石井金一郎
| いしい・きんいちろう | 19220402生19670621没 | 享年45 | [52広島平和問題談話会](広島女子短期大学助教授)。[54世界平和集会世話人(発起)]。元広島大学教授。日本原水協専門委員。 |
資料年表:石井金一郎<作業中>
| 年月日 | ||
| 1922 | ||
| 0402 | 誕生 | |
| 1960 | ||
| 0825 | 『戦後日本の国家権力』(現代史研究会、三一書房) | |
| 1965 | ||
| 0520 | 『 現代憲法読本』(法律文化社) | |
| 1967 | ||
| 0621 | 没 | |
止
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。
石井金一郎
| いしい・きんいちろう | 19220402生19670621没 | 享年45 | [52広島平和問題談話会](広島女子短期大学助教授)。[54世界平和集会世話人(発起)]。元広島大学教授。日本原水協専門委員。 |
資料年表:石井金一郎<作業中>
| 年月日 | ||
| 1922 | ||
| 0402 | 誕生 | |
| 1960 | ||
| 0825 | 『戦後日本の国家権力』(現代史研究会、三一書房) | |
| 1965 | ||
| 0520 | 『 現代憲法読本』(法律文化社) | |
| 1967 | ||
| 0621 | 没 | |
止
川手健
| かわて・たけし | 19310213生 19600428没 |
広島市大手町生まれ。県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。東京都内で自殺。29歳。 |
資料
| 文献 | ||
| 19521101 | 川手健「七年後の廣島」(『新日本文学』) | |
| 19530625 | 『原爆に生きて 原爆被害者の手記』(原爆手記編纂委員会、三一書房) | |
| 19540215 | 『風のように炎のように-峠三吉追悼集』 | |
| 19550109 | 川手健「原爆被害者の青年クラブのこと」(『われらのうたの会』第3号) | |
| 19950806 | 『川手健を語る』(川手健を語る会編、ウイウド・岡本智恵子) | |
資料
川手健=「原爆被害者自身の口から全世界に向って原爆の惨禍と平和の必要を訴えるその意義は大きい。原爆の投下が世界史的な大事件であるなら、その被害者が立上がって原爆の反対を叫ぶこともまさに世界史的な出来事である。このことの重要性についてはまだまだ本当に考えている人は少ない様に思う。」
(「半年の足跡」、『原爆に生きて』、三一書房、1953年、所収)
佐々木禎子
| ささき・さだこ | 19430107生 19551025没 |
2歳の時、広島市三篠町で被爆。1955年1月9日、発病。同年2月21日、広島日赤病院に入院(広島市幟町小学校6年生)。4月幟町中学校に進学するが、登校不能。入院中折り鶴を製作。10月、亜急性リンパ性白血病で死去。享年12歳。 |
参考
| 広島平和をきずく児童・生徒の会 | |
| 原爆の子の像(折鶴の子の像) | |
| 広島折鶴の会 | |
| 資料 | |
| 広島市原対協被爆生存者(児童生徒)調査表(1956年1月10日現在)(1956年2月~3月実施) | 出典:『広島原爆医療史』601頁 |
| 文献(原爆の子の像関係) | |
| 千羽鶴 原爆の子の像の記録(豊田清史、昭森社) | 1958/08/06 |
| はばたけ千羽鶴(豊田清史、 筑摩書房) | 1982/07/30 |
| 悲しみの千羽鶴(田清史、創樹社) | 1991/07/10 |
| 折り鶴の子どもたち 原爆症とたたかった佐々木禎子と級友たち(那須正幹・作 高田三郎・絵 PHP研究所 ) | 1984/07/02 |
| 現代日本朝日人物事典(長岡弘芳執筆) |
9月に亡くなった人々
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | |
| 01 | 2002 | 林重男 | はやし・しげお | 84 | 写真家。文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に参加、広島と長崎を撮影。<資料年表:林重男> |
| 02 | 1994 | 門秀一 | かど・しゅういち | 79 | 核禁広島県民会議初代議長。広島大学名誉教授。西洋倫理哲学専攻。<資料年表:門秀一> |
| 02 | 1999 | 尾津訓三 | おづ・くんぞう | 65 | 劇作家。広島で被爆。「追記 だれよりも願った地域演劇の復興」(『中国新聞19991102』田原直樹・記)<資料年表:尾津訓三> |
| 02 | 2017 | 土山秀夫 | つちやま・ひでお | 92 | 元長崎大学長。2009年2月28日に面識。<16時半~、広島(代表:難波健治)・長崎(代表:峠憲治)の報道関係者の交流会。会場:長崎新聞社。19時~懇親会。>宇吹の質問および意見<平和教育、平和行政、市民運動、医学者の動向、IPPNW、パグウォッシュ会議>に丁寧な応答。 |
| 03 | 2018 | オマール、サイド | さいど・おまーる | 19 | マラヤ(現マレーシア)の王族。 南方特別留学生。興南寮(広島市大手町)で被爆。<資料年表:サイド・オマール>51.pdf (hiroshima-u.ac.jp) |
| 04 | 1965 | シュバイツァー、アルベルト・ | 90 | 1952年度のノーベル平和賞受賞。 | |
| 1962年6月30日、赤道直下のランバレネの病院で森瀧市郎氏の訪問を受ける。出典:http://www.ne.jp/asahi/nozaki/peace/data/gen_moritaki.html 森瀧宅で、当時のアルバムを前にこの時の話を聞く(宇吹) | |||||
| 04 | 2009 | 大山広司 | おおやま・ひろし | 91 | 元広島県議会議長、元全国都道府県議会議長会会長。『広島県議の半世紀 : 五人の知事に相まみえて : 大原博夫氏・永野巌雄氏・宮澤弘氏・竹下虎之助氏・藤田雄山氏』(大山広司・述、大平泰・記、溪水社、2005)1918生 |
| 05 | 1998 | 堀田善衛 | ほった・よしえ | 80 | 小説家。『広島県現代文学事典』(山根繁樹・記)<資料年表:堀田善衛> |
| 06 | 1998 | 黒沢明 | くろさわ・あきら | 88 | 映画監督。「生きものの記録」・「八月の狂詩曲」で核問題を取り上げる。 |
| 07 | 2020 | 岩佐幹三 | いわさ・みきそう | 91 | 修道中学在学中、被爆。1953年金沢大学教官となり同大名誉教授。1960年「石川県原爆被災者友の会」を設立。日本被団協事務局次長(2000年)・同会代表委員(2011年)<資料年表:岩佐幹三> |
| 08 | 1981 | 湯川秀樹 | ゆかわひでき | 74 | 1949年日本人として初のノーベル物理学賞受賞。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。「世界平和アピール七人委員会」メンバーとして平和運動にも尽力。[70ヒロシマ会議]<資料年表:湯川秀樹> |
| 10 | 2014 | 坂井義則 | さかい・よしのり | 69 | 1945年(昭和20年)8月6日広島原爆被爆直後に広島県三次市で誕生。父は被爆者。1964年東京オリンピックの開会式で聖火リレーの最終ランナー。 |
| 11 | 2019 | 粟屋憲太郎 | あわや・けんたろう | 75 | 日本近現代史研究者。著書に『東京裁判への道』など。1944年 6月11日生<資料年表:粟屋憲太郎> |
| 14 | 2010 | 大道あや | だいどう・あや | 101 | 絵本作家。本名:大道アヤコ。丸木スマ母、丸木位里は兄。19090411誕生。 |
| 15 | 1990 | 土門拳 | どもん・けん | 80 | 写真家。1958年に被爆者を写した写真集「ヒロシマ」を発表。『広島県現代文学事典』(20101220)<田中裕之・記><資料年表:土門拳> |
| 15 | 2010 | 秋信利彦 | あきのぶ・としひこ | 75 | 放送ジャーナリスト。中国放送(RCC)ディレクター・記者・常務取締役歴任。きのこ会。1935生。<資料年表:秋信利彦> |
| 18 | 2011 | 小野増平 | おの・ますへい | 64 | 中国新聞社入社(1970年4月)、ニューヨーク支局長(1990年8月)・東京支社長(2002年2月)・編集局長(2005年)、広島経済大学メディアビジネス学科教授 (2007年9月)を歴任。(広島大学文書館<解題:小野増平関係文書目録>) |
| 19 | 2002 | 好村冨士彦 | こうむら・ふじひこ | 71 | 広島文学資料保全の会代表。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)『考えるとは乗り越えることである―好村冨士彦遺稿・追悼集』2003<資料年表:好村冨士彦> |
| 20 | 1976 | 升川貴志栄 | ますかわ・きしえ | 78 | 原水爆禁止広島母の会会長。<資料年表:升川貴志栄> |
| 20 | 1981 | 竹下健児 | たけした・けんじ | 55 | 放射線物理学者。1945年学徒動員先の長崎で被爆。1965年広島大学原医研教授。 |
| 20 | 2009 | 大江志乃夫 | おおえ・しのぶ | 81 | 日本現代史家。 |
| 21 | 2011 | 辺見じゅん | へんみ・じゅん | 72 | 広島女学院創立120周年記念2006年度企業懇談会・講演会(会場:リーガロイヤルホテル)講演会:辺見じゅん「生きるための自分力」。並んで挨拶。宇吹:大和ブーム批判に取り組んでいることを伝えると自著『女たちの大和』(ハルキ文庫、2005年)を挙げて切り返えされる。 |
| 21 | 2017 | 森本順子 | もりもと・じゅんこ | 85 | オーストラリア在住の絵本作家。広島女学院高女在学中に被爆。 |
| 22 | 2010 | 橘祐典 | たちばな・ゆうてん | 77 | 本名:橘裕彦(ひろひこ)。映画監督。原爆記録映画「にんげんをかえせ」など。 |
| 23 | 1954 | 久保山愛吉 | くぼやま・あいきち | 40 | 第5福龍丸無線長。1954年3月1日にアメリカが南太平洋ビキニ環礁で実施した水爆実験で被曝。<資料年表:久保山愛吉> |
| 24 | 2015 | 福島菊次郎 | ふくしま・きくじろう | 94 | 写真家。<資料年表:福島菊次郎> |
| 27 | 1970 | 木野 普見雄 | きの・ふみお | 62 | 作曲家。1945年8月9日、長崎市役所に出勤中原爆に被爆。<資料年表:木野 普見雄> |
| 27 | 1983 | バーチェット、ウィルフレッド・ | 72 | ジャーナリスト。広島の被爆のもようを世界に最初に報道。<資料年表:バーチェット> | |
| 27 | 2019 | 布川弘 | ぬのかわ・ひろし | 61 | 広島大学大学院総合科学研究科教授。広島市被爆70年史編集研究会で同席。 |
| 28 | 1986 | 谷本清 | たにもと・きよし | 77 | 日本基督教団広島流川教会牧師。教会で面談。 |
| [50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆乙女の米での手術実現などに尽力。86アキバ・プロジェクト」で来日した米記者、被爆牧師死去の記事(60行余)を掲載。AP通信を通じて米の各メディアに配信。[69原爆被災資料広島研究会]。『広島県現代文学事典』<田中裕之・記>19090627生。<資料年表:谷本清> | |||||
| 28 | 1991 | 中本 たか子 | なかもと・ たかこ | 87 | 小説家。1927年上京、『女人芸術』誌に参加。1941年蔵原惟人と結婚。<資料年表:中本 たか子> |
| 28 | 1991 | 佐久間澄 | さくま・きよし | 80 | 広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆。お宅で面談、資料を閲覧。<資料年表:佐久間澄> |
| 28 | 2023 | 小河原正己 | おがはら・まさみ | 83 | 1940年山梨県生まれ。NHKプロデューサー。<資料年表:小河原正己> |
| 佐久間澄
|
さくま・きよし | 19910928生19910928没 | 享年80 |
| 広島大学名誉教授。広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆し、原水禁運動に貢献。広島大学。お宅で面談、資料を閲覧 | |||
資料
| 死亡記事 | 1991年9月29日付、中国・朝日・読売・長崎・赤旗 |
| 追悼文 | 庄野直美(広島女学院大学名誉教授)「佐久間澄氏を悼む 核兵器廃絶に尽力」(掲載新聞不明) |
佐久間澄さんをしのぶ会
| 日時 | 1992年12月26日 | |
| 会場 | 広島国際会議場・ダリア(広島平和公園内) | |
| 資料 | 会への案内(呼びかけ人:) | |
| 式次第 | ||
| 遺族礼状 | ||
| 宇吹宛佐久間書簡(8月26日付) | ||
| 報道 | 不明紙、赤旗 | |
森滝市郎
| もりたき・いちろう | 19010428生 19940125没 |
享年92歳 | [51広島大学平和問題研究会会長理事(文)]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。広島県君田村生まれ。京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。[70ヒロシマ会議]。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。 |
「庄野直美」論
| 庄野直美 | しょうの・なおみ | 1925年生
2012年2月18日没 |
Naomi SHONO |
庄野直美先生は、私のヒロシマ研究の先輩である。とりわけ、私が広島県史編さん室・広島大学に勤務した時期にはお世話になった。彼の足跡をたどりつつ、私にとっての「庄野直美」を振り返ってみた(文中で、名前を掲げる人々の敬称を省く非礼をお許しください)。
「人間銘木 藤居平一追想集」(同編集委員会編、藤居美枝子発行、1997年)(注1)に、庄野による藤居(日本原水爆被害者団体協議会初代事務局長)への追悼文が収録されている。これによると、彼が、藤居と知り合ったのは第1回原水爆禁止世界大会の大会運営事務局で、1956年初め以降は、藤居宅に泊まり込んで相談と激論を重ねた。さらに東京に発足した原水爆禁止日本協議会の会合にはしばしば一緒に出席したという。
私は、「原水爆被害白書 かくされた真実」(日本原水協専門委員会編、日本評論新社、1961年)を、学生時代から辞書的に利用していた。私には、「広島・長崎の原爆災害」(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編、岩波書店、1979年)が出版されるまでは、原爆被害を網羅的に概説した最も信頼できる本であった。この「あとがきに」によれば、佐久間澄・杉原芳夫とともに「原爆被害の実態」(第2章、第3章)の第一稿の執筆にあたっている(注2)。
「ヒロシマの証言 平和を考える」(広島平和文化図書刊行会編、日本評論社、1969年)は、広島市の平和推進事業の一環として設けられた編集委員会により発行された。本書の「刊行にあたって」に編集委員5人(注3)・執筆者7人(注4)の名前が記されている。これによれば、庄野だけが、編集者であり執筆者であった。一方、広島の平和教育が組織的・継続的に推進されるようになるのは1972年の広島平和教育研究所設置以降のことである。「平和教育研究 広島平和教育研究所・年報 Vol.1 1972」から、庄野が同研究所の国際交流部長に就任していることがわかる。庄野は、1967年の広島平和文化センターの設置から始まる広島市の平和行政や平和教育の初期から重要な役割を担っていたのである。
「原爆三十年―広島県の戦後史」(広島県編・刊、1967年)で、庄野は「原爆被災の概要」「原爆症」「被爆者の連帯」「平和研究」を執筆した。編集事務局員の私の仕事は、執筆要領に沿った彼の原稿調整を行うことであった。この作業の中で、私は、被爆二世の遺伝的影響の記述に疑問を感じてしまった。にわか勉強では、疑問が解けない。私はまず、県の関係課を訪ね見解を聞いた。その上で庄野を訪ね、原稿と県の見解が異なっていることを伝えた。すると庄野は、私に、遺伝的影響の研究概況と自らの見解を詳細に話してくれた。後日、私は、彼から県の見解に沿った修正原稿を受け取った。私が平和運動や行政から原稿の執筆を依頼された時や被爆二世問題に接するたびに思い出すできごとである。
被爆30年以降、広島・長崎両市(注5)と日本原水協が、国連を中心とした国際活動に乗り出した。両市は、1976年に「国連アピール資料編集専門委員会」(委員長・今堀誠二)を立ち上げる(注6)。『核兵器の廃絶と全面軍縮のために―国連事務総長への要請』(ヒロシマ・ナガサキ、1976年)がその成果である。このアピールの資料編「原爆被害の実態―広島・長崎」は、「物理的破壊」、「身体的破壊」、「社会的破壊」の三つの柱から構成されているが、庄野が前二者の原案を石田定(広島原爆病院内科武法)の協力で起草した。庄野は、同じ時期に日本原水協に事務局を置く団体(注7)が作成した「広島・長崎の原爆被害とその後遺-国連事務総長への報告」(1976年)にも作成のための専門家グループ(注8)の一人でもあった。なお、1977年には、こうした国内の動きに呼応するかのような海外の流れが、国内に流れ込み、この二つの流れのほか、多くの組織・団体を巻き込む大潮流となる。1977年の国連NGO被爆問題シンポジウム(注9)は、その事例である。「広島・長崎の原爆災害」(前掲)は、以上の成果を踏まえ、広島大学・長崎大学の研究者を中心にまとめられたものである。基礎原稿の執筆者が、「物理学関係」「医学生物学関係」「人文社会科学関係」の3分野で掲載されており、「物理学関係」に岡島俊三・岡林隆敏・竹下健児・橋詰雅とともに庄野の名前がある。発行(1979年)時、ある新聞は、原爆被害の集大成と報じた(注10)。
「原爆モニュメント碑文集」(原爆モニュメント研究グループ編・刊、1978年)では、庄野はスポンサーであった。私も一員であった研究会(広島県歴史教育者協議会のメンバーで構成)の横山英代表の指示で、庄野の勤務先の広島女学院大学に研究費を受け取りに行った(注11)。「核と平和―日本人の意識」(庄野直美・永井秀明・上野裕久編、法律文化社、1978年)は、1975年に発足した広島大学平和科学研究センターの研究プロジェクト「核意識構造の実態研究」による研究成果の一部である。このプロジェクトに参加した研究者は、全国13大学の27人であり、専攻分野は十数領域に及んでいる。私もその一員として、資料の収集と整理作業を中心となって進めていた永井秀明のお手伝いをした。この研究グループは、庄野を研究代表者として、1976年・77年に文部省科学研究費補助金の交付を受けている(注12)。
私が庄野の元で、あるいは共に働いたのは、この時期までである。庄野の足跡はこの後も続く。「ヒロシマ・ナガサキの証言 創刊号」(発行所:広島・長崎の証言の会、発行人:秋月辰一郎・庄野直美、1982年)や「広島の被爆建造物―被爆45周年調査報告書」(監修者:庄野直美、発行者:被爆建造物を考える会、発行所:朝日新聞広島支局、1990年)がその証である。また被爆40周年の1985年には「ヒロシマ・ナガサキ平和基金」を設立している。私は、彼からこれらへの参加を強く求められたが固辞した。理由は、依頼内容が事務局への関与であり、それは私の職場における立場では困難だったからである。
(うぶき・さとる=元広島女学院大教授、日本現代史・日本文化史)
(注1)私は、田中聰司(元中国新聞記者)とともにこの本の編集のお手伝いをした。
(注2)第一稿の執筆者:石井金一郎・伊東壮・大江志乃夫・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・杉原芳夫・田沼肇・山手茂・吉田嘉清。
(注3)広瀬ハマコ・今堀誠二・田淵実夫・森脇幸次・庄野直美。
(注4)森下弘・永田守男・文沢隆一・大牟田稔・平岡敬・石田明・庄野直美。庄野が執筆総括者を務めている。
(注5)今から見れば不思議に思えるが、被爆地の広島・長崎両市が連携して被爆問題に取り組み始めるのは、1975年(被爆30年)の平和文化都市連携の調印以降のことである。
(注6)専門委員会の広島側委員は、原田東岷(副委員長)・石田定・岡本直正・庄野・湯崎稔の5人、長崎側委員は秋月辰一郎(副委員長)など5人であった。
(注7)名称は「核兵器全面禁止国際協定締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団派遣中央実行委員会」
(注8)伊東壮・川崎昭一郎・草野信男・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・峠一夫。なお、広島・長崎両市に関わった専門家と比べて注目されるのは、庄野のみが、両者に名を連ねていることである。
(注9)庄野とNGOにまつわるエピソードを一つ。私が、NGO(Non-Governmental Organization=非政府組織)という言葉を初めて知るきっかけは県の関係者からの問い合わせである。私の勤務先の広島大学原爆放射能医学研究所でも話題になっていた。シンポジウムの主催者は、県知事や研究所長にあいさつと後援の依頼していた。広島で最も詳しかったのは庄野だったように覚えている。私は、庄野情報によりその内容をぼんやりと理解した。参加した人々が十分理解していたとは思えないが、シンポジウムは、当時存在していた原爆被害に関わる多く動きを糾合した。そして、この成功は、その後の被爆問題をめぐる雰囲気を大きく変化させた。私は、特定の組織に属さずに多くの仕事を成し遂げた庄野直美を「NOM人」(Non- Organization Movement=非組織運動の人)と呼ぶのがふさわしいと考えている。
(注10)この評価には、事務局の下働き的立場にいた私は違和感を抱いた。この本の広島部分の記述には、1977年には、「原爆と広島大学―『生死の火』学術篇」(広島大学原爆死没者慰霊行事委員会、1977年)の成果に依拠するところが多い。この本には庄野は関わっていない。
(注11)額は、10万円?20万円?30万円?いずれにしても、印刷費に満たないものであった。会では、会員の調査のための交通費や謄写版刷りの会報の費用にすることを申し合わせたように思う。
(注12)私は、うかつにも「原爆モニュメント碑文集」と「核と平和」は、まったく別の動きと思い込んでいた。しかし、今では、前者に関連して私が庄野から受け取った金は、この科研費の一部だったと推測している。
2月に亡くなった人々
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 01 | 1973 | 長岡省吾 | ながおか・しょうご | 71 | 広島大学理学部[学研調査]。被爆時、広島文理科大学嘱託として山口県に地質調査で出張中。翌日入市。被爆資料収集に努めた(初代広島原爆資料館長)。<別記> |
| 01 | 1997 | 河合幸尾 | かわい・ゆきお | 広島女子大学元教授。原爆被害者相談員の会代表。宇吹所蔵資料=「故・河合幸尾先生をしのぶ会」(19970405広島県民文化センター)<資料> | |
| 01 | 2003 | ネルソン、リチャード | ねるそん | 77 | 広島原爆投下機エノラ・ゲイの無線士(出典:『中国新聞』20030208) |
| 01 | 2008 | 小野文子 | おの・ふみこ | 広島大学原爆死没者慰霊行事委員会の委員。<別記> | |
| 02 | 1970 | バートランド・ラッセル | 97 | 「ラッセル法廷」<別記> | |
| 02 | 2013 | 山岡ミチコ | やまおか・みちこ | 82 | 被爆証言者。<別記> |
| 04 | 1980 | 佐々木雄一郎 | ささき・ゆういちろう | 63 | 被爆記録写真を撮り続けた広島の写真家。[69原爆被災資料広島研究会]。<別記> |
| 04 | 1993 | 柿手春三 | かきて・しゅんぞう | 84 | 画家。「広島平和美術展」創立。代表幹事。<別記> |
| 05 | 1991 | ペドロ、アルぺ | ぺどろ | 被爆当時、長束修道院院長。出典:『中国新聞』20110428(増田咲子記者) | |
| 06 | 1989 | 甲斐英男 | かい・ひでお | 61 | 広島県史編さん室の上司。<資料年表:甲斐英男> |
| 06 | 2012 | 重松逸造 | しげまつ・いつぞう | 94 | 放射線影響研究所元理事長。<別記> |
| 06 | 2024 | 小沢征爾 | おざわ・せいじ | 88 | 指揮者。「ヒロシマ 指揮棒に思い 犠牲者へ心寄せ」(『中国新聞』20240210<西村文・記>) |
| 07 | 1971 | 尾形静子 | おがた・しずこ | 44 | 広島市広瀬国民学校で勤務中被爆。<別記> |
| 07 | 1987 | 小西ノブ子 | こにし・のぶこ | 80 | 反戦被爆者の会会長。『炎の巡礼者 ヒロシマの母 小西のぶ子遺稿集』(小西のぶ子遺稿集編集委員会、社会評論社、19880806) |
| 07 | 2016 | 若木重敏 | わかき・しげとし | 100 | 著書:『広島反転爆撃の証明』(文芸春秋、1989.7)、『原爆機反転す: ヒロシマは実験室だった (光文社文庫 わ 8-1) 』 |
| 08 | 1961 | 雑賀忠義 | さいか・ただよし | 67
|
広島高等学校教授の時被爆。英文学者。1957年広島大学を定年退官。広島平和公園にある原爆慰霊碑の碑文の作者。<別記> |
| 08 | 1980 | 平野義太郎 | ひらの・よしたろう | 82 | 日本平和委員会名誉会長。原水爆禁止日本協議会の結成に参加。[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]<別記> |
| 08 | 1997 | 小谷鶴次 | こたに・つるじ | 84
|
広島大学名誉教授。政経学部教授時代に世界連邦建設運動にかかわる。<別記> |
| 08 | 2015 | 栄久庵憲司 | えくあん・けんじ | 85 | 工業デザイナー。2005年5月18日広島女学院大学春季講演会で講演「道具と人の世界」。人文館303。超満員。3年宇吹ゼミの学生もかなり参加。<別記> |
| 09 | 1982 | 加藤新一 | かとう・しんいち | 81
|
広島市在住の被爆者。[52広島平和問題談話会](日本国際連合協会広島支部局長)。第1回国連軍縮特別総会に参加。<別記> |
| 09 | 1985 | 真下信一 | ました・しんいち | 78 | 哲学者[1982推進連絡会議呼びかけ人]<別記> |
| 09 | 1995 | フルブライト、ウィリアム・ | ふるぶらいと | 89 | 元米上院議員。広島・長崎への原爆投下に衝撃を受け、日本が復興し、国際社会に復帰するためには人材の育成が不可欠との信念から1946年に「フルブライト交流計画」を創設。<別記予定> |
| 09 | 1996 | 小笠原基生 | おがさわら・もとお | 69
|
記録映画監督。「ヒロシマ・原爆の記録」、「ヒロシマ・母たちの祈り」などを監督。<別記> |
| 10 | 2010 | 森一久 | もり・かずひさ | 84 | 元日本原子力産業会議副会長、肺炎で3日死去、84歳。1926年広島生まれ。京都大学在学中に広島で家族とともに被爆。<別記> |
| 10 | 2012 | 宇根利枝 | うね・としえ | 93 | 「宇根利枝さんが死去 慰霊碑に献水 半世紀以上 93歳」(『中国新聞』20120212、田中美千子記)<別記> |
| 10 | 2018 | 松原美代子 | まつばら・みよこ | 85 | 12歳の時、建物疎開の作業中に爆心地から約1.5キロで被爆。<別記> |
| 10 | 2018 | 荒角理宰 | あらかど・りさい | 99 | 山陽ジャスコ株式会社元会長。体験記(私家版)あり(『中国新聞』1995年8月2日)。『被爆50周年を迎えて-私の原爆体験談 』(1995年08月01 日刊)<別記>別記 |
| 11 | 1985 | 村上忠敬 | むらかみ・ただよし | 77 | 広島大学高師教授。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。広島大学名誉教授。1970年4月~74年3月、広島女学院大学長。1968年~83年、核禁広島県民会議議長。在韓被爆者のための医師団派遣などに尽力。[70ヒロシマ会議]<別記> |
| 11 | 1990 | レイノルズ、バーバラ | れいのるず、ばーばら | 74
|
米の平和運動家。1951年に来広し、18年間広島市に滞在、1962年に広島・長崎平和巡礼団を組織するなど平和運動に貢献。<別記> |
| 11 | 1992 | 殿敷侃 | とのしき・ただし | 50
|
造形作家。3歳の時、広島で両親が被爆死。2日後に疎開先にから広島市に帰る。広島大学中退、1978年久保貞次郎の勧めで版画を始める。両親の遺品等を題材とした絵画、版画など、原爆の問題をとりあげた作品を制作。殿敷侃 :: 東文研アーカイブデータベース (tobunken.go.jp)。 |
| 12 | 2018 | 松尾雅彦 | まつお・まさひこ | 76 | 【訃報】相談役 松尾雅彦 逝去のお知らせ 逝去のお知らせ20180213.pdf (calbee.co.jp)『生きて・カルビー元社長、松尾雅彦さん(1941年~)』(『中国新聞』20100406~0428、15回連載)、山本洋子「評伝・松尾雅彦カルビー元社長」(『中国新聞』20180214) |
| 13 | 1970 | 近藤寿治 | こんどう・ひさじ | 被爆時、広島文理科大学学長(兼高師校長)として出張中。後日入市[広島大学] | |
| 13 | 2008 | 市川崑 | いちかわ ・こン | 92 | 映画監督。広島にいた母を含む家族8人全員が原爆被爆。『東京オリンピック』(1965年、東京オリンピック映画協会) 総監督。 |
| 14 | 1992 | 有末精三 | ありすえ・せいぞう | 96 | 元陸軍中将。終戦時参謀本部第2部長。大本営調査団の団長として広島入り。「原子爆弾広島へ落ちる」『終戦秘史・有末機関長の手記』(有末精三、芙蓉書房、71960815)pp26-38。 |
| 15 | 2001 | 小沼十寸穂 | こぬま | 94 | 広島大学名誉教授。広島の被爆者の精神的苦痛による後障害を実態調査。 |
| 16 | 1977 | 末川博 | すえかわ・ ひろし | 84 | 立命館大学学長・総長。1892年11月20日生。 |
| 16 | 1994 | 小佐々八郎 | こささ・はちろう | 88 | 日本被団協顧問。長崎原爆被災者協議会会長などを歴任。藤居平一氏の紹介で自宅を訪問。 |
| 16 | 2007 | 宮崎安男 | みやざき・やすお | 78 | 原水爆禁止日本国民会議の副議長。全電通中国地方本部委員長、1974年から広島県原水禁事務局長、代表委員経て、96年から04年まで原水禁国民会議副議長、の後も広島県原水禁顧問。広島平和会館・原爆被害者相談所の相談員。<別記> |
| 16 | 2021 | バーナード・ラウン | 99 | ハーバード大学公衆衛生所付属の心臓病研究所長。1980年創設の「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」共同会長。田城明「バーナード・ラウン氏を悼む 命を守る延長に反核運動」(『中国新聞』20210316) | |
| 17 | 2011 | 黒川万千代 | くろかわ・まちよ | 81 | 旧姓富永。広島女専1年生のとき校内で被爆。日本被団協事務局次長など歴任。<別記> |
| 18 | 1987 | 壬生照順 | みぶしょうじゅん | 79 | 宗教NGO[82推進連絡会議呼びかけ人]天台宗華厳院住職。全日本仏教会評議員、仏教徒平和の会幹事長、日本宗教者平和協議会理事長。<別記> |
| 18 | 2011 | 尾糠政美 | おぬか・まさみ | 18 | 陸軍船舶練習部写真班員(23歳)のとき被爆。<広島原爆被災撮影者の会> |
| 18 | 2012 | 庄野直美 | しょうの・なおみ | 86 | 九州帝国大学理学部1年のとき入市被爆。宇吹追悼文あり。<別記> |
| 19 | 2017 | 林京子 | はやし ・きょうこ | 86 | 作家。長崎県立長崎高等女学校3年の時、学徒動員中の三菱兵器工場で被爆。短編『祭りの場』(『群像』1975.6)で第18回群像新人文学賞、および第73回芥川賞。『広島県現代文学辞典』(岩崎清一郎・記)<別記> |
| 20 | 1979 | 金子弥吉 | かねこ・やきち | 78 | 山口県被団協初代会長。芸備銀行横の路上(爆心から500㍍内)で被爆。 |
| 20 | 1985 | 中野好夫 | なかの・よしお | 81 | 英文学者。原水禁運動などに尽力。[82推進連絡会議呼びかけ人]。学生時代の友人の父。 |
| 20 | 2001 | 今堀宏三 | いまほり・こうぞう | 広島文理科大学卒業後、1946年金沢高師教授、1949年金沢大学理学部助教授を経て、1960年に大阪大学教授に就任。その後、福井県立短期大学(現福井県立大学看護短期大学部)学長、鳴門教育大学学長、広島女子大学(現県立広島大学)学長、日本生物教育学会会長を歴任。 | |
| 20 | 2018 | 金子兜太 | かねこ・ とうた | 98 | 俳人。『たっぷり生きる』(金子 兜太 / 日野原 重明、毎日学芸出版 、2010) |
| 21 | 1961 | 下中弥三郎 | しもなか・やさぶろう | 82 | 世界連邦会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記> |
| 21 | 2021 | 関千枝子 | せき・ちえこ | 88 | 旧姓富永。ノンフィクション作家。著書に「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」。<資料年表:関千枝子> |
| 22 | 1968 | 名越史樹 | なごや・ふみき | 7 | 白血病で死亡。<別記> |
| 22 | 1998 | 荘司雅子 | しょうじ・まさこ | 88 | 台湾出身。奈良女子高等師範学校卒業後、1935年広島大学教育学科に入学。長田新の勧めなどでフレーベル研究。「資料年表:荘司雅子」 |
| 22 | 2019 | 加納実紀代 | かのう・ | 78 | 出典:高雄きくえ「加納実紀代さんを悼む 銃後の加害と被害問う」(『中国新聞』20190226)<別記> |
| 24 | 2011 | 藤平典 | とうへい・のり | 82 | 広島高等師範学校生(16歳)の時、学徒動員先の東洋工業で被爆。東京都原爆被害者団体協議会会長、日本原水爆被害者団体協議会代表委員など。 |
| 24 | 2021 | 児玉健次 | こだま・けんじ | 87 | 広島大学文学部在学中の1956年8月に開催された8・6学生平和会議(1956年8月5~7日)の実行委員長<別記> |
| 26 | 1955 | 今堀恭子 | いまほり・きょうこ | 43 | 被爆当時広島市女教諭。広島文理科大学の第1回女子卒業生。<別記> |
| 26 | 1968 | 浜井信三 | はまい・しんぞう | 62 | 初代公選広島市長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起)]。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記> |
| 26 | 2002 | 鎌田定夫 | かまた・さだお | 72 | 長崎総合科学大学教授、長崎平和研究所長。<別記予定> |
| 26 | 2003 | 藤原彰 | ふじわら・あきら | 80 | 歴史学者。宇吹は1980年5月1日から81年2月28日まで文部省内地研究員として一橋大学藤原彰研究室に在籍。<資料年表:藤原彰> |
| 26 | 2019 | 見崎進 | みさき・すすむ | 92 | 第五福竜丸元乗組員。 |
| 26 | 2019 | 松尾文夫 | まつお・ふみお | 85 | 元共同通信ワシントン支局長。著書「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」などで「相互献花外交」を訴え続けたことが評価され、2017年度日本記者クラブ賞受賞。 |
| 27 | 1987 | 亀井文夫 | かめい・ふみお | 78 | 映画監督。被爆者を描いた「生きていてよかった」(1956年)などを制作。<別記> |
| 27 | 2003 | 小田 丕昭 | おだ・ひしょう | 92 | 洋画家。出典:寺本泰輔「原爆抽象画秘めた鋭さ 小田 丕昭氏を悼む」『中国新聞』20030227 |
| 28 | 1986 | パルメ、オロフ | ぱるめ・おるふ | 59 | スウェーデン首相。暗殺。1981年に、「軍縮と安全保障に関する独立委員会」委員長として、来広し、原爆資料館などを見学。<別記> |
| 28 | 2001 | 武田寛 | たけだ・ひろし | 1935年福山市出身。広島大学工学部卒業後、民間企業勤務。1970年日本共産党広島県委員会勤務。1984年~97年、原水爆禁止広島県協議会事務局長。日本原水協担当常任理事。<『爆央と爆心 1945年8月6日ヒロシマで何が起きたのか』> | |
| 28 | 2015 | 松谷みよ子 | まつたに・みよこ | 89 | 児童文学作家。 |
6月忌(一覧)
| 日 | 没年 | 氏名 | よみ | 享年 | |
| 01 | 1997 | サーバー、ロバート・ | Robert Serber | 88 | マンハッタン計画に参加した米科学者。ファーレル・モリソンらとともに被爆地調査。 |
| 01 | 2004 | 嘉屋文子 | かや・ふみこ | 90 | ハワイ島生まれ。5歳の時、一家で帰国。広島市南観音町の自宅前で被爆。県内政部衛生課勤務。<投稿> |
| 01 | 2006 | 小島丈児 | こじま・じょうじ | 89 | 広島大名誉教授。<投稿>岩石学。『小島丈兒先生追悼文集』(2007/06/01) |
| 03 | 1975 | 佐藤栄作 | さとう・えいさく | 74 | 広島平和記念式典に初めて参列した内閣総理大臣。ノーベル平和賞受賞者。<投稿> |
| 05 | 1989 | 加藤陽三 | かとう・ようぞう | 内務・防衛官僚、政治家。防衛事務次官、衆議院議員(2期)。海田町名誉町民。<投稿> | |
| 05 | 2003 | 松元寛 | まつもと・ひろし | 78 | 英文学者。 広島大学名誉教授。<投稿><『ヒロシマという思想―「死なないために」ではなく「生きるために」』> |
| 05 | 2008 | 松井康浩 | まつい・ひろやす | 85 | 弁護士。日本原水協代表理事。『原爆裁判 核兵器廃絶と被爆者援護の法理』 |
| 07 | 1966 | 安倍能成 | あべ ・よししげ | 82 | 雑誌「心」(発行所:生成会、)の編集・発行人。宇吹所蔵:第17巻5月号。 |
| 07 | 1984 | 大内五良 | おおうち・ごろう | 74 | 広島市医師会長(1957~59年)。広島県医師会長(1967~82年)。原爆乙女の渡米治療、在米被爆者検診などに貢献。<投稿> |
| 07 | 2001 | 河本一郎 | かわもと・いちろう | 72 | 「原爆被害者の会」設立、「広島折鶴の会」結成に奔走。谷本清平和賞(第13回=2001年没後)受賞。<投稿> |
| 07 | 2018 | 日高六郎 | ひだか・ろくろう | 101 | 社会学者。 |
| 08 | 2018 | 谷川和穂 | たにかわ・かずほ | 87 | 自民党衆議院議員。防衛庁長官、法務大臣など歴任。<投稿> |
| 08 | 2003 | 山田かん | やまだ・かん | 72 | 長崎県県立図書館勤務。利用中に面識。 |
| 10 | 1982 | 小山祐士 | こやま・ゆうし | 78 | 劇作家。原爆をテーマにした劇「泰山木の木の下で」などの作者。『広島県現代文学事典』(秋枝美保・記)<投稿> |
| 10 | 1989 | 沢近宏 | さわちか・ひろし | 71 | 広島原対協副会長。同副会長は、宇品船舶司令部で、軍医として勤務中被爆。戦後、被爆者治療活動に尽力。<投稿> |
| 10 | 1996 | 小倉豊文 | おぐらとよふみ | 96 | 広島大学名誉教授。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)<投稿> |
| 11 | 1984 | 湯崎稔 | ゆざき・みのる | 53 | [69原爆被災資料広島研究会]。広島大学総合科学部教授。広大原医研で、爆心五百メートル以内の復元調査に従事。職場の上司。『世紀を超えて 爆心地復元運動とヒロシマの思想』<投稿> |
| 12 | 1978 | 郭沫若 | かくまつじゃく | 85 | 1955年12月来広し。原爆慰霊碑参拝(藤居平一との会話)。広島大学で「平和共存」のテーマで講演。<投稿> |
| 12 | 2004 | 下崎末満 | しもざき・すえみつ | 57 | 「インタビュー・この人に聞く ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト世話人代表」(『読売新聞』19990830) |
| 12 | 2011 | 大村英幸 | おおむら・ひでゆき | 88 | 広島青年文化連盟初代委員長。<投稿> |
| 12 | 2017 | 据石和江 | すえいし・かずえ | 90 | 米国広島・長崎原爆被爆者協会会長。https://www.rafu.com/2017/06/据石和江さん死去%ef%bc%9a米国広島・長崎原爆被爆者協/ |
| 14 | 1986 | 名越操 | なごや・みさお | 『ヒロシマ母の記』(汐文社、19850616)。広島市在住の被爆者、死去。白血病で死亡した息子への思いをつづった「ぼく生きたかった」の著者。<投稿> | |
| 14 | 1989 | 黒田秀俊 | くろだひでとし | 84 | 元原水協事務局長。1955年当時、原水協結成に尽力。<投稿> |
| 14 | 2019 | 山崎寛治 | やまさき・かんじ | 91 | 県立広島二中(現・観音高校)の代用教員だった17歳の時同校で被爆。旧天神町北組の慰霊碑の世話役。<投稿> |
| 14 | 2008 | 河瀬正利 | かわせ・まさとし | 67 | 広島大学名誉教授、広島県文化財保護審議会委員。被爆建物保存運動に尽力<投稿> |
| 15 | 1965 | 正田篠枝 | しょうだしのえ | 54 | 歌人。『広島県現代文学事典』『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)<投稿> |
| 15 | 1994 | 荒木武 | あらき・たけし | 78 | 広島市長。27代(19750223~19790223)28代(19790223~19830222)29代(19830223~19870222)30代(19870223~19880222)。『荒木武』 |
| 16 | 1961 | ジュノー、マルセル | じゅのーMarcel Junod | 57 | スイス国籍の外科医。赤十字国際委員会駐日代表として来日。1945年9月8日、GHQの医薬品ともに広島入り。<投稿> |
| 16 | 1974 | 金井利博 | かない・としひろ | 60 | [52広島平和問題談話会](中国新聞社学芸部記者)。中国新聞社取締役論説担当。原爆被災白書運動を提唱。<資料年表:金井利博> |
| 16 | 1998 | 江口保 | えぐちたもつ | 69 | 「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」を主宰した長崎の被爆者。平和教育。<資料年表:江口保> |
| 16 | 2021 | 森脇勝義 | もりわき・かつよし | 86 | 1987年~非核の政府を求める広島の会常任世話人。<資料年表:森脇勝義> |
| 17 | 1992 | ビーザー、ジェイコブ | Jacob Beser | 71 | 広島・長崎両市への原爆投下機の唯一の搭乗員。Lt. Jacob Beser, radar countermeasure officer |
| 18 | 1983 | ルイス、ロバート・アルビン | るいすRobert A. Lewis | 65 | 広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」号の副操縦士。Capt. Robert A. Lewis, co-pilot |
| 18 | 2018 | 加藤剛 | かとう・たけし | 80 | 俳優。映画『ヒロシマ一九六六』に出演。<資料年表:加藤剛> |
| 19 | 2017 | 岡ヨシエ | おか・よしえ | 86 | 原爆投下第一報。『炎のなかに 原爆で逝った級友の25回忌によせて』(旧比治山高女第5期生の会、1969/08/06)<資料年表:岡ヨシエ> |
| 20 | 2002 | 吉川豊 | きっかわ・ゆたか | 86 | 吉川豊似島学園理事長「創立五十周年記念誌に寄せて」(『似島学園 50年のあゆみ』) |
| 20 | 2017 | シャル、ウィリアム | しゃる、うぃりあむ | 95 | 1949年ABCCに赴任、遺伝調査を実施。放射線影響研究所副理事長、米テキサス大学教授。〈資料年表:ウィリアム・シャール〉 |
| 21 | 1967 | 石井金一郎 | いしい・きんいちろう | 45 | [52広島平和問題談話会](広島女子短期大学助教授)。[54世界平和集会世話人(発起)]。元広島大学教授。日本原水協専門委員。〈資料年表:石井金一郎〉 |
| 21 | 1987 | 河村虎太郎 | かわむら・とらたろう | 73 | 医師。核禁会議広島県民会議議長。在韓被爆者渡日治療広島委員会代表。<投稿> |
| 22 | 1993 | 市岡正憲 | いちおか・まさのり | 74 | 広島県被団協理事長・県原水協理事長。<資料年表:市岡正憲> |
| 23 | 2002 | 亀井正夫 | かめいまさお | 86 | 元国鉄再建監理委員会委員長。広島被爆者。<投稿> |
| 24 | 2008 | 大倉記代 | おおくらきよ | 67 | 「サダコ」・虹基金を設立。 |
| 24 | 2019 | 松本善明 | まつもと・ぜんめい | 93 | 日本共産党衆議院議員。1950年いわさきちひろ(画家)と結婚。藤原彰(宇吹の一橋大学内地研修時代の指導教官)の友人。 |
| 25 | 1999 | 原田東岷 | はらだとうみん | 87 | 外科医。「原爆乙女」の渡米治療に尽力。ワールド・フレンドシップ・センター初代理事長。広島市名誉市民。<投稿><資料年表:原田東岷> |
| 26 | 1965 | 佐伯好郎 | さえき・よしろう | 93 | 中国キリスト教・法制史学者。広島県生まれ。1947年から9年間廿日市町長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。 |
| 26 | 1989 | 美空ひばり | みそら・ひばり | 歌手。第1回広島平和音楽祭に出演。1988年の15周年の同音楽祭にも参加し、原爆をテーマにした「一本の鉛筆」を歌唱。 | |
| 26 | 2006 | 井出三千男 | いで・みちお | 65 | 広島市安佐北区出身。変貌する都市広島をフィルムに残した写真家。 <資料年表:井出三千男> |
| 27 | 1978 | 熊平源蔵 | くまひら・げんぞう | 97 | 金庫メーカーのクマヒラ創業者。『熊平源蔵伝 人とその』、『熊平源蔵追想録』、 |
| 28 | 2007 | 宮沢喜一 | みやざわ・きいち | 内閣総理大臣(第78代)『戦後政治の証言』(読売新聞社、1991.8.30)。広島県名誉県民。<資料年表:宮澤喜一> | |
| 28 | 2008 | 佐々木久子 | ささき・ひさこ | 81 | 随筆家・評論家。『わたしの放浪記』。『広島県現代文学事典』(天瀬裕康・記)<投稿> |
| 28 | 2021 | 山田拓民 | やまだ・ひろたみ | 90 | 長崎原被災者協議会(被災協)の元事務局長。旧制長崎県立長崎中学校2年の時、長崎市鳴滝町の同校(爆心地から約3・3キロ)で被爆。 |
| 29 | 1979 | 桧山袖四郎 | ひやま・そでしろう | 80 | 『檜山袖四郎―広島県政に賭けた生と死』(刊行委員会、1981.6.20)<資料年表:桧山袖四郎> |
| 29 | 2020 | 荻野晃也 | おぎの・こうや | 80 | 元京都大講師、原子核工学、電磁波環境研究所主宰。京都大学美術研究会の先輩。 |
| 33 | 2020 | 高山等 | たかやま・ひとし | 89 | 『高山等資料』(広島県立文書館) https://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000746monjogun_183 昭和20年8月6日から12月20日までに傷痍軍人広島療養所(現国立療養所広島病院)に入院した被爆者218名のカルテ。(平成14年6月記) 高山等氏が出版した『ヒロシマの追憶』『ヒロシマの追憶と今日』に掲載した手記や,平和のために被爆地の果たす役割について国内外から寄せられたメッセージの原文など。(平成15年12月記) |
10月に亡くなった人々
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 01 | 2012 | 河合護郎 | かわい・ごろう | 84 | 広島平和文化センター元理事長。原爆投下の4日後の1945年8月10日、親族を捜すため爆心地付近に入り被爆。1950年に広島市職員。企画調整局長、民生局長などを歴任。1987年から5年間、広島平和文化センター理事長。退任後は市民団体「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」の共同代表に就任。資料年表:河合護郎 |
| 02 | 2014 | 坂本義和 | さかもと・よしかず | 87 | 国際政治学者。 |
| 02 | 2015 | 犬丸義一 | いぬまる・ぎいち | 87 | 歴史研究者。1967年の歴史科学協議会の結成に参加、全国委員を務める。元長崎総合科学大学教授。資料年表:犬丸義一 |
| 02 | 2017 | 中村敏 | なかむら・さとし | 73 | 中国新聞記者、日本ジャーナリスト会議(JCJ)広島支部幹事、広島マスコミ9条の会運営委員など歴任。『中村敏遺稿集』。「中村敏さんを偲ぶ会」(20171118、会場:広島市文化交流会館) |
| 02 | 2018 | 西川潤 | にしかわ ・じゅん | 82 | 1936年 9月22日 生。平和研究の草分け。学生時代から早大代表として原水爆禁止運動に参加。(大平隆彦「西川潤さんを悼む」『中国新聞』20181214) |
| 03 | 2017 | 佐伯敏子 | さえき・としこ | 97 | 「被爆者の魂守り続け 97歳 佐伯敏子さん死去」(宮崎園子『朝日新聞20171005』)、「原爆供養塔通い40年 佐伯敏子さんを偲ぶ会」(宮崎園子『朝日新聞20171204』) |
| 05 | 1972 | 細田民樹 | ほそだ・たみき | 作家。1982年生。『広島県大百科事典』(坂根俊英・記)『広島県現代文学事典』(石田浩子・記)。 | |
| 05 | 2001 | 瀬長亀次郎 | せなが・かめじろう | 94 | 沖縄人民党委員長。衆議院議員として人民党で1期、日本共産党として連続5期。1973年以降共産党幹部会副委員長。資料年表:瀬長亀次郎 |
| 07 | 2001 | 大牟田稔 | おおむた・みのる | 71 | 元中国新聞論説主幹、1992年、広島平和文化センター理事長。『広島県現代文学事典』(小宮山道夫・記)。資料年表:大牟田稔 |
| 08 | 1982 | ノエルベーカー、フィリップ・J・ | 92 | 英の平和運動家。1962年、初めて広島を訪問、ヒロシマ会議(1970年)、77年、81年にも来訪。[70ヒロシマ会議] | |
| 08 | 2000 | 高木仁三郎 | たかぎ・じんざぶろう | 62 | 市民団体「原子力資料情報室」代表。 |
| 09 | 1992 | 今堀誠二 | いまほり・せいじ | 77 | 広島大学名誉教授。前広島女子大学長。資料年表:今堀誠二 |
| 09 | 1994 | 飯沢匡 | いいざわ・ただす | 85 | 『アサヒグラフ 8月6日号 原爆被害の初公開』発行時の同誌編集長。 |
| 10 | 1983 | 松尾敦之 | まつお あつゆき | 79 | 俳人。長崎被爆者。資料年表:松尾敦之 |
| 10 | 2009 | 新江義雄 | しんえ・よしお | 62 | 筆名:山ノ木竹志。広島合唱団。2009/1/24 山ノ木竹志とその仲間たちコンサート (県民文化センター)2010/1/31 山ノ木竹志をうたうコンサート (厚生年金会館)。資料年表:新江義雄 |
| 11 | 2003 | 田坂正利 | たさか・まさとし | 76 | 福島病院院長。1927年呉市生まれ。 <田坂正利> |
| 11 | 2017 | 荒井信一 | あらい・しんいち | 91 | 歴史学者。「日本の戦争責任資料センター」共同代表、「戦争と空爆問題研究会」・「韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議」などの代表を務める。『朝日新聞』2017.11.5 資料年表:荒井信一 |
| 12 | 2006 | 田端展 | たばた・てん | 79 | 小説家。本名:小久保三好。広島工業専門学校1年生の時、勤労動員先の中国配電大洲製作所(爆心地から3・6キロ)で被爆。享年79歳。『広島県現代文学事典』(寺島洋一・記) |
| 13 | 2002 | 関屋綾子 | せきや・あやこ | 87 | 東京YWCA、日本YWCA会長、世界平和アピール七人委員会委員、原爆の図丸木美術館館長。関屋綾子 |
| 14 | 1953 | 徳田 球一 | とくだ ・きゅういち | 59 | 日本共産党(戦後)書記長(初代)。『原子爆弾と世界恐慌 時局と生活叢書1集』(19491225)徳田 球一 |
| 15 | 1980 | 栗原唯一 | 73 | 『栗原唯一追悼 平和憲法の光をかかげて』(栗原貞子、詩集刊行の会、1980.1.15)。元社会党県議. | |
| 15 | 1990 | 土門拳 | どもん・けん | 80 | 写真家。1958年に被爆者を写した写真集「ヒロシマ」を発表。『広島県現代文学事典』(田中裕之・記)。 |
| 15 | 1993 | 香川亀人 | かがわ・かめと | 97 | 広島県呉市。方面委員、民生委員。 |
| 15 | 2010 | 松尾雅嗣 | まつお・まさつぐ | 65 | 元広島大平和科学研究センター長。資料年表:松尾雅嗣 |
| 16 | 1990 | 原田一三 | はらだ・いちぞう | 86 | 広島県能美島出身。日中友好協会呉支部長。宇吹が小学生から中学生にかけ切手収集の趣味を持ったのは先生のおかげ。 <原田一三> |
| 16 | 1990 | 三宅泰雄 | みやけやすお | 82 | 元東京教育大学教授。「第五福竜丸事件」の調査にあたり、原水禁運動に貢献。 |
| 18 | 1979 | 坂田修一 | さかたしゅういち | 71 | [1954世界平和集会世話人(常任)](広島市助役)。広島市助役(1951年6月~55年4月)。広島平和文化センター理事長(初代、1967年~73年8月。 |
| 18 | 1982 | 重藤文夫 | しげとう・ふみお | 79 | 広島原爆病院の初代院長(被爆者)。[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。原爆病院長室で面談、資料を閲覧。<資料年表:重藤文夫> |
| 19 | 1995 | 丸木位里 | まるき・いり | 94 | 日本画家。「原爆の図」。『広島県現代文学事典』(西原大輔・記)資料年表:丸木位里 |
| 22 | 1922 | 青木圭介 | あおき・けいすけ | 77 | 1973広島女子大学文学部社会福祉学科、2001年4月京都橘女子大学文化政策学部。2010年4月1日学長(第10代)。 |
| 23 | 23 | 久保田卓三 | くぼた・たくそう | 県立三次中学校在学中、海軍第一空廠に勤労動員、1945年8月6日被爆。公認会計士。 | |
| 24 | 2021 | 坪井直 | つぼい ・すなお | 96 | 日本原水爆被害者団体協議会代表委員。広島県原爆被害者団体協議会理事長。広島市名誉市民。資料年表:坪井直 |
| 25 | 1955 | 佐々木禎子 | ささき・さだこ | 12 | 広島市の中学生、白血病で死去。佐々木禎子 | ヒロシマ遺文 (hiroshima-ibun.com) |
| 25 | 2011 | 安倍一成 | あべ・ かずなり | 84 | 山口県原爆被爆者支援センター「ゆだ苑」理事長(1993年〜2008年)。1986年中国文化賞受賞。 |
| 26 | 1965 | 三村剛昂 | みむら・よしたか | 67 | 1898年3月広島県竹原生。広島文理科大学教授(物理学)の時被爆。 |
| 26 | 2017 | 神田三亀男 | かんだ・みきお | 95 | 民俗学者、歌人。『広島県現代文学事典』(綾目広自・記)資料年表:神田三亀男 |
| 27 | 2003 | 石田明 | いしだ・あきら | 75 | 全国原爆被爆教職員の会会長、広島県原水禁代表委員、社民党同県連顧問、元同県議。17歳の時、広島原爆の爆心から約1キロの広島市中区八丁堀の路面電車の中で被爆。教員、広島県教組委員長を経て83年から県議となり、今年4月に引退。原爆白内障の認定申請却下を不当とした「石田原爆訴訟」を広島地裁に起こし、76年7月に全面勝訴。自社さ連立政権下、94年の社会党(現社民党)の基本方針転換には同県本部を挙げて反対。資料年表:石田明 |
| 29 | 2023 | 中塚明 | なかつか・あきら | 94 | 元奈良女子大学文学部教授。19290917生。大学(京都大学文学部史学科国史学専攻)の先輩。資料年表:中塚明 |
| 30 | 1997 | 栗栖洋 | くりす・ひろし | 67 | 広島県被団協、常任理事、事務局次長、副理事長を歴任。『わたしの心が癒されるときは 栗栖洋遺稿・追悼文集』(広島県原爆被害者団体協議会被爆者相談所、1998/10/30)資料年表:栗栖洋 |
| 30 | 2016 | 宗藤尚三 | むねとう・しょうそう | 88 | 広島県府中町・こばと幼稚園園長。被爆牧師。資料年表:宗像尚三 |
| 31 | 2014 | 本島等 | もとしま・ひとし | 92 | 元長崎市長。 |
| ** | 2018 | 山下義宣 | やました・よしのり | 創価学会青年部広島県反戦出版委員会委員長。胎内被爆者。宇吹の高校時代の同級生。 宇吹メモ:1990410創価学会小西・山下来所。山下義宣 | |
7月に亡くなった人々
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 01 | 1988 | 加納竜一 | かのう・りゅういち | 84 | 元元日本映画社専務。被爆直後の広島・長崎で記録映画を製作。<資料年表:加納竜一> |
| 01 | 2000 | 宇都宮徳馬 | うつのみや・とくま | 93 | 政治家・実業家。月刊誌「軍縮問題資料」創刊。<資料年表:宇都宮徳馬> |
| 02 | 1982 | 高橋幸八郎 | たかはし・こうはちろう | 70 | 日本学術会議副会長[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人] |
| 02 | 1993 | 中野清一 | なかのせ・いいち | 88 | 広島大学名誉教授。元立命館大学教授。「あゆみグループ」を組織し、原爆孤児を支援。<資料年表:中野清一> |
| 03 | 2012 | 古浦千穂子 | こうら・ちほこ | 81 | 小説家、広島文学資料保全の会代表。『広島県現代文学事典』(執筆:梅原勝己)<資料年表:古浦千穂子> |
| 04 | 1981 | 木村功 | きむら・いさお | 58 | 新劇俳優。『広島県現代文学事典』(九内悠水子・記)19230622生。<資料年表:木村功> |
| 06 | 1990 | 杉本春生 | すぎもと・はるお | 詩人、文芸評論家。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記)<資料年表:杉本春生> | |
| 06 | 1992 | 大原三八雄 | おおはらみやお | 87 | 「世界原爆詩集」(角川文庫)を編集。広島女子大学・広島工業大学名誉教授。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記)<資料年表:大原三八雄> |
| 06 | 2011 | 松浦総三 | まつうら・そうぞう | 96 | 評論家。19141125生。 |
| 06 | 2013 | 山口仙二 | やまぐちち・ | 82 | 長崎の被爆者。「藤居平一聞き書き」作業の中に登場。藤居の紹介で面談。<山口仙二> |
| 07 | 1976 | 板倉静夫 | いたくら・しずお | 50 | レッド・パージで三菱広島造船の首切りにあう。機関紙活動、労組書記の活動などを続けながら、1957年の第3回世界大会以来、広島原水協、広島原水禁の事務局次長を歴任。19250103広島市向洋本町生まれ。 |
| 07 | 1990 | 愛宮真備 | えのみやまきび | 92 | フーゴ・ラッサール=ドイツ生まれのイエズス会員。広島市の幟町天主公教会(幟町教会)で被爆。世界平和記念聖堂を建設することに尽力 |
| 07 | 2022 | 朝尾直弘 | あさお ・なおひろ | 90 | 1931年12月17日、大阪府吹田市生。京都大学時代の教官。一橋大学内地留学にあたり藤原彰教授を紹介していただく。 |
| 08 | 1979 | 朝永 振一郎 | ともなが ・しんいちろう | 73 | 物理学者。ノーベル物理学賞(1965年)。生誕1906年3月31日<朝永 振一郎> |
| 08 | 1992 | 木村毅一 | きむら・きいち | 88 | 京都大学名誉教授。京大理学部の助教授時代の1945年8月、調査団員として広島入り。 |
| 08 | 1995 | 河村盛明 | かわむら・せいめい | 72 | 『河村盛明評論集 傷痕よりの出発』(河村盛明、六法出版社、1992.5.30)<河村盛明> |
| 09 | 1950 | 長崎五郎 | ながさき・ごろう | 67 | 『長崎五郎を偲ぶ』(長崎孝、19621225)。<長崎五郎を偲ぶ> |
| 09 | 1981 | 田中好一 | たなか・こういち | 87 | [50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆ドーム保存を推進。<資料年表:田中好一> |
| 09 | 2012 | 山田五十鈴 | やまだ・いすず | 95 | 女優。本名:美津<みつ>。映画「生きていてよかった」のナレーションを「山田美津子」名義で担当。 |
| 10 | 1993 | 井伏鱒二 | いぶせ・ますじ | 95 | 作家。本名:井伏 滿壽二。小説『黒い雨』の作者。『広島県現代文学事典』(前田貞昭・記) |
| 12 | 2011 | 沼田鈴子 | ぬまた・すずこ | 87 | 22歳の時、勤務先の旧広島逓信局(中区東白島町)で被爆。崩壊した建物の下敷きになり左足を切断。映画「にんげんをかえせ」(1982年)に、被写体として登場。<資料年表:沼田鈴子> |
| 13 | 1979 | 小倉馨 | おぐら・かおる | 58 | 広島平和文化センター事務局長(1977年~)。[69原爆被災資料広島研究会]。原爆資料館館長。『広島県史原爆資料版』所収の英文資料の翻訳でお世話になる。<資料年表:小倉馨> |
| 13 | 2005 | 橋口収 | はしぐち・ おさむ | 大蔵官僚。19210908生まれ。広島銀行頭取(198406)、広島商工会議所会頭(1988~99)を歴任。著書『「近代」の座標軸を求めて― 文明・文化そぞろある記』(金融財政事情研究会、19970716) | |
| 13 | 2011 | 末宗明登 | すえむね | 84 | 1988年から2005年まで広島県原爆被害者団体協議会<金子一士理事長>事務局長。「広島被爆者団体連絡会議」の事務局長も経験。<資料年表:末宗明登> |
| 14 | 1976 | 山崎与三郎 | やまさき・よさぶろう | 86 | [1969原爆被災資料広島研究会]。<資料年表:山崎与三郎> |
| 14 | 1994 | ロベルト・ユンク | ゆんく | 『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)。『戦後ヒロシマの記録と記憶 小倉馨のR・ユンク宛書簡 上・下』(若尾祐司・小倉桂子編、名古屋大学出版会、2018年7月10日)<資料年表:ロベルト・ユンク> | |
| 14 | 2008 | 田中隆荘 | たなか・りゅうそう | 82 | 生物学者。広島大学学長・広島市立大学初代学長。<田中隆荘> |
| 14 | 2015 | 竹前栄治 | たけまえ・えいじ | 84 | 占領史研究家。出版社の叢書執筆者の会合で同席。介護犬同伴だったことに強い印象。<資料年表:竹前栄治> |
| 15 | 2004 | チャールズ・スウィーニー | 84 | 長崎原爆投下爆撃機ボックスカーの機長(少佐、25歳)。 『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』(チャールズ・W・スウィーニー著 黒田剛訳、原書房、2000/07/31) | |
| 17 | 1982 | 江上不二夫 | えがみ・ふじお | 71 | 生化学者。元日本学術会議会長[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[1982推進連絡会議呼びかけ人]。 |
| 17 | 1999 | 北西英子 | きたにし・ひでこ | 70 | 「広島女性史研究会」代表。論文「近・現代広島女性の歩み」(『広島市公文書館紀要 第14号』)<北西英子> |
| 18 | 1991 | 坪田正夫 | つぼた・まさお | 67 | 大阪市生野区原爆被害者の会会長。句画集「かの一ぱつの原爆に」(新樹社)。<坪田正夫> |
| 18 | 2004 | 林茂夫 | はやし・しげお | 75 | 本名:塩伸一。軍事評論家。京大原爆展の関係者。追悼論文集『無防備地域運動の源流―林茂夫が残したもの』(日本評論社、20060720)<林茂夫> |
| 18 | 2017 | 日野原重明 | ひのはら・しげあき | 105 | 聖路加国際病院理事長。<資料年表:日野原重明> |
| 18 | 2019 | 天野之弥 | あまの・ゆきや | 72 | 外交官。国際原子力機関(IAEA)事務局長。 |
| 19 | 1977 | 大木惇夫 | おおき・あつお | 82 | 詩人。広島市天満町生まれ。本名・軍一。広島商業学校卒業。1941年、文化部隊宣伝班の一員として、ジャワ作戦に配属。『広島県現代文学事典』(石田浩子・記)。<資料年表:大木惇夫> |
| 19 | 2011 | 原田芳雄 | はらだ・よしお | 71 | 俳優。映画『父と暮らせば』(原作:井上ひさし、監督:黒木和雄)に父役で出演。2004年公開。 |
| 20 | 2008 | 佐々木寅夫 | ささき・とらお | 70 | 洋画家、日展会員。1938年広島県山県郡豊平町生まれ。『ひろしまインターネット美術館』 |
| 20 | 2019 | 岡本三夫 | おかもと・みつお | 86 | 平和学者。1976年、四国学院大学で初の平和学講座を開講。1992年に第9条の会ヒロシマを結成。<資料年表:岡本三夫> |
| 21 | 1992 | 徐立伝 | じょ・りつでん | 70 | 広島刑務所内で被爆した中国人 |
| 22 | 2021 | 那須正幹 | なす・まさもと | 79 | 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)。 |
| 24 | 1991 | 志水清 | しみず・きよし | 84 | 元広島大学原医研所長。<資料年表:志水清> |
| 24 | 2011 | 増岡博之 | ますおか・ ひろゆき | 88 | 67年衆院選(旧広島2区)に自民党から出馬、初当選、当選8回。この間、厚相、党国対委員長などを歴任。 |
| 26 | 1980 | 今中次麿 | いまなか・つぎまろ | 87 | [52広島平和問題談話会](広島大学政経学部教授)。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。広島大学名誉教授。世界平和評議会評議員、第1回原水爆禁止世界大会議長、広島平和教育研究所議長。『広島県大百科事典』(中村義知・記)。<今中次麿 生涯と回想> |
| 26 | 2019 | 山本治朗 | やまもと・じろう | 70 | 中国新聞社社主・会長。『中国新聞百年史』(中国新聞社史編さん室、1992/12/15) |
| 28 | 2010 | 増岡敏和 | ますおかとしかず | 82 | 8月6日(1945年)には海軍の予科練(飛行機練習生)で松山航空隊に入隊、8月6日頃は軍隊疎開で愛媛県の南部の深浦町にいた。敗戦の数日以内に広島市に帰る。祖母、母、長妹(原爆死)、次妹被爆弟たちは学童疎開中。<資料年表:増岡敏和> |
| 30 | 1980 | 山下 義信 | やました・ぎしん | 95 | 元参院議員。1945年に原爆孤児を養育する「広島戦災児育成所」を創設、参院社労委員として原爆医療法制定に尽力。<資料年表:山下義信> |
| 31 | 2001 | 小寺 初世子 | こでら・さよこ | 69 | 大阪国際大法政経学部教授、広島県立広島女子大名誉教授、国際法。論文:「朝鮮人被爆者の法的地位」(『広島女子大学文学部紀要 第7号』1972)<資料年表:小寺初世子> |
| ?? | 2011 | 村上経行 | むらかみ・つねゆき | 93 | 『平和に生きる』(村上経行後援会、1972.10.1)、『広島のねがいを国政へ 活躍する、村上経行さん』(村上経経行後援会、1975.12.25)、<村上経行> |
止
5月忌(一覧)
| 日 | 没年 | 氏名 | 読み | 享年 | 備考 |
| 01 | 1951 | 永井隆 | ながい・たかし | 43 | 長崎医科大学付属医院内で原爆被爆 |
| 01 | 1981 | 中村敏 | なかむら・さとし | 72 | 共同通信社元編集局総務。広島被爆の第一報を打電した元同盟通信広島支社編集部長。 |
| 01 | 1985 | ジェンキンズ、クニコ・ | じぇんきんず | 59 | 全米被爆者協会副会長。1973年から副会長を務め、在米被爆者検診の実施などに貢献。 |
| 02 | 2009 | 忌野清志郎 | いまわの・ きよしろう | 58 | ロック・ミュージシャン。本名:栗原清志(くりはら・きよし)。 |
| 02 | 2016 | 新屋英子 | しんや・えいこ | 87 | 本名:鶉野英子(うずの)。大阪の劇団「関西芸術座」の創立メンバー。一人芝居「チョゴリの被爆者」。『女優新屋英子 私の履歴書』(2005年、解放出版社) |
| 03 | 1955 | 千葉亮 | ちば | 広島で被爆した東京在住の高校生。 | |
| 原爆症発症以来、全国の高校生らが支援カンパ。9日、成城高校、生徒会葬を執行。約2000名が参列(読売新聞)。 | |||||
| 03 | 1971 | 高橋和巳 | たかはし・かずみ | 39 | 作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)<投稿> |
| 03 | 2017 | 月丘夢路 | つきおか・ゆめじ | 95 | 宝塚歌劇団、女優。本名:井上明子。広島市中区出身。映画「ひろしま」に出演。 |
| 04 | 1985 | 菊池武彦 | きくち・たけひこ | 91 | 京都大学名誉教授。 |
| 京都大学原爆災害調査班の一員として1945年8月に広島を調査。『京都大学原子爆弾災害総合研究調査班の成立と活動』、『大野陸軍病院における京大原爆総合研究調査班の山津波による遭難の状況(私の日記から)』。お宅を訪問。被爆直後の写真について教示をいただく。<資料年表:菊池武彦> | |||||
| 06 | 1964 | 佐藤春夫 | さとう・はるお | 詩人・小説家。原民喜の葬儀委員長。 | |
| 1951年11月15日広島城址に建立された原の詩碑に撰文「詩碑の記」を記す。『広島県現代文学事典』竹原陽子・記) | |||||
| 06 | 1980 | 渡辺忠雄 | わたなべ・ただお | 81 | 元広島市長(1955~59年)。<投稿> |
| 08 | 1972 | 砂原格 | すなはら・かく | 『砂原格追想録』(砂原格先生顕彰会・会長森本亨、1978.5.8)〈投稿〉 | |
| 08 | 2008 | 伏見康治 | ふしみ・こうじ | 98 | 物理学者。1953年日本学術会議会長。1958年参議院議員(公明党)。 |
| 09 | 2012 | 碓井静照 | うすい・しずてる | 74 | 8歳の時被爆。<投稿> |
| 広島県医師会会長、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)日本支部長などを歴任。第67回(2010年)中国文化賞(中国新聞社主催)。 | |||||
| 09 | 1965 | 田谷春夫 | たたに・はるお | 詩人・歌人。 | |
| 1932年5月赤色救援会広島支部の責任者として検挙・起訴される。広島で被爆。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記) | |||||
| 09 | 2018 | 村井志摩子 | むらい・しまこ | 89 | 劇作家・演出家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記) |
| 09 | 2024 | 文沢隆一 | ふみさわ・りゅういち | 96 | 作家。資料年表:文沢隆一(本名:増本勲一) |
| 10 | 1981 | 今川卓治 | いまがわ・たくじ | 84 | 『被爆医師 今川卓治』(今川静子、19870510) |
| 10 | 1991 | 中川保雄 | なかがわ・やすお | 神戸大学教養学部教授。科学技術史。 | |
| 著書に『放射線被曝の歴史』。広島大学原医研資料センター所蔵資料を熱心に調査。直接の面識無し。 | |||||
| 10 | 2017 | 田原伯 | たはら・つかさ | 84 | 原爆文献研究家。<投稿>。 |
| 11 | 1975 | 梶山季之 | かじやま・としゆき | 46 | 1948年広島高等師範学校入学。[広島大学]『広島県現代文学事典』(天瀬裕康・記)編年資料:梶山季之 |
| 11 | 2004 | 山本達雄 | やまもと・たつお | 88 | 「原爆の火」保存者。兵役に就いていた広島で、原爆投下直後に残り火をカイロに採取し、故郷の福岡県星野村で20年以上保存。広島に投下された人類史上初めての原子爆弾の火=世界で唯一の「火」。 |
| 12 | 1979 | 塩月正雄 | しおつき・まさお | 58 | 東北大学医学部を卒業後見習士官として大村病院に所属。 |
| 被爆者治療に従事。。「初仕事は安楽殺だった」(光文社 1978.8.15 )の著者。 | |||||
| 14 | 1998 | 山田典吾 | やまだ・てんご | 81 | 映画監督。作品に「はだしのゲン」・「白い町ヒロシマ」。 |
| 14 | 2002 | 草野信男 | くさの・のぶお | 92 | 病理学者。元日本原水協理事長。投稿 |
| 15 | 1973 | ラビノビッチ、ユージン・ | らびのびっち | 71 | Eugene Rabinowitch マンハッタン計画の主任研究者。[70ヒロシマ会議] |
| 15 | 2009 | 豊田利幸 | とよた・としゆき | 89 | 核物理学者。「パグウォッシュ会議」に日本代表としてかかわり、その日本版の「科学者京都会議」でも活躍。 |
| 16 | 1977 | 島薫 | しま・かおる | 79 | 外科島病院長。 |
| 原爆は島病院の上空でさく裂。『島薫あれもこれも』(紺野耕一編、島忍発行、1983.5.15) | |||||
| 16 | 2006 | 渡辺正治 | わたなべ・しょうじ | 広島大学原医研時代の先輩。 | |
| 5月20日葬儀・告別式。<別記予定> | |||||
| 18 | 1952 | 中井正一 | なかい・まさかず | 52 | 美学者・哲学者。1946年9月、広島県労働文化協会を創設。1948年、国立国会図書館副館長に就任。『広島県大百科事典』(板根俊英・記)。『広島県現代文学事典』(佐々木暁美・記)。 |
| 18 | 2007 | 前野良 | まえの・りょう | 94 | 原水禁国民会議顧問。 |
| 広島湾の軍艦上で被ばく。その後の1ヵ月あまりの救護活動。1955年の最初の世界大会から原水禁運動に参加。http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0707_4.htm | |||||
| 21 | 1991 | 斗桝良江 | とます・よしえ | 『私の原爆記』 | |
| 21 | 2010 | 小松茂美 | こまつ・しげみ | 75 | 古筆学者、美術史学者。広島で被爆。<投稿> |
| 「死の淵にたって」(『平家納経の世界―国宝の謎を推理する』(六興出版、19861226)pp.133-136。 | |||||
| 22 | 1964 | 下田隆一 | しもだ・りゅういち | 65 | 原爆裁判の原告の一人。 |
| 22 | 1988 | 佐藤月二 | さとう・つきに | 79 | 元広島大学教育学部教授。広島県史跡名勝天然記念物調査委員(1947年2月~)。 |
| 1949年当時、原爆ド-ムの保存を主張。著書『むさしあぶみ』(溝本積善館、19720215)。 | |||||
| 23 | 1981 | 吉野源三郎 | よしの・げんざぶろう | 82 | 雑誌「世界」初代編集長。 |
| 日本ジャーナリスト会議初代議長(1955年2月、)。「被爆30周年国際フォーラム」の代表世話人。1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人。 | |||||
| 23 | 2012 | 岡本直正 | おかもと・なおまさ | 91 | 広島大学原爆放射能医学研究所所長(1970.4.1~1977.3.31)。 |
| 24 | 1956 | 中林智子 | なかばやし・ともこ | 原爆乙女の会のメンバー。 | |
| アメリカのマウント・サイナイ病院で手術中に死去。日本時間25日。 | |||||
| 24 | 2007 | 大庭みな子 | おおば・みなこ | 作家。『広島県現代文学事典』(瀬崎圭二・記) | |
| 26 | 1982 | 植村環 | うえむら・たまき | 91 | 日本YWCA名誉会長。 |
| 原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員。日本原水協代表委員。世界平和アピール七人委員会のメンバー。1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人。 | |||||
| 26 | 1999 | 辛泳洙 | しん・よんす | 80 | 元韓国原爆被害者協会会長。 |
| 国外に住む外国人としては始めて原爆被爆者手帳を取得。http://www.asahi-net.or.jp/~hn3t-oikw/kaihou/No_25/9907_1shin.html | |||||
| 26 | 2000 | 阿左美信義 | あさみ・のぶよし | 65 | 広島弁護士会長・日本弁護士連合会副会長などを歴任。 |
| 「石田原爆訴訟」の弁護団に加わる。「悼記 衰えなかった弱者救済への情熱」(『中国新聞』2000.7.4) | |||||
| 28 | 1984 | 森戸辰男 | もりと・たつお | 95 | 広島大学初代学長(13年間)。 |
| [50ヒロシマ・ピース・センター理事]。[51広島大学平和問題研究会会長]。[52広島平和問題談話会]。1951年に、「広島大学平和問題研究会」を発足させる。 | |||||
| 29 | 1986 | 松崎寿和 | まつざき・ひさかず | 72 | 日本史研究者。広島大学教授。中国文化賞(1974年) |
| 30 | 1978 | 片山哲 | かたやま・てつ | 90 | 元総理大臣。 |
| 憲法擁護国民連合議長、衆議院議員、[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。 | |||||
| 30 | 1983 | 山本康夫 | やまもと・やすお | 105 | 歌人。 |
| 短歌誌「真樹」主宰者(被爆者)。『広島県現代文学事典』(山本光珠・記)。 | |||||
| 30 | 2006 | 今村昌平 | いまむら・しょうへい | 79 | 映画監督、脚本家、映画プロデューサー. |
| 『広島県現代文学事典』(佐藤武・記) | |||||
| 日 | 没年 | 氏名 | 読み | 享年 | 備考 |
| 01 | 2012 | 森亘 | もり・わたる | 86 | 元東京大学総長。原爆死没者慰霊等施設基本問題懇談会座長。<投稿> |
| 01 | 2016 | 藤村耕市 | ふじむら・こういち | 86 | 元三次地方史研究会会長。<投稿> |
| 01 | 2020 | 山西義政 | やまにし・よしまさ | 97 | (株)イズミ(広島県広島市、山西泰明社長)創業者。1997年、個人コレクションを中心に泉美術館を開設。<資料年表:山西義政> |
| 02 | 1974 | 福田須磨子 | ふくだ・すまこ | 52 | 長崎原爆の被爆者。詩人。1975年8月2日、長崎市爆心地公園に慰霊碑建立。 |
| 02 | 1984 | 渡辺漸 | わたなべ・すすむ | 80 | 広島大学原医研初代所長。自宅を訪問、面談、資料閲覧・借用。 |
| 02 | 2005 | ヨハネ・パウロ二世 | ぱうろ | 84 | 4月2日(日本時間3日)。1981年2月25日広島訪問。<『教皇訪日公式記録 ヨハネ・パウロⅡ世』主婦の友社、19810402><投稿> |
| 02 | 2008 | 大北威 | おおきた・たけし | 83 | 広島大原爆放射線医科学研究所所長。ノーベル平和賞を受賞(1985年に)した「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」のメンバー。<投稿><資料年表:大北威> |
| 02 | 2016 | 居森清子 | いもり・きよこ | 82 | 広島の本川国民学校で被爆、児童で唯一の生存者。西本雅実「評伝」(『中国新聞』2016.4.5) |
| 03 | 2011 | 長崎源之助 | ながさき・げんのすけ | 87 | 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(瀬崎圭二・記) |
| 04 | 0984 | 伊藤実雄 | いとう・じつお | 1946年4月の総選挙で広島全県区(当時)から初当選、1期。『古稀を越えて 伊藤實雄』(1982.2.25)<投稿> | |
| 04 | 1997 | 杉村春子 | すぎむら・はるこ | 91 | 女優。本名:石山春子。広島市出身で、被爆ドラマに出演。。映画吹き込み場に立ち会う。『広島県現代文学事典』(九内悠水子・記)。<投稿> |
| 05 | 1958 | 岡本尚一 | おかもと・しょういち | 66 | 弁護士。広島・長崎の被爆者とともに原爆求償同盟を組織し、1955年4月、東京地裁に、原爆投下の国際法違反を明確にし、被害の賠償を求める訴訟を起こす。<『原爆民訴或問』> |
| 05 | 1960 | 楮山ヒロ子 | かじやま・ひろこ | 17 | 広島で被爆。急性リンパ性白血病のため広島市民病院で死亡。<投稿>。<原爆ドームと楮山ヒロ子> |
| 05 | 1961 | 都築正男 | つづき・まさお | 68 | 東京帝国大学教授。遺族宅を調査<投稿> |
| 05 | 1964 | マッカーサー、ダグラス・ | 84 | 連合国軍最高司令(1945~50年) | |
| 07 | 1971 | 椎尾弁匡 | しいお・べんきょう | 94 | 全日本仏教会副会長、大正大学学長、増上寺大僧正[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。 |
| 07 | 1990 | 大原亨 | おおはら・とおる | 74 | 元社会党代議士(広島選出)。党原爆対策特別委員会などを歴任。衆議院議員。『志あるところ必ず道あり 大原亨追悼録・遺稿集』(発行編纂委員会、19910806)。宇吹の高校時代の同級生の父。 |
| 07 | 1957 | 羽仁もと子 | はに・もとこ | 83 | 自由学園長・全国友の会会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。 |
| 08 | 1982 | 上代タノ | じょうだい・たの | 95 | 「世界平和アピール七人委員会」のメンバー。1956年から9年間、日本女子大学学長。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。 |
| 09 | 2010 | 井上ひさし | いのうえ・ひさし | 75 | 日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任。<投稿> |
| 10 | 1959 | 瀬戸奈々子 | せと・ななこ | 27 | 『かえらぬ鶴』(瀬戸奈々子・林田みや子、二見書房、19611012) |
| 10 | 2004 | 小黒薫 | おぐろ・かおる | 90 | 1974~1978年、広島女学院大学長<投稿> |
| 11 | 2001 | 稲賀敬二 | いなが・けいじ | 73 | 国文学者。平安文学。1947年(昭和22年)広島高等学校文科甲類卒業。広島大学名誉教授。『明日何方ぞ迷い猫 稲賀敬二遺文集』<資料年表:稲賀敬二> |
| 11 | 2016 | ユソフ、ペンギラン | ゆそふ、ぺんぎらん | 94 | 元南方特別留学生として広島文理科大学に在学中被爆。元ブルネイ首相。<投稿> |
| 12 | 2017 | 葉山、ペギー | はやま、ぺぎー | 83 | 歌手。祖父が広島で被爆死。1965年広島賛歌「ああ広島」を歌い、レコード化。第1回「広島平和音楽祭」に出演。 |
| 13 | 1980 | 蜂谷道彦 | はちや・みちひこ | 76 | 「ヒロシマ日記」の著者で被爆者。<投稿> |
| 14 | 1986 | ボーボワール、シモーヌ・ド・ | ぼーぼわーる | 78 | 仏の作家。1966年10月、来広し、原爆資料館などを見学。<宇吹=京都での講演会を聞く> |
| 14 | 2001 | 勅使河原宏 | てしがわら・ひろし | 74 | 映画監督、草月流家元。<投稿>。 |
| 15 | 1980 | サルトル、ジャン・ポール・ | さるとる | 仏の哲学者。1966年来広し、原爆病院など訪問。長崎も訪問。 | |
| 15 | 19895 | 調来助 | しらべ・らいすけ | 長崎大名誉教授(被爆者)。「医師の証言・長崎原爆体験」などの著者。長崎市栄誉市民。 | |
| 16 | 1972 | 川端康成 | かわばた・やすなり | 72 | 日本ペンクラブ会長[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<投稿> |
| 17 | 1992 | 秦野裕子 | はたの・ひろこ | 広島大学原医研事務官。職場の同僚 | |
| 17 | 1996 | 藤居平一 | ふじい・へいいち | 80 | 日本被団協初代事務局長。聞き書きを作成 |
| 18 | 1955 | アインシュタイン、アルバート | あいんしゅたいん | 76 | 理論物理学者。ユダヤ系ドイツ人。ナチスに追われて渡米。ルーズベルト大統領に原爆開発を提言。Albert Einstein |
| 18 | 1961 | 長田新 | おさだ・あらた | 75 | 広島大学教授。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。[51広島大学平和問題研究会理事]。[日本原水協代表委員]。<「原爆の子」の父長田新> |
| 18 | 1971 | 大木正夫 | おおき・まさお | 69 | 作曲家。交響曲「ヒロシマ」。 |
| 18 | 1993 | 羽原好恵 | はばら・よしえ | 47 | RCC勤務。研究会で面識。<投稿> |
| 18 | 2016 | 金子満広 | かねこ・みつひろ | 91 | 日本共産党書記局長、衆議院議員など歴任。 |
| 22 | 1981 | ダフ、ペギー | だふ・ | 71 | イギリス生まれの平和運動家。「軍縮と平和のための国際連合」(ICPP)書記長。1977年以降の原水爆禁止統一世界大会の大会宣言起草委員長を務める。 |
| 22 | 1985 | 原田勉 | はらだ・つとむ | 1953「酔心」旗揚げ。『なに糞経営愕』(原田勉、朝日書院、19650625) | |
| 22 | 2000 | 武谷三男 | たけたに・みつお | 88 | 理論物理学者で素粒子論の第一人者。戦時中、理化学研究所で仁科芳雄に協力し原爆開発研究に従事。<投稿予定> |
| 23 | 1960 | 賀川豊彦 | かがわ・とよひこ | 72 | [50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。国際平和協会会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。キリスト教社会運動家。『広島県現代文学事典』(田辺健二・記) |
| 23 | 1973 | 阿部知二 | あべ・ともじ | 69 | 小説家。1950年?イギリスで開かれた世界ペン大会に参加、田辺耕一郎から託された被爆アルバムや資料をもとに広島の惨状を訴える。 |
| 23 | 2011 | 森井忠良 | もりい・ちゅうりょう | 81 | 『明日を創る―提言・新世紀の社会保障』(森井忠良、NTT出版、1996.6.6)。1972年、旧広島2区で旧日本社会党から衆議院議員に初当選、1996年に落選するまで7期。村山富市改造内閣で厚生大臣。社会党原爆被爆者対策特別委員長など。宇吹と同郷。 |
| 23 | 2012 | 山田浩 | やまだ・ひろし | 87 | 広島大学教授。専攻は政治史・国際関係論。<資料年表:山田浩> |
| 24 | 1988 | 広瀬ハマコ | ひろせ・はまこ | 83 | 元広島女学院理事長。<投稿> |
| 24 | 2017 | 藤居みえ | ふじい・みえ | 藤居平一夫人。<投稿予定> | |
| 24 | 2008 | 深川宗俊 | ふかがわ・むねとし | 87 | 歌人。本名:前畠雅俊=まえはた・まさとし)。旧三菱重工業の韓国人徴用工の指導員。三菱広島・元徴用工被爆者裁判を支援する会共同代表。<投稿> |
| 25 | 1951 | 藤野七蔵 | ふじの・しちぞう | 65 | 『藤野七蔵氏追懐録』(藤野七蔵氏追懐録編纂委員会、広島瓦斯株式会社内、1952年4月25日)<投稿> |
| 28 | 1960 | 川手健 | かわて・たけし | 県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。偲ぶ会に参列。『広島県現代文学事典』(小宮山道夫・記)<資料年表:川手健> | |
| 28 | 1962 | 西本敦 | にしもと・あつし | 日本山妙法寺僧侶。日ソ協会支部事務局長。1958年原水禁世界大会で、広島-東京間の第1回平和大行進の全コースを歩く。 | |
| 28 | 2009 | 粟津潔 | あわづ・きよし | 80 | 「ヒロシマ・アピールズ」ポスター第2作を制作。 |
| 30 | 1977 | 森脇幸次 | もりわき・こうじ | 68 | 中国新聞論説委員、取締役編集局長、中国地方経済連合会常務理事。<投稿> |
熊田重邦
くまだ しげくに |
192002生20130129没 |
享年92歳 |
資料
| 『熊田教授退官記念事業会』(記念録、1983年3月) | |
| 『熊田重邦先生勲三等旭日中綬章受章記念祝賀会(式次第・出席者名簿)』(1994年6月24日) | |


被爆体験の風化をくいとめるために、被爆の実相を明らかにする資料集成が進められている(広島県史編さん室で)
『中国新聞』1971年8月2日
****************
熊田重邦(広島県立文書館長)「地方公文書館の業務―広島県立文書館の場合」(出典:『北の丸―国立公文書報第24号』1992年3月)
熊田重邦(広島県立文書館長)「情報化社会における文書館の課題―広島県立文書における公文書管理を中心として」(出典:『北の丸―国立公文書報第24号』1992年3月)
| 田原 伯 | たはら
つかさ |
原爆文献研究家。終戦時に朝鮮半島から引き揚げる際、傷ついた被爆者や広島の廃虚を目撃したのが活動の原点に。1968年、今堀誠二広島大教授(当時)らと原爆被災資料広島研究会を結成し、原爆文学や被爆体験記、占領期文献などを網羅した「原爆被災資料総目録」第1~4集を発行。(『中国新聞』) |
| 生
|
20170510没
84歳 |
資料
| 年 | 月 | 日 | |
| 1985 | 04 | 01 | 宇吹暁「蔵書あれこれ」『河図洛書―渓水社10周年記念』(渓水社、1985年4月1日)pp.140-143 |
| 原爆問題についての私の師の一人であるT(田原)氏との出会いは、広島市内のあるガレージであった。そこには、T氏の管理する原爆関係の本が持ち込まれていた。私は学生時代から平和、原爆問題に関心を持っていた。広島県の歴史の中でも重要なテーマと思い、その関連の本について、卒業後も気をつけていた。しかし、T氏の本の大半は、初めて目にするものであった。その後、T氏は、しばしば「蔵書を前の議論」の機会をつくってくれた。それは、私が、学生時代以来、久しく忘れていたものであった。私の原爆文献漁りが、T氏との出会いを契機に始まった。 | |||
| 2017 | 05 | 12 | 「田原伯氏死去 原爆文献を調査」『中国新聞』2017.5.12 |
| 2017 | 05 | 18 | 「悼記 綿密調査 非条理を告発 原爆文献研究家 田原伯さん 10日、84歳で死去」
「9年前に脳出血で倒れ、リハビリを続けたが、第5集の発行という執念は果たせなかった。「お疲れさま」と声を掛けたくなる。ただ、あの圧倒的な仕事ぶりに一度でも触れると、「後は任せて」とたやすく口にできない自分がもどかしい。原爆犠牲者の無念をしっかり継承できているのかどうか。核兵器が廃絶できない人類全体に対し、幻さんが残した宿題は重い。」(編集局長・江種則貴)『中国新聞』2017.5.18 |
『わが昭和史』(松前重義、朝日新聞社、19870330)
内容
| 章 | |||
| 序 | |||
| 1 | 死線を越えて | ||
| 懲罰召集にかけられる/高指令部付の二等兵に/祖国に生還/反東上運動に奔走/大政/翼賛会に飛び込む/技術者運動の先頭に立つ/ヒロシマ原爆の投下 | |||
| 2 | 青春の日々 | ||
| 3 | 柔道一代 | ||
| 4 | 教育への挑戦 | ||
| 5 | 政治と理念 | ||
| 6 | 民間外交20年 | ||
| あとがき | |||
| 松前重義年譜 | |||
止
シナリオ・生きていてよかった
脚本・監督 亀井文夫
製作 原水爆禁止日本協議会・日本ドキュメントフィルム社
広島、長崎の原爆症患者の生活を捉えた真実の記録映画がはじめてつくられた。この姿を世界中に訴えて!とケロイドの娘さんも自らすすんでカメラの前に立った。これはそのシナリオを亀井監督が本誌のために特に書き改めたものである。
第1部 死ぬことは苦しい[撮影場所のみ摘記]
・(広島日赤病院)
・(長崎医大の付属病院)
・(広島日赤病院の廊下)
・(広島・比治山下のあるバラック)
第2部 死ぬことは苦しい だが 生きることも苦しい
・(ある家の室内)
・(広島の繁華な街)
・(梅の花が咲いている山村)
・(日赤病院の一室)
・(長崎医大の付属病院の一室)
・(諫早から長崎へ通うバス道路)
・(広島・五日市にある戦災孤児育成所)
第3部 死ぬことは苦しい だが、生きることも苦しい でも、生きていてよかった
・(日本座敷)
・(広島市・宇品町にある明成園)
・(ある家庭の庭先)
・(長崎、路地の奥の家)
・(長崎の道路工事)
・(丘陵へつづくなだらかな坂道)
・(長崎の原爆記念館の陳列棚)
・(再び浦上の美しい道)
出典:『婦人公論』1956年5月号
都築正男「原子爆弾災害調査研究班に就て」
今般、科学研究費交付金総合研究計画に基いて、新に『原子爆弾災害調査研究班』が設けられることとなり、過日、研究班の編成を終わり愈々その作業を始めることになった。就ては、その発足に当り、新研究班が設けられるに至った動機と経緯とを述べ且つ研究班運営の方針を考察し、以て関係各位の御参考に供したい。
昭和20年8月上旬広島市及び長崎市に落とされた原子爆弾によって発生した災害に就いては、当時設けられた文部省学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会に於て詳しい調査研究が行われ、我邦学界の総力を挙げて、その真相を明らかにすべく努力せられたのであった。特別委員会の仕事は前後3ケ年に亘って継続せられ、その間、アメリカ側から派遣せられた原子爆弾調査団とも協力し、理学、生物学、工学、医学、農学等の領域に亘って、広汎研究が行われ、多くの報告が出来上がった。
そこで、原子爆弾災害調査研究特別委員会は、その後、調査研究報告を発表し且つ刊行しようとしたが、色々な事情で、ことが円滑に進行せず且つ刊行費の調達に就いても困難があり、ために延々となっていたことは遺憾なことであった。ところが、その後新しく発足した日本学術会議はこの刊行事業を学術研究会議から引継ぎ、幸にして、刊行費の調達に就いても見透しがついたので、昭和26年8月先づ『総括篇』として概要を記した部分を刊行し、次で『各論篇』として報告書全部を刊行し得る配となったのであって、各論篇は昭和27年秋頃発刊の予定である。
原子爆弾災害に関する総合的の調査研究は前述のように、約3ケ年に亘る特別委員会の作業によって大略終了し、昭和23年以後は特に興味を持つ研究者が夫々の立場から、原子爆弾災害そのもの、或いはそれと直接間接に関連のある事項に就いて、個別的に調査研究をせられていたばかりであったので、纏った報告として発表せられたものは多くない。
一方アメリカ側は昭和22年6月原子爆弾の災害に就て、主として医学的の立場から長期に亘る調査研究を行うことを計画し、日本側としては予防衛生研究所がその世話をすることとなり、昭和23年2月以来準備を始め、昭和24年2月広島市に原子爆弾影響研究所(Atomic Bomb Casualty Commission, Laboratory-略名ABCC)を新設し、次で長崎市にも研究分室を設けて調査研究を開始した。
爾来、広島及び長崎に於けるABCC研究所の職員は熱心に調査研究せられて、夫々成績を挙げておられるようではあるが、もともと、原子爆弾の被爆者を主な対象としての仕事であるために、色々と困難な事情があり且つ研究所の行き方が純アメリカ式であるために、被検者との間に意志の疎通を欠き或は誤解を生ずる等のことも起ったようであった。しかし、時と共に互の理解も出来又互の気持もわかって来て、作業は大体に於て計画通り円満に進んでいるようである。それだけに、他面、仕事の面で或る程度の偏位を余儀なくされている点があるのではなかろうか。他国に於けるこの種の文化事業が甚だ困難なことであることは云うまでもない。ABCC研究所の前所長 Dr.Tessmer もその点に就ては色々と考慮せられていたが、現所長 Dr.Taylor は特にこの点に就ては多大の関心を持ち、熱心にことに当たっていられるようである。
日本側としては、原子爆弾災害に関する医学的調査研究は前述のように、昭和22年度で一先ずその総合的研究を終了したのであったが、その後、広島及び長崎を初めとし、その他の地区に於ても、原子爆弾の被爆者間に色々の後遺症が残されていることが注意せられるようになり、その内でも、既に注目せられているものとしては、貧血症、白血病、白内障等を挙げることが出来よう。又関係医家の間では、被爆生存者が時々異常な病像を示すことがあることが認められ、或は次のような機転によるのではないかとも考えられ始めている。即ち、強力な放射能による傷害の結果として、生存者にも、色々の内臓の障碍が残されており、平素は特別の故障はないにしても、何等か異常の状況が起って病的現象の発現を見る場合には、それ等内臓の機能障碍が、これに関連して、特殊な病像を示すのではなかろうかとの考え方である。
原子爆弾被爆生存者はその大部分が現在も猶広島及び長崎地区に居住しているが、昭和25年10月の国勢調査の結果から判断しても、意外に多くの人々が、日本内各地に転住して、ちらばっているようである。
従って、それ等の人々に就て適切な健康管理を行うことは我邦医学徒の責務であらねばならない。
昭和23年以来、一時下火になっていた我邦における原子爆弾災害の調査研究熱が、そのような関係から、最近、再び盛んとなり、それ等と関連する熱、光、放射能等による傷害に関する研究と共に、各学会等に発表せられるものが漸くその数を増して来たようである。特に、この方面には密接な関係を持つ病理学会、血液病学会、放射線医学会等に於ては、夫々の立場から放射線傷害対策委員会を設けて総合研究を始めるに至った。
そこで、昭和26年暮頃から、有志の間で、この際再び原子爆弾災害調査研究の統合機関を設けてはとの話合が進められていた。ところが昭和27年1月26日広島ABCC研究所々長 Dr.Taylor 初め主要研究員の方々が東京に来られ、日本学術会議の肝入で、ABCCの事業の紹介並に業績発表の講演会が開かれ、同時にABCC及び予防衛生研究所関係の方々と、日本学術会議関係者との懇談も行われた。その結果、統合研究機関設立の議が急に具体化し、塩田広重博士を代表者として原子爆弾災害調査研究班が組織せられることとなったのである。
今般設立を見た原子爆弾災害調査研究班は上述のような事情で生れ出でたものであるから、その発足に当っては、特に次の諸点に就て、特別の考慮が払われなければならない。
1.本研究班の研究項目は純学問的の点だけでなく、あらゆる面で、国際的の性質を帯びていること。
2.アメリカ側の研究所が広島市及び長崎市で研究所を設け、充実した陣容で、すでに3ケ年余研究に従事しており、その初めから、日本側としては予防衛生研究所がその世話係をしていること。
3.広島市及びその付近では、広島医科大学及び日本赤十字社広島支部病院、広島県立病院、広島逓信病院等が従来からの関係で引続いて研究していること。
4.長崎市及びその付近では長崎大学医学部が従来の関係から引続いて研究をしていること。
5.病理学会、血液病学会及び放射線医学会では何れも放射線傷害対策委員会を設けて、夫々の立場から研究が始められたこと。
従って、原子爆弾災害調査研究班はその運営にあたって、特に次の諸点を強調すべきものと思う。
1.本研究班は今後我邦学会独自の立場で運営せられるべきこと。
2.本研究班は今後我邦に於ける原子爆弾災害調査研究の権威ある機関として存在し、既存研究団体間の統合連絡機関として活動するように運営せらるべきこと。
3.本研究班は予防衛生研究所を通じ、アメリカABCC研究所とは常に密接な連絡をとり、相互に協力し得るように運営せらるべきこと。
本研究班の編成にあたっては、上述の事情が考慮され、研究事項に関しては、権威ある独自の研究が十分に行われ得ると共に、各方面との円滑な連絡、相互の協力が支障なく達成し得られるように注意されて、別紙のような研究員の構成によって編成せられたのである。
本研究班の研究項目は最もその重要性が認められている医学部門に於けるものから着手するよう計画されており、第一年度(昭和27年度)に於ける研究計画項目は次の通りに定められた。
1.原子爆弾災害に関する未完結調査及び研究の継続
2.被爆者後遺症に関する調査研究
3.被爆者屍体の病理学的研究
4.原子爆弾災害に関連する基礎的研究
第二年度(昭和28年度)以降に於ては、次の方針で運営せられることとなる予定である。
1.第1年度の研究を継続し且つ増強する。
2.本研究を更に生物学的分野に拡大する。
3.研究成果の出版計画。
[以下略]
| 義信 | ||
| 189403生
(明治27)
|
19890730没
(昭和64) |
広島戦災児育成所の創始者。呉市出身、浄土真宗本願寺派の特任布教使などを経て従軍。復員後、1945年12月、原爆孤児たちを養育する「広島戦災児育成所」を広島県佐伯郡五日市町に創設。53年1月、広島市に移管するまで171人の孤児を育てる。47年、社会党から参議院議員(広島地方区)に当選、59年まで2期務め、原爆医療法制定に尽力(『中国新聞』) |
日記・日誌・資料より[敬称略]
| 1981 | 11 | 06 | 山下義信宅訪問。[『宇吹』という名前に関心。「うすい」という名前の友人が一中時代にいたが親戚かとの問い。内容についての話は無かったが、下記の資料(紙1枚)をプレゼントされる。] |
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| 1989 | 08 | 05 | 「ひと きのう きょう 流れ雲 山下義信さん(7月30日没 95歳) 原爆孤児に「家庭」作る」(渡辺雅隆)『朝日新聞(夕刊)』1989年8月5日 |
| 1995 | 06 | 24 | RCCテレビ『補償なき半世紀』(午後3時半-)のビデオを見る。山下義信の所蔵資料が目玉。援護法の当初案に原子力開発にともなう被曝者の救済策が入っていたことを初めて知る。藤居・宮田千秋も出演。「戦時災害保護法」の事実経緯に誤りがあった。 |
| 1995 | 12 | 02 | 原田東岷インタビュー=医療法については山下義信と灘尾弘吉が熱心に世話をしてくれた。任都栗を含め、われわれは、政治家を利用もしたが、偽手帳問題など、その悪影響もあった。本当に困っている人は仕方がないとして、法に安易にすがる姿勢には疑問を持つ。 |
| 1996 | 03 | 23 | Sの話=山下義信は、戦災孤児収容所についての詳しい資料を持っている。しかし、実名入りなので公開していない。2017 |
| 2017 | 04 | 25 | <『広島戦災児育成所と山下義信』新田光子、法蔵館、2017.3.21>を昭和図書館で借り出し、読了。 |

資料1 天皇陛下巡幸に関する質問主意書
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/001/syuh/s001111.htm
| ふじい へいいち | 19150807生 | 19960417没 |
| 略歴 | |
| 広島市民生委員連盟理事 | |
| 広島市社会福祉協議会理事 | |
| 1954.09 | 原水爆禁止運動広島協議会常任委員 |
| 1955.05 | 原水爆禁止世界大会広島準備会財政副委員長 |
| 1955.09 | 原水爆禁止日本協議会常任理事 |
| 1955.11 | 原水爆禁止広島協議会事務局次長 |
| 1955.11 | 原水爆禁止広島協議会原爆被害者救援委員会幹事長 |
| 1956.02 | 広島県原爆被害者大会実行委員会事務局長 |
| 1956.05 | 広島県原爆被害者団体協議会代表委員・事務局長 |
| 1956.05 | 全国社会福祉協議会原爆被害者救援特別小委員会代表 |
| 1956.08 | 日本原水爆被害者団体協議会事務局長 |
原爆被害問題研究の恩師
| 「先生は、原水爆禁止運動について、どう思われますか」、「忘れた」。「先生は、第1回原水爆禁止世界大会の中で重要な役割を果たされています。何か思い出されることは、ありませんか」、「忘れた」。1995年12月のある日、原爆医療法制定当時に広島市の医師会の幹部だったドクターのお宅で、数回繰り返されたQ&Aです。それまで、「原爆医療法の成立」(広島大学テレビ公開講座用の1テーマ)過程について、打ち解けてお話してくださっていたドクターの顔が、突然無表情になりました。私のシナリオでは、原水禁運動が原爆医療法成立に果たした積極的な役割(藤居さんから学んだことです)が予定されています。カメラは回り続けています。窮地に立った私は、「藤居さんをご存知ですか」と話題を変えてみました。ドクターの表情が緩みました。「良く知っている。快男児だった」。会話がつながりました。シナリオどおりにはなりませんでしたが、インタビューを無事終えることができました。
私自身が藤居さんに初めてお会いした(熊田重邦先生の紹介)のは、1980年(昭和55)4月26日のことです。しかし、その3年前の1977年に「藤居資料」に出会っています。それは、広島大学法学部の北西允研究室の2箱の段ボールの中にありました。当時、私は、日本人の核意識をテーマとする文部省の研究班(庄野直美班長)の仕事で同研究室に出入りしていました。この研究が一段落ついた7月、北西教授は、私に、この資料を生かして欲しいと託されました。聞けば、それは、石井金一郎教授が日本の原水爆禁止運動の歴史をまとめるために藤居さんから借用したもので、石井教授の死(1967年)後、同教授が預かっていたとのことでした。 私は、大学卒業後約6年間、広島県史編さん室に勤務し、今堀誠二・熊田の両先生の指導の下で、『広島県史・原爆資料編』編纂業務に従事しており、原爆問題に関する資料は、かなりのものに目を通していたつもりでいました。しかし、「藤居資料」(簿冊13冊、一点資料も含めた総点数は429点)のほとんどは、初めて目にするものでした。学生時代、数人の先輩から、歴史研究を志すものにはいつか自分の研究を方向づける資料との運命的な出会いが訪れると聞かされていました。「藤居資料」と出会った私は、とっさに「これだ!」と思いました。早速、勤務先の原爆放射能医学研究所で、整理に取りかかり、8月末には目録を作成しました。この経緯を熊田先生に伝えたところから、資料の主であった藤居さんとの出会いが実現したわけです。 それから15年の間の私の原爆被害問題研究の歩みは、藤居さんとともにありました。翌年から始まった藤居さんへの聞き取りは、1984年まで続きました。その録音テープは、120分テープで60本に及んでいます。その成果は、広島大学原爆被災学術資料センター資料調査室発行の『資料調査通信』に「まどうてくれ-藤居平一聞書」として8回(第5号1981年12月号から第29号1984年1月号)にわたり、まとめさせていただきました。 この作業の中で、藤居さんは、原爆被爆者運動草創期に活躍された多くの人々に紹介してくださいました。中でも忘れられないのは、原水爆禁止日本協議会が製作した映画「生きていてよかった」の関係者との出会いです。1982年3月には、草月流の勅使河原宏家元(この映画の助監督)が出席された同派の広島支部の会合に、原爆乙女の会の会員だった人たちと一緒に参加させていただきました。また、同年7月には、藤居さんの発案で、映画に出演された主だった方々を招いて、広島市の平和記念館で同映画の上映会を開催しました。関係者の招待に奔走されたのは竹内武さんでしたが、私も映写技師として裏方を勤めさせていただきました。 竹内さんから日本原水爆被害者団体協議会の初期資料である「平和会館資料」を借用したのは、この上映会から5日後のことでした。この資料との格闘は、1985年6月まで続きました。この間に整理した資料(1963年の原水爆禁止運動分裂までのもの)は、単行本・パンフレット・逐次刊行物合わせて901点4373冊、文書綴・ノート類は55冊3897点、一点資料1287点に及ぶものでした。 1995年10月26日夜、藤居さんから自宅に電話がありました。日赤病院からとのことで、7月下旬に広島で開催されたパグウォッシュ会議のことや、広島大学原医研に新たに導入された機器のことを話されました。しかし、突然、すごい剣幕で怒鳴られたかと思うと、電話が切れてしまいました。病室の電話の接続にトラブルが生じたものと思い、再び電話がかかるのを待っていましたが、かかっては来ませんでした。そして、これが、私が聞いた藤居さんの最後の声となりました。「藤居平一聞書」のために録音テープを取り始めたのは日赤病院の病室でした。そして、最後の声も同病院内からのもの。私には、入院生活の合間に藤居さんからお話を伺っていたような印象があります。今では、翌朝すぐにお見舞いにゆくべきだったと悔やんでいますが、その時は、死につながる病とは思ってもいませんでした。 藤居さんの原爆被害に対する関心は、この15年間に、大きく変りました。「まどうてくれ」の作業に応じてくださった気持ちを、「紙の碑を残したい」と語られていました。いわば関心は、「過去」あったわけです。ところが、その後、関心が「現在・未来」へ移りました。時期的には、1990年前後と記憶しています。この頃から藤居さんは、私にしばしば原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申に対する批判や原爆被害を調査・研究する「医者・科学者グループ」の組織化への協力を要請されました。しかし、私には、荷が重すぎて積極的な回答ができません。その度に励ましとお叱りを受けました。藤居銘木に残された資料を1996年7月30日に頂いて帰りましたが、同社の高瀬さんが丁寧に準備されたその資料からは、お亡くなりになる直前まで、藤居さんがこれらの問題と取り組まれていた様子が伝わってきました。 藤居さんは、私に多くの宿題を残して逝かれました。「庶民の歴史を世界史にする」、これは藤居さんから私が聞いた好きな言葉の一つです。過去10年間、私は原爆手記の収集と分析を行ってきましたが、この作業を私は藤居さんへのレポートと考えています。 1996年5月のある夜、私は広島駅前の飲み屋で、二人の先生と同席していました。広島在住のA先生が、友人であるB先生(日本の平和運動のリーダーの一人)に、原水爆禁止運動に関心を持つ私を引き合わしてくださったのです。何から話してよいか迷った私は、「藤居さんをご存知ですか」と聞いてみました。即座に出た答は、「日本被団協を作った人でしょ」でした。1955年当時、B先生にとって藤居さんは雲の上の存在だったそうです。しかし、しばしば原水爆禁止運動関係の会合でお目にかかったことがあるとのことでした。初対面の会話が、これを機にはずんだことは言うまでもありません。 同じ年の7月、私は、信濃毎日新聞社に1956年当時の長野県内の被爆者組織について問い合わせの電話を入れました。「藤居資料」では、日本被団協は、広島・長崎・愛媛・長野の4県の被爆者組織で出発したことになっています。しかし、藤居さんは、長野の組織の状況をご存知なかったのです。同社からは、オリンピック関連の取材で手一杯であるが、あなたが長野に調査に来れば、そのこと自体を記事にすることができる、それによって当時の状況を知る手がかりが得られるのでは、との親切な回答をいただきました。 私は、藤居さんの「現在・未来」の課題にはお役に立つことができませんでした。しかし、私の「過去」との取り組みは、これからも藤居さんととともに続きます。 |