖原豊 | おきはら・ゆたか | 79 | 広島大学長(第7代、1985年5月21日~)。教育学者。『解題:沖原豊関係文書目録』(執筆:酒井真)。 |
| 16 | 2023 | 中西巌 | なかにし・いわお | 93 | 旧被服支廠の保全を願う懇談会会長(初代)。『赤レンガ倉庫は語り継ぐ 旧広島陸軍被服支廠被爆証言集』(旧被服支廠の保全を願う懇談会、2020/03/01) |
| 17 | 1991 | 田辺耕一郎 | たなべこういちろう | 87 | 「広島憩いの家」事務局長。1957年に開設された被爆者のための「憩いの家」を管理運営。『広島県現代文学事典』(岩崎清一郎・記)。憩いの家で面談、資料閲覧。<資料年表:田辺耕一郎> |
| 18 | 1958 | 熊田秀雄 | くまだ・ひでお | 54 | 金光教御幸教会初代教会長。『御幸教会五十年史 改りのあゆみ五十年―第一部―初代熊田秀雄の求道と布教』(熊田信道、金光教御幸教会、1986.5.9)〈内容> |
| 18 | 1974 | 奥 久登 | おく ひさと | 93 | 広島県内の小学校長,県商工水産課長,広島市助役,県信用購買販売組合連合会長などを歴任。昭和17年衆議院議員(日本進歩党)。戦後,広島信用金庫理事長,県教育委員長。『奥久登先生 思い出の記』(佐々木勲編、広島信用金庫・広島大学東雲同窓会・広島県農業協同組合連合会関係諸団体・広島県安芸郡坂小学校同窓会刊、19640505) |
| 21 | 1945 | 園井恵子 | そのい・けいこ | 33 | 『園井恵子・資料集 原爆が奪った未完の大女優』(岩手県松尾村、1991.3.31) |
| 21 | 1986 | 四竈一郎 | しかまいちろう | 広島市基督教連盟委員長[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会](日本キリスト教団広島協会牧師)。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。元広島県原水協代表理事( 被爆者)。 | |
| 21 | 2002 | 近藤幸四郎 | こんどうこうしろう | 69 | 広島県被団協事務局次長、広島被爆者団体連絡会議事務局長、元日本被団協代表理事などを歴任。<資料年表:近藤幸四郎> |
| 22 | 1971 | 正木亮 | まさきあきら | 1892年3月25日広島県の玖波村生まれ。広島控訴院検事長時代に原爆被爆。 | |
| 24 | 1945 | 仲みどり | なか・みどり | 36 | 東大病院で死亡(毎日新聞)。移動演劇 桜隊 に所属。公演先の広島市で被爆。<資料年表:仲みどり> |
| 25 | 19450825 | 岡田二郎 | おかだ・じろう | 40 | 広島県立第二高等女学校の音楽教師。広島市南観音町で被爆。「岡田二郎に70年ぶり光 原爆に散ったバイオリニスト あす広響演奏会で紹介」(『中国新聞(富沢佐一・客員編集委員記)20150804』 |
| 25 | 1991 | 松前重義 | まつまえしげよし | 90 | 東海大学総長。広島調査団長として被爆直後に入市。<資料年表:松前重義> |
| 25 | 1995 | 御園生圭輔 | みそのおけいすけ | 82 | 終戦時、陸軍軍医学校教官として広島原爆の被害調査に当たる。<資料年表:御園生圭輔> |
| 26 | 2014 | 孫振斗 | そん・じんどぅ | 87 | 韓国人被爆者訴訟の原告の草分け<資料年表:孫振斗> |
| 28 | 1983 | 山内敕靖 | やまうち・ただやす | 65 | 広島ガス社長。期間:19710226-19820628。<資料年表:山内敕靖> |
| 28 | 2017 | 羽田孜 | はた・つとむ | 82 | 内閣総理大臣(1994年4月28日~6月30日) |
| 29 | 2010 | 森田俊男 | もりた・としお | 89 | 教育研究者。平和・国際教育研究会代表。<資料年表:森田俊男> |
| 30 | 1995 | 上栗頼登 | かみくり・よりと | 76 | 東広島市の児童養護施設「広島新生学園」元園長。<資料年表:上栗頼登> |
| 30 | 2017 | 谷口稜曄 | たにぐち・すみてる | 88 | 長崎被爆者。 |
| 31 | 1945 | 中島光風 | なかじま・こうふう | 国文学者・歌人。広島高等学校教授。広島市上流川町の自宅で被爆。 『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記) | |
| 31 | 2005 | ジョセフ・ロートブラット | ろーとぶらっと | 96 | ポーランド 生まれの イギリス の 物理学者 、 平和活動家 。 |
止
| くりはら ・さだこ | 19130304生20050306没 | 享年92 |
| 詩人・歌人・評論家。『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)。広島原水禁常任理事 http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0505_1.htm | ||
著書
| 書名 | 出版社 | 出版年月日 |
| 黒い卵 詩歌集 | 中国文化発行所 | 19460830 |
| 私は広島を証言する-栗原貞子詩集 | 詩集刊行の会 | 19670715 |
| どきゅめんと・ヒロシマ24年-現代の救済 | 社会新報 | 19700420 |
| 詩集 ヒロシマ・未来風景 | 詩集刊行の会 | 19740330 |
| ヒロシマの原風景を抱いて | 未来社 | 19750731 |
| ヒロシマというとき | 三一書房 | 1976 |
| 核・天皇・被爆者 | 三一書房 | 19780715 |
| 未来はここから始まる-ヒロシマ詩集 | 詩集刊行の会 | 19790401 |
| 反核詩集 核時代の童話 | 詩集刊行の会 | 19820321 |
| 核時代に生きる-ヒロシマ・死の中の生 | 三一書房 | 19820815 |
| 黒い卵 占領下検閲と反戦・原爆詩歌集(完全版) | 人文書院 | 19830720 |
| 栗原貞子詩集 | 土曜美術社 | 19840715 |
| 詩と画で語りつぐ 反核詩画集 ヒロシマ | 詩集刊行の会 | 19850315 |
| 栗原貞子詩、吉野誠画 | ||
| 反核詩集-核なき明日への祈りをこめて | 詩集刊行の会 | 19900731 |
| 問われるヒロシマ | 三一書房 | 19920630 |
| 栗原貞子詩集 忘れじのヒロシマわが悼みうた | 詩集刊行の会 | 19970630 |
資料
| 資料 |
| 『栗原唯一追悼 平和憲法の光りをかかげて』(栗原貞子編、詩集刊行の会刊、19801115) |
| 栗原貞子「文明の野蛮を憂う」(『朝日新聞 論壇』1995.8.4) |
| 事項 |
| 谷本清平和賞(第3回 1990年)受賞 |
| 栗原貞子生誕100年記念展示(広島市立中央図書館、2013) |
都築正男(つづき・ まさお)略歴
| 1892(明治25)年10月20日 | 兵庫県姫路市に生まれる。 |
| 1913(大正2)年7月1日 | 第一高等学校卒業 |
| 1917(大正6)年12月6日 | 東京帝国大学医科大学医学科卒業 |
| 1917(大正6)年12月19日 | 海軍中軍医 |
| 1923(大正12)年4月1日 | 海軍軍医学校選科学生。東京帝国大学大学院入学 |
| 1925(大正14)年2月16日 | 東京帝国大学助教授、高等官5等に叙せらる。歯科口腔外科研究のため満2年間ドイツ・アメリカ合衆国に留学。 |
| 1929(昭和4)年2月6日 | 東京帝国大学教授(歯科学講座担当) |
| 1934(昭和9)年3月31日 | 歯科学講座を免ぜられ、第2外科学講座を担任。 |
| 1936(昭和11)年9月10日 | アメリカ合衆国へ出張。 |
| 1939(昭和14)年11月15日 | 海軍軍医少将に任ぜらる。12月21日、海軍予備役編入。 |
| 1940(昭和15)年6月14日 | ドイツへ出張。 |
| 1946(昭和21)年8月3日 | 文部教官を免ぜらる(海軍将官のため公職・教職追放)。 |
| 1947(昭和22)年7月16日 | 都築正男を原子爆弾傷害調査委員会より解任。 |
| 1952(昭和27)年10月10日 | 東京大学名誉教授 |
| 1954(昭和29)年9月30日 | 日本赤十字社中央病院長。同社輸血研究所長。 |
| 1958(昭和33)年9月17日 | 姫路市初の名誉市民の称号を贈られる。 |
| 1958(昭和33)年月日 | 西独赤十字功労章。 |
| 1959(昭和34)年7月2日 | 日本放射線影響学会初代会長。 |
| 1960(昭和35)年6月日 | 発病。 |
| 1961(昭和36)年4月5日 | 死去。 |
出典:『都築正男研究業績目録 1925-1960-都築正男大人命20年祭』(広島市史編纂室編、都築正和発行、19810405)
著書
| 書名コード | 書名 | 編著者 | 発行所 |
| 54023301 | 医学の立場から見た原子爆弾の災害 | 都築正男 | 医学書院 |
| 81033104 | 広島新史・資料編Ⅰ-都築資料 | 広島市(編) | 広島市 |
| 81040501 | 都築正男研究業績目録 1925-1960-都築正男大人命20年祭 | 広島市史編纂室 | 都築正和 |
論文
| Y | M | D | ZASSIMEI | TITLE | メモ |
| 45 | 10 | 01 | 日本医事新報 | 原子爆弾による広島市の損害に就いて | 5P以下欠 |
| 45 | 10 | 01 | 総合医学 | 所謂「原子爆弾傷」に就いて-特に医学の立場からの対策 | ゲタバキ部分あり。「昭和20年9月8日米国原子爆弾損害調査団を案内して広島市へ向ふ時記す」 |
| 54 | 01 | 25 | 日本週報 | 赤十字精神で原爆を禁止せよ | |
| 54 | 06 | 広島医学 | 外科臨床の立場から考察した原子爆弾傷、特にその後遺症状に就て | ||
| 54 | 08 | 思想 | 歐米に於ける原子力と放射能障害との問題 | ||
| 54 | 08 | 改造 | キューリー夫妻を訪ねて | ||
| 54 | 08 | 外科 | (座談会)放射能症の権威に聞く-ビキニの灰をめぐって | 都築正男・中泉正徳・筧弘毅・清水健太郎・石川浩一・柳壮一 | |
| 54 | 08 | 05 | 思想 | 欧米に於ける原子力と放射能障害との問題 | |
| 54 | 10 | 15 | 日本医師会雑誌 | 慢性原子爆弾症の診断と治療について | |
| 54 | 11 | 中央公論 | 水爆傷害死問題の真相 | ||
| 54 | 11 | 01 | 日本医師会雑誌 | 放射能障害について | |
| 54 | 11 | 15 | 日本医師会雑誌 | 原爆熱傷後の瘢痕異状に対する皮膚移植成形術について | |
| 54 | 12 | 保健医学雑誌 | 放射能障害の予後について | ||
| 55 | 01 | 自警 | 医学的に見た原水爆の災害 | 「原水爆禁止運動資料集第4巻」の情報。 | |
| 55 | 02 | 東京医学雑誌 | 広島長崎の被爆とビキニの被灰 | ||
| 55 | 04 | 平和 | 原子力医学のために | ||
| 55 | 08 | 01 | 婦人朝日 | 特集・原子力とはどういうものか-女性として知りたい疑問のかずかず | 崎川範行・武谷三男・都築正男(解答者) |
| 55 | 11 | 学術月報 | 生物学並びに医学領域の話題と感想 | ||
| 56 | 04 | 01 | 世界 | 原水爆と放射能禍 | |
| 56 | 08 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会に出席して | ||
| 57 | 01 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国連科学委員会第2回会議に出席して | ||
| 57 | 04 | 総合医学 | 核爆発に伴う人工放射性物質の影響-国際連合科学委員会を中心として | ||
| 57 | 05 | 01 | 世界 | 核爆発と放射能 | |
| 57 | 06 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国連科学委員会第3回会議に出席して | ||
| 58 | 02 | 学術月報 | わが国における放射能影響調査の研究体制について-問題点提起ならびに討 | 都築正男[座長] | |
| 58 | 02 | 学術月報 | 国連科学委員会について | ||
| 58 | 05 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第四回会議に出席して | ||
| 58 | 08 | 10 | 週刊朝日 | (徳川夢声連載対談)問答有用 | 都築正男・徳川夢声 |
| 58 | 09 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第5回会議に出席して | ||
| 58 | 10 | 国連評論37-10 | 国連科学委員会に関する報告 | ||
| 58 | 12 | 日本臨床外科医会雑誌 | 原子爆弾傷害の本態とその後遺症 | ||
| 59 | 03 | 学術月報 | 「原子力時代の人類への放射線影響に関するシンポジウム」について | ||
| 59 | 07 | 学術月報 | 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第6回会議に出席して | ||
| 59 | 07 | 学術月報 | ICRP新勧告の意義 | ||
| 59 | 11 | 01 | 原子爆弾後障害研究会講演集[第1回] | 原子爆弾による障害の研究経過について(総括講演) |
平和記念資料館メルマガ第98号(2011/ 9/ 1)
最近、研究過程で作成した過去の資料を整理中、「広島大学原医研新聞切抜きの分類別枚数(1975~81年分)」とのタイトルのデジタルデータを見つけた。そして二つのことを思い出した。
その一つは、私の提案が原因で、「原発」関係の記事の収集が1982年から取りやめとなったことである。1975~81年分の切り抜き枚数総計は、12507枚、うち「核軍事」(3221枚)と「核平和利用」(3083枚)に分類されている枚数の合計は6304枚で全体のほぼ半数を占めている。原爆放射能医学研究所では、原爆被害に関する資料を収集対象としていたので、私には、限りある予算・人員を考えれば、この二つの分類に属する記事収集を中止するのはやむを得ないと主張した。
もう一つは、広島の眼科医・杉本茂憲先生(故人)との出会いである。チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)から2ヶ月あまり後に先生が原医研に来所、この事故関連の新聞記事の閲覧を希望された。要望された資料は収集対象としていないことを伝えると、非常に残念がられた。そして、ヒロシマの蓄積をこの被災者に生かすことはヒロシマの医師の使命と力説されたのである。被爆者医療に情熱を注ぐと同時に、世界にも目を向ける医師の存在に直接触れる ことのできた貴重な体験であった。
元広島大学原爆放射能医学研究所 宇吹 暁(うぶき さとる)
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 02 | 1994 | 日詰忍 | ひづめ・しのぶ | 91 | 広島県被団協理事。1955年皆実原爆被害者の会会長。原水爆禁止広島母の会の活動、機関紙「ひろしまの河」。<別記> |
| 02 | 2011 | 林幸子 | はやし・さちこ | 81 | 原爆詩「ヒロシマの空」の作者。「林幸子さん遺影登録 広島祈念館」(『中国新聞』2018.6.7 西本雅実の紹介記事) |
| 03 | 2000 | 山口勇子 | やまぐち・ ゆう | 83 | 児童文学者。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆)。1982年3月25日、平和親善センターで面会。三宅・網岡両氏、同席。<別記> |
| 04 | 1969 | 高野源進 | たかの・げんしん | 73 | 広島原爆被爆時の広島県知事。広島原爆被爆時の広島県知事。参考文献:安藤福平「原爆被災と行政」(国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会(広島県・広島市)編『広島の復興経験を生かすために 廃墟からの再生 第3巻 ひろしま復興・平和構築研究事業報告書』2017年) |
| 04 | 2010 | 山口彊 | やまぐち・つとむ | 93 | 三菱重工業長崎造船所設計技師。広島と長崎で被爆。 |
| 04 | 2015 | 金子一士 | かねこ・かずし | 89 | 船舶会社に勤めていた19歳の時入市被爆。広島県被団協理事長。「本川小学校平和資料館」(1988年5月開設)の開設前に面談。「金子一士さんを偲び意志をつぐ会」(2015年5月16日、広島国際会議場)に参列。<金子一士さんを偲び遺志をつぐ会> |
| 04 | 2016 | ヨシダ・ヨシエ | よしだ・ | 86 | 本名:吉田早苗。出典:岡村幸宣「ヨシダ・ヨシエさんを悼む 「原爆の図に新たな命」」(『中国新聞』20160119)。本名=吉田早苗=よしだ・さなえ、美術評論家。『戦後前衛所縁荒事十八番』(ニトリア書房、19720805) |
| 05 | 2000 | 伊藤サカエ | いとう・さかえ | 88 | 日本原水爆被害者団体協議会代表委員。広島県被団協理事長。広島県呉市生まれ。広島市鶴見橋で建物疎開作業の勤労動員中に被爆。矢野町議会議員、同町婦人会長などを歴任。「伊藤サカエさんを語る会」(広島市原爆被害者の会主催、2013年4月16日。4回目の「先人を語る会」) |
| 05 | 2012 | 林光 | はやし・ひかる | 80 | 作曲家。1971年合唱曲「原爆小景」。「反核・日本の音楽家たち」の呼びかけ人」。 |
| 06 | 1998 | 安江良介 | やすえ・りょうすけ | 62 | 岩波書店社長。大江健三郎の広島取材を編集者として支える。1998年8月15日、日本ジャーナリスト会議広島支部「8・15不戦の夕べ」で講演「戦後民主主義とヒロシマ」。 |
| 07 | 1989 | 裕仁 | ひろひと | 87 | 追号:昭和天皇。宮内庁ホームページhttp://www.kunaicho.go.jp/ |
| 07 | 1996 | 岡本 太郎 | おかもと ・たろう | 84 | 芸術家。メキシコで制作した壁画「核の神話」の広島市への誘致運動が起こる。 |
| 08 | 1975 | 山田節男 | やまだ・せつお | 76 | 広島市長。1969年ハマーショルド記念国際平和賞受賞。[70ヒロシマ会議]。『山田節男追想録』。<別記> |
| 08 | 1994 | サマヴィル、ジョン・M・ | 88 | 米国の哲学者。『平和のための革命』(ジョン・サマヴィル、芝田進午訳、岩波書店、19741216) | |
| 09 | 1978 | 久保良敏 | くぼ・よしとし | 64 | [51広島大学平和問題研究会理事(皆)]。広島大学名誉教授。産業社会心理学専攻。被爆直後の人間の心理を初めて学問的に分析。遺された資料を一時預かる。 |
| 09 | 1885 | 藤井日達 | ふじい・にちだつ | 99 | 日本山妙法寺の山主。1982年の国連軍縮特別総会に参加するなど平和運動に貢献。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。『毒鼓(どっく)』(藤井日達、わせだ書房、1961.5.10)。『写真集 撃鼓宣令』 (柏樹社、19850528) http://nipponzanmyohoji.net/ |
| 09 | 2005 | 小川修三 | おがわ・しゅうぞう | 81 | 『小川修三博士を偲んで』(小川修三先生追悼文集発行呼びかけ人、200606) |
| 10
|
1951
|
仁科芳雄 | にしな・よしお | 61
|
物理学者。岡山県生まれ。理化学研究所で1943年に原爆開発のための「二号研究」を発足させる。被爆直後の広島・長崎で調査。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<別記予定>。『広島県史 原爆資料編』に関連資料を収録。 |
| 10 | 1967 | パールRadhabinod Pal | 71 | インド人法律家。東京裁判でインド代表判事を務める。彼の原爆慰霊碑の碑文についての発言をめぐり論争が起こる。『日本無罪論』、『平和の宣言』。 | |
| 10 | 2025 | 堀場 清子 | ほりば ・きよこ | 94 | 詩人 、 女性史 研究者。戦争と平和を考える詩の会会員。 |
| 11 | 1966 | 大原博夫 | おおはら・ひろお | 71 | 衆議院議員。広島県会議員、同議長。広島県知事。広島県医師会長。『大原博夫伝』(大原博夫追想録編集委員会、1971.3.20) |
| 11 | 1998 | レイノルズ、アール | れいのるず | 87 | 広島の反核運動の先駆者で米国の人類学者。1960年、広島女学院客員教授。参考サイト=「バーバラ・レイノルズ」、「年表 レイノルズ夫妻」、「広島平和科学研究所」 |
| 11 | 2015 | カートライト、T | 90 | 米軍B24爆撃機の元機長。広島で捕虜となった同僚を原爆で失う。出典:『中国新聞』20150116(金崎由美・記) | |
| 11 | 2020 | 八杉康夫 | やすぎ・やすお | 92 | 戦艦大和の元乗組員で生還者。広島の救援活動で入市被爆。著書『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』(八杉康夫著、栗野仁雄<構成>、ワック、20021208) |
| 12 | 2021 | 半藤一利 | はんどう・かずとし | 90 | 作家。日本近現代史を対象とした。 |
| 12 | 2019 | 市原悦子 | いちはら・えつこ | 82 | 俳優。映画「黒い雨」(今村昌平監督)に出演。 |
| 13 | 2000 | 赤松俊子 | あかまつ・としこ | 87 | →丸木俊。『広島県現代文学事典』 |
| 13 | 2000 | 丸木俊 | まるき・とし | 87 | 画家。疎開先の浦和市から広島に入市し被爆。夫・位里と『原爆の図』全15部を制作。世界平和文化賞(1953年)、国際童画ビエンナーレのゴールデンアップル賞(1971年)、朝日賞(1995年)などを受賞。 |
| 13 | 2016 | 広瀬方人 | ひろせ・まさひと | 85 | 長崎被爆者。 |
| 14 | 1992 | 於保源作 | おぼ・げんさく | 87 | 広島市医師会副会長。被爆者の癌の疫学的研究の草分け。広島原爆障害研究会。『面影 原爆ガンと取組んだ町医者 於保源作』(小川加弥太・於保信義編、渓水社、1993.1.14) |
| 15 | 1983 | 大西良慶 | おおにし・りょうけい | 107 | 京都、清水寺貫首[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]1981年、7月、京都の宗教家らと「核兵器廃絶アピール」発表。[82推進連絡会議呼びかけ人] |
| 15 | 1984 | 中津泰人 | なかつ | 『慟哭・川柳句集』(中津泰人、19740725)。串かつ川柳会主宰。1973年に呉原爆被爆者友の会結成、同会会長。 | |
| 15 | 1988 | マクブライド、ショーン | 83 | アイルランドの政治家。1974年ノーベル平和賞、77年レーニン平和賞受賞。1977年広島市でのNGO主催の被爆問題国際シンポジウムに参加。 | |
| 15 | 2005 | 松江澄 | まつえ・きよし | 85 | 1959年に日本共産党初めての県議。元広島県原水禁常任理事、元統一労働者党議長。 |
| 16 | 2002 | いぬいとみこ | いぬい・とみこ | 77 | 本名乾富子。児童文学者。「いぬいとみこさんとヒロシマ 「体験」の壁執念の取材」(『中国新聞』2002.1.22 石井伸司記)。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆) |
| 17 | 2025 | 黒瀬真一郎 | くろせ・しんいちろう | 83 | 学校法人広島女学院理事長など歴任。<資料年表:黒瀬真一郎> |
| 17 | 2023 | 土井作治 | どい・さくじ | 92 | |
| 18 | 2015 | 御庄博実 | 89 | →丸屋博 | |
| 18 | 2015 | 丸屋博 | まるや・ひろし | 89 | 1945年8月8日、広島入市。詩人(御庄博実)。広島共立病院名誉院長。 |
| 18 | 2015 | 丸屋博 | ピカに灼かれて―被爆体験記(広島医療生活協同組合原爆被害者の会) | ヒロシマ遺文 (hiroshima-ibun.com) | ||
| ピカに灼かれて 第28集 終刊号 2005年7月15日 | |||||
| 丸屋博『ヒロシマ随想 医師として被爆者として』 | |||||
| 20 | 1974 | ブランデン、エドモンド・ | 77 | 英国の詩人。1948年広島訪問。広島市立中央図書館前に詩碑(1975年8月3日建立)。『広島県現代文学事典』(植木研介執筆)。 | |
| 20 | 1990 | 田淵昭 | たぶち・あきら | 83 | 元広大医学部付属病院長。胎内被爆小頭症の調査に尽力。 |
| 20 | 2019 | 北西允 | きたにし・まこと | 93 | 「生きて 政治学者 北西允さん」(『中国新聞』2013年4月9日~27日、15回連載、担当:編集委員・西本雅実)。<別記> |
| 21 | 2008 | 浜本万三 | はまもと・まんそう | 87 | 広島県選出の元社会党参院議員。1974年に初当選し、通算3期。『花は想う人の側に咲く 浜本万三回顧録』(浜本万三、広島大学文書館(編)・現代史料出版・東出版(出版)2009.1)<別記> |
| 22 | 1994 | 灘尾弘吉 | なだお・こうきち | 94 | 江田島市出身。元衆議院議長。『灘尾弘吉先生追悼集』(中国新聞社メディア開発局出版部/編集協力、1996.12) |
| 22 | 2018 | 河内光子 | こうち・みつこ | 86 | 広島女子商業学校2年の時、学徒動員先の広島貯金支局で被爆。御幸橋の救護所ので様子が松重美人撮影の写真に残る。出典:『読売新聞』20120805、『中国新聞』20180209、『朝日新聞』20180210(宮崎園子・記) |
| 23 | 2008 | 相原秀次 | あいはら・ひでつぐ | 98 | 日本映画社の企画部員として広島・長崎への原爆投下直後から記録映画の製作に従事。 |
| 久保田明子「広島における原爆被災の映像と相原秀二資料について」 | |||||
| 23 | 2011 | 喜味こいし | きみ・こいし | 83 | 漫才師。「喜味こいしさんを悼む 上方漫才の正道歩む」(権藤芳一記)「戦争やったらあかん 被爆体験とつとつと」(岩崎秀史記)(『中国新聞』2011.1.26) |
| 23 | 2012 | 栗原真理子 | くりはら・まりこ | 76 | 被爆詩人・栗原貞子の長女。広島女学院大学の栗原貞子記念文庫開設に尽力(『朝日新聞』20120125) |
| 24 | 2018 | 香川龍介 | かがわ・りゅうすけ | 85 | 画家。(『中国新聞』20180210) |
| 25 | 1986 | 吉川清 | きっかわ・きよし | 74 | 「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。<別記> |
| 25 | 1994 | 森滝市郎 | もりたき・いちろう | 101 | 京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。広島大学。自宅で面識、資料閲覧。<別記> |
| 25 | 2011 | 石田忠 | いしだ・ただし | 94 | 一橋大名誉教授・社会学、元日本原水爆被害者団体協議会専門委員)。<別記> |
| 25 | 2023 | 林紀子 | はやし・としこ | 81 | 元アナウンサー。元参議院議員(2期)。日本共産党。宇吹メモ=1990年5月15日午後2時、 共産党国会調査団来所(=広島大学原爆放射能医学研究所)。林紀子、児玉健次など12人。宇吹助手が応対。 |
| 26 | 2019 | 葉佐井博巳 | はさい・ひろみ | 87 | 広島大名誉教授。広島の原爆被爆時、広島一中2年生。学徒動員先の兵器製作所(現廿日市市)できのこ雲を目撃。翌日に入市被爆。被曝線量推定方式を見直す日米合同研究グループの日本側座長。2002年、新しい推定方式「DS02」をまとめる。<別記>「被爆建物等継承方策検討委員会」(広島市が1991年7月24日に設置)で同席。 |
| 27 | 2003 | 川村智治郎 | かわむら・としじろう | 96 | 明39(1906)年滋賀県生まれ。広島高等師範学校・広島文理科大学卒業。京都帝国大学理学部講師、広島文理科大学助教授等、広島大学理学部教授、同理学部長を経て、昭和41(1966)年、広島大学第3代学長。広島大学長に就任。両生類研究者、カエルの染色体の分析研究。広島大学附属両生類研究所所長。第52回日本学士院賞受賞。元広島文理科大学(旧広島大学理学部1号館)の保存を考える会(設立:1995年1月7日)会長<別記> |
| 27 | 2005 | 竹内武 | たけうち・たけし | 77 | 広島平和会館。 |
| 29 | 1986 | 鈴木直吉 | すずき・なおきち | 90 | 1948年広島県立医科大学教授。広島大学医学部教授。「鈴木直吉先生の御逝去を悼む」(片岡勝子記、『(広島大学)学内通信』1985.3.25)<別記> |
| 29 | 2013 | 熊田重邦 | くまだ・しげくに | 92 | 広島女子大学教授、広島県史編さん室室長、広島県立文書館館長<別記> |
| 30 | 2016 | 亀本和彦 | かめもと・かずひこ | 69 | 小学校・高校の同級生。「祖母も伯母もその日路面電車に乗っていて被爆し、また、父も翌日軍務で広島市街地に入って被爆」(彼のブログより) |
| 31 | 2018 | 吉田治平 | よしだ・じへい | 95 | 845年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定> |
| 31 | 2023 | 久留島恵一 | くるしま・けいいち | 94
|
音戸高校時代に指導を受けた先輩教員。「呉を中心とした軍事基地の現状」(ビラ「米軍・自衛隊 基地調査告発全国交流呉集会の集まろう!!」(1975年)) |
粟屋仙吉
| あわや・せんきち | 18931107生19450806没 | 広島の原子爆弾被爆時の広島市長。 | 享年 |
止
12月忌(一覧)
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 02 | 2009 | 平山郁夫 | ひらやま・いくお | 79 | 『広島県現代文学事典』(西原大輔pp.415-417)。画家。平山郁夫美術館。資料年表:平山郁夫 |
| 03 | 1976 | 澤崎嘉衛 | さわさき・よしえ | 72 | 『組織活動ひとすじに~澤崎嘉衛先生を偲ぶ~』(社団法人広島県地区衛生組織連合会、1977.12.4) |
| 03 | 2013 | 山口氏康 | やまぐち・うじやす | 91 | 『ヒロシマもう一つの顔』(山口氏康、青弓社、1986.4.9)。1971年広島市議。以後3期。 |
| 04 | 1980 | アメラシンゲ、 | あめらしんげ | 67 | アメラシンゲ、ハミルトン・シャーリー |
| 1977年広島・長崎の平和式典に参加した元国連総合議長、死去。スリランカ出身。 | |||||
| 05 | 1975 | 田辺勝 | たなべ・まさる | 69 | 広島県被団協(原水協系)理事長。広島県立工業学校の教師の時、動員学徒指導中の安芸郡海田町の工場から救援にかけつけ被爆。『読売新聞』・『中国新聞』1975.12.6~8 田辺勝 |
| 05 | 1999 | 葉室潔 | はむろ・きよし | 81 | 本名:谷原多郎。米モンタナ州生まれ。1968年広島市バレエ協会会長。「原爆主題に創作バレエ」(『中国新聞』1999.12.7) |
| 05 | 2008 | 加藤周一 | かとう・しゅういち | 89 | 評論家。日米原子爆弾影響合同調査団の一員として広島入り。立命館大学国際平和ミュージアム(1992.5.19設立)初代館長。加藤周一 |
| 09 | 2009 | 村中好穂 | むらなか・よしほ | 84 | 日本共産党広島県委員会名誉県委員。2010年3月13日、「村中好穂さんをしのぶ会」(『赤旗』2010.3.14)資料年表:村中好穂 |
| 09 | 2022 | 北川建次 | きたがわ・けんじ | 87 | 1935年生。広島大学教育学部教授、附属東雲中学校長。資料年表:北川建次。 |
| 10 | 1963 | 大田洋子 | おおた・ようこ | 60 | [原爆被害者の会東京協力会世話人]。第4回女流文学賞(1952年)、文化人会議昭和29年度平和文化賞。『広島県現代文学事典』(岩崎文人執筆。pp.233-234)資料年表:大田洋子 |
| 10 | 1963 | 高田 静雄 | たかだ・ しずお | 54 | 砲丸投げのオリンピック(1936年ベルリン)選手。中国配電本店(勤務先)で被爆。長女千鶴子(広島女学院高女2年)は動員先で被爆し死亡。資料:西本雅実「被爆オリンピアンの視点」(『中国新聞』20180716)。19090305生 |
| 10 | 2001 | 江戸屋猫八 | えどや・ねこはち | 80 | 本名:岡田八郎。「江戸屋猫八さん死去 物まね名手 広島で被爆 後遺症・‥高座で体験語る」(『中国新聞』2001.12.11)江戸屋猫八(3代目) |
| 11 | 1988 | 任都栗司 | にとぐりつかさ | 91 | 『任都栗司資料目録(原爆被爆者援護関係)』(広島市公文書館、19880630)。元広島市議会議長。任都栗司 |
| 13 | 2003 | 清水栄 | しみず・さかえ | 88 | 京都大学名誉教授。「清水栄日記 昭和20・8・6~12・7」(『広島県史 原爆資料編』pp.521-551)。清水栄 |
| 14 | 2014 | 松尾尊兊 | まつお・たかよし | 85 | 日本近現代史研究者。 |
| 15 | 1997 | 関寛治 | せき・ひろはる | 70 | 元広島大学平和科学研究センター長。関寛治 |
| 15 | 2001 | 島原帆山 | しまばら・はんざん | 100 | 山流尺八演奏家。重要無形文化財保持者(人間国宝)。広島市名誉市民。広島被爆者。原爆投下翌日、衛兵をしていた八本松町(現東広島市)の海軍弾薬庫からトラックで広島市内へ。『中国新聞』2001年8月3日付。『竹韻一路 人間国宝島原帆山』(島原帆山、新芸術社、1990.5.8)。佐伯好郎墓前で島原帆山の尺八演奏。 島原帆山 |
| 15 | 2007 | 山瀬明 | やませ・あきら | 81 | 『山瀬明さんを偲んで』(2008.2.2)=「故山瀬明さんを偲ぶ会 於.光徳会館」での配布資料。山瀬明 |
| 16 | 1988 | 小磯良平 | こいそ・りょうへい | 85 | 洋画家。19030725生。1950年8月予定の広島市平和祭(直前に中止)のポスター原画を制作。小磯良平 |
| 16 | 2008 | 竹下虎之助 | たけした・とらのすけ | 84 | 広島県知事(1981-1993年)。「評伝竹下前広島知事」(『中国新聞』20081217、桝田勲・記) 竹下虎之助 |
| 16 | 2017 | 早坂暁 | はやさか・あきら | 88 | 海軍兵学校在学中に終戦。被爆直後の広島の惨状を目撃。脚本家・作家。「夢千代日記」シリーズなど。「市民が描いた原爆の絵」 を陶板画の碑にして広島市内に建立する運動を提唱(『中国新聞』2002.2.22)。『広島県現代文学事典』(森本穫執筆。Pp.404-405) 早坂暁 |
| 17 | 1992 | アンデルス・ギュンター | あんでるす | 90 | 『橋の上の男 広島と長崎の日記』(ギュンター・アンデルス、篠原正瑛訳、朝日新聞社、 1960.8.1)。『ヒロシマわが罪と罰 原爆パイロットの苦悩の手紙』(クロード・イーザリー、ギュンター・アンデルス、篠原正瑛訳、筑摩書房)。 |
| 18 | 2015 | 藤田雄山 | ふじた・ゆうざん | 66 | 広島県知事。1993年11月~2009年11月。 藤田雄山 |
| 19 | 1979 | 丸山益輝 | まるやま・ますてる | 60 | 1966年広島大工学部教授。同大平和科学研究センターの設置・運営に尽力。1979年12月19日中国・南京で死去。広島大学大学教育研究センター長。 |
| 19 | 2012 | 中沢啓治 | なかざわ・けいじ | 73 | 漫画家。『「ヒロシマ」の空白 シリーズ 昭和とはなんであったか』(中沢啓治、日本図書センター、1987.8.25)。『広島県現代文学事典』(小西清美pp.384-385) 中沢啓治 |
| 20 | 1983 | 武見 太郎 | たけみ ・たろう | 79 | 日本医師会会長や世界医師会会長を歴任。『戦前戦中戦後』(武見 太郎、講談社、19820310) |
| 20 | 1983 | 渡辺鼎 | わたなべ・かなえ | 93 | 広島大学文学部長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起)]。原水禁世界大会(1955年)開催に貢献。 渡辺鼎 |
| 20 | 2023 | 植木 研介 |
うえき・けんすけ |
79 | 広島大学名誉教授。1990年代に広島市平和公園のレストハウスの保存を訴える。資料年表:植木 研介。 |
| 21 | 1997 | 片岡脩 | かたおか・おさむ | 65 | グラフィック・デザイナー。旧制広島一中1年生の時、原爆に被爆。「被爆者デザイナー故片岡脩さん制作平和ポスター託す 広島市立大に106枚(田原直樹記者)」(『中国新聞』2008.7.26) 片岡脩 |
| 21 | 2004 | 今西祐行 | いまにし・すけゆき | 81 | 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(山元隆春執筆。Pp.212-214) 今西祐行 |
| 22 | 1994 | 乙羽信子 | おとわ・のぶこ | 70 | 女優。映画「原爆の子」に出演。1978年1月新藤兼人と結婚。 乙羽信子 |
| 22 | 2000 | 千田夏光 | せんだ・かこう | 76 | 作家。『赤旗』に小説「終焉の姉妹」を連載。 千田夏光 |
| 22 | 2004 | 山本良雄 | やまもと・よしお | 87 | 『ヒロシマを生きる』(山本良雄、19980920)大津市被爆者友の会 277 |
| 23 | 1985 | 三村明 | みむら・あきら | 84 | 映画撮影監督。被爆直後、米戦略爆撃調査団の映画班に加わる。『聖林からヒロシマへ 映画カメラマン・ハリー三村の人生』(工藤美代子、晶文社、1985.2.22) 三村明 |
| 23 | 2008 | 平田嘉三 | ひらた・かぞう | 83 | 文部省初等中等教育局教科書調査官。広島大学教育学部教授。1980年12月15日、家永教科書裁判第一次訴訟第二審で国側証人として出廷(東京高裁)。「洗礼という言葉には、人を祝福するニュアンスがあり、原爆という悲惨な事実を示すにはなじまない。教科書では主観的・比喩的表現は避けた方がいい」。(浪本勝年「第1次教科書訴訟控訴審の審理過程」)。 平田嘉三 |
| 23 | 2018 | 大田堯 | おおた・たかい | 100 | 元日本教育学会会長。「平和・軍縮教育-3つの視点- 大田堯 121」(『世界の平和・軍縮教育 1982年国際シンポジウム報告書』WCOTP、日教組報告書編集委員会編、勁草書房)大田堯 |
| 24 | 1951 | 木原一郎 | きはら・いちろう | 67 | 戦後初の広島市長。 木原一郎 |
| 24 | 1986 | 松下正寿 | まつした・まさとし | 85 | 元立教大学総長、元参議院議員。核禁会議議長。1957年に特使として渡英、英に核実験中止を訴え。 松下正寿 |
| 25 | 2007 | 井内慶次郎 | いない・けいじろう | 83 | 旧制広島高、東京大法学部を卒業。1947年に文部省(現文部科学省)に入り、大学局長などを経て、78年から80年まで事務次官。藤居平一追悼集に寄稿。 |
| 26 | 1925 | レツル、ヤン | れつる | 45
|
産業奨励館(原爆ドーム)を設計したチェコ人建築家。「ヤン・レツルの年表」pp.218-220(『レツルの黙示録』オルガ・ストルスコバ、佐々木昭一郎監訳、NHK出版、1995.7.20) レツルの黙示録 |
| 26 | 1972 | トルーマン、ハリー・S・ | とるーまんHarry S.Truman | 88 | アメリカ合衆国第33代大統領(1945~1953)。民主党出身。原爆投下を指令。 トルーマン |
| 26 | 1978 | 畠中敬恵 | はたなかよしえ | 58 | きのこ会会長。山代巴の紹介で面会。 |
| 27 | 2007 | 川島孝郎 | かわしま・たかお | 1937年大連生まれ。広島大学教育学部卒。共著『岩波DVDブック Pesce Archives 平和ミュージアム』 | |
| 28 | 1957 | 浦廉一 | うら・れんいち | 62 | 『浦廉一博士を偲びて―その小伝』(故浦廉一先生追悼事業会、1958.12.28)。広島高等師範学校教授(東洋史)の時被爆。 |
| 28 | 2013 | 吉川生美 | きっかわいきみ | 92 | 三次市出身。爆心地から約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆。夫は、「原爆1号」と呼ばれた吉川清。資料年表:吉川生美 |
| 29 | 1968 | 久富達夫 | ひさとみ・たつお | 情報局次長(1945.4~8.22)。<松前重義「終戦に導いた原爆の報告」(『久富達夫』(久富達夫追想録編集委員会<出版共同社内>、同刊行会、1969.12.15、pp.288-290>) | |
| 30 | 1975 | 稲富 栄次郎 | いなとみ・えいじろう | 78 | 広島文理科大学助教授の時被爆。教育哲学会会長。『世紀の閃光』(稲富 栄次郎著、銀のの鈴広島図書発行、19491220)。『広島原爆記 未来への遺書』(稲富 栄次郎著、講談社、19730801)。稲富栄次郎 |
| 30 | 1983 | 矢吹憲道 | やぶき・ | 80 | |
| 30 | 1988 | ノグチ・イサム | のぐち | 84 | 日系米国人の彫刻家。広島市の平和大橋などを設計。イサム・ノグチ |
| 30 | 2014 | ドレイゴ、カレリア | どれいごかれりあ | 93 | 白系ロシア人。父が広島女学院の音楽教師。牛田の自宅で被爆。 |
| 31 | 2022 | 郭貴勲 | くぁく・くぃふん | 98 | 韓国原爆被害者協会名誉会長。 |
止
松本卓夫
| まつもとたくお | 19生 19861128没 |
原爆被爆時の広島女学院院長。1948年9月~50年1月、渡米。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。1964年に広島・長崎世界平和巡礼団団長として各国を歴訪。 |
| 参考資料 | 平和巡礼 |
| 文献 | 原爆体験と世界平和 (『その日の広島-キリスト者の原爆体験』所収) |
| 『関西学院史紀要』第9号(2003年3月24日発行 A5版244頁) [シリーズ・関西学院の人びと] 神田 健次5.松本卓夫6.谷本 清 |
|
| 年表 |
| 1947/8/– | 米でも8月6日に「広島デー」。松本卓夫広島女学院長に友人の米人宗教家から連絡 | |
| 1948/1/– | 米教育界から広島女学院に留学の招請状。松本卓夫院長にも被爆状況の講演依頼 出 典(新聞掲載日など): | |
| 1950/1/8 | 1948年9月以来、渡米し平和講演などしていた広島女学院の松本卓夫院長が広島帰着 出 典(新聞掲載日など): | |
| 1964/1/17 | 広島・長崎世界平和巡礼団の広島関係メンバー決まる。松本卓夫元広島女学院長、志水清広島大原医研教授ら15人 出 典(新聞掲載日など): | |
| 1964/4/16 | 第2回広島・長崎世界平和巡礼団が広島出発。広島市平和記念館で結団壮行式。団員40人が2カ月をかけ欧米、ソ連など8カ国を回る。松本卓夫団長(元広島女学院長)が「原爆という共通の苦悩を背負っ | |
| 1964/7/4 | 1964/7/6 市民 広島・長崎世界平和巡礼団が広島市の平和記念館で市民への帰国報告集会。松本卓夫団長が「巡礼団は世界平和のためのタネまきだった。今後はその成長と収穫を繰り広げなければならないと痛切に感 | |
| 1964/7/6 | 広島・長崎世界平和巡礼団が広島市の平和記念館で市民への帰国報告集会。松本卓夫団長が「巡礼団は世界平和のためのタネまきだった。今後はその成長と収穫を繰り広げなければならないと痛切に感 | |
| 1970/6/22 | 米市民に核兵器の廃絶と世界平和を訴える「広島・長崎平和使節団」(団長、松本卓夫広島ワールド・フレンドシップ・センター館長、6人)が羽田を出発 出 典(新聞掲載日など):06・23 | |
| 1970/8/2 | 訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)がミネソタ州セントポールの教会で原爆慰霊式 出 典(新聞掲載日など):08・3夕 | |
| 1970/8/3 | 訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長、6人)が国連で記者会見。松本団長「原爆の無差別殺害は正当化できない犯罪である」。会見に先立ち、リーゼン・ニューヨーク市長らと懇談 出 典(新聞 | |
| 1970/8/22 | 全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)の6人が帰国。6月22日に日本を出発し、米の50余りの都市を訪問 出 典(新聞掲載日など):08・22夕 | |
| 1970/8/30 | 全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団が広島市の平和記念館で報告会。松本卓夫団長「今回の使節団は個別に行動し、小さな集会に主眼を置き平和を訴えた。25周年というこ | |
| 1971/7/17 | 1964年、広島・長崎平和巡礼団の一員としてトルーマン米大統領に会見した松本卓夫団長が、中国新聞のインタビューで「原爆投下を命じた責任者の口からは、通りいっぺんの返事しかなかった。 |
出典:その日の広島-キリスト者の原爆体験(新教出版社編集部編、新教出版社、1965年7月31日)
翌年の二月には、牛田山の校地にバラックの校舎と講堂とを建てて、はじめて学院自体の設備で授業を行ない、二年後には、上流川町の校庭に、やや校舎らしい建築をし、大講堂を加えた。市内の諸学校の中で、このように復興し得たのは広島女学院が最初であった。当時の文部大臣森戸辰男氏はわざわざ東京から来て、鄭重な祝辞を述べて下さった。
この建設が一応完成したころ、わたしの容体がまた悪化し出したので、米国メソジスト教会世界伝道局の招きにより渡米療養をすることになった。わたしは、被爆者にして渡米した最初の日本人であったため、かなり好奇の的になり入院中はモルモット扱いされて、いろいろの治療を実験的に試みられた。しかし、どうやら一カ月余にわたる治療のおかげで健康を回復しえたのであるが、その後一カ年半の長きにわたって、ほとんど米国全土を旅行し、諸教会、諸学校、またいろいろの文化団体の招きを受けて、原爆の経験を語り、平和を訴えて回った。
このような非人道的な戦争や手段を今後絶対に防止し、真の世界平和を実現しなくてはならないことを痛感し、平和運動を促進している人々や団体が数多くあることは、周知のとおりである。
とくに、広島および長崎の被爆者たちは、彼らの悲惨な体験から、ノー・モア・ヒロシマを訴える使命を痛感し、昨春、世界平和巡礼団を組織し、北米、カナダ、英国、フランス、東西ドイツ、およびソヴィエト・ロシアの諸国をニカ月半にわたって歴訪し、講演、座談、論議、合同研究を試みた。総勢四○名(通訳者として同伴した一二名の学生を含めて)であったが、抽象的な一般論でなくて痛切な被爆の体験に基づいて訴えたので、聴く人々に非常な感銘を与えた。また、社会の各層を代表する多種多様の者たちを網羅した巡礼団であったことも、特色があり有意義であったと思う。農家の主婦あり、保育院の保母あり、労組の主事、文筆家、新聞記者、学校長、教員、仏僧、医者、科学者といった顔ぶれであり、したがって諸外国のそれぞれのグルーブと懇談し意見の交換をする便宜を得た。
事実、この巡礼団の目的は、あわれなお涙ちょうだい式の泣きごとを述べ歩くことではなく、諸外国の人々と研究的に語りあい、どうしたら戦争を防止し平和を促進しうるかについて意見を交換することにあったのである。したがつて、われらの同志科学者は、しばしば、フランスやアメリカの知名な物理学者たちと個別的に対談したし、わたしはたびたぴキリスト教指導者たちとの会合に臨んだし、医者たちは先方の医師会の人々と医学的方面からの合同論議に参加するという方法をとった。もとより、大きな講演会を催して大衆に訴えることもした。ニューヨーク市力-ネギー・ホールに約三千人を集めての講演会、パリの公会堂における盛大な平和強調の会、モスクワのゴリキー記念公園内で数千の聴衆を迎えての大会など、その著しい例であった。知名の士との面接も有意義であった。米国元大統領トルーマン、カナダ外相バウル・マーティン、国連事務総長ウ・タント、ベルギー王バウドワンのかたがたとの面談は、単に儀礼的なものではなかったと思う。ワシントンの国会議事堂内で、上院下院議員がたとかなりつっこんだ論議を試みたが、これまた効果的であったと信じる。諸大学での率直な議論は痛快でもあった。巡礼旅行の全行程中で行なった会合は約五百回にのぼった。ラジオ、テレビなどには数十回もひっぱり出されたが、これらのマス・コミをとおして、わたしたちは数百万の人々に語りかけることができたと言えよう。
| 1942年 4月 | 松本卓夫が、院長兼専門学校長、高等女学部長として就任。 |
| 1943年 4月 | 高等女学部は高等女学校令による「広島女学院高等女学校」として、文部省によって認可を受け、松本院長が校長を兼ねた。 |
| 1945年 8月 | 6日午前8時15分、広島に原爆投下。生徒・教職員330余名の犠牲者を出し、校舎、施設のいっさいを失った。 |
| 1945年10月 | 牛田国民学校の一部を借用して授業を再開。 |
| 1946年 2月 | 牛田山の校地にバラック校舎を建築、授業を継続。 |
| 1947年 4月 |
新制中学校発足。高等女学校は中学校3年と高等学校3年に改編されることとなり、当時の高女1年生は、そのまま「広島女学院中学校1年生となった。 |
| 1947年 8月 | 上流川校地(現上職町)に仮校舎と講堂、寄宿舎を建てて、牛田の校地より復帰。 |
| 1948年 4月 | 新制高等学校発足(普通科科、英語科、家庭科)。 |
| 1948年 8月 | 高等学校木造校舎、東校地の西南側に建築。 |
| 1949年 4月 | 新制大学発足。牛田校地に大学英文学部英文学科開学。 |
| 1950年 4月 | 牛田校地に短期大学部家政科開学。 |
石井金一郎
| いしい・きんいちろう | 19220402生19670621没 | 享年45 | [52広島平和問題談話会](広島女子短期大学助教授)。[54世界平和集会世話人(発起)]。元広島大学教授。日本原水協専門委員。 |
資料年表:石井金一郎<作業中>
| 年月日 | ||
| 1922 | ||
| 0402 | 誕生 | |
| 1960 | ||
| 0825 | 『戦後日本の国家権力』(現代史研究会、三一書房) | |
| 1965 | ||
| 0520 | 『 現代憲法読本』(法律文化社) | |
| 1967 | ||
| 0621 | 没 | |
止
川手健
| かわて・たけし | 19310213生 19600428没 |
広島市大手町生まれ。県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。東京都内で自殺。29歳。 |
資料
| 文献 | ||
| 19521101 | 川手健「七年後の廣島」(『新日本文学』) | |
| 19530625 | 『原爆に生きて 原爆被害者の手記』(原爆手記編纂委員会、三一書房) | |
| 19540215 | 『風のように炎のように-峠三吉追悼集』 | |
| 19550109 | 川手健「原爆被害者の青年クラブのこと」(『われらのうたの会』第3号) | |
| 19950806 | 『川手健を語る』(川手健を語る会編、ウイウド・岡本智恵子) | |
資料
川手健=「原爆被害者自身の口から全世界に向って原爆の惨禍と平和の必要を訴えるその意義は大きい。原爆の投下が世界史的な大事件であるなら、その被害者が立上がって原爆の反対を叫ぶこともまさに世界史的な出来事である。このことの重要性についてはまだまだ本当に考えている人は少ない様に思う。」
(「半年の足跡」、『原爆に生きて』、三一書房、1953年、所収)
佐々木禎子
| ささき・さだこ | 19430107生 19551025没 |
2歳の時、広島市三篠町で被爆。1955年1月9日、発病。同年2月21日、広島日赤病院に入院(広島市幟町小学校6年生)。4月幟町中学校に進学するが、登校不能。入院中折り鶴を製作。10月、亜急性リンパ性白血病で死去。享年12歳。 |
参考
| 広島平和をきずく児童・生徒の会 | |
| 原爆の子の像(折鶴の子の像) | |
| 広島折鶴の会 | |
| 資料 | |
| 広島市原対協被爆生存者(児童生徒)調査表(1956年1月10日現在)(1956年2月~3月実施) | 出典:『広島原爆医療史』601頁 |
| 文献(原爆の子の像関係) | |
| 千羽鶴 原爆の子の像の記録(豊田清史、昭森社) | 1958/08/06 |
| はばたけ千羽鶴(豊田清史、 筑摩書房) | 1982/07/30 |
| 悲しみの千羽鶴(田清史、創樹社) | 1991/07/10 |
| 折り鶴の子どもたち 原爆症とたたかった佐々木禎子と級友たち(那須正幹・作 高田三郎・絵 PHP研究所 ) | 1984/07/02 |
| 現代日本朝日人物事典(長岡弘芳執筆) |
9月に亡くなった人々
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | |
| 01 | 2002 | 林重男 | はやし・しげお | 84 | 写真家。文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に参加、広島と長崎を撮影。<資料年表:林重男> |
| 02 | 1994 | 門秀一 | かど・しゅういち | 79 | 核禁広島県民会議初代議長。広島大学名誉教授。西洋倫理哲学専攻。<資料年表:門秀一> |
| 02 | 1999 | 尾津訓三 | おづ・くんぞう | 65 | 劇作家。広島で被爆。「追記 だれよりも願った地域演劇の復興」(『中国新聞19991102』田原直樹・記)<資料年表:尾津訓三> |
| 02 | 2017 | 土山秀夫 | つちやま・ひでお | 92 | 元長崎大学長。2009年2月28日に面識。<16時半~、広島(代表:難波健治)・長崎(代表:峠憲治)の報道関係者の交流会。会場:長崎新聞社。19時~懇親会。>宇吹の質問および意見<平和教育、平和行政、市民運動、医学者の動向、IPPNW、パグウォッシュ会議>に丁寧な応答。 |
| 03 | 2018 | オマール、サイド | さいど・おまーる | 19 | マラヤ(現マレーシア)の王族。 南方特別留学生。興南寮(広島市大手町)で被爆。<資料年表:サイド・オマール>51.pdf (hiroshima-u.ac.jp) |
| 04 | 1965 | シュバイツァー、アルベルト・ | 90 | 1952年度のノーベル平和賞受賞。 | |
| 1962年6月30日、赤道直下のランバレネの病院で森瀧市郎氏の訪問を受ける。出典:http://www.ne.jp/asahi/nozaki/peace/data/gen_moritaki.html 森瀧宅で、当時のアルバムを前にこの時の話を聞く(宇吹) | |||||
| 04 | 2009 | 大山広司 | おおやま・ひろし | 91 | 元広島県議会議長、元全国都道府県議会議長会会長。『広島県議の半世紀 : 五人の知事に相まみえて : 大原博夫氏・永野巌雄氏・宮澤弘氏・竹下虎之助氏・藤田雄山氏』(大山広司・述、大平泰・記、溪水社、2005)1918生 |
| 05 | 1998 | 堀田善衛 | ほった・よしえ | 80 | 小説家。『広島県現代文学事典』(山根繁樹・記)<資料年表:堀田善衛> |
| 06 | 1998 | 黒沢明 | くろさわ・あきら | 88 | 映画監督。「生きものの記録」・「八月の狂詩曲」で核問題を取り上げる。 |
| 07 | 2020 | 岩佐幹三 | いわさ・みきそう | 91 | 修道中学在学中、被爆。1953年金沢大学教官となり同大名誉教授。1960年「石川県原爆被災者友の会」を設立。日本被団協事務局次長(2000年)・同会代表委員(2011年)<資料年表:岩佐幹三> |
| 08 | 1981 | 湯川秀樹 | ゆかわひでき | 74 | 1949年日本人として初のノーベル物理学賞受賞。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。「世界平和アピール七人委員会」メンバーとして平和運動にも尽力。[70ヒロシマ会議]<資料年表:湯川秀樹> |
| 10 | 2014 | 坂井義則 | さかい・よしのり | 69 | 1945年(昭和20年)8月6日広島原爆被爆直後に広島県三次市で誕生。父は被爆者。1964年東京オリンピックの開会式で聖火リレーの最終ランナー。 |
| 11 | 2019 | 粟屋憲太郎 | あわや・けんたろう | 75 | 日本近現代史研究者。著書に『東京裁判への道』など。1944年 6月11日生<資料年表:粟屋憲太郎> |
| 14 | 2010 | 大道あや | だいどう・あや | 101 | 絵本作家。本名:大道アヤコ。丸木スマ母、丸木位里は兄。19090411誕生。 |
| 15 | 1990 | 土門拳 | どもん・けん | 80 | 写真家。1958年に被爆者を写した写真集「ヒロシマ」を発表。『広島県現代文学事典』(20101220)<田中裕之・記><資料年表:土門拳> |
| 15 | 2010 | 秋信利彦 | あきのぶ・としひこ | 75 | 放送ジャーナリスト。中国放送(RCC)ディレクター・記者・常務取締役歴任。きのこ会。1935生。<資料年表:秋信利彦> |
| 18 | 2011 | 小野増平 | おの・ますへい | 64 | 中国新聞社入社(1970年4月)、ニューヨーク支局長(1990年8月)・東京支社長(2002年2月)・編集局長(2005年)、広島経済大学メディアビジネス学科教授 (2007年9月)を歴任。(広島大学文書館<解題:小野増平関係文書目録>) |
| 19 | 2002 | 好村冨士彦 | こうむら・ふじひこ | 71 | 広島文学資料保全の会代表。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)『考えるとは乗り越えることである―好村冨士彦遺稿・追悼集』2003<資料年表:好村冨士彦> |
| 20 | 1976 | 升川貴志栄 | ますかわ・きしえ | 78 | 原水爆禁止広島母の会会長。<資料年表:升川貴志栄> |
| 20 | 1981 | 竹下健児 | たけした・けんじ | 55 | 放射線物理学者。1945年学徒動員先の長崎で被爆。1965年広島大学原医研教授。 |
| 20 | 2009 | 大江志乃夫 | おおえ・しのぶ | 81 | 日本現代史家。 |
| 21 | 2011 | 辺見じゅん | へんみ・じゅん | 72 | 広島女学院創立120周年記念2006年度企業懇談会・講演会(会場:リーガロイヤルホテル)講演会:辺見じゅん「生きるための自分力」。並んで挨拶。宇吹:大和ブーム批判に取り組んでいることを伝えると自著『女たちの大和』(ハルキ文庫、2005年)を挙げて切り返えされる。 |
| 21 | 2017 | 森本順子 | もりもと・じゅんこ | 85 | オーストラリア在住の絵本作家。広島女学院高女在学中に被爆。 |
| 22 | 2010 | 橘祐典 | たちばな・ゆうてん | 77 | 本名:橘裕彦(ひろひこ)。映画監督。原爆記録映画「にんげんをかえせ」など。 |
| 23 | 1954 | 久保山愛吉 | くぼやま・あいきち | 40 | 第5福龍丸無線長。1954年3月1日にアメリカが南太平洋ビキニ環礁で実施した水爆実験で被曝。<資料年表:久保山愛吉> |
| 24 | 2015 | 福島菊次郎 | ふくしま・きくじろう | 94 | 写真家。<資料年表:福島菊次郎> |
| 27 | 1970 | 木野 普見雄 | きの・ふみお | 62 | 作曲家。1945年8月9日、長崎市役所に出勤中原爆に被爆。<資料年表:木野 普見雄> |
| 27 | 1983 | バーチェット、ウィルフレッド・ | 72 | ジャーナリスト。広島の被爆のもようを世界に最初に報道。<資料年表:バーチェット> | |
| 27 | 2019 | 布川弘 | ぬのかわ・ひろし | 61 | 広島大学大学院総合科学研究科教授。広島市被爆70年史編集研究会で同席。 |
| 28 | 1986 | 谷本清 | たにもと・きよし | 77 | 日本基督教団広島流川教会牧師。教会で面談。 |
| [50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆乙女の米での手術実現などに尽力。86アキバ・プロジェクト」で来日した米記者、被爆牧師死去の記事(60行余)を掲載。AP通信を通じて米の各メディアに配信。[69原爆被災資料広島研究会]。『広島県現代文学事典』<田中裕之・記>19090627生。<資料年表:谷本清> | |||||
| 28 | 1991 | 中本 たか子 | なかもと・ たかこ | 87 | 小説家。1927年上京、『女人芸術』誌に参加。1941年蔵原惟人と結婚。<資料年表:中本 たか子> |
| 28 | 1991 | 佐久間澄 | さくま・きよし | 80 | 広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆。お宅で面談、資料を閲覧。<資料年表:佐久間澄> |
| 28 | 2023 | 小河原正己 | おがはら・まさみ | 83 | 1940年山梨県生まれ。NHKプロデューサー。<資料年表:小河原正己> |
| 佐久間澄
|
さくま・きよし | 19910928生19910928没 | 享年80 |
| 広島大学名誉教授。広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆し、原水禁運動に貢献。広島大学。お宅で面談、資料を閲覧 | |||
資料
| 死亡記事 | 1991年9月29日付、中国・朝日・読売・長崎・赤旗 |
| 追悼文 | 庄野直美(広島女学院大学名誉教授)「佐久間澄氏を悼む 核兵器廃絶に尽力」(掲載新聞不明) |
佐久間澄さんをしのぶ会
| 日時 | 1992年12月26日 | |
| 会場 | 広島国際会議場・ダリア(広島平和公園内) | |
| 資料 | 会への案内(呼びかけ人:) | |
| 式次第 | ||
| 遺族礼状 | ||
| 宇吹宛佐久間書簡(8月26日付) | ||
| 報道 | 不明紙、赤旗 | |
森滝市郎
| もりたき・いちろう | 19010428生 19940125没 |
享年92歳 | [51広島大学平和問題研究会会長理事(文)]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。広島県君田村生まれ。京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。[70ヒロシマ会議]。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。 |
「庄野直美」論
| 庄野直美 | しょうの・なおみ | 1925年生
2012年2月18日没 |
Naomi SHONO |
庄野直美先生は、私のヒロシマ研究の先輩である。とりわけ、私が広島県史編さん室・広島大学に勤務した時期にはお世話になった。彼の足跡をたどりつつ、私にとっての「庄野直美」を振り返ってみた(文中で、名前を掲げる人々の敬称を省く非礼をお許しください)。
「人間銘木 藤居平一追想集」(同編集委員会編、藤居美枝子発行、1997年)(注1)に、庄野による藤居(日本原水爆被害者団体協議会初代事務局長)への追悼文が収録されている。これによると、彼が、藤居と知り合ったのは第1回原水爆禁止世界大会の大会運営事務局で、1956年初め以降は、藤居宅に泊まり込んで相談と激論を重ねた。さらに東京に発足した原水爆禁止日本協議会の会合にはしばしば一緒に出席したという。
私は、「原水爆被害白書 かくされた真実」(日本原水協専門委員会編、日本評論新社、1961年)を、学生時代から辞書的に利用していた。私には、「広島・長崎の原爆災害」(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編、岩波書店、1979年)が出版されるまでは、原爆被害を網羅的に概説した最も信頼できる本であった。この「あとがきに」によれば、佐久間澄・杉原芳夫とともに「原爆被害の実態」(第2章、第3章)の第一稿の執筆にあたっている(注2)。
「ヒロシマの証言 平和を考える」(広島平和文化図書刊行会編、日本評論社、1969年)は、広島市の平和推進事業の一環として設けられた編集委員会により発行された。本書の「刊行にあたって」に編集委員5人(注3)・執筆者7人(注4)の名前が記されている。これによれば、庄野だけが、編集者であり執筆者であった。一方、広島の平和教育が組織的・継続的に推進されるようになるのは1972年の広島平和教育研究所設置以降のことである。「平和教育研究 広島平和教育研究所・年報 Vol.1 1972」から、庄野が同研究所の国際交流部長に就任していることがわかる。庄野は、1967年の広島平和文化センターの設置から始まる広島市の平和行政や平和教育の初期から重要な役割を担っていたのである。
「原爆三十年―広島県の戦後史」(広島県編・刊、1967年)で、庄野は「原爆被災の概要」「原爆症」「被爆者の連帯」「平和研究」を執筆した。編集事務局員の私の仕事は、執筆要領に沿った彼の原稿調整を行うことであった。この作業の中で、私は、被爆二世の遺伝的影響の記述に疑問を感じてしまった。にわか勉強では、疑問が解けない。私はまず、県の関係課を訪ね見解を聞いた。その上で庄野を訪ね、原稿と県の見解が異なっていることを伝えた。すると庄野は、私に、遺伝的影響の研究概況と自らの見解を詳細に話してくれた。後日、私は、彼から県の見解に沿った修正原稿を受け取った。私が平和運動や行政から原稿の執筆を依頼された時や被爆二世問題に接するたびに思い出すできごとである。
被爆30年以降、広島・長崎両市(注5)と日本原水協が、国連を中心とした国際活動に乗り出した。両市は、1976年に「国連アピール資料編集専門委員会」(委員長・今堀誠二)を立ち上げる(注6)。『核兵器の廃絶と全面軍縮のために―国連事務総長への要請』(ヒロシマ・ナガサキ、1976年)がその成果である。このアピールの資料編「原爆被害の実態―広島・長崎」は、「物理的破壊」、「身体的破壊」、「社会的破壊」の三つの柱から構成されているが、庄野が前二者の原案を石田定(広島原爆病院内科武法)の協力で起草した。庄野は、同じ時期に日本原水協に事務局を置く団体(注7)が作成した「広島・長崎の原爆被害とその後遺-国連事務総長への報告」(1976年)にも作成のための専門家グループ(注8)の一人でもあった。なお、1977年には、こうした国内の動きに呼応するかのような海外の流れが、国内に流れ込み、この二つの流れのほか、多くの組織・団体を巻き込む大潮流となる。1977年の国連NGO被爆問題シンポジウム(注9)は、その事例である。「広島・長崎の原爆災害」(前掲)は、以上の成果を踏まえ、広島大学・長崎大学の研究者を中心にまとめられたものである。基礎原稿の執筆者が、「物理学関係」「医学生物学関係」「人文社会科学関係」の3分野で掲載されており、「物理学関係」に岡島俊三・岡林隆敏・竹下健児・橋詰雅とともに庄野の名前がある。発行(1979年)時、ある新聞は、原爆被害の集大成と報じた(注10)。
「原爆モニュメント碑文集」(原爆モニュメント研究グループ編・刊、1978年)では、庄野はスポンサーであった。私も一員であった研究会(広島県歴史教育者協議会のメンバーで構成)の横山英代表の指示で、庄野の勤務先の広島女学院大学に研究費を受け取りに行った(注11)。「核と平和―日本人の意識」(庄野直美・永井秀明・上野裕久編、法律文化社、1978年)は、1975年に発足した広島大学平和科学研究センターの研究プロジェクト「核意識構造の実態研究」による研究成果の一部である。このプロジェクトに参加した研究者は、全国13大学の27人であり、専攻分野は十数領域に及んでいる。私もその一員として、資料の収集と整理作業を中心となって進めていた永井秀明のお手伝いをした。この研究グループは、庄野を研究代表者として、1976年・77年に文部省科学研究費補助金の交付を受けている(注12)。
私が庄野の元で、あるいは共に働いたのは、この時期までである。庄野の足跡はこの後も続く。「ヒロシマ・ナガサキの証言 創刊号」(発行所:広島・長崎の証言の会、発行人:秋月辰一郎・庄野直美、1982年)や「広島の被爆建造物―被爆45周年調査報告書」(監修者:庄野直美、発行者:被爆建造物を考える会、発行所:朝日新聞広島支局、1990年)がその証である。また被爆40周年の1985年には「ヒロシマ・ナガサキ平和基金」を設立している。私は、彼からこれらへの参加を強く求められたが固辞した。理由は、依頼内容が事務局への関与であり、それは私の職場における立場では困難だったからである。
(うぶき・さとる=元広島女学院大教授、日本現代史・日本文化史)
(注1)私は、田中聰司(元中国新聞記者)とともにこの本の編集のお手伝いをした。
(注2)第一稿の執筆者:石井金一郎・伊東壮・大江志乃夫・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・杉原芳夫・田沼肇・山手茂・吉田嘉清。
(注3)広瀬ハマコ・今堀誠二・田淵実夫・森脇幸次・庄野直美。
(注4)森下弘・永田守男・文沢隆一・大牟田稔・平岡敬・石田明・庄野直美。庄野が執筆総括者を務めている。
(注5)今から見れば不思議に思えるが、被爆地の広島・長崎両市が連携して被爆問題に取り組み始めるのは、1975年(被爆30年)の平和文化都市連携の調印以降のことである。
(注6)専門委員会の広島側委員は、原田東岷(副委員長)・石田定・岡本直正・庄野・湯崎稔の5人、長崎側委員は秋月辰一郎(副委員長)など5人であった。
(注7)名称は「核兵器全面禁止国際協定締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団派遣中央実行委員会」
(注8)伊東壮・川崎昭一郎・草野信男・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・峠一夫。なお、広島・長崎両市に関わった専門家と比べて注目されるのは、庄野のみが、両者に名を連ねていることである。
(注9)庄野とNGOにまつわるエピソードを一つ。私が、NGO(Non-Governmental Organization=非政府組織)という言葉を初めて知るきっかけは県の関係者からの問い合わせである。私の勤務先の広島大学原爆放射能医学研究所でも話題になっていた。シンポジウムの主催者は、県知事や研究所長にあいさつと後援の依頼していた。広島で最も詳しかったのは庄野だったように覚えている。私は、庄野情報によりその内容をぼんやりと理解した。参加した人々が十分理解していたとは思えないが、シンポジウムは、当時存在していた原爆被害に関わる多く動きを糾合した。そして、この成功は、その後の被爆問題をめぐる雰囲気を大きく変化させた。私は、特定の組織に属さずに多くの仕事を成し遂げた庄野直美を「NOM人」(Non- Organization Movement=非組織運動の人)と呼ぶのがふさわしいと考えている。
(注10)この評価には、事務局の下働き的立場にいた私は違和感を抱いた。この本の広島部分の記述には、1977年には、「原爆と広島大学―『生死の火』学術篇」(広島大学原爆死没者慰霊行事委員会、1977年)の成果に依拠するところが多い。この本には庄野は関わっていない。
(注11)額は、10万円?20万円?30万円?いずれにしても、印刷費に満たないものであった。会では、会員の調査のための交通費や謄写版刷りの会報の費用にすることを申し合わせたように思う。
(注12)私は、うかつにも「原爆モニュメント碑文集」と「核と平和」は、まったく別の動きと思い込んでいた。しかし、今では、前者に関連して私が庄野から受け取った金は、この科研費の一部だったと推測している。
2月に亡くなった人々
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 01 | 1973 | 長岡省吾 | ながおか・しょうご | 71 | 広島大学理学部[学研調査]。被爆時、広島文理科大学嘱託として山口県に地質調査で出張中。翌日入市。被爆資料収集に努めた(初代広島原爆資料館長)。<別記> |
| 01 | 1997 | 河合幸尾 | かわい・ゆきお | 広島女子大学元教授。原爆被害者相談員の会代表。宇吹所蔵資料=「故・河合幸尾先生をしのぶ会」(19970405広島県民文化センター)<資料> | |
| 01 | 2003 | ネルソン、リチャード | ねるそん | 77 | 広島原爆投下機エノラ・ゲイの無線士(出典:『中国新聞』20030208) |
| 01 | 2008 | 小野文子 | おの・ふみこ | 広島大学原爆死没者慰霊行事委員会の委員。<別記> | |
| 02 | 2013 | 山岡ミチコ | やまおか・みちこ | 82 | 被爆証言者。<別記> |
| 04 | 1980 | 佐々木雄一郎 | ささき・ゆういちろう | 63 | 被爆記録写真を撮り続けた広島の写真家。[69原爆被災資料広島研究会]。<別記> |
| 04 | 1993 | 柿手春三 | かきて・しゅんぞう | 84 | 画家。「広島平和美術展」創立。代表幹事。<別記> |
| 05 | 1991 | ペドロ、アルぺ | ぺどろ | 被爆当時、長束修道院院長。出典:『中国新聞』20110428(増田咲子記者) | |
| 06 | 1989 | 甲斐英男 | かい・ひでお | 61 | 広島県史編さん室の上司。<資料年表:甲斐英男> |
| 06 | 2012 | 重松逸造 | しげまつ・いつぞう | 94 | 放射線影響研究所元理事長。<別記> |
| 06 | 2024 | 小沢征爾 | おざわ・せいじ | 88 | 指揮者。「ヒロシマ 指揮棒に思い 犠牲者へ心寄せ」(『中国新聞』20240210<西村文・記>) |
| 07 | 1971 | 尾形静子 | おがた・しずこ | 44 | 広島市広瀬国民学校で勤務中被爆。<別記> |
| 07 | 1987 | 小西ノブ子 | こにし・のぶこ | 80 | 反戦被爆者の会会長。『炎の巡礼者 ヒロシマの母 小西のぶ子遺稿集』(小西のぶ子遺稿集編集委員会、社会評論社、19880806) |
| 07 | 2016 | 若木重敏 | わかき・しげとし | 100 | 著書:『広島反転爆撃の証明』(文芸春秋、1989.7)、『原爆機反転す: ヒロシマは実験室だった (光文社文庫 わ 8-1) 』 |
| 08 | 1961 | 雑賀忠義 | さいか・ただよし | 67
|
広島高等学校教授の時被爆。英文学者。1957年広島大学を定年退官。広島平和公園にある原爆慰霊碑の碑文の作者。<別記> |
| 08 | 1980 | 平野義太郎 | ひらの・よしたろう | 82 | 日本平和委員会名誉会長。原水爆禁止日本協議会の結成に参加。[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]<別記> |
| 08 | 1997 | 小谷鶴次 | こたに・つるじ | 84
|
広島大学名誉教授。政経学部教授時代に世界連邦建設運動にかかわる。<別記> |
| 08 | 2015 | 栄久庵憲司 | えくあん・けんじ | 85 | 工業デザイナー。2005年5月18日広島女学院大学春季講演会で講演「道具と人の世界」。人文館303。超満員。3年宇吹ゼミの学生もかなり参加。<別記> |
| 09 | 1982 | 加藤新一 | かとう・しんいち | 81
|
広島市在住の被爆者。[52広島平和問題談話会](日本国際連合協会広島支部局長)。第1回国連軍縮特別総会に参加。<別記> |
| 09 | 1985 | 真下信一 | ました・しんいち | 78 | 哲学者[1982推進連絡会議呼びかけ人]<別記> |
| 09 | 1995 | フルブライト、ウィリアム・ | ふるぶらいと | 89 | 元米上院議員。広島・長崎への原爆投下に衝撃を受け、日本が復興し、国際社会に復帰するためには人材の育成が不可欠との信念から1946年に「フルブライト交流計画」を創設。<別記予定> |
| 09 | 1996 | 小笠原基生 | おがさわら・もとお | 69
|
記録映画監督。「ヒロシマ・原爆の記録」、「ヒロシマ・母たちの祈り」などを監督。<別記> |
| 10 | 2010 | 森一久 | もり・かずひさ | 84 | 元日本原子力産業会議副会長、肺炎で3日死去、84歳。1926年広島生まれ。京都大学在学中に広島で家族とともに被爆。<別記> |
| 10 | 2012 | 宇根利枝 | うね・としえ | 93 | 「宇根利枝さんが死去 慰霊碑に献水 半世紀以上 93歳」(『中国新聞』20120212、田中美千子記)<別記> |
| 10 | 2018 | 松原美代子 | まつばら・みよこ | 85 | 12歳の時、建物疎開の作業中に爆心地から約1.5キロで被爆。<別記> |
| 10 | 2018 | 荒角理宰 | あらかど・りさい | 99 | 山陽ジャスコ株式会社元会長。体験記(私家版)あり(『中国新聞』1995年8月2日)。『被爆50周年を迎えて-私の原爆体験談 』(1995年08月01 日刊)<別記>別記 |
| 11 | 1985 | 村上忠敬 | むらかみ・ただよし | 77 | 広島大学高師教授。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。広島大学名誉教授。1970年4月~74年3月、広島女学院大学長。1968年~83年、核禁広島県民会議議長。在韓被爆者のための医師団派遣などに尽力。[70ヒロシマ会議]<別記> |
| 11 | 1990 | レイノルズ、バーバラ | れいのるず、ばーばら | 74
|
米の平和運動家。1951年に来広し、18年間広島市に滞在、1962年に広島・長崎平和巡礼団を組織するなど平和運動に貢献。<別記> |
| 11 | 1992 | 殿敷侃 | とのしき・ただし | 50
|
造形作家。3歳の時、広島で両親が被爆死。2日後に疎開先にから広島市に帰る。広島大学中退、1978年久保貞次郎の勧めで版画を始める。両親の遺品等を題材とした絵画、版画など、原爆の問題をとりあげた作品を制作。殿敷侃 :: 東文研アーカイブデータベース (tobunken.go.jp)。 |
| 12 | 2018 | 松尾雅彦 | まつお・まさひこ | 76 | 【訃報】相談役 松尾雅彦 逝去のお知らせ 逝去のお知らせ20180213.pdf (calbee.co.jp)『生きて・カルビー元社長、松尾雅彦さん(1941年~)』(『中国新聞』20100406~0428、15回連載)、山本洋子「評伝・松尾雅彦カルビー元社長」(『中国新聞』20180214) |
| 13 | 1970 | 近藤寿治 | こんどう・ひさじ | 被爆時、広島文理科大学学長(兼高師校長)として出張中。後日入市[広島大学] | |
| 13 | 2008 | 市川崑 | いちかわ ・こン | 92 | 映画監督。広島にいた母を含む家族8人全員が原爆被爆。『東京オリンピック』(1965年、東京オリンピック映画協会) 総監督。 |
| 14 | 1992 | 有末精三 | ありすえ・せいぞう | 96 | 元陸軍中将。終戦時参謀本部第2部長。大本営調査団の団長として広島入り。「原子爆弾広島へ落ちる」『終戦秘史・有末機関長の手記』(有末精三、芙蓉書房、71960815)pp26-38。 |
| 15 | 2001 | 小沼十寸穂 | こぬま | 94 | 広島大学名誉教授。広島の被爆者の精神的苦痛による後障害を実態調査。 |
| 16 | 1977 | 末川博 | すえかわ・ ひろし | 84 | 立命館大学学長・総長。1892年11月20日生。 |
| 16 | 1994 | 小佐々八郎 | こささ・はちろう | 88 | 日本被団協顧問。長崎原爆被災者協議会会長などを歴任。藤居平一氏の紹介で自宅を訪問。 |
| 16 | 2007 | 宮崎安男 | みやざき・やすお | 78 | 原水爆禁止日本国民会議の副議長。全電通中国地方本部委員長、1974年から広島県原水禁事務局長、代表委員経て、96年から04年まで原水禁国民会議副議長、の後も広島県原水禁顧問。広島平和会館・原爆被害者相談所の相談員。<別記> |
| 16 | 2021 | バーナード・ラウン | 99 | ハーバード大学公衆衛生所付属の心臓病研究所長。1980年創設の「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」共同会長。田城明「バーナード・ラウン氏を悼む 命を守る延長に反核運動」(『中国新聞』20210316) | |
| 17 | 2011 | 黒川万千代 | くろかわ・まちよ | 81 | 旧姓富永。広島女専1年生のとき校内で被爆。日本被団協事務局次長など歴任。<別記> |
| 18 | 1987 | 壬生照順 | みぶしょうじゅん | 79 | 宗教NGO[82推進連絡会議呼びかけ人]天台宗華厳院住職。全日本仏教会評議員、仏教徒平和の会幹事長、日本宗教者平和協議会理事長。<別記> |
| 18 | 2011 | 尾糠政美 | おぬか・まさみ | 18 | 陸軍船舶練習部写真班員(23歳)のとき被爆。<広島原爆被災撮影者の会> |
| 18 | 2012 | 庄野直美 | しょうの・なおみ | 86 | 九州帝国大学理学部1年のとき入市被爆。宇吹追悼文あり。<別記> |
| 19 | 2017 | 林京子 | はやし ・きょうこ | 86 | 作家。長崎県立長崎高等女学校3年の時、学徒動員中の三菱兵器工場で被爆。短編『祭りの場』(『群像』1975.6)で第18回群像新人文学賞、および第73回芥川賞。『広島県現代文学辞典』(岩崎清一郎・記)<別記> |
| 20 | 1979 | 金子弥吉 | かねこ・やきち | 78 | 山口県被団協初代会長。芸備銀行横の路上(爆心から500㍍内)で被爆。 |
| 20 | 1985 | 中野好夫 | なかの・よしお | 81 | 英文学者。原水禁運動などに尽力。[82推進連絡会議呼びかけ人]。学生時代の友人の父。 |
| 20 | 2001 | 今堀宏三 | いまほり・こうぞう | 広島文理科大学卒業後、1946年金沢高師教授、1949年金沢大学理学部助教授を経て、1960年に大阪大学教授に就任。その後、福井県立短期大学(現福井県立大学看護短期大学部)学長、鳴門教育大学学長、広島女子大学(現県立広島大学)学長、日本生物教育学会会長を歴任。 | |
| 20 | 2018 | 金子兜太 | かねこ・ とうた | 98 | 俳人。『たっぷり生きる』(金子 兜太 / 日野原 重明、毎日学芸出版 、2010) |
| 21 | 1961 | 下中弥三郎 | しもなか・やさぶろう | 82 | 世界連邦会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記> |
| 21 | 2021 | 関千枝子 | せき・ちえこ | 88 | 旧姓富永。ノンフィクション作家。著書に「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」。<資料年表:関千枝子> |
| 22 | 1968 | 名越史樹 | なごや・ふみき | 7 | 白血病で死亡。<別記> |
| 22 | 1998 | 荘司雅子 | しょうじ・まさこ | 88 | 台湾出身。奈良女子高等師範学校卒業後、1935年広島大学教育学科に入学。長田新の勧めなどでフレーベル研究。「資料年表:荘司雅子」 |
| 22 | 2019 | 加納実紀代 | かのう・ | 78 | 出典:高雄きくえ「加納実紀代さんを悼む 銃後の加害と被害問う」(『中国新聞』20190226)<別記> |
| 24 | 2011 | 藤平典 | とうへい・のり | 82 | 広島高等師範学校生(16歳)の時、学徒動員先の東洋工業で被爆。東京都原爆被害者団体協議会会長、日本原水爆被害者団体協議会代表委員など。 |
| 24 | 2021 | 児玉健次 | こだま・けんじ | 87 | 広島大学文学部在学中の1956年8月に開催された8・6学生平和会議(1956年8月5~7日)の実行委員長<別記> |
| 26 | 1955 | 今堀恭子 | いまほり・きょうこ | 43 | 被爆当時広島市女教諭。広島文理科大学の第1回女子卒業生。<別記> |
| 26 | 1968 | 浜井信三 | はまい・しんぞう | 62 | 初代公選広島市長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起)]。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記> |
| 26 | 2002 | 鎌田定夫 | かまた・さだお | 72 | 長崎総合科学大学教授、長崎平和研究所長。<別記予定> |
| 26 | 2003 | 藤原彰 | ふじわら・あきら | 80 | 歴史学者。宇吹は1980年5月1日から81年2月28日まで文部省内地研究員として一橋大学藤原彰研究室に在籍。<資料年表:藤原彰> |
| 26 | 2019 | 見崎進 | みさき・すすむ | 92 | 第五福竜丸元乗組員。 |
| 26 | 2019 | 松尾文夫 | まつお・ふみお | 85 | 元共同通信ワシントン支局長。著書「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」などで「相互献花外交」を訴え続けたことが評価され、2017年度日本記者クラブ賞受賞。 |
| 27 | 1987 | 亀井文夫 | かめい・ふみお | 78 | 映画監督。被爆者を描いた「生きていてよかった」(1956年)などを制作。<別記> |
| 27 | 2003 | 小田 丕昭 | おだ・ひしょう | 92 | 洋画家。出典:寺本泰輔「原爆抽象画秘めた鋭さ 小田 丕昭氏を悼む」『中国新聞』20030227 |
| 28 | 1986 | パルメ、オロフ | ぱるめ・おるふ | 59 | スウェーデン首相。暗殺。1981年に、「軍縮と安全保障に関する独立委員会」委員長として、来広し、原爆資料館などを見学。<別記> |
| 28 | 2001 | 武田寛 | たけだ・ひろし | 1935年福山市出身。広島大学工学部卒業後、民間企業勤務。1970年日本共産党広島県委員会勤務。1984年~97年、原水爆禁止広島県協議会事務局長。日本原水協担当常任理事。<『爆央と爆心 1945年8月6日ヒロシマで何が起きたのか』> | |
| 28 | 2015 | 松谷みよ子 | まつたに・みよこ | 89 | 児童文学作家。 |