原爆死没者名簿の奉納(式次第)

平和式典の式次第

(2) 原爆死没者名簿の奉納
広島市調査課は、1951年(昭和26年)5月、原爆死没者調査を実施した。再三のGHQへの陳情の結果実現したもので、7回忌(51年8月6日)を期して慰霊堂に合祀するための全死没者名簿作成を目的とするものであった。調査は、「広島に投下された原子爆弾により直接に、又は原爆の影響を直接の原因として死没された方全部」を対象としており、調査の内容としては、「1.死没者の氏名、2.性別、3.死没時の年齢、4.死没者の当時の住所、5.死没者の当時の職業(勤務先)、6.死没年月日、7.直接の原因、8.死没の場所、9.被爆時にいた場所」の9項目があげられていた。その方法は、関連者からの申告によるものとし、「広島市内及び広島県下については特別に徹底を期して、調査票も市内は全世帯に配布、県下も多量配布し、個人票以外に事業体、学校、団体、病院、寺院等には連記制調査票も配布」した。また、県外については、「各県の地方課から各市町村役場の関係課係を通じて連絡員(部落の世話人)、前国勢調査員、学校の生徒達の御協力により、或は告知板の利用等により申告者に調査票を入手させ、記入して貰う」こととした(広島市役所「広島市原爆による死没者調査についての趣意 書」)。慰霊堂の建設は、51年の式典には間に合わなかった。しかし、式典前日までに確認された氏名は、いろは別にカーボン紙に記載され、式典会場の戦災供養塔に供えられた(広島市『市勢要覧昭和26年版』、「中国新聞」54年8月6日)。
1952年7月上旬、広島市は、市内の能筆家20人に委嘱して過去帳への記載を始めた。5万7,902人の原爆犠牲者の名前を謹記した15冊の「広島市原爆死没者名簿」は、8月6日の式典で、浜井広島市長の手によって原爆死没者慰霊碑の中に設けられた奉納箱に納められた。広島市調査課は、この名簿の写しを、式典当日、原爆死没者慰霊碑と戦災供養塔前で公開し、記帳洩れの届出の受け付けを行なった。53年の式典では、この日以降新たに確認された391人の追加者の名簿が奉納され、以後、追加名簿の奉納が式典の慣例となった。
広島市は、1951年の調査に先だって、死没者の総数を20数万人と想定していた(「中国新聞」51年4月14日)。この根拠は、被爆当時の広島市内の人口を42万人(市内在住者約25万人、軍関係者約8万人、市外からの来広者約9万人)と推定、それから、50年に国勢調査付帯調査で明らかになった生存者数15万7,575人を差し引くという大雑把なものであった。ところが、51年の調査の結果は、6万人にも達せず、広島市調査課長は、53年7月に、死没者数は十数万が妥当との見解を発表した(「中国新聞」53年7月22日)。
原爆死没者名簿作成当時、この中への記帳者は、原爆被爆時またはその直後に死亡したもののみが対象との理解があった。翌1954年の式典での追加記入は212人に過ぎず、こうした結果を踏まえて、今後の追加者を加えても、名簿記帳者数は、6万人程度にとどまるのではないかとの見解が報じられている(「中国新聞」54年8月6日)。しかし、その後、被爆後数年経過した時点での死没者も記帳対象と考えられるようになった。57年には22人、58年には34人、59年には38人(原爆病院で死亡した人)が、過去1年間の死没者として名簿に追加されている。
表3は、現在までの追加数と名簿奉納総数を年別にみたものである。名簿への記帳は、遺族からだけでなく、関係団体からの申し出によってもなされた。1955年と56年には、県婦協の調査により確認された死亡者が追加され、記帳者数が増加した。69年の9,211人という増加は、市長が、被爆者健康手帳所持者で届出の無い死亡者6,844人を職権で記載したためである。また、この年には、原爆供養塔の無縁仏のうち氏名判明分1,071柱の名前が、広島戦災供養会の申し出により記入された。追加奉納された犠牲者のうち、過去1年間の死亡者の人数は、67年までは、100人未満、68年は121人であった。しかし、広島市が、市内の死亡者の中から被爆者を調査して追加奉納を行なうようになった69年以降は、1、000人を超えるようになった。
広島市は、市外の死亡者については、自動的に名簿に記載するという措置を取ることができないでいた。原爆医療法(1957年3月31日公布、正式名称:原子爆弾被爆者の医療等に関する法律)、原爆特別措置法(68年5月20日公布、正式名称:原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律)にもとづく行政事務は、広島・長崎両市を除き都道府県が担当しているからである。77年の場合、7月13日現在で名簿追加記帳予定者数は、1,664人(最終的には2,282人)であったが、そのうち、広島市の措置による数は、1,489人であり、遺族と名簿記入運動を進めている広島県原爆被害者団体協議会の届出分は、175人に過ぎない。この年、広島市を除く広島県内の被爆者健康手帳1,141人分が、所持者の死亡により県に返還されていた。しかし、広島県が、記帳の申し出は遺族の自主判断に任せるという方針を採っていたため、県から市へ記帳対象者として連絡されることはなかった(「読売新聞」1977年7月22日)。このような死亡時の居住地による名簿記帳手続き上の差異を無くするため、広島市は、80年、全国の原爆被爆者対策担当窓口に死没者名簿登載申請書を送った。また翌81年には、長崎市と連名で、知事 、政令市市長などを通じて、全国の遺族に犠牲者の名簿記載を呼びかけ、さらに82年には各地の被爆者団体にも働きかけを行なった。
年々の追加奉納数は、表3のように1972年と83年を画期として、それぞれ2,000人、4,000人を超えるようになっており、85年と90年には顕著な増加を示した。85年の急増は、前年、被爆者関係のデ-タ処理をそれまでの片仮名処理から漢字処理に変更した広島県が、被爆者健康手帳が交付されるようになった57年以降の死亡による手帳返還者2万865人の名前を広島市に提供したことによる。また、90年の急増は、85年に厚生省が実施した死没者調査で新たに判明した5,551人の犠牲者名が加えられたためである。
原爆死没者名簿の奉納は、一貫して市長の役割であった(ただし、1960年のみ県知事と共同で行なった)。その補助者を、69年までは市の職員が務めていたが、翌年からは遺族代表が務めるようになった。70年の補助者に選ばれたのは、この年に新たに名簿に追加された2人の死没者の遺族であった。その後、補助者は、2人(男女)が通例となった。ただ、追加者数の多かった85年と90年には3人が務めている。
原爆死没者名簿(仏式で「過去帳」とも呼ばれる)には、俗名・死没年月日・享年が記入されている。奉納された簿冊の数は、1952年の15冊から始まり、91年には、57冊となった。

 

灯ろう流し(平和式典の関連行事)

平和式典の関連行事

(3) 灯ろう流し
1947年(昭和22年)7月14日、広島市内の日蓮門下寺院8か寺の僧侶13人と広島立正婦人協会員1、000人が中島本町慈仙寺鼻の供養塔で臨川大施我鬼法要を執行した。供養塔での読経終了後、3隻の発動機船に分乗し、本川の三篠橋から播磨橋の間を往復、原爆犠牲者の戒名、俗名などをしたためた経木を川に流して、水供養を行なった。こうした特定の宗派による爆心地付近の川での慰霊行事は、これ以外にも、同年8月5日(広島県宗教連盟)、翌48年7月31日(日蓮宗)、51年7月11日(日蓮宗)、54年8月6日(本願寺広島別院)の行事が、新聞で紹介されている。
1948年の平和祭行事の一つに東部商店連盟が猿猴川で開催した「川祭」(8月6-7日)があった。その模様は、つぎのように報じられている。

広島市的場大通商店街では、戦災死者および幾多の死没者の霊を弔うため6日、的場町太陽館前広場に「法界万霊戦死者供養塔」を建て、午前11時と午後9時法要を厳修、また午後7時からは猿猴川で川施餓鬼を催し華やかな灯篭流しに平和祭の偉観をそえる。   (「中国新聞」48年8月3日)
翌49年にも同所で同様の行事が行なわれ、50年(または51年)からは、中国商店街連合会が、元安川で灯ろう流しを始めた(「中国新聞」1956年8月5日)。また、49年には、江波青年会が、8月6日に河川で死没した原爆犠牲者の「霊を慰めますと同時に其冥福を祈り且つ平和への犠牲に対する感謝の祈りを捧」げるため川供養を計画している(江波青年会革新同盟の広島平和協会長あて「助成金申請」49年7月16日)。これが実行されたかどうかは、不明であるが、52年の平和記念日の夜に、本川青年団が、相生橋下で灯ろう400個を流したことは、新聞で報道されている。

宗教団体、商店街、青年団などにより始められた灯ろう流しは、1952年からは、「ひろしま川祭委員会」により、大規模に実施されるようになった。この委員会は、広島市、市教委、市観光協会、広島商工会議所、FK、国際文化協会、中国新聞社が、「原爆犠牲者の霊を慰めるとともに大衆への慰安をも併せ行い、春の広島まつりとともに広島の2大年中行事」にしようとの意図で結成したもので(「中国新聞」52年7月23日)、第1回の「ひろしま川祭」は、52年8月9日と10日の両日開催された。9日の行事は花火大会と灯ろう流しで、午後7時半から10時半まで、供養塔前と本川橋側水上で、大小500発の打ち上げ花火と仕掛花火20数掛が使用され、また、相生橋河畔で、満潮時に2、000個の灯ろうが流された。10日の行事は市民水上音楽会であり、午後7時から10時半過ぎまで、原爆ドーム前の元安川に浮かべられた船を舞台に開催された。出演したのは、広島邦楽研究会、銀声会合唱団、広島放送管弦楽団、広島フィルハーモニー、花柳寿鶴社中であった。
1953年の第2回の川祭では、6日から8日の夜の満潮時に、元安川と本川で2、000個の灯ろうが流され、8日に、水上音楽会と花火大会が開催された。54年の第3回川祭では、8月6日と7日の両日、平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑前で花火大会が開催され、6日から8日にかけて七つの川で灯ろう流しがおこなわれた。その実施状況はつぎのようなものであった。

中部地区=6-8日、大仏殿前元安川河畔、2、000灯
横川地区=7-8日、横川橋下、700灯
己斐地区=6-7日、己斐橋、1、000灯
十日市地区=6日、本川小学校横河畔、300灯
鷹野橋地区=6日、明治橋下、700灯
駅前地区=6-7日、駅前橋下北側、800灯
段原地区=7日、大正橋下、300灯

この年には、8月6日午後8時から、世界平和広島仏舎利塔建設会、広島大仏奉賛会や本願寺広島別院による灯ろう流しも実施され、平和記念日の夜の広島の川は、多数の灯ろうで彩られた。
1955年の第4回からの川祭の行事は、8月6日夜の灯ろう流しと7日夜の平和公園内での慰霊花火大会となった。6日夜の灯ろう流しは、その後も続けられ、現在に至っている。91年には、広島祭委員会、中国新聞社、広島市商店街連合会の共催により、つぎの5か所で、計9,200個の灯ろうが流された。

駅前地区(駅前大橋北詰の西)  400個
中央地区(原爆ドームの南側) 7,000個
鷹の橋地区(明治橋東詰の南側) 700個
福島地区(新己斐橋東詰の南側) 600個
己斐地区(新己斐橋西詰の南側) 500個

広島祭委員会は、1959年から灯ろう流しと花火大会のほかに、市民盆おどり大会を市民球場で開催するようになった。また、65年からは、盆踊大会と花火大会が、灯ろう流しとは切り離され、太田川夏祭として開催されている。

 

原爆罹災者名簿等の公開(平和式典の関連行事)

平和式典の関連行事
(2) 原爆罹災者名簿等の公開
原爆死没者慰霊碑に奉納された原爆死没者名簿は、当初、公開されていた。また、原爆供養塔開眼を目前に控えた1955年8月1日、原爆供養塔の氏名判明遺骨2,432人の氏名が市の社会課によって公表された。これらの名簿の公表は、それぞれ関係者の大きな関心をあつめた。
被爆から20年ほど経過した広島では、原爆被災の実態を改めて見直す動きが、さまざまな形で生まれた。主な動きだけでも、1964年10月の談和会による原水爆被災白書作成の提唱、12月の広島市内11団体による広島市への原爆ドーム永久保存の要請、同月の厚生省による原爆被爆者実態調査費の65年度予算への要求、66年8月放送のNHKテレビ番組「カメラリポート・爆心半径500メートル」放映を契機に始まった原爆爆心地復元運動、同月から始まった広島原爆戦災誌の執筆、68年2月の原爆被災資料広島研究会の結成などがあげられる。こうした被災実態への関心の高まりを背景として、68年には、被爆直後に作成された原爆罹災者名簿がつぎつぎに発掘された。広島市は、これらの名簿14点、1万5,922人分を、68年7月20日から8月5日まで、広島平和記念館で公開した。名簿公開は、翌年以降も続けられ、公開される名簿は、年々増加し、90年には、83点(2万3,039人分)となっている。
被爆30年の1975年、広島市は、原爆供養塔に納骨されている犠牲者の遺骨の名簿を全国に送付することとし、7月28日から全国3,379の市町村あてに発送を始めた。この名簿は、55年に初めて公表され、68年に始まった名簿公開の会場で閲覧に供されていたが、広島市が積極的に全国に働きかけたのは初めてのことであった。その背景には、戦後30年経過し、遺家族や関係者が全国に散在しているとの判断があった。名前や収集場所の分かっている遺骨は2,432柱であったが、このうち、91年までの名簿公開で1,487人の遺骨の身元が判明した。
1985年、広島市が、市内の区役所、出張所、公民館に、一枚の紙に印刷した名簿を掲示したところ、12月下旬までに16家族が遺骨を引き取り、26家族が名乗り出るなどの成果があった。このため、広島市は、名簿の全国公開を、被爆40年の85年にふたたび実施することとした。85年7月3日、全国約890の自治体に「原爆供養塔納骨名簿」(1,080人分)を発送し、同月15日から10月31日まで全国一斉に掲示してもらうよう依頼した。全国公開は、この年以後、毎年実施されるようになった。91年には、948人分の名簿が発送された。

原爆供養塔合同慰霊祭(平和式典の関連行事)

平和式典の関連行事
(1)原爆供養塔合同慰霊祭
1947年(昭和22年)8月6日、前年に引き続いて慈仙寺鼻の戦災供養礼拝堂で広島宗教連盟主催のもとに慰霊祭が執行された。慰霊祭は、午前7時に仏式から始まり、キリスト教、教派神道、神社庁式の順に正午まで続いた。49年のこの行事の式次は広島市戦災死没者供養会が発行した「広島市戦災死没者慰霊祭執行について」と題する案内状により詳細に知ることができる。これによれば、8月6日午前6時半から7時半の1時間、宗教連盟主催の行事を行ない、平和式典開催時間(8時15分-9時15分)の中断後、9時半に再開、新教(プロテスタント)、天理教、浄土宗、旧教(カトリック)、日蓮宗、真宗本派、真宗大派、真言宗、曹洞・臨済宗の各派の順にそれぞれ1時間ずつ法要を執行し、午後6時半に終了することになっている。この行事は、平和祭の中断した50年にも執行されており、平和記念日の諸行事の中で、翌年から現在まで開催され続けている唯一のものである。
原爆被爆直後、広島から重傷者約2、000人が宇品港から海上約6キロメートル沖の似島の陸軍検疫所に送られた。7日朝までの死亡者約400人は、火葬に付されたが、相ついで死亡した約1、500人の死体は、火葬が間に合わず、同島南岸の横穴と露天の防空壕に土葬されていた(「中国新聞」47年10月14日)。1947年9月25日、広島市議会は、「広島市戦災死歿者似島供養塔」(千人塚)の建設費30万円を可決し、似島に眠る無縁仏を弔うこととした。発掘作業は、9月下旬から開始され(この時行われた放射能調査では、掘り出された骨から放射能が検出された)、11月13日、供養塔の除幕式および追悼法要が、日本宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会の共催で死没者遺家族約300人の参列のもとに開催された。翌48年の平和記念日からは、宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会が、中島の供養礼拝堂と似島供養塔の両所で慰霊祭を行なうようになり、54年まで続けられた。
1950年3月、それまで宗教連盟とともに慰霊祭を行ない、戦災供養塔を管理していた広島市戦災死没者供養会が、政教分離を求めるポツダム政令にもとづいて広島市の管理からはずされることになった(「中国新聞」55年2月15日)。そこで、同年5月、これに代わる民間団体として広島戦災供養会が結成された。同会は、分散している無縁仏を一か所に納骨するための堂の建設や戦災死没者名簿作製、祭祀法要の執行などを計画し、50年11月8日につぎのような請願書を広島市長に提出した。
現在市内数ケ所にある戦災者の遺骨は約30万柱あるが、これを一ケ所に集め明年の8月6日には、この新納骨塔で戦災供養を行ない霊を慰めたい。場所は、広島城、大本営跡の西側で、建設に要する費用約500万円を県および市で負担し、この納骨堂の傍らへ平和会館(仮称)を建設し、平和に関する研究所、図書館、会議場などを設けてもらいたい。
(「中国新聞」50年11月9日)
この請願書を付託された市議会の建設委員会は、同地が文化財保護法の適用を受けているので、使用を認めず、現在地への再建を認めた。しかし、市当局は、中島公園を平和記念公園として建設する計画から、墓地と同性格の納骨堂の公園内建設に難色を示し、この問題は停滞状態を続けることとなった(「中国新聞」53年11月25日)。
原爆犠牲者の遺骨については、講和条約発効前後から、大きな社会問題となっていた。新聞には、つぎのような動きが取り上げられている。
51年2月20日、山口県熊毛郡伊保庄村専唱寺で保管されていた元陸軍病院跡で発掘された1、288柱の遺骨が広島県世話課と復員連絡局広島支部に引き取られる。53年3月24日、中島供養塔[戦災供養塔のこと]で合同慰霊祭を執行。終了後、原爆死没者分1,232柱は、中島供養塔に、外地戦没者分56柱は、比治山納骨堂に納骨。
52年7月4日、金輪島で原爆犠牲者の遺骨29柱が見つかる。7月10日、坂村に160体以上の遺骨が眠るとの情報。29日、千田町で42体、31日、二葉山麓で52体発掘。これらの内、引取り手の無い遺骨506柱が、中島の供養塔に合祀されることになり、8月5日、納骨法要を供養会主催で執行。
53年2月、市内己斐西本町の善法寺に数百の無縁仏のあることが判明。
53年8月6日、安芸郡府中町、龍仙寺の遺骨143柱を広島市に移管。
54年4月19日、県病院職員の遺骨66柱を中島供養塔へ移す。
こうした動向は、納骨場所としての原爆供養塔建設問題に新たな進展をもたらした。1954年、広島市は、建設から8年を経過し、くち果てた姿になっている戦災供養塔の再建を検討するため、広島市供養塔建設対策委員会(委員長:坂田修一助役)を設置した。5月29日に初会合が開かれ、以後協議を重ねたが、50年当時と同様の問題から、なかなか結論に達しなかった。55年2月14日に開催された第5回委員会で、原爆供養塔の敷地は、市民感情と既成事実を尊重して、現在地を可とするとの市長への答申を決定した。一方、広島戦災供養会も、6月3日の理事会で原爆供養塔再建問題を協議し、荘厳なものを条件に市に一任し、再建資金45万円を市に寄付することを決定した。これを受けた市は、予算150万円で8月6日までに再建することとした。
原爆供養塔(設計は市立浅野図書館設計者の石本喜久治が担当)は、6月15日の地鎮祭を経て、7月20日に完成した。8月4日に、似島(約2,000柱)、己斐(約500柱)などの遺骨が移管、収納され、5日に完工式と開眼法要が挙行された。また、広島戦災供養会も、原爆供養塔の建立に合わせて供養塔北側に新塔婆を建立し、8月5日、開眼法要を執行した。塔婆に使用された木は、宮崎県の有志から寄贈された160年の古杉で、周囲3尺、高さ33尺、重量4トンという大きなものであった。
広島市社会課は、1957年にかけて、市内および市周辺の遺骨の掘り起こしと移管を行ない、遺骨の収納をほぼ終了し終えた(「中国新聞(夕刊)」61年8月13日)。しかし、遺骨は、その後も、市内の工事現場から発見されたり、被爆直後犠牲者の収容作業に当たった人々の証言などにより新たに発掘された。特に71年に広島市が実施した似島での発掘作業では、220体分という大量の遺骨が発掘された。こうした遺骨は、その都度、原爆供養塔に収納されている。現在、氏名の判明している948人の遺骨と、約7万人の無縁仏の遺骨が納められている。

黙とうのひろがり(平和式典への関心)

平和式典への関心

(2)黙とうのひろがり

「8月6日を祈りの日に」との声は、1963年(昭和38年)の第9回原水爆禁止世界大会の混乱を契機に、大きな動きに発展した。広島県議会は、64年3月23日、「原爆記念日を静かな祈りの日にしよう」との意見書を採択した。この意見書は、自民党議員会所属の議員が提出したものである。社会党など所属の6人の議員は、意見書に「昨年の8月6日は広島県、市民の感情をよそに慰霊碑前広場が赤旗に埋まった・・・・」などの表現があることや議事手続きに誤りがあるとして、議決に加わらなかったが、自民党議員会、県政刷新クラブ(民社系)、公明会の3派で可決した。また、3月31日には、広島県原爆被爆者援護対策協議会(略称=県原援協)が主催した原爆被爆者援護対策懇談会でも、県内各市町村から参集した被爆者代表約200人が、平和式典は「被爆市民の哀情にそって敬けん厳粛に執行すること」などを要望した決議を行ない、国や関係団体に送付した。県原援協は、6月13日にも、県内の原水禁運動、被爆者、婦人団体の代表に参集を求め、8月6日の行事について協議を行なった。その結果、この年は、各団体とも静かな慰霊行事を中心とした大会を計画し、平和公園広場は使用しないという方針と原 爆投下時刻に1分間の黙とうをささげる県民運動を呼びかけることを申し合わせた。

この年、広島県は、8月6日の8時15分(7月24日、知事名)と8月15日の正午(8月10日、民生労働部長名)に、それぞれ1分間の黙とうを行なうよう県民に呼びかけた。7月24日の知事の呼びかけは、県原援協などの要望を受け入れてなされたものと思われる。一方、8月10日の民生労働部長の呼びかけは、政府の要請(1964年4月24日の閣議で、8月15日に第2回全国戦没者追悼式を靖国神社境内で開催することとし、8月15日正午の黙とうを国民に呼びかけることを決定)によるものであった。同年6月14日、日本原水爆被害者団体協議会の全国理事会も、広島・長崎への原爆投下日に日の丸の半旗を掲げ、被爆時刻に1分間の黙とうをする国民運動を起こすことを決定した。この決定は、「対立した原水禁運動を超越する国民運動のおんどを日本被団協がとる方法として8月6日から同18日までを国民総反省旬間とし、旬間中は日の丸の半旗を掲げる運動を起こそう」との関東甲信越代表理事の提案が具体化したものであった。提案には8月15日の黙とうも含まれていたが、疑義が出され、原爆投下日の黙とうのみが決まった。

広島県知事は、1964年から毎年、県民に原爆投下時刻の黙とうを呼びかけるようになった。また、広島市は、73年7月20日に、8月9日の原爆投下時刻に1分間の黙とうを市民に呼びかけることを決定した。長崎市が前年8月6日に実施し、広島に呼びかけていたもので、この年から広島・長崎両市の「黙とうの連帯」が始まった。また、73年には、埼玉県庁が、被爆地以外の県庁としては初めて、広島・長崎の原爆被爆時刻に黙とうを実施した。

一部の原水禁団体や労働組合は、早い時期に「黙とう」を取り上げていた。高知県原水協は、1957年に8月6日の原爆投下時刻に県民が一斉に黙とうをささげるよう、県内の諸団体に呼びかけた。また、59年には、国鉄労組と機関車労組が、広島の平和記念日の正午に一斉に列車と電車の汽笛を鳴らして黙とうをささげるよう各支部に指令し、炭労は、同日の一番方の入坑前に、また、全国税は、当日午前9時に、それぞれ1分間の黙とうを実施している。こうした呼びかけは、原水禁運動の分裂を契機に途絶えていたが、70年代後半に、ふたたび復活した。78年7月26日、県労会議と県労被爆連(正式名称:広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会)は、広島県知事と市長に、8月6日午前8時15分から1分間、①県内すべての職場、家庭に呼びかけ、平和祈念の黙とうをささげる、②道路上のすべての車もストップさせる、③全市町村は一斉にサイレンなどの合図で、住民に平和祈念を呼びかける、④この運動は少なくとも隣接県にも呼びかけ協力を求めることを申し入れた。この年には市内の市関係施設87か所のサイレンと寺院・教会130か所の鐘が鳴らされ、市民に黙とうが呼びかけられた。また、55年に始ま った広島電鉄と広島バスの車両の黙とうへの参加は、64年以降中断していたが、この年復活した。電車70台とバス約300台が、黙とうに参加した。

広島県知事と市長は、1979年には黙とうの呼びかけを県内のみでなく中国地方5県と愛媛と香川をあわせた7県にひろげた。さらに、翌80年には47都道府県知事と9政令指定都市長あてに「原爆死没者の慰霊並びに平和祈念の黙とうについて」と題する文書を発送し、黙とうを呼びかけた。こうした呼びかけに対して、いくつかの県が応じた。79年には、鳥取県が行政無線を通じて各市町村に伝達している。また、共同通信社の調査によれば、80年には17県と1政令市(川崎市)、翌81年には25道府県と2政令市が呼びかけに応じた(「中国新聞(夕刊)」81年8月1日)。

1982年6月8日の全国市長会理事・評議員合同会議は、広島・長崎両市長の要請に応えて、両市の原爆被爆時刻に1分間の黙とうをすることを決定した。また、広島市は、翌83年から毎年、全国の都道府県市長会および広島県町村会に黙とうを呼びかけるようになった。これにより、82年の黙とう実施自治体は、487自治体(呼びかけた772自治体の63%)に急増、83年には703自治体(呼びかけた865自治体の81%)にまでなった。以後、自治体の黙とうへの取組み実施率は、80%台で定着し、現在に至っている。

黙とうへの取組みは、さまざまな形でなされている。京都府八幡市は、1983年8月6日、広島市の要請に応えて、広島市から取り寄せた「平和の鐘」の録音テープ(平和式典で録音されたもの)を市役所屋上のスピーカーから流した。京都府原爆被災者の会は、85年の平和記念日に先立ち、府内3,096の寺院、110の教会に対し、8月6日と9日の両日、「平和の鐘」を鳴らすよう要請した文書を郵送した。また、86年7月10日、奈良市も、同市議会が85年12月に非核平和都市宣言を行なったことを受けて、広島・長崎両市の原爆被爆時刻に鐘を鳴らし1分間の黙とうを行なうよう、市内と県内の非核平和都市宣言を行なっている7市の寺院、教会および各官庁、民間企業、家庭に呼びかけている。90年には、全国で751自治体が黙とうを周知させる取組みを行なったが、周知方法で最も多いのは、「広報紙で周知」(52%)であり、「サイレン」(32%)、「有線・無線放送」(29%)と続いている。

 

市民の関心(平和式典への関心)

平和式典への関心

(1)市民の関心

広島市は、1950年(昭和20年)2月、平和祭についての原爆体験者の世論調査(市調査課「広島原爆体験者についての産業奨励館保存の是非と平和祭への批判と希望に関する世論調査」49年10月実施)の結果を公表した。「いままでの平和祭についてどう思うか」との問いにたいして、「今の通りでよい」と答えた者は23%にすぎず、67%の者は「今の通りではいけない」と答え、その理由として、「お祭りさわぎすぎる」(64%)、「関係者だけで形式的だ」(14%)「ムダな費用で意義ない」(14%)などをあげた。また、「これからの平和祭に対する希望」としては、61%が「地味にやる」と答え、「お祭りのようにやる」との答えは25.5%にすぎなかった(「中国新聞」50年2月11日)。この結果は、広島市民が、平和祭に必ずしも満足していなかったことを示している。
1954年以降、原水爆禁止運動が全国的に展開されるようになり、平和記念日前後に広島で大会を開催するようになった。大会参加者の多くが、平和式典に参列したことにより、式典は全県的あるいは全国的性格を帯びるようになった。一方、8月6日の平和祭や大会に困惑し、この日を静かに過ごしたいという気持ちは、市民の間に根強く存在していた。広島市は、50年3月2日、広島市議会の「8月6日を平和の日として国民の祝祭日に加えられるよう要望の件」という決議(49年2月1日)の趣旨を具体化するため国会に提出する草案を完成した。しかし、この草案にたいして、8月6日は祝日ではなく、「全市民の哀悼の日」、「なくなった人々をしのび、平和を祈念する日」とすべきであるとの投書が新聞に寄せられた(「中国新聞」50年3月16日、6月14日)。こうした市民の声は、原水爆禁止運動が高揚する56年には、組織的な動きに発展した。同年4月19日、宇野正一、相原はる、島本正次郎ら5人は、つぎのように呼びかけた。
・・・さて、「原爆の日」のあり方について例年8月6日には、平和祭が行われ原水爆禁止、世界平和運動等いろいろな集会が催されて居りますが、一方では競輪、モーターボートも開催され、一部の市民は祭日気分になり、一部の市民は犠牲者の供養をし、一部の市民労働組合はメーデーの二番煎じの様な行事をやる等の状態であって、何か原爆被災の地広島市民の原爆投下の悲しき日の送り方としてそぐわぬものを感じますので吾々発起人有志を以って種々協議の結果、8月6日を「犠牲者に対する追悼自粛の日」と  して市民各戸に半旗(弔旗)を掲げて27万人の犠牲者に対し哀悼の意を表する市民運動を致し度いと思います・・・
(宇野正一など「(協議会への)案内状」56年4月19日)
1956年6月13日には、宇品地区原爆被害者の会(会長相原はる)が同様の主旨の請願書を広島市議会に提出した。第5回原水爆禁止世界大会の開催された59年には、この動きは、大きな広がりを見せた。広島県宗教連盟は、7月の理事会で世界大会に連盟として参加しないことを決めるとともに、8月6日を「この日の追憶を新たにして亡き人々へ心から敬弔の意を表明するとともに、平和開顕の念願をさらに強調するため」「全市各戸ごとに弔旗を掲げる運動」を提唱した(広島県宗教連盟、広島市仏教会、広島県神社庁など「趣意書」)。
平和式典の性格は、1952年以降、「慰霊」と「平和」の両面を持っていた。8月6日を祈りの日にとの声は、「慰霊」の側面の強化を求めたものと理解できる。これとは逆に、60年安保改定反対闘争の高揚を反映し、60年の式典に対しては、「平和」の立場からの批判が表面化した。60年7月29日、全日自労広島分会の代表は、浜井広島市長に、この年の県・市共同主催の式典が、来賓中心である、一部勢力の一方的な政治行事化するおそれがある、8月6日が単なる“祈りの日”に後退するのではないか、などの危惧を申し入れた。また、7月31日の広島県原水協の全県協議会でも「知名士を招いて、単に“祈り”の行事に後退したもので原水爆禁止の目標や行動が不明確だ」との批判が出されている。
平和式典に対する市民の関心は、占領期と1960年前後を除き、表面化することはなかった。1967年以降、広島市市長室公聴課に寄せられた意見の統計によれば、67年以降5年間に「原爆」、「平和」、「慰霊碑文」については、それぞれ233件、201件、74件となっているが、平和式典に関するものは9件にすぎない(広島市市長室公聴課「市民の声」)。
1960年代後半から、マスコミが原爆に関する市民の世論調査を行なうようになった。中国新聞の調査(68年)は、被爆者、非被爆者500人ずつの計1,000人を対象として実施されたが、67年の平和式典への出席状況に対する回答は、「参加した」は32%(被爆者)、20%(非被爆者)であり、「公園には出かけたが式には出ない」は、10%(被爆者)、12%(非被爆者)であった。RCC(70年実施、対象者520人)、NHK(72年実施、対象者1,000人)の調査では、8月6日の過ごし方が質問されたが、「記念式典に出席する」(RCC)、「平和記念式典や慰霊祭に参加した」(NHK)との回答は、それぞれ11.5%、11.6%であった。また、NHKが、1975年からも5年ごとに同様の世論調査を実施しているが、その結果は、表9のとおりであった。
中国新聞の調査では、式典への参加者が多いが、NHKとRCCの調査では、式典に参加する市民の割合は、ほぼ1割にとどまっている。また、NHKの継続調査の結果は、年の経過とともに、「『原爆の日』と関係なく過ごした」の割合が増加するのと逆に、「式典などへの参加」は、確実に減少している様子を示している。
NHKによる継続調査の結果によれば、市民の半数以上が8月6日に「祈り」という行動を行なっているが、このことは、市民の多くが、式典に参加はしないものの、この日に対して無関心ではないことを示している。このような市民の消極的関心は、平和式典の存廃についての態度にも現れている。1968年の中国新聞、75年と80年のNHKの世論調査の結果によれば、「やめたほうがよい」との回答は数%にすぎず、87%から96%の市民は、「平和式典を続けるべきだ」あるいは「形を変えて続けるべきだ」と回答している。式典を「形を変えて続けるべきだ」との回答は、1968年の中国新聞の調査では、被爆者で11%、非被爆者で16%であり、75年のNHKの調査では25%、80年のNHKの調査では20%であった。
式典の改善策については、広島市の平和文化推進審議会(1967年12月発足)の中で、様々な意見が述べられている。ここでは、式典の形式主義、形骸化、マンネリ化が批判され、「被爆者を全面に出すべき」、「被爆体験継承の場に」、「平和宣言に具体的な内容を盛り込め」などの具体的な改善策が出された。広島市は、こうした批判を踏まえ、式典にさまざまな工夫を加えてきた。しかし、世論調査の結果が示しているように、式典への参加者の減少傾向と原爆の日への無関心層の増大傾向を止めることはできていない。

参列者数(平和式典の参列者)

平和式典の参列者
(1) 参列者数
中国新聞は、1949年(昭和24年)8月6日に広島市外から市内に入り込んだ人の数を、広島駅の4万人、横川駅の8,000人、己斐駅の3,500人の利用者数から、約7万人と推定した。また、当日の市内の模様を、「平和式典終了後アミューズメント・タウン、本通り、流川通り、駅付近や繁華街は100度[華氏]を超える炎暑にもめげず人の波はあとをたたず、正午をすぎたころからは劇場、各催し場は超満員のいも洗いぶり」と報じている(「中国新聞」49年8月7日)。しかし、この年の平和式典の参列者数は、市発表によれば約3,000人であった。こうした参加者数の落差は、参加者の関心が、式典以外の平和祭関連の諸種の催しに向いていたことを示すものであろう。
その後の式典の参列者数は、中国新聞の報道によれば、1951年約2,000人、52年約1,000人、53年約3,000人となっている。51年10月19日に児童文化会館前広場(49年の平和式典会場)で開催された戦後初めての広島県戦没者合同慰霊祭(広島県遺族厚生連盟主催)には、県内約7万の戦没者を追悼するため1万2,000人が参列し、翌52年5月2日に同所で開催された独立後初の戦没者追悼式(広島県・市主催)には約1万人、呉市で開催された追悼式(呉市主催)には、5,000人が参列している。これらと比較すれば、広島市の平和式典は、参列者の規模からみて、県レベルのものとは言えず、広島市の行事にすぎないものであった。
ある市民は、1952年8月6日の平和記念公園には、四つの群が存在したと書き残している。

第1の群=「慈仙寺鼻の仮の堂や、その周辺に設けられていた様々な供養碑の前に、線香の束をたき、花をそなえて、あの日に死んで行った人達の霊をとむらう老若男女が数百人、引きも切らず夫々の思いをこめて頭を垂れていた。」
第2の群=第1の群から200メートルほど離れた位置に設営された平和記念式典会場。「一杯入れば4、5万人は収容出来ると云われる緑の芝生の上に参会した市民の数は僅かにほぼ200名」。
第3の群=「之を傍観する数百人である。広い芝生の周囲には鉄条網がはりめぐらされ通路の正面が一カ所開いているだけであるが、見物人はこれをとりまいて遠くから眺めるのである。」
第4の群=広島平和市民大会への参加者。
(朝野明夫「四つの群」、『広島平和問題懇話会会誌創刊号』1952年12月)

1953年の状況については、森戸辰男広島大学長(元文相)の証言がある。8月6日午前10時35分から20分間、読売新聞社の飛行機上から広島市内を観察した森戸は、その印象をつぎのように記した。
眼をうつすと慰霊碑に参拝する人々の列が長く続いている。その北方の児童文化会館広場では働く人たちの集い、総評主催の広島平和大会が開かれている。そして先ほど終了した平和まつり[平和式典=筆者注]と合せて三様の人波がそれぞれ特色をもってこの日の広島を表現していた。
(「読売新聞」1953年8月7日)

ところが、1954年には、式典への参列者数は2万人となった。この年3月1日に南太平洋ビキニ環礁で発生した日本のまぐろ漁船第五福龍丸の水爆被災事件を契機に、全国各地で原水爆禁止の運動が沸き起こった。広島県内でも婦人団体、労組、民主団体などが、7月2日に原・水爆禁止広島県民運動本部を発足させ、原水爆禁止を求める100万人の署名運動を展開した。8月6日には、同本部が、平和式典に引き続いて、原爆・水爆禁止広島平和大会を開催することを計画した。また、広島県労会議(正式名称:広島県労働組合会議)が中心となって結成した8・6平和週間実行委員会も、8月3日の会合で、6日には「広島市・広島平和協会共催の平和式典、県民運動本部主催の原・水爆禁止広島平和大会には約4万名が家族連れで参加する」ことを決定している(「中国新聞」54年8月5日)。参列者数が、数千台から数万台へ飛躍したのは、これらへの参加者が式典に参列したためであった。52年、53年の状況と比較すれば、52年の第3・第4の群や53年の平和大会の「人波」が、平和式典に合流したと考えることができる。
1955年には、8月6日から3日間、広島市を舞台に原水爆禁止世界大会(第1回)が開催され、平和式典への参列者数は5万人を数えた。54年の式典の基盤が、全県レベルのものであるとすれば、55年のそれは、全国レベルあるいは国際レベルのものであった。
その後、式典の参列者数は、2万から5万人の間で推移し、85年以降は5万人台で定着している。91年の参列者数は、広島市の発表によれば5万5,000人であった。

 

宣言の主体、対象、形式(平和宣言)

平和宣言

(1) 宣言の主体、対象、形式

平和式典の中で、平和宣言を読み上げたのは、浜井信三(1947-54年、59-66年)、渡辺忠雄(55-58年)、山田節男(67-74年)、荒木武(75-90年)、平岡敬(91年)の5人の広島市長であった。歴代市長のうち、浜井、渡辺、荒木の3市長は、原爆の直接体験者であった。
平和宣言は、1950年(昭和25年)には、式典の中止により読み上げられることはなかった。また、翌51年には、宣言は発表されず、そのかわり、市長のあいさつがなされた。
宣言の主体は、慣例として、市長個人ではなく、「広島市民の代表としての広島市長」あるいは「被爆体験を持つ広島市民の代表としての広島市長」であった。例えば、「われら広島市民」(1947年)、「原爆を体験したわれわれ」(55年)という表現が用いられている。ところが、91年の宣言は、「平和への不断の努力を市民の皆様とともにお誓いする」と結ばれている。英文では、この主語は、「We」ではなく、「I」であり、市長個人が主体として宣言に登場した初めての例であった。なお、54年までは、宣言主体の肩書に、「広島市長」の他に、「広島平和祭協会長」(47年)、あるいは「広島平和協会長」(48年、54年)が付されている。
1947年と48年の宣言は、最後をそれぞれ、「ここに平和塔の下、われらはかくの如く平和を宣言する」、「戦災3周年の歴史的記念日に当り、我等はかくの如く誓い平和を中外に宣言する」と結んだ。当初の宣言は、このように自らの誓いを内外に明らかにするということを目的としていた。ところが、51年以降、宣言の対象が、具体的に文面に表現されるようになった。51年には、「犠牲者の霊を慰めるとともに・・・平和都市建設の礎とならんことを誓うものである」と結んでおり、慰めの対象として「犠牲者の霊」が現れた。また、翌52年には「・・・尊い精霊たちの前に誓うものである」と結び、「精霊」が宣言の対象の一つとして明確に表現された。さらに、54年には、宣言の対象として「全世界に訴える」という表現が使用された。これ以後、宣言の中には、この三つの要素(「誓い」、「慰霊」、「世界への訴え」)が、常に盛り込まれるようになった。
宣言の長さは、読み上げる市長により大きく変化している。字数で見ると、1947年の最初の宣言は、約830字であった。これは、47年から66年までの浜井、渡辺両市長の宣言の中では、最も長いものであった。最も短いのは、54年の320字であり、最初のものと比べて半分以下となっている。しかし、67年から74年の山田市長の時期には、字数はほぼ800字代で定着した。75年以降の荒木市長の時期には、字数は更に増え、88年から90年の3年間は、1,500字前後にまでなっている。最も短い54年のものと比較すると、5倍近くなったことになる。
このほか、元号で表記されていた宣言の日付に1991年に初めて西暦が併記されたことも、宣言の形式に現れた変化の一つである。

式次第

平和式典の式次第
(1) 式次第
式次第の要素の中には、最初から一貫して存在するもの、当初には存在していたのに消えたものや、ある年のみに存在したもの、新たに加わったものがある。表2は、1947年(昭和22年)・52年・91年の式典の式次第を比較したものである。これにより、「平和の歌合唱」、「平和宣言」、「平和の鐘・黙とう(47年では平和の祈り)」、「放鳩」、「メッセージ(91年ではあいさつ)」といった要素が、順序は異なるものの、共通に存在しているがわかる。このうち「放鳩」以外は、最初から一貫して式次第に存在しているものである。
「放鳩」は、1947年の第1回平和祭から存在した。この年には、「平和のシンボル白鳩10羽が中村商工会議所会頭によって手放された」と報じられている(「中国新聞」47年8月7日)。48年には、ミスヒロシマの手によって鳩が放たれた。また、49年の鳩10羽は、くす玉に入れられており、前年同様、ミスヒロシマがくす玉を開いて、鳩を放している。当時、広島には鳩は居らず、その入手には、苦労をした模様で、放鳩に使用されたのは白鳩ではなく黒い鳩であったとか、鳩は九州の新聞社から借用したといったエピソードが伝えられている。「放鳩」は、51年から53年の式次第では消えたが、54年に再び現れた。放たれた鳩の数は、54年から59年にかけては500羽から700羽、60年から66年には1、000羽、67年と68年には1、400羽、69年以降は1、500羽と報じられている。
1947年の式次第にある「平和記念樹植樹」は、これ以後3回存在して姿を消した。「祝電披露」という表現は、51年以降は、用いられていない。単年のものとしては、「平和塔除幕」(47年)以外に、「詩・ヒロシマを思いて(大木惇夫作)」朗読、「くす玉開き」、「平和記念館設計当選者発表」(49年)、「慰霊祭」(51年)、「原爆死没者慰霊碑除幕」(52年)、「皇太子殿下追悼の言葉」(60年)、「扇ひろ子の原爆の子の像の歌」(64年)、「原爆死没者名簿引渡し」(90年)などがある。
「献花」は、1951年に現れているが、翌52年には存在せず、53年から「花輪奉呈」との名称で現れた。その後、68年に「献花」と改称され現在に至っている。また、70年以降は、「献花」に引き続いて「流れ献花」が設定された。「式辞」は、52年に現れ、現在に至っている。広島市議会議長が述べるのが通例であるが、広島県との共催で開催された60年の式典のみ、県知事が述べた。また、52年には、原爆死没者慰霊碑への「原爆死没者名簿奉納」が始まった。
開式の前であり、正確には式次第の要素とは言えないが、「献水」の行事が1974年から取り入れられた。これは、前年の長崎の式典に参列した山田広島市長が、長崎で採用されていたこの行事に感銘し、広島でも実施することとしたものである(「中国新聞」1974年7月2日)。広島市は、同年7月29日に献水の要領を決定したが、それによると、平和記念日当日早朝、市内の清流から水を集め、木曽さわら杉を使った水桶二つに入れ、式典直前に原爆死没者慰霊碑前に供え、式典後「平和の池」に注ぐことになっている(「毎日新聞」1974年7月30日)。清水を採る場所は、発足時は10か所であったが、91年には東区牛田新町浄水場、牛田新町天水、温品町清水谷、西区田方斉神、三滝町三滝、己斐上町滝の観音、安佐南区上安町荒谷山、緑井町権現山、沼田町大塚、安佐北区安佐町小河内、可部町福王寺、高陽町中深川、白木町秋山、安芸区矢野町尾崎、阿戸町景浦山、佐伯区五日市町屋代の16か所となっている。
1952年と91年の式次第は、「原爆死没者名簿奉納」→「式辞」→「献花(52年では欠)」→「黙とう・平和の鐘」→「平和宣言」→「放鳩」→「あいさつ」→「ひろしま平和の歌」である。ここでは、8時15分の「黙とう・平和の鐘」を、慰霊式と平和記(祈)念式の変わり目と理解することができる。ところが、54年から67年までは、「平和宣言」が「黙とう」より前に設定されており、式次第の上では、慰霊式と平和記念式の区別があいまいとなっていた。68年には、これがはっきり区別されるように変更された。しかし、この年からの式次第では、「ひろしま平和の歌」→「あいさつ」となっており、91年と完全に同じでない。現在の形式が定着するのは、1971年以降のことである。
平和式典の開催時間は、当初は(1947ー52年)、1時間が普通であった。ただ、慰霊祭が式次第に組み込まれた51年の式典は、8時半から11時(夏時間で、実際は7時半から10時)までの2時間半開催され、式典時間の中では最も長時間である。ところが、53年からは30分間が普通となり、70年以降は、40分間から50分の間で実施された。開始時刻は、49年以外はすべて原爆被爆時刻の午前8時15分を挟んで設定され、その時刻に「平和の鐘・黙とう」が行なわれた。49年の式典では、午前8時15分が開始時刻であり、「平和の鐘」から始められた。

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慰霊と平和(平和式典の原型)

慰霊と平和(平和式典の原型)

1947年(昭和22年)に始まった平和式典は、50年の中断はあったが、その後毎年開催された。初期の式典の名称は、広島市の文書や報道では、さまざまに表現されている。たとえば広島市の『市勢要覧』は、48年のものを「第2回平和祭」と呼んでおり、これによれば翌年のものは第3回に当たるはずであるが、「第4回平和祭」と表現している。こうした混乱は、46年の平和復興祭を平和式典の最初と考えるか、あるいは「第何回」という表現を「被爆何周年」の意味で使用したために起こったものである。91年の式典は、47年を第1回とすれば、44回目に当たるものであった。
式典の式次を、平和祭とそれ以後で比較すると、多くの共通点がある(後出「平和式典の式次第」参照)。しかし、式典の性格は、平和祭とそれ以後では大きく異なっている。平和祭の式典は、主催者により「平和運動」と意義づけられ、平和祭の諸行事の中で、広島市戦災死没者慰霊祭と並ぶ中心行事と位置づけられていた(『原爆市長』)。したがって、平和祭の式次には、慰霊の要素はみられず、平和宣言の中にも慰霊の言葉は含まれていない。ところが、1951年以降は、名称、式次、平和宣言それぞれに慰霊の要素が見られるようになった。特に、51年には、式次に「賛美歌合唱、献花、焼香、玉串礼拝」が加えられた一方で、平和宣言のかわりに市長の挨拶があったにとどまり、式典の雰囲気は慰霊祭に近いものであった。
1952年には、平和記念公園の中に原爆死没者慰霊碑(正式名称は広島平和都市記念碑)が建立され、式典をこの碑前で開催し、式典の中でこの慰霊碑に名簿を奉納するという形式が始まった。また、この年に復活した平和宣言には、「尊い精霊たちの前に誓う」という式典と原爆死没者との関係を示す言葉が盛り込まれた。これ以後、「慰霊」と「平和」という二つの性格を有する式典が開催されるようになった。

平和式典の会場-平和記念公園(市民の奉仕活動)

平和式典の会場-平和記念公園(市民の奉仕活動)

(3) 市民の奉仕活動

式典に備えての会場の清掃は、広島市の重要な業務であった。早い時期から市の幹部が先頭に立って実施することが慣例となっている。1965年(昭和40年)には7月31日に浜井広島市長始め市職員200人が、また、翌66年には8月1日に市職員500人からなる広島市都市美化推進本部(本部長:加藤政夫助役)が清掃を行なった。70年からは、7月5日にスタートした広島市の「シティ・クリーニング作戦」の一つとして清掃が行なわれるようになった。7月28日、山田広島市長を始め、市内38学区から約400人が集まって平和記念公園を清掃している。この時母体となったのは、広島市公衆衛生推進協議会(61年7月17日結成)で、これ以後、同協議会のメンバーと広島市の幹部職員とによる一斉清掃がなされるようになった。
平和記念日前に平和記念公園を清掃する人々の中には、さまざまな市民グループの姿も見られた。1953年8月5日には、戦災供養塔周辺を清掃する天理教信者など市民170人の姿があった。平和の灯奉賛会の人々は、64年に点灯して後、平和記念日前と年末に「平和の池」の清掃を実施している。また、69年からは、神崎小学校学区子供会が保護者とともに清掃奉仕活動を行なうようになった。このほかに、ローターアクトクラブ、金光教信者、安佐地区身体障害者連合会、共同石油広島支店社員、出光興産社員、西古谷子供会、老人クラブ、被爆者や遺族のグループなどが、一斉清掃に加わったり、独自に清掃作業を行なったことが、新聞報道により確認できる。
式典当日にも、多くの市民の協力が見られる。ボーイスカウト広島県連盟広島地区のメンバーは、、1968年に参道両側に花垣が設置されるまでは、式場中央に設けられる参道の警備に協力した。また、それ以後も、参列者が原爆死没者慰霊碑に供えるための花の手渡し(70年以降)や平和宣言パンフレットの配布(75年以降)を担当している。91年の式典では、400人のボーイスカウトが、式典会場での奉仕作業に参加した。広島茶業協同組合は、65年から会場での茶の接待を開始し、91年には、30人が1万杯の湯茶を提供した。また、広島市青年連合会も、68年以降、おしぼりの接待を行なっている。
広島花木地方卸売市場の株式会社「花満」は、「流れ献花」で使用される花100束を、この式次が1970年に採用されてから寄贈し続けている。また、同年には、市民一人一人が花一輪ずつを持参し、原爆死没者慰霊碑に供えようという「花一輪運動」が始まったが、広島県生花商組合は、花を持参しなかった参列者のために大量の花を寄贈している。91年には、キク、グラジオラス、ケイト、ユリ、バラなど17種類の花約2万本を寄贈した。
1954年から毎年、式典の中で大量の放鳩が行なわれている。この時使用される鳩は、各種の競翔団体から借り受けているが、91年には、広島中央競翔連合会、広島平和競翔連合会、山陽競翔連合会、日本伝書鳩協会(広島支部・広島北支部・呉支部)の提供によるものであった。

平和式典の会場-平和記念公園(設営)

平和式典の会場-平和記念公園(設営)

(2)
平和記念公園で初めて開催された1952年(昭和27年)の場合、式典会場には、わずかの椅子しか準備されておらず、大部分の人々は、座り込むか、立ったまま参列していた。64年以降、来賓や主催者以外の参列者への椅子席が設けられるようになった。64年に、遺族や老齢者のための椅子席が設けられ、その後、一般席(66年)、特別被爆者席(68年)、障害者席(81年)が設置された。椅子席の数は、新聞報道によれば、68年以後、約1万人分が設営されるようになっている。91年の場合、椅子席の合計は、1万2,945席で、その内訳は、特別来賓・主催者用480席、被爆者・遺族用3,000席、都道府県遺族代表用84席、認定被爆者用456席、身体障害者用54席、流れ献花者用96席、一般用8,775席であった。これらの椅子は、市内小中学校28校から借り集められた。
1991年の設営では、原爆死没者慰霊碑から広島平和記念資料館の間の広場のほぼ全面に椅子席が設けられた。しかし、それでも多くの参列者は、立ったまま参列しなければならなかった。この年の参列者は5万5,000人と発表されており、この年には、4万人以上が、式場周辺で立ったままの参列していたことになる。78年から、こうした参列者のために、式典モニターテレビが設置されるようになった。当初は、6台であったが、その後増設され、91年には16台が設置された。
このほか、合唱団・吹奏楽団用の山台の設置(1969年)、式台・鐘つき台の設置(70年)、献花台の設置(76年)などの改良が加えられた。また、70年に式典表示パネル「25周年広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が原爆資料館壁面に掲示され、75年からは、毎年掲示されるようになっている。

 

平和式典の会場-平和記念公園

(1) 平和式典の会場-平和記念公園

平和式典は、「平和広場」(1947と48年)、「市民広場」(49と50年、50年は予定)、戦災供養塔前(51年)と、その会場を転々と変えていた。しかし、52年(昭和27年)以降、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前で開催されるようになった。
平和記念公園には、戦前、中島本町、天神町、材木町、元柳町が存在し、店舗や住宅約700軒が密集していた。この地域は、原爆爆心地からほぼ500メートル圏内に位置しており、原爆攻撃により壊滅した。戦後、広島市は、この場所を、公園(中島公園)とすることを計画した。広島市は、1949年4月20日、この公園を平和記念公園として建設することとし、設計図を全国に公募した。7月18日に募集を締め切ったが、応募作品は145点におよんだ。この中から選ばれたのは、丹下健三ら4人の共同作品であった。
この公園は、広島平和記念都市建設法の公布(1949年8月6日)にともない、その裏づけのもとに建設されることとなった。49年10月3日、東京で平和文化都市建設協議会の第1回会合が開催されたが、そこでは平和の理想を象徴する平和記念施設として、①記念公園(平和公園)、②記念館、③記念街路(平和緑道)が建設されることとなった。
①は、本川と元安川に抱かれた三角州の頂点に位置する中島公園(=平和広場、3万2、200坪)とその東側対岸の4、800坪(旧広島県産業奨励館敷地)と、その東北に接続する旧広島城跡を中心とする中央公園(=市民広場、22万坪)を総合した公園とされた(その後、中央公園部分は平和公園から外される)。③は、中島公園南端を基点として、東西に伸びる延長約4、000メートル、幅員100メートルの街路であった(後に「平和大通り(百メートル道路)」と呼ばれる)。また、②は、中島公園およびその東側対岸に設置するものとし、その内容としては、つぎのようなものが考えられていた。
(a)平和会館 2、500人収容の会議室及び事務室、原爆関係資料陳列室等。
(b)平和アーチ 張間120メートル、高60メートル、頂点に五つの鐘を吊す。
(c)慰霊堂 原爆犠牲者の遺骨並びに銘を納める。
(d)原爆遺跡 原爆により破壊された旧産業奨励館の建物を補強し保存する。
(大島六七男「復興の足どり」)
1951年2月21日、東京で第4回広島平和記念都市建設専門委員会が開催された。この席上、浜井広島市長は、「今夏で7回忌を迎える原爆都市の慰霊塔関係の設立を急ぎたい」との意向を述べた。しかし、建設省は、広島市の納骨堂を含む「慰霊塔」案は、墓地であり、公園法の建前から認められないと、難色を示した。そこで広島市は、遺骨の代わりに名簿を奉納することとし、8月6日までの式典に間に合うように碑を建立することを決定した(「中国新聞」51年2月22日)。しかし、碑は、51年の8月6日には間に合わず、52年3月末着工した。
碑の設計者は、丹下健三であった。コンクリート素打の工法で埴輪をデフォルメした設計で、当初案の巨大な「平和アーチ」は、正面から見た底辺4.7メートル、高さ3.67メートル、横から見た上辺8.29メートル、下辺5.26メートルのはにわ型に縮小・変更された。原爆死没者名簿を奉納するため、碑の中央に黒い御影石製の矩形の箱が配置された。そして、この箱の正面には、雑賀忠義が作成した碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(雑賀の英訳:Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil.)が、刻み込まれた。この碑は、建立当時から「原爆慰霊碑(原爆死没者慰霊碑)」と呼ばれたが、碑の正式名称は、「広島平和都市記念碑」である。工費は、300万円であった。
一方、当初の案の「平和会館」は、その後、平和記念都市建設法にもとづき広島平和記念資料館(1951年3月着工、通称「原爆資料館」)、広島平和記念館(52年3月着工)の2施設として、また、広島市公会堂(53年11月着工)が、財界の寄付により着工され、55年の2月から8月にかけて竣工した(広島市役所『市勢要覧 昭和34年度』)。
平和記念公園は、公費とは別に、民間団体の寄贈によっても次第に整備された。広島市未亡人会は、1955年8月5日、原爆死没者慰霊碑前に花台を奉納した。建立以来碑前には、粗末な竹筒で花が供えられていたが、これを見かねた同会が原爆10周年を記念して送ったものであった。57年8月3日には、原爆死没者慰霊碑の周囲に完成した「平和の池」の贈呈除幕式が行なわれた。この発端となったのは、前年秋広島で開催された第5回日本青年会議所会員大会であった。大会では、「大会の記念事業として記念施設を広島に残そう」との決定がなされ、全国の青年会議所会員が20万円を寄せた。これを受けた広島市は、「業火のうちに散っていった20数万人の霊を慰めるため、原爆慰霊碑周囲三方に幅2メートルの池を掘り碑全体を浮上らせる」ことを決め、市費を加えて池を建設した(「中国新聞」57年8月1日)。また、63年4月29日の天皇誕生日には、広島日の丸会本部(高木尊之会長)が、平和公園に国旗掲揚台を設置し、市に寄贈した。
1963年6月、核兵器禁止平和建設広島県民会議は、原爆死没者慰霊碑付近にオリンピックの聖火台のような「平和の灯」を建設することを計画した。この計画は、同年12月3日の核禁会議全国幹部会で取り上げられ、核禁会議が700万円を募金することが決定された。灯の設計は、丹下健三が担当し、64年5月27日、「平和の灯」の起工式が挙行された。灯台は、原爆死没者慰霊碑と同じくコンクリート素打の工法で、高さ3メートル、幅13メートル、両手が力強く灯を掲げる姿を表現し、灯は、平和を求める積極的な姿を示したものであった。起工式に出席した丹下は、設計者としての意図を、「安らぎを象徴するハニワ型の慰霊碑だけではもういけない。いまひとつ動的な平和の象徴が必要な時代だ」と語っている(「中国新聞」64年5月28日)。「平和の灯」点灯式は、約1万人の参列のもとに64年8月1日午後7時から開始された。点灯に用いられた火は、伊勢神宮、東西両本願寺など全国12宗派から寄せられた「宗教の火」と溶鉱炉など全国の工業地帯から届けられた「産業の火」であった。
この後も、平和公園の整備が続いたが、その中で、1985年の原爆死没者慰霊碑の改築は、最も大きなできごとであった。広島市は、84年1月、碑改築の方針を発表した。その理由として、コンクリートの石灰分が表面に吹き出して中の鉄筋の腐食が進み、碑にひびが入ることが明らかになったこと、原爆死没者名簿が32冊入っているが、あと数冊の余裕しか残っていないことの二つがあげられた。改築工事は、同年7月23日から始められ、翌85年3月26日、新慰霊碑(旧慰霊碑と同型で材質はコンクリートからみかげ石に変更)の除幕式が行なわれた。

 

平和式典の主催者

平和式典の主催者

平和式典の初期の主催者は、広島平和祭協会(1948年6月広島平和協会と改称)であった。広島平和祭協会は、会則により、事務所を広島市役所内に置き(第1条)、会長は広島市長が就任することになっていた。しかし、副会長は「広島商工会議所会頭、市会議長及委員会デ選任セラレタルモノ」の3人(第4条)とされ、また、協会独自の予算をもっており、広島市とは独立した組織であった。第2回平和祭が開催された48年度(昭和23年度)決算の場合、分担金収入は158万7,800円であり、その内訳は、広島市60万円、広島県30万円、正会員分担金 68万7,800円(289口)となっている(「昭和23年度広島平和協会事業報告」)。また、50年度予算では、収入総額250万円のうち、広島市が150万円、広島県が50万円をそれぞれ分担することになっていた(「昭和25年度広島平和協会収支予算書(案)」)。

マスコミは、毎年8月6日が近付くと平和協会の平和式典への取組を報道していたが、1952年以降、そうした報道は見られなくなった。平和式典は、52年から54年までは、広島市と平和協会で共催されたことになっている。しかし、平和協会はすでに有名無実化しており、54年に改組の動きが見られた。7月13日、原・水爆禁止広島県民運動連絡本部は、平和記念日の行事に関する第1回準備委員会を開催し、その中で、広島平和協会を解消し、「民主、婦人、PTA、労組、宗教、文化、教組など平和につながる各種団体を網らした新しい平和協会を8月6日までに結成」することを申し合わせた(「中国新聞」54年7月15日)。浜井広島市長は、この動きを了解するとともに、平和式典の市との共催を止め、当初のように平和協会のみで開催したい意向も持っていたと伝えられる(「中国新聞」54年7月25日)。しかし、これは、市議会の反対により実現しなかった。平和協会は、7月29日、委員会を開催し、これまでどおり広島市と平和協会の共催で式典を開催することと、平和式典の予算32万7,000円(広島市が20万円、県が10万円を助成)を決定した。

平和式典は、1955年からは、広島市が単独で主催するようになった。その後、60年のみ、県と共催で開催された。これは、県からの強い働きかけの結果であり、その経緯はつぎのようなものであった。
1960年1月21日、平塩五男広島県議会議長は、木野広島市議会議長に対し、8月6日に県・市合同の原爆死没者慰霊祭を開きたい旨の申し入れを行なった。そして、翌22日には、広島県・市両議会の正副議長名で、同様の声明を発表した(「中国新聞」60年1月23日)。2月17日、この慰霊祭について県・市、県・市両議会の4者代表者会議が持たれ、まず県議会側からつぎの説明がなされた。

①昨年12月の県会で、原爆15周年の県慰霊祭開催を決議している。
②できれば、県・市合同で開きたい。
③同慰霊祭には皇太子殿下[明仁親王、現天皇]をお招きするほか、岸首相、衆・参両院議長、各党党首の参列を求める。
④慰霊祭は全県民の祈りにふさわしく、8月6日の午前8時15分を中心に開きたい。

これに対し、市と市議会側は、「8月6日の平和記念式典は9年間の歴史的行事なので、8時15分は避けて開くことはできない。合同慰霊祭の趣旨には賛成だが、二つの集会の場所や時間的な問題を検討したうえで次回の会議で結論を出したい」と即答を避けた(「中国新聞」1960年2月18日)。

2回目の会合は2月26日に開かれ、4者の間で、(1)慰霊祭と平和記念式を共同主催で行なう、(2)開催時刻は原爆が投下された午前8時15分を中心に午前7時半ごろから同8時半までとし、平和記念公園(原爆死没者慰霊碑前を予定)で開く、(3)具体的な計画は四者の代表で準備委員会をつくってすすめる、との3点が確認された。3月28日には、準備委員会の構成と式典に皇太子を始め岸首相、衆参両院議長、各政党代表を招待することを決定した。5月8日の第1回準備委員会では、式典の正式名称を「原爆15周年慰霊式並びに平和記念式典」とすること、当日弔旗を掲げること、式典には政治的・思想的な団体の参加をいっさい認めず、静かに原爆犠牲者の冥福を祈る日とするなどの方針が決定された。その後、5月9日、大原知事による皇太子夫妻の参列要請、7月中旬、県議会3党(自民、社会、民社)派代表による党首参列折衝、県教委と県体協による原爆15周年平和記念総合体育大会および県内4コースからの線香リレーの具体化など、それまでの式典前にはみられなかった大規模な準備が進められた。

平和式典略年表

平和式典略年表

年月日
1945年(昭和20年)
8月 6日 午前8時15分、広島市に原子(ウラン)爆弾投下される
8月 9日 午前11時2分、長崎市に原子(プルトニウム)爆弾投下される。
8月15日 正午、「終戦詔書」放送。
9月 9日 広島県警察部、戦災行方不明者の取り扱いについて通達。空襲後、2週間たっても行方不明の者は死亡と認める。
9月19日 GHQ,プレスコードを指令。以後、「原爆報道」が激減。
11月17日 広島市、原爆による死亡者の遺骨の引き渡し事務を一旦打ち切り(収容遺骨約9,000柱のうち約3,000柱が引き取らる)。
11月30日 広島県、原子爆弾による人的被害をまとめる(軍関係を除く)。死者7万8,150人。12月 6日 広島市、保管していた氏名住所不明の原爆死亡者の遺骨約6,000柱を、市内善法寺へ移す。
1946年(昭和21年)
4月29日 広島市、戦災供養塔の建設案決定。場所・爆心地の中島慈仙寺鼻、予算75万円、広島市戦災死没者供養会をつくり建設費の寄付を募るなど。7月 -日 広島市、爆心地の慈仙寺鼻に戦災礼拝堂を建設。工費7万3,600円。
8月 5日 平和復興広島市民大会、元護国神社前で開催。7,000人参加。広島市、市内8か所 で、原子爆弾症医療無料相談所開設(~7日)。
8月 6日 広島市で、戦災死没者一周年追悼法会(広島市、各宗連盟県支部、広島市戦災死没者供養会共催)。
5月22日 広島市の戦災死没者遺骨収容大供養週間(広島市、市戦災死没者供養会、広島県仏教連合会、広島市町会連盟主催)始まる。26日まで各町内会で遺骨収容。
5月26日 広島市慈仙寺で戦災供養塔開眼法要。27日、同寺で戦災供養法会(広島市戦災死没者供養会主催)。
7月31日 広島市の引き取り手のない原爆死没者遺骨4,500柱(戦災死没者遺骨収容大供養週間中に発掘・収容した2,300柱と市が保管中の2,200柱)、市内善法寺に安置。
8月 6日 戦災供養塔納骨堂に合祀。
1947年(昭和22年)
4月17日 浜井信三、広島市長に就任。
5月 3日 日本国憲法施行。
6月20日 広島平和祭協会設立の打ち合せ会を広島商工会議所で開催。役員など決定。
7月18日 寺田広島市議会議長、GHQに陳情。GHQ,平和祭へ関心を示す。
7月22日 広島平和祭協会、募集していた「平和の歌」(重園贇雄作詩)、爆心地慈仙寺鼻広場(「平和広場」)、護国神社前広場(「市民広場」)の名称の入選作品を発表。
8月 1日 日本医療団広島県中央病院、「平和祭診断会」を開始(7日まで)。
8月 1日 広島逓信局、原爆2周年記念スタンプを捺印(~15日)。
8月 3日 マッカッサーの特使田上寛中尉、浜井広島市長にメッセージを手交。
8月 5日 広島宗教連盟、慰霊船を元安川に出して川供養を執行。
 8月 6日  平和祭式典(第1回)、広島市の平和広場で開催。平和塔を除幕。NHK広島中央放送局(FK)、平和祭式典を実況中継。
 1948年(昭和23年)
5月 -日 広島市土木課、爆心地慈仙寺鼻中島公園を文化的平和的理想記念公園とするため、設計図を公募することを計画。
6月14日 広島市平和祭協会、48年度第1回総会を開催。協会名を平和協会と改称。
8月 5日 広島平和祭協会、平和美術展覧会を袋町小学校で開催(~14日)
 8月 6日 平和祭式典(第2回)、広島市の平和広場で開催。英連邦軍総司令官ロバートソン中将、クロワード広島軍政部長、濠州国会議員団8名、森戸文部大臣などが参列。
〇 浜井広島市長、世界160都市市長宛にメッセージを送付。
〇約1,000名の花行進、慈仙寺鼻戦災供養塔前を出発、八丁堀、本通り、市庁舎前と行進。
〇 広島平和協会、NHK「世界の音楽」公開演奏会を広島児童文化会館で開催。
〇 日本宗教連盟広島県支部・広島市戦災死没者供養会、中島戦災供養塔前と似島供養塔前で慰霊祭を執行。似島での慰霊祭は初。
8月 8日 広島平和協会、広島こども会を児童文化会館で開催。
8月 9日 長崎市、文化祭式典(初)を浦上原爆基点地で開催。
 1949年(昭和24年)
5月11日 広島平和記念都市建設法と長崎国際文化都市建設法、成立。それぞれ住民投票を経て8月6日、9日公布。
8月 1日 広島市(広島平和協会)の平和祭行事始まる。原爆写真公開展覧会(1-10日 中国新聞社ホール)、浮世絵展覧会(3ー16日、福屋百貨店)、平和音楽会(6-7日、児童文化会館)、平和子供会(8日、児童文化会館)。
8月 4日 広島市、平和祭ポスターと式典招待状を全国の都道府県知事、268市長、県内全市町村に発送。
8月 5日 第3回マッカッサー元帥杯競技大会、広島中央運動庭球場、公民館で開催。
8月 5日 広島銅合金鋳造会寄贈の「平和の鐘」、市民広場の鐘楼に設置。
8月 6日 平和祭式典(第3回)、市民広場(児童文化会館前)で開催。約3,000人が参列。
8月 6日 平和婦人大会、児童文化会館で開催。1,000余名が参加。
8月 6日 浜井広島市長と仁都栗市議会議長、連名でトルーマン大統領にメッセージを送付。
 1950年(昭和25年)
3月19日 平和擁護世界大会常任委員会第3回総会、ストックホルム・アピールを採択。
5月 -日 広島戦災供養会結成。広島市内数か所に納骨してある原爆死没者無縁仏遺骨を一
堂に納骨する納骨堂建設、戦災死没者名簿の作成を計画。
6月25日 朝鮮戦争始まる。
8月 2日 広島平和協会、緊急常任委員会を開催。平和祭を中止することを決定。
8月 6日 広島市内2か所で非合法の平和集会開催される。
11月 8日 広島戦災供養会、広島市内に分散仮葬してある戦災者の遺骨を一か所に集めた新
納骨供養塔建設の請願書を広島市長に提出。
 1951年(昭和26年)
5月10日 広島市中島本町の平和塔の撤去作業開始。
5月 -日 広島市調査課、原爆死没者名簿作成のため死没者調査を実施。
8月06日 中島戦災供養塔前で慰霊祭と平和記念式典を挙行。中国新聞社、米空軍岩国基地の要請で、朝鮮動乱に50回以上出撃したパイロット20数名を慰霊祭に招待。
9月 9日 対日講和条約調印。
10月19日 広島県遺族厚生連盟、第1回戦没者合同慰霊祭を広島市児童文化会館前広場で開催。約1万5,000名が参加。
11月14 日 広島市、強制作業中の原爆犠牲者12万8,000人の靖国神社合祀と、遺族を戦争遺家 族援護の対象に入れるよう国会請願展開。広島市議会議員ら、参院遺家族等援護 小委員会で請願の主旨説明(15日には衆院)。
  1952年(昭和27年)
4月28日 対日講和条約発効。
8月 6日 広島市慰霊式並びに平和記念式典(以下、広島市平和式典と略称)。平和記念 公園で原爆死没者慰霊碑除幕、原爆死没者名簿(過去帳)奉納。約1,000名参列。
8月 9日 ひろしま川祭(第1回)(~10日)。
  1953年(昭和28年)
8月 6日 広島市平和式典。約3,000人が参列。市長らによる原爆死没者慰霊碑への「花輪奉呈」実施(初)。読売、朝日、中国各社の専用機、式典会場に花束を投下。
ひろしま川祭委員会、元安川と本川で2,000個のとうろう流しを実施(~8日)。
  1954年(昭和29年)
3月 1日 米、南太平洋マーシャル群島で水爆実験。マグロ漁船第五福龍丸、ビキニ環礁東方110キロメートルで「死の灰」を浴びる。
8月 6日 広島市平和式典。高松宮夫妻出席。2万人参列。「遺族代表」が「花輪奉呈」(初)。中国地方競翔部、「平和宣言」終了と同時に式典会場で鳩700羽を放つ。原・水爆禁止広島県民運動連絡本部、式典終了後、原爆・水爆禁止広島平和大会を平和記念広場で開催。約2万名が参加。
9月 4日 広島市、世界の主要都市市98、平和団体29、計127か所へ平和宣言を発送。モスクワ、スターリングラード、北京など共産圏へは初めての13通を含む。
  1955年(昭和30年)
4月30日 広島市長選挙。渡辺忠雄当選。
5月30日 広島平和記念館落成式。
8月 5日 広島戦災供養会、慈仙寺鼻で原爆供養塔の落成式を挙行。
8月 5日 広島平和美術展(第1回)、平和記念館で開催(~8日)。
8月 6日 広島市平和式典。5万人参列。
8月 6日 原水爆禁止世界大会(第1回)、広島市で開催(~8日)。
8月24日 広島平和記念資料館開館。
  1956年(昭和31年)
5月 1日 広島市、平和宣言への海外の反響をまとめる。発送数141通(うち共産圏16通)、返書238通(うち共産圏82通)。
8月 6日 広島市平和式典。2万人参列。
  1957年(昭和32年)
4月 1日 原子爆弾被爆者の医療等に関する法律施行。
8月 3日 原爆死没者慰霊碑周辺の「平和の池」、贈呈除幕式。
8月 6日 広島市平和式典。三笠宮夫妻出席。2万人参列。「原爆乙女」が「平和の鐘」を点打。
  1958年(昭和33年)
8月 6日 広島市平和式典。高松宮夫妻出席。3万人参列。
  1959年(昭和34年)
7月 -日 広島県宗教連盟、8月6日に各戸に弔旗を掲げ、静かに死没者の冥福を祈る運動を展開することを申し合わせる。
8月 5日 第5回原水爆禁止世界大会、広島市で開催(~7日)。
8月 6日 広島市平和式典。3万人参列。
  1960年(昭和35年)
1月21日 広島県議会議長、市議会議長に「8月6日に県・市合同の原爆死没者慰霊祭を開きたい」と申し入れる。
7月23日 広島県・市、平和式典への参列を呼びかけるポスター5,000枚とチラシ5万枚を全国各都道府県、県内市町村、団体へ送付。県内各市町村に当日8時15分にサイレン、鐘を鳴らすよう要請。
7月29日 全日自労広島分会、広島県に慰霊式がお祭り騒ぎにならないよう申し入れる。
8月 4日 線香リレー、府中市役所(東部コース)と庄原市役所(北部コース)を出発。
8月 6日 広島県・市共催、平和式典。皇太子、中山マサ厚生大臣、清瀬衆議院議長、各政党代表など参列。約4万人が参列。
8月 6日 原爆15周年記念総合体育大会、広島市内の22会場で開催 (~7日)。
  1961年(昭和36年)
8月 6日 広島市平和式典、小雨の中(初)で開催。約3万人が参列。「被爆者代表」が「献花」(初)。
  1962年(昭和37年)
8月 6日 広島市平和式典。約3万人が参列。
  1963年(昭和38年)
8月 5日 第9回原水爆禁止世界大会、広島市で開催。
8月 6日 広島市平和式典。約3万人が参列。「平和の鐘」点打の役を「被爆者」から「遺族」に代わる。
8月17日 広島県原爆被爆者援護対策協議会、広島市原爆被爆者協議会など11団体代表、県庁で原水爆禁止世界大会の批判会を開催。今後8月6日を中心とした5日間の平和公園や公共施設の平和団体への貸付は慎重にと県・市に申し入れることを決定。
8月21日 広島市遺族会、県社会福祉協議会、県婦連など12団体、県知事に、原水禁大会を公共施設から締め出すよう申し入れる。
  1964年(昭和39年)
3月23日 広島県議会、原爆記念日を祈りの日にするとの意見書を採択。
6月 5日 広島市、平和記念日を中心とした3日間は平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前広場を一般団体の集会に使わせない方針を決定。
6月13日 広島県原爆被爆者対策協議会(平塩五男会長)のよびかけで原水禁運動、被爆者、 婦人団体の代表者会議を県庁で開催。8月6日に全県民で黙祷を行なうことを申し 合わせる。
7月24日 永野広島県知事、8月6日に全県民が黙祷するよう呼びかける(初)。
8月 1日 平和の灯点灯式。
8月 6日 広島市平和式典。小雨の中、約3万5,000人が参列。
  1965年(昭和40年)
6月23日 浜井広島市長、平和式典への首相の出席を要請することを明らかにする。
8月 6日 広島市平和式典。橋本内閣官房長官が首相代理で出席。約3万人が参列。(台風 15号の影響)
  1966年(昭和41年)
8月 6日 広島市平和式典。約3万人が参列。
  1967年(昭和42年)
4月28日 広島市長選挙。山田節男当選。
8月 6日 広島市、平和式典。3万5,000人が参列。「平和の鐘」に香取正彦寄贈の鐘が初めて使用される。
  1968年(昭和43年)
5月20日 原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律公布。
5月27日 広島市平和文化推進審議会(67年12月発足)、5回目の会合を開催。平和記念式典のあり方をめぐり意見交換。
6月24日 広島市、平和式典に原水禁団体や世界連邦運動団体の代表を招待すると発表。
6月25日 広島市、平和式典の実施要綱を決定。「平和祈念式」と名称変更。式典会場に被爆者席を特設。
7月20日 広島市、原爆罹災者名簿の一般公開を広島平和記念館で実施(-8月5日)(初)。
8月 5日 広島市、第1回「平和を語る市民の集い」、「平和への夕べ」音楽会(第1回)を開催。
8月 6日 広島市、平和式典を挙行。約4万人が参列。ローマ法王パウロ6世がメッセージを寄せる。会場に被爆者席300席を特設、式の開始時に「慰霊の曲」、献花時に「礼拝の曲」を演奏(初)。
  1969年(昭和44年)
8月 6日 広島市平和式典。約4万9,000人が参列。韓国居留民団広島県本部の婦人約30人、 チョゴリ姿で平和式典に初参列。広島ベ平連、広島市の平和式典終了後、平和記念公園でフォーク反戦集会を開催。
8月 6日 8・6広島反戦集会、広島大学本部構内で開催。約300人参加。午後6時過ぎから約1,500人が平和記念公園へ向けてデモ。
  1970年(昭和45年)
6月16日 広島県被団協(森滝理事長)、広島市に平和式典のあり方の大幅修正を申し入れ。
6月18日 広島市、平和文化推進審議会を開催。平和宣言について意見聴取。
7月18日 広島市、8・6式典に一般市民代表50人の流れ献花を加える。南北朝鮮から一人ずつ参加を求める。
7月28日 広島市公衆衛生推進協議会、平和記念公園を一斉清掃(初)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万人が参列。RCC,宇宙衛星で国際中継放映。
8月 6日 原爆記録映画「ヒロシマ・原爆の記録」、一般公開。
  1971年(昭和46年)
5月11日 佐藤首相、広島市の平和式典に参列するむねを表明。
7月 5日 被爆者青年同盟代表、首相の8・6出席は許せないと広島市に申し入れ。
7月13日 原水禁国民会議、佐藤首相あての核問題についての公開質問状を竹下官房長官に手渡す。式典終了までに回答を求める。
7月 -日 長崎市、原爆犠牲者慰霊祭と平和祈念式を分離して実施することを決定。これまでは、原爆慰霊奉賛会と長崎市が合同主催で実施。
7月27日 日本被団協、佐藤首相あての「被爆者問題に関する要望書」を竹下官房長官に手渡す。
7月31日 広島県原水協と県被団協、来広予定の佐藤首相あての被爆者援護強化要望書を広
島市に託す。
8月 4日 広島県警察本部、8・6平和式典警備本部を設置。県警察始まって以来最高の2,700人の制・私服警官を配置の予定。
8月 5日 学生各派、広島駅周辺で佐藤首相来広抗議のデモ。
8月 6日 広島市平和式典。佐藤首相、船田中衆議院議長参列。雨の中、約3万人が参列。佐 藤首相、広島の式典終了後、広島平和記念資料館、原爆被爆者養護ホームを訪問。     広島県知事と広島市長、広島県庁で佐藤首相に被爆者援護対策について陳情。
 8月 7日 日本被団協、佐藤首相の広島訪問について被爆者援護策が無いとの声明を発表。
8月21日 広島地検、平和式典で佐藤首相に突進した女子学生を処分保留のまま釈放。
  1972年(昭和47年)
7月28日 広島市、平和式典の要綱を決定。衆参議長の代読は中止(初)。
8月 6日 広島市平和式典開催。約4万人が参列。長崎市の卜部助役と宮崎市議会議長が公式に参列(初)。1958年以来14年ぶりの静かな一日。
  1973年(昭和48年)
7月18日 広島県被団協、山田市長に平和式典で若者の誓いを述べさせたいと要望。
8月 6日 広島市平和式典。約4万人が参列。長崎市長、初参列。
8月 6日 埼玉県庁職員、午前9時から原爆被災者の冥福を祈って1分間の黙祷。9日にも。県庁では全国初。
8月 6日 原水爆禁止西宮市協議会の被爆者37人、広島市の平和式典に参列。(初)
8月 9日 長崎市、平和祈念式を挙行。山田広島市長、初参列。約1万1000人が参列。
8月 9日 広島市、長崎原爆被爆時刻にサイレンを鳴らす(初)。
  1974年(昭和49年)
7月 1日 広島市、平和式典に「献水」を取り入れる方針を決定。
8月 1日 山田広島市長、外国の元首・大統領など首脳に平和宣言を送るよう指示。
8月 1日 広島平和記念館で「市民の描いた原爆の絵」の公開始まる(~6日)。
8月 2日 屋良朝苗沖縄県知事の広島市平和式典への出席が決定。宮沢広島県知事の招待。
8月 5日 田中厚生大臣、広島被爆者団体連絡会議の6人と会見。現職の厚生大臣が広島で被爆者団体の要望を聞くのは初めて。
8月 6日 広島市平和式典。約4万人が参列。
  1975年(昭和50年)
2月23日 広島市長選挙。荒木武当選。
5月19日 桧垣益人広島県被団協事務局長ら6人、平和式典を被爆者、遺族本位にして欲しいと荒木広島市長に申し入れる。
8月 2日 広島市、平和式典参列者に「平和宣言」文を配布することを決定(初)。
8月 6日 広島県公安委員会と広島市、午前7時から3時間、平和公園前の平和大通り900メー トルを車両通行止めとする。(初)
8月 6日 広島市平和式典。約4万人が参列。ラロック米海軍退役少将など参列。
8月 -日 広島市の平和宣言に対する反響が届く。国外250通のうち108社は報道機関向けで初めての試み。
  1976年(昭和51年)
8月 6日 広島市平和式典。三木首相、据石和米国原爆被爆者協会副会長など、約4万人列。在米被爆者の代表としては初参加。三木首相、式典終了後15分間広島県庁で被爆者代表5人の声を聞く。
12月 1日 広島・長崎両市長、国連を訪問し、事務総長と総会議長に核兵器廃絶への措置を要請。
  1977年(昭和52年)
5月14日 広島・長崎両市長、国連事務総長と国連総会議長に平和式典への招請状を発送。31日、国連総会議長の広島・長崎平和式典への参列が決定。
7月 1日 広島平和文化センタ-、理事・評議員の合同会議を開催。平和宣言について討議。
8月 5日 アメラシンゲ国連総会議長、広島市の原爆死没者慰霊碑に参拝、広島平和記念資料館、広島原爆病院を訪問。
8月 6日 広島市平和式典。アメラシンゲ国連総会議長、韓国人原爆被害者協会の被爆者9人、など約5万人が参列。ワルトハイム国連事務総長、メッセージを寄せる。
  1978年(昭和53年)
7月18日 広島市、平和式典の実施要綱を決定。会場周辺に6台のモニターテレビを設置することを決定。
7月26日 広島県労会議と県労被爆連、県知事と市長に8月6日を祈りの日にするよう申し入れ。
8月 6日 広島市平和式典。約4万人が参列。
8月 6日 広島電鉄と広島バス、原爆投下時刻に市内を走る電車とバスを一斉に止め黙とう。1955-63年に実施し、中断していたのを復活。
  1979年(昭和54年)
2月20日 広島市、平和式典に各国駐日大使を招請することを決定。
7月16日 広島市、平和式典の内容を決定。原爆投下時刻の黙とうを中国地方全県と愛媛、香川両県に呼びかけることなどを決める。
7月17日 広島県原水禁と県労被爆連、8月6日に全県的に黙とうをし、全国へも呼びかけるよう広島県知事と広島市長に申し入れ。
8月 6日 広島市平和式典。雨の中3万人が参列。
  1980年(昭和55年)
7月14日 広島市、平和式典の内容を決定。全都道府県に黙とうを呼びかける。
8月 6日 広島市平和式典。雨の中、約3万5,000人が参列。式典が国庫補助(300万円)の対象となる(初)。
  1981年(昭和56年)
6月 -日 国際軍縮促進議員連盟、広島・長崎の平和式典に代表を出席させることを決定。
6月29日 広島・長崎両市、全国の都道府県・政令市に原爆犠牲者名簿への記載協力要請文書を発送。広島は、前年単独で依頼。
8月 5日 広島市、各国や都道府県に発送している平和宣言に、意見や提言を求める要望文を添える(初)ことを決定。
8月 6日 広島市平和式典。鈴木善幸首相、全国都道府県遺族代表が参列(初)。約4万人が 参列。
8月 6日 平和を語る青年の集いのメンバーら約150人、原爆ドーム横で原爆投下時刻にダイイン。(初)
11月25日 広島市、平和宣言に対するアンケート(前年に続き2回目)の回答を海外33か国の128人から受け取る。
  1982年(昭和57年)
6月 8日 全国市長会、理事・評議員合同会議で広島・長崎の原爆投下時刻に黙祷を実施することを決定。
7月26日 国際軍縮促進議員連盟、8月6日の広島市平和式典に代表を派遣することを決定。
8月 6日 広島市平和式典。約4万3,000人が参列。非核自治体宣言をした沖縄県北中城村など8市町村の首長、式典に参列。兵庫県被団協のメンバー(18名)、同県費補助で来広し、参列。
  1983年(昭和58年)
1月20日 広島・長崎両市長、連名で海外23か国72都市に「核兵器廃絶に向けての都市連帯」を呼びかけるメッセージを送付。
5月14日 広島・長崎両市、連名で全国の地方自治体に「原爆死没者の慰霊と平和祈念の黙とう」を呼びかける文書を発送。
7月11日 広島県被団協など4団体、広島県・市に谷川防衛庁長官の平和式典への出席を拒否する意向表明。19日、広島県原水禁、平和式典に出席予定の中曽根首相に公開質 問状を発送。この後も、広島県原水協(21日)、広島被爆者団体連絡会議(27日)、広島県労青年部など(8月2日)の抗議行動が続く。
8月 6日 広島県警、広島市の平和式典開催で2,500人の警察官を動員。過去最高。
8月 6日 広島市平和式典。中曽根康弘首相、谷川和穂防衛庁長官参列。約4万8,000人が参列。
8月 6日 京都府八幡市、「平和の鐘」の録音テープ流し、市民らに原爆投下時刻の黙とうを呼びかける。
12月28日 広島市、市内10か所に平和宣言文のパネル板を設置。
  1984年(昭和59年)
7月21日 甲府市(1982年に「核兵器廃絶平和都市」宣言)広島市の平和式典に市民代表約50人を派遣することを決定。
7月23日 原爆死没者慰霊碑の改築工事始まる。
8月 6日 広島市平和式典。約4万5,000人が参列。特別名誉市民フロイド・シュモーら参列。
10月 8日 広島市、平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑改築で、仮設慰霊碑の設置工事開始。11月27日、過去帳を仮慰霊碑に移し替え。
  1985年(昭和60年)
3月26日 広島市の平和記念公園の新原爆死没者慰霊碑、完成し、除幕式。
4月24日 米のCBSテレビ(本社ニューヨーク)、広島市の平和式典を実況中継することが決定。(米へ中継で放送されるのは初)
6月 4日 広島市の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑献花台、取り換えられ、新しく設置。
7月 3日 広島市、原爆供養塔納骨名簿を全国約890の自治体に発送。
8月 5日 第1回世界平和連帯都市市長会議、広島市で開幕(~9日)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人が参列。中曽根首相参列。在外被爆者初めて献花。
  1986年(昭和61年)
7月10日 奈良市、 8月 6・9日の原爆投下時刻に寺院の鐘をつくよう同市内の寺院に、協力を呼びかけ(初)。
7月12日 広島市、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の敷石改修工事を開始(21日まで)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万人が参列。非核都市宣言自治体連絡協議会代表100人が参 列。
8月 6日 「’86平和サミットinヒロシマ」、広島厚生年金会館で開催。
8月15日 全国戦没者追悼式 (政府主催) 、東京で開催 (約7,900人参列) 。原爆死没者遺族(約90人) 、今年初めて国費で招請され、参加。
1112 中曽根前首相の句碑、平和公園に隣接する河岸緑地に建立。
  1987年(昭和62年)
8月 -日 広島市視力障害者福祉協会、平和式典での広島市長による平和宣言を点訳し、全 国に配布。平和宣言の点訳は初。
8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人参列。中曽根首相、参列(3回目)。
8月 6日 「’87ジャーナリスト国際平和シンポジウム」、広島厚生年金会館で開催。
  1988年(昭和63年)
8月 6日 KDD、広島市平和式典などを海外に伝えようと、平和記念公園に無料サービスの国際電話(5台)を設置(午前10時-正午まで)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万人参列。「ストップ・ザ・戦争への道!ひろしま講座」など市民団体、「朝鮮人被爆者慰霊碑の平和公園内建立」などを訴えたチラシ「市民による平和宣言」を平和式典参加者らに配布。
8月 6日 「’88青年国際平和シンポジウム・イン・ヒロシマ」、広島厚生年金会館で開催。
  1989年(平成元年)
6月28日 広島市議会、広島市の8・6休日(事務休停日)存続を、国に要望する意見書を採択。同休日は、1947年制定以来、祈りと平和希求の日として定着しており、存続に配慮の要請。
7月 1日 広島国際会議場開館。
8月 5日 第2回世界平和連帯都市市長会議、広島市で開幕(~9日)。
8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人参列)。宇野宗佑首相、参列。
  1990年(平成2年)
8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人参列。海部首相、参列。広島県・市の在外被爆者招待事業で来広中の被爆者、平和式典に参列。
8月 6日 「’90女性国際平和シンポジウム・イン・ヒロシマ」、広島国際会議場で開催。
1991年(平成3年)
2月 3日 広島市長選挙。平岡敬当選。
3月12日 地方自治体独自の休日の認定を盛り込んだ地方自治法改正案、衆院地方行政委員
会で可決。これによって、広島市の8・6休日が法的に認知される。
7月 3日 「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心にむ集会」実行委員会、8月6日の平和式典を、日本の戦争責任への反省を盛り込んだ式にするよう広島市に要望書を提出。
7月13日 広島市、「平和宣言」について市民から聴取した意見の概要を公表。「わかりやすく、平易に」・「アジアに謝罪の言葉を」など。
8月 3日 第7回世界テレビ映像祭、広島国際会議場で開催。(-4日)
 8月 6日 広島市平和式典。約5万5,000人参列。海部首相、昨夏に次いで2回目の参列。平岡広島市長、平和宣言の中で、アジアへの加害責任を初めて謝罪し、被爆地として世界の核被害者の救援を推進する責務を強調。演奏旅行で来日中のフィンランド のタピオラ少年少女合唱団(39人)、式典の「ひろしま平和の歌」の合唱に参加。合唱団への外国人の参加はハノーバー合唱団に次ぎ2度目。
8月 6日 国際平和シンポジウム、広島国際会議場で開催。
8月 6日 中国新聞社、広島市長が平和宣言でアジアへの謝罪を表明したことについて、平和公園で50人にアンケート調査。それによると、66%が肯定的意見。
1992年(平成4年)
1993年(平成5年)
1994年(平成6年)
1995年(平成7年)
1996年(平成8年)
1997年(平成8年)
2021(令和3)年
0806
 00:00   地球平和監視時計(広島平和記念資料館内)「広島への原爆投下からの日数 27759」、「最後の核実験からの日数 249<2010年11月の米国未臨界実験>」
  06:00  原爆ドーム周辺。
 静かな8月6日を願う広島市民の会の数十人、「8月6日は慰霊の日静かに祈ろう」と書かれたプラカードを掲げる。
 8・6ヒロシマ大行動実行委員会の100人以上、拡声器を使用して集会。

 

平和集会・シンポジウム(平和式典の関連行事)

平和集会・シンポジウム(平和式典の関連行事)

戦後の平和記念日には、被爆の翌年から毎年、さまざまな行事が、繰り広げられてきた。その中には、平和記念公園内の供養塔で執行される慰霊祭や灯ろう流しなどのように、平和式典と連携して開催された行事のほかに、独自に、あるいは対抗して開催されたものもある。1949年(昭和24年)8月6日の平和式典終了後児童文化会館で広島平和婦人連盟主催の平和婦人大会が開催されているが、これは、式典に連携して開催された初めての平和集会であった。翌50年8月6日の式典は中止された。しかし、広島平和擁護委員会などは、独自に8・6反戦平和大会(非合法)を開催した。また、51年から毎年、労組や市民団体などによる平和集会が開催されるようになった。これらの集会の開催は、式典とは独立した、あるいは、対抗的な意図をもつものであった。しかし、54年以降、式典と連携した多様な原水爆禁止大会・集会が開かれるようになった。
1967年10月、広島市は、「ヒロシマの心を根底として、世界の平和を推進する機関」とするため、市の一局として広島平和文化センタ-を発足させる(1976年4月1日に財団法人に改組)とともに、平和に関するさまざまな行事を展開するようになった。68年8月5日に平和記念館講堂で開催された「平和を語る市民の集い」は、そうした行事の一つである。式典の前夜祭行事として企画されたこの集会には、市民300人が参加した。この集会のテーマは「ヒロシマはいかに平和を訴えるべきか」であった。69年8月2日には、第2回の集会が「被爆体験の継承と平和教育」をテーマとして、また、70年7月31日には、第3回集会が開催された。
1971年以後、式典に連携した平和集会の開催は、途絶えていたが、85年からふたたび平和集会が国際的な規模で開催されるようになった。
1970年代に入ってからの国連における核軍縮への関心の高まりは、78年・82年・88年の国連軍縮特別総会開催に結実した。82年の総会で発言の機会を得た荒木広島市長は、その演説や同年の平和宣言の中で諸外国の都市が連帯して、核兵器廃絶のため共に努力することを呼びかけ、翌83年1月20日には、本島等長崎市長と連名で、「核兵器廃絶のための都市連帯」を呼びかける書簡を世界各国の都市に送付した。最初に呼びかけたのは23か国の72都市であったが、その後、184都市が追加された。86年3月末までに、58か国256都市に呼びかけがおこなわれたが、そのうち、33か国131の都市が賛同の回答を寄せた。被爆40周年の85年8月5日から9日の5日間、この呼びかけに賛同する世界各国の都市の市長が、広島・長崎に集まり第1回世界平和連帯都市市長会議(基調テーマ=核廃絶をめざして-核時代における都市の役割)を開催し、22か国67都市の市長および国内の33自治体の首長が参加した。広島市での会議は、8月5日と6日の両日開催された。これは、広島市が平和記念日に開催した初めての国際会議であった。

この年以後、広島市は、毎年平和記念日に国際会議(シンポジウム)を開催するようにな った。86年以降のシンポジウムの概要は、つぎのようなものである。

1986年 平和サミット
テーマ=国際平和を求めて
海外からの参加者=ライナス・ポーリング(米)、ドロシー・ホッジキン(英)、デズモンド・ツツ(南アフリカ)、パウル・クルッツェン(西独)、明石康(国連)、フランク・ブラッカビー(英)、ラドミール・ボグダノフ(ソ連)

1987年 ジャーナリスト国際シンポジウム
テーマ=核・平和問題とジャーナリストの役割
海外からの参加者=ヴィクトル・G・アフェナシェフ(ソ連、プラウダ)、ティグビー・C・アンダーソン(英、ザ・タイムズ)、ジャン-マリー・デュポン(仏、ル・モンド)、セイモア・トッピング(米、ニューヨーク・タイムズ)、席林生(中国、人民日報)

1988年 青年国際平和シンポジウム
テーマ=核時代における青年の役割
海外からの参加者=アン・サウスウィック、シェリル・コハシ(米、ホノルル市)、コンスタンチン・シェプトゥーキン、ラリッサ・アントノバ(ソ連、ボルゴグラード市)、ハルトムート・ゼレ、ウルリケ・アンネッテ・シュナイダー(西独、ハノーバー市)、張臨台、丁素紅(中国、重慶市)

1989年 第2回世界平和連帯都市市長会議
テーマ=核兵器廃絶をめざして-核時代における都市の役割
参加者=海外26国81都市、国内38自治体

1990年 女性国際平和シンポジウム
テーマ=世界平和を考える-国際平和と核軍縮達成のために
海外からの参加者=ハンネロア・クンツェ(西独・来賓)、エレナー・コア(米)、カトリン・フックス(西独)、スヴェトナーナ・サビツカヤ(ソ連)、マイ・ブリット・テオリン(スウェーデン)、周士琴(中国)

1991年 第7回世界テレビ映像祭国際平和シンポジウム
テーマ=地球の時代・平和の創造
海外からの参加者=パベル・スティングル(チェコスロバキア)、ハインツ・ヘミング(独)

平和式典にともなう規制と警備

式典にともなう規制と警備(『平和記念式典の歩み』1992年)

朝鮮戦争下の1950年(昭和25年)から57年にかけて、広島での平和集会は、厳しく規制された。しかし、この時期の規制は、1950年の平和祭の中止に見られるように平和式典そのものにも及んでいた。占領解除後、こうした規制は、無くなった。しかし、60年以降、平和式典をスムーズに開催するための規制が現れ、次第に強められていった。

原水爆禁止日本協議会(略称:日本原水協)は、1959年12月の全国理事会で、前回に引続き、60年の第6回原水爆禁止世界大会も広島で開催したい意向を表明していた。一方、翌年に入ると、新日本協議会が、60年8月6日を中心に3日間、広島で平和大会を開催することを計画し、旧軍人団体や宗教団体に働きかけを始めた。こうした動きに対し、1月22日、広島県・市両議会の正副議長は連名で、日本原水協と新日本協議会県支部につぎのような申し入れを行なった。

今年は原爆15周年になるので、全国的規模のもとに県・市共催の大慰霊  祭を厳粛、荘重に行ない、一切の雑念を払いたい。このためかりに第6回原  水禁世界大会が8月6日を避けても広島市で開かれれば、昨年の第5回大会の  実績からみて平和行進や大会準備などによって相当の影響をこうむること  は免れない。とくに新日協の大祭や大会が同時に開かれる場合は、激突の  おそれがあり、昨年以上の混乱が予想され、誠に遺憾にたえない。よって  両者の大会や大祭の広島市開催はいずれも遠慮されたい。
(「中国新聞」60年1月23日)

その後、第6回原水爆禁止世界大会は、東京で開催されることになり、また、新日本協議会の意図した大会は、平和記念日を外し、8月15日に平和記念公園で「平和祈念慰霊国民大祭」として開催された。一方、この年の式典には皇太子の参列があることになり、広島県警察本部は、8月6日と7日の両日、広島東、西、宇品の市内3署を始め周辺各署から警察官を延べ約1,000人を動員するという警備体制を敷いた。これは、広島県警としては1947年と51年の天皇行幸につぐ大規模なものであった(「中国新聞」60年8月2日)。

1963年の第9回原水爆禁止世界大会は、日本原水協の内部対立の激化や、右翼や全学連の集結(8月3日から6日にかけて、右翼50人、全学連1,260人が広島入り)などにより、開催前から混乱が予想された。浜井広島市長は、8月1日、「大会がもめるようであれば、このさい広島で開いてほしくない」と原水協に注意を促した。また、広島県警は、右翼と全学連の警備を中心的な目的として警備本部を設置し、県内の警察官の40%にあたる1,000人前後の警察官を動員した。動員人員は、5日の1,493人を最高に、3日から7日までの5日間で延べ6,600人に及んだ。式典の前夜の平和記念公園での世界大会は、社会党、総評などがボイコットし、原水禁運動の分裂は決定的なものになった。また、大会会場を占拠した全学連主流派の学生約180人が、主催者の要請で警察官600人により排除されるという事態が起こった。広島市は、踏み荒された式典会場の後始末を徹夜で行なうとともに、当日には、原爆死没者慰霊碑前の式典列席者の席の警備のためボーイスカウト広島県連盟、広島市消防局員など150人を動員した。
大会後の8月17日、広島県原爆被爆者援護対策協議会、県社会福祉協議会、県婦連(正式名称:広島県地域婦人団体連絡協議会)、広島市原爆被爆者協議会、広島市遺族会など11団体は、世界大会の批判会を開いた。その結果、原水協に「来年からは広島で大会を開かないでほしい」との申し入れを、また、広島県知事と広島市長に「来年からは8月6日を中心とした5日間、平和記念公園や市内の公共建て物を平和団体に貸す場合は、特に慎重であってほしい」との要望を行なうことを決めた。こうした市民の要望を受けて、広島市は、翌1964年6月5日、8月5、6、7日の3日間、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前広場を一般団体の集会に使わせない方針を決定した。

1967年4月、広島市長となった山田節男は、平和記念公園の聖域化構想を打ち出し、公園内での露天営業の許可取り消し(69年2月)、メーデーを除くデモや集会の不許可、芝生内への立ち入り禁止など、平和記念公園の利用に対する規制を進めた。

1969年には、「灯ろう流し」に支障があるという理由で、広島県公安委員会が、「8・6広島反戦集会実行委員会」から出されていた8月6日午後6時からのデモ行進の申請を「コース変更」の条件付きで許可した。県公安条例に基づくデモ申請でコース変更という条件付きで許可されたのは、67年11月15日の羽田不当弾圧反対闘争(広大教養部学友会主催)のデモについで2度目のことであった。
1971年8月4日、広島県警察本部は、「8・6平和祈念式典警備本部」を広島西署に設置し、8月5日と6日には広島県警の1,800人のほか、大阪・兵庫・京都の3府県、広島以外の中国4県から応援を求め、計2,700人を動員した。また、広島市自身も坂田助役を本部長とする警備本部を設置し、職員330人が公園内の整理にあたった。これらの措置は、内閣総理大臣を初めて式典に迎えるために取られものであった。この年以後、こうした警備が恒常的に行なわれるようになった。中曽根総理大臣と谷川防衛庁長官が参列した83年には、警察官の動員数は、2,500人におよんだ。一方、広島市の警備のための職員は、86年には815人であったが、87年以降は1,200人前後となっている。

マスコミによる空からの平和式典の取材は、当初は自由になされていた。しかし、式典の進行の妨げになるという理由から、自粛されるようになった。その時期は明確ではないが、新聞に掲載された写真から判断すれば、1950年代後半からと思われる。70年には、「8月6日を静かな祈りの日に」との目的で、式典前後に、一般車両の進入禁止など平和記念公園一帯の交通規制が行なわれた。8月6日当日の規制は、その後さらに強められ、75年には、式典前後の車両通行止めが100米道路(NHK前-西平和大橋)900メートルに拡大された。

平和式典実況中継1996年8月6日

平和式典実況中継1996年8月6日(宇吹メモより)<敬称略>

前日23:30 平和式典実況中継の原稿をやっと書き上げる。気が付いたら、NHK「被爆の言葉」が終わりかけていた。大牟田と大石芳野が対談していた。
06:20 年休をとる。5時に起きて原医研へ寄りNHKへ到着。*・*と一緒に平和公園へ行き、6時半、慰霊碑への石段下西側の記者席に着席。*(東京・NHKラジオセンター)がプロデューサー格で加わる。
06:21 リハーサルの時、*から総理挨拶批判について「あなたがそう思わないなら言わなくても良いが、もし思っているのなら」
07:00 平和式典会場の上空にヘリコプター2機。朝日とまともに向き合う席ではなはだ暑い。
07 平岡市長が近くに来て立っているので何ごとかと思ったら、橋本総理を出迎えるため。二人は挨拶を交わしていたが、こうした場合何を言い合うのか。
08:07 市長の宣言朗読直後、慈仙寺鼻方面で激しい爆竹の音。終了後の*の話では、橋本来広への抗議のため数人がやったとのこと。
08:50 開式前、金沢は短い現場中継、その後、式典の進行については簡単に打ち合わす。私は準備した原稿の趣旨の半分も話せず。一般参列者としては、随分長く感じたが、今回はあっと言う間に1時間が過ぎた。
09 終了後県立体育館に寄ったが成果無し。バスセンターで新聞各紙を購入して原医研に帰る。寝不足で仕事にならず、そのまま帰宅。昼食後、3時まで寝込む。
後日 私のラジオ出演への反響。盛岡の友人=車を運転中ラジオから君の声が聞こえた。石踊=今にも倒れそうな溜息(?)が聞こえ、聞くに堪えなかった。*(NHK広島)より電話。東京のラジオセンターでは実況中継の評判が良かった。

 

秋葉忠利広島市長平和宣言(1999~2010年)

1999(平成11年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

戦争の世紀だった20世紀は、悪魔の武器、核兵器を生み、私たち人類はいまだにその呪縛(じゅばく)から逃れることができません。しかしながら広島・長崎への原爆投下後54年間、私たちは、原爆によって非業の死を遂げられた数十万の皆さんに、そしてすべての戦争の犠牲者に思いを馳(は)せながら、核兵器を廃絶するために闘ってきました。

この闘いの先頭を切ったのは多くの被爆者であり、また自らを被爆者の魂と重ね合わせて生きてきた人々でした。なかんずく、多くの被爆者が世界のために残した足跡を顧みるとき、私たちは感謝の気持ちを表さずにはいられません。

大きな足跡は三つあります。

一つ目は、原爆のもたらした地獄の惨苦や絶望を乗り越えて、人間であり続けた事実です。若い世代の皆さんには、高齢の被爆者の多くが、被爆時には皆さんと同じ年ごろだったことを心に留めていただきたいのです。家族も学校も街も一瞬にして消え去り、死屍累々(ししるいるい)たる瓦礫(がれき)の中、生死の間(はざま)をさまよい、死を選んだとしてもだれにも非難できないような状況下にあって、それでも生を選び人間であり続けた意志と勇気を、共に胸に刻みたいと思います。

二つ目は、核兵器の使用を阻止したことです。紛争や戦争の度に、核兵器を使うべしという声が必ず起こります。コソボでもそうでした。しかし、自らの体験を世界に伝え、核兵器の使用が人類の破滅と同義であり、究極の悪であることを訴え続け、二度と過ちを繰り返さぬと誓った被爆者たちの意志の力によって、これまでの間、人類は三度目の愚行を犯さなかったのです。だからこそ私たちの、そして若い世代の皆さんの未来への可能性が残されたのです。

三つ目は、原爆死没者慰霊碑に刻まれ日本国憲法に凝縮された「新しい」世界の考え方を提示し実行してきたことです。復讐(ふくしゅう)や敵対という人類滅亡につながる道ではなく、国家としての日本の過ちのみならず、戦争の過ちを一身に背負って未来を見据え、人類全体の公正と信義に依拠する道を選んだのです。今年5月に開かれたハーグの平和会議で世界の平和を愛する人々が高らかに宣言したように、この考え方こそ21世紀、人類の進むべき道を指し示しています。その趣旨を憲法や法律の形で具現化したすべての国々そして人々に、私たちは心から拍手を送ります。

核兵器を廃絶するために何より大切なのは、被爆者の持ち続けた意志に倣って私たちも、「核兵器を廃絶する」強い意志を持つことです。全世界がこの意志を持てば、いや核保有国の指導者たちだけでもこの意志を持てば、明日にでも核兵器は廃絶できるからです。

強い意志は真実から生まれます。核兵器は人類滅亡を引き起こす絶対悪だという事実です。

意志さえあれば、必ず道は開けます。意志さえあれば、どの道を選んでも核兵器の廃絶に到達できます。逆に、どんなに広い道があっても、一歩を踏み出す意志がなければ、目的地には到達できないのです。特に、若い世代の皆さんにその意志を持ってもらいたいのです。

私たちは改めて日本国政府が、被爆者の果たしてきた役割を正当に評価し援護策を更に充実することを求めます。その上で、すべての施策に優先して核兵器廃絶のための強い意志を持つことを求めます。日本国政府は憲法の前文に則(のっと)って世界各国政府を説得し、世界的な核兵器廃絶への意志を形成しなくてはなりません。地球の未来のために、私たちが人間として果たさなくてはならない最も重要な責務が核兵器廃絶であることをここに宣言し、原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げます。

2000(平成12年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

私たちは今日、20世紀最後の8月6日を迎えました。

一発の原子爆弾が作り出した地獄の日から55年、私たちは、絶望の淵(ふち)から甦(よみがえ)った被爆者と共に悲嘆にくれ、慰め励まし、怒り祈り、学び癒(いや)し、そして訴え行動してきました。その結果、広島平和記念都市建設法の制定、原爆死没者慰霊碑の建立、被爆者援護法の制定、南半球を中心とした非核兵器地帯の設定、国際司法裁判所による核兵器使用の違法性判断、包括的核実験禁止条約の締結、原爆ドームの世界遺産化、核保有国による「核兵器全廃に向けた明確な約束」等、多くの成果を挙げることができました。特に、長崎以降、核兵器が実戦において使われなかったことは全人類的成果です。しかし、今世紀中に核兵器の全廃をという私たちの願いは、残念ながら実現に至りませんでした。

21世紀には、何としてもこの悲願を達成しなくてはなりません。そのためにも今一度、より大きな文脈で被爆体験の意味を整理し直し、その表現手段を確立し、人類全体の遺産として継承していかなくてはなりません。世界遺産として認められた原爆ドーム、被爆に耐えた旧日本銀行広島支店や世界中の子どもたちから寄せられる折鶴(おりづる)の保存や活用はそのためにも重要です。また、「核兵器は違法である」という大きな成果を核兵器廃絶につなげるため、世界平和連帯都市市長会議の力を結集する必要もあります。そして人類の誰(だれ)もが自らの国家や民族の戦争責任を問い、自ら憎しみや暴力の連鎖を断つことで「和解」への道を拓(ひら)くよう、そして一日も早く人類が核兵器を全廃するよう、世界に訴え続けたいと考えています。

コンピュータはもちろん鉛筆も、いや文字さえなかった太古から今日まで、20世紀が他のどの時代とも違うのは、人類の生存そのものを脅かす具体的な危険を科学技術の力によって創(つく)り出してしまったからです。その一つが核兵器であり、もう一つが地球環境の破壊であることは、言うまでもありません。そのどちらも私たち人類が自ら創(つく)り出した問題です。その解決も当然、私たち自身の手で行わなくてはなりません。

核兵器の廃絶を世界に向って呼び掛けてきた広島は、さらに、科学技術を真に「人間的目的」のために活用するモデル都市として新たな出発をしたいと思います。広島そのものが「人間的目的」の具現化であるような未来を、広島の存在そのものが「平和」であることの実質を示す21世紀を創(つく)りたいと考えています。それは人間の存在そのものを危機に陥れた科学技術と、人類との「和解」でもあります。

朝鮮半島における南北首脳会談で両国の首脳が劇的に示してくれたのは、人間的な「和解」の姿です。私たちは、20世紀の初め日米友好の象徴として交換されたサクラとハナミズキの故事に倣(なら)い、日米市民の協力の下、広島にすべての「和解」の象徴としてハナミズキの並木を作りたいと考えています。国際的な場面においても広島は、対立や敵対関係を超える「和解」を創(つく)り出す、調停役としての役割が果せる都市に成長したいと思います。

私たちは改めて、日本国政府が、被爆者の果してきた重要な役割を正当に評価し援護策を更に充実することを求めます。その上で、核兵器廃絶のための強い意志を持ち、かつ憲法の前文に則(のっと)って、広島と共に世界に「和解」を広める役割を果すよう、強く要請します。

20世紀最後の8月6日、私たちは、人類の来し方行く末に思いを馳(は)せつつ広島に集い、一本の鉛筆があれば、何よりもまず「人間の命」と書き「核兵器廃絶」と書き続ける決意であることをここに宣言し、すべての原爆犠牲者の御霊(みたま)に衷心より哀悼の誠を捧(ささ)げます。

2001(平成13年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

今世紀初めての8月6日を迎え、「戦争の世紀」の生き証人であるヒロシマは、21世紀を核兵器のない、「平和と人道の世紀」にするため、全力を尽すことを宣言します。

人道とは、生きとし生けるものすべての声に耳を傾ける態度です。子どもたちを慈しみ育(はぐく)む姿勢でもあります。人類共通の未来を創(つく)るため和解を重んじ、暴力を否定し理性と良心に従って平和的な結論に至る手法でもあります。人道によってのみ核兵器の廃絶は可能になり、人道こそ核兵器の全廃後、再び核兵器を造り出さない保障でもあります。

21世紀の広島は人道都市として大きく羽ばたきたいと思います。世界中の子どもや若者にとって優しさに満ち、創造力とエネルギーの源であり、老若男女誰(だれ)にとっても憩いや寛(くつろ)ぎの「居場所」がある都市、万人のための「故郷(ふるさと)」を創(つく)りたいと考えています。

しかし、暦の上で「戦争の世紀」が終っても、自動的に「平和と人道の世紀」が訪れるわけではありません。地域紛争や内戦等の直接的暴力だけでなく、環境破壊をはじめ、言論や映像、ゲーム等、様々な形をした暴力が世界を覆い、高度の科学技術によって戦場は宇宙空間にまで広がりつつあります。

世界の指導者たちは、まず、こうした現実を謙虚に直視する必要があります。その上で、核兵器廃絶への強い意志、人類の英知の結晶である約束事を守る誠実さ、そして和解や人道を重視する勇気を持たなくてはなりません。

多くの被爆者は、そして被爆者と魂を重ねる人々は、人類の運命にまで自らの責任を感じ、岩をも貫き通す堅い意志を持って核兵器の廃絶と世界平和を求めてきました。被爆者にとって56年前の「生き地獄」は昨日のように鮮明だからです。その記憶と責任感、意志を、生きた形で若い世代に伝えることこそ、人類が21世紀を生き延び、22世紀へ虹色の橋を架けるための最も確実な第一歩です。

そのために私たちは、広い意味での平和教育の再活性化に力を入れています。特に、世界の主要大学で「広島・長崎講座」を開講するため私たちは努力を続けています。骨格になるのは、広島平和研究所等における研究実績です。事実に基づいた学問研究の成果を糧(かて)に、私たち人類は真実に近付いてきたからです。

今、広島市と長崎市で世界平和連帯都市市長会議が開催されています。21世紀、人道の担い手になる世界の都市が、真実に導かれ連帯することで核兵器の廃絶と世界平和を実現するための会議です。近い将来、この会議の加盟都市が先頭に立って世界中に「非核自治体」を広げ、最終的には地球全体を非核地帯にすることも夢ではありません。

わが国政府には、アジアのまとめ役として非核地帯の創設や信頼醸成のための具体的行動、ならびに国策として核兵器禁止条約締結の推進を期待します。同時に、世界各地に住む被爆者の果してきた役割を正当に評価し、彼らの権利を尊重し、さらなる援護策の充実を求めます。その上で、核兵器廃絶のための強い意志を持ち、憲法の前文に則(のっと)って、広島と共に「平和と人道の世紀」を創(つく)るよう、強く要請します。

21世紀最初の8月6日、私たちは今、目の前にある平和の瞬間(とき)を、21世紀にそして世界に広げることを誓い、すべての原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げます。

2002(平成14年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

57年前、「この世の終り」を経験した被爆者、それ故に「他(ほか)の誰(だれ)にもこんな思いをさせてはならない」と現世の平和を願い活動してきた被爆者にとって、再び辛(つら)く暑い夏が巡ってきました。

一つには、暑さと共に当時の悲惨な記憶が蘇(よみがえ)るからです。

それ以上に辛(つら)いのは、その記憶が世界的に薄れつつあるからです。実体験を持たない大多数の世界市民にとっては、原爆の恐ろしさを想像することさえ難しい上に、ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』やジョナサン・シェルの『地球の運命』さえも忘れられつつあります。その結果、「忘れられた歴史は繰り返す」という言葉通り、核戦争の危険性や核兵器の使用される可能性が高まっています。

その傾向は、昨年9月11日のアメリカ市民に対するテロ攻撃以後、特に顕著になりました。被爆者が訴えて来た「憎しみと暴力、報復の連鎖」を断ち切る和解の道は忘れ去られ、「今に見ていろ」そして「俺の方が強いんだぞ」が世界の哲学になりつつあります。そしてアフガニスタンや中東、さらにインドやパキスタン等、世界の紛争地でその犠牲になるのは圧倒的に女性・子供・老人等、弱い立場の人たちです。

ケネディ大統領は、地球の未来のためには、全(すべ)ての人がお互いを愛する必要はない、必要なのはお互いの違いに寛容であることだと述べました。その枠組みの中で、人類共通の明るい未来を創(つく)るために、どんなに小さくても良いから協力を始めることが「和解」の意味なのです。

また「和解」の心は過去を「裁く」ことにはありません。人類の過ちを素直に受け止め、その過ちを繰り返さずに、未来を創(つく)ることにあります。そのためにも、誠実に過去の事実を知り理解することが大切です。だからこそ私たちは、世界の大学で「広島・長崎講座」を開設しようとしているのです。

広島が目指す「万人のための故郷(ふるさと)」には豊かな記憶の森があり、その森から流れ出る和解と人道の川には理性と良心そして共感の船が行き交い、やがて希望と未来の海に到達します。

その森と川に触れて貰(もら)うためにも、ブッシュ大統領に広島・長崎を訪れること、人類としての記憶を呼び覚まし、核兵器が人類に何をもたらすのかを自らの目で確認することを強く求めます。

アメリカ政府は、「パックス・アメリカーナ」を押し付けたり世界の運命を決定する権利を与えられている訳ではありません。「人類を絶滅させる権限をあなたに与えてはいない」と主張する権利を私たち世界の市民が持っているからです。

 

日本国憲法第99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と規定しています。この規定に従うべき日本国政府の役割は、まず我が国を「他(ほか)の全(すべ)ての国と同じように」戦争のできる、「普通の国」にしないことです。すなわち、核兵器の絶対否定と戦争の放棄です。その上で、政府は広島・長崎の記憶と声そして祈りを世界、特にアメリカ合衆国に伝え、明日の子どもたちのために戦争を未然に防ぐ責任を有します。

その第一歩は、謙虚に世界の被爆者の声に耳を傾けることから始まります。特に海外に住む被爆者が、安心して平和のメッセージを世界に伝え続けられるよう、全(すべ)ての被爆者援護のための施策をさらに充実すべきです。

本日、私たち広島市民は改めて57年前を想(おも)い起し、人類共有の記憶を貴び「平和と人道の世紀」を創造するため、あらん限り努力することを誓い、全(すべ)ての原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げます。

2003(平成15年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

今年もまた、58年前の灼熱(しゃくねつ)地獄を思わせる夏が巡って来ました。被爆者が訴え続けて来た核兵器や戦争のない世界は遠ざかり、至る所に暗雲が垂れこめています。今にもそれがきのこ雲に変り、黒い雨が降り出しそうな気配さえあります。

一つには、核兵器をなくすための中心的な国際合意である、核不拡散条約体制が崩壊の危機に瀕(ひん)しているからです。核兵器先制使用の可能性を明言し、「使える核兵器」を目指して小型核兵器の研究を再開するなど、「核兵器は神」であることを奉じる米国の核政策が最大の原因です。

しかし、問題は核兵器だけではありません。国連憲章や日本国憲法さえ存在しないかのような言動が世を覆い、時代は正に戦後から戦前へと大きく舵(かじ)を切っているからです。また、米英軍主導のイラク戦争が明らかにしたように、「戦争が平和」だとの主張があたかも真理であるかのように喧伝(けんでん)されています。しかし、この戦争は、国連査察の継続による平和的解決を望んだ、世界の声をよそに始められ、罪のない多くの女性や子ども、老人を殺し、自然を破壊し、何十億年も拭(ぬぐ)えぬ放射能汚染をもたらしました。開戦の口実だった大量破壊兵器も未(いま)だに見つかっていません。

かつてリンカーン大統領が述べたように「全(すべ)ての人を永遠に騙(だま)すことはできません」。そして今こそ、私たちは「暗闇(くらやみ)を消せるのは、暗闇(くらやみ)ではなく光だ」という真実を見つめ直さなくてはなりません。「力の支配」は闇(やみ)、「法の支配」が光です。「報復」という闇(やみ)に対して、「他(ほか)の誰(だれ)にもこんな思いをさせてはならない」という、被爆者たちの決意から生まれた「和解」の精神は、人類の行く手を明るく照らす光です。

その光を掲げて、高齢化の目立つ被爆者は米国のブッシュ大統領に広島を訪れるよう呼び掛けています。私たちも、ブッシュ大統領、北朝鮮の金総書記をはじめとして、核兵器保有国のリーダーたちが広島を訪れ核戦争の現実を直視するよう強く求めます。何をおいても、彼らに核兵器が極悪、非道、国際法違反の武器であることを伝えなくてはならないからです。同時に広島・長崎の実相が世界中により広く伝わり、世界の大学でさらに多くの「広島・長崎講座」が開設されることを期待します。

また、核不拡散条約体制を強化するために、広島市は世界の平和市長会議の加盟都市並びに市長に、核兵器廃絶のための緊急行動を提案します。被爆60周年の2005年にニューヨークで開かれる核不拡散条約再検討会議に世界から多くの都市の代表が集まり、各国政府代表に、核兵器全廃を目的とする「核兵器禁止条約」締結のための交渉を、国連で始めるよう積極的に働き掛けるためです。

同時に、世界中の人々、特に政治家、宗教者、学者、作家、ジャーナリスト、教師、芸術家やスポーツ選手など、影響力を持つリーダーの皆さんに呼び掛けます。いささかでも戦争や核兵器を容認する言辞は弄(ろう)せず、戦争を起こさせないために、また絶対悪である核兵器を使わせず廃絶させるために、日常のレベルで祈り、発言し、行動していこうではありませんか。

また「唯一の被爆国」を標榜(ひょうぼう)する日本政府は、国の内外でそれに伴う責任を果さなくてはなりません。具体的には、「作らせず、持たせず、使わせない」を内容とする新・非核三原則を新たな国是とした上で、アジア地域の非核地帯化に誠心誠意取り組み、「黒い雨降雨地域」や海外に住む被爆者も含めて、世界の全(すべ)ての被爆者への援護を充実させるべきです。

58年目の8月6日、子どもたちの時代までに、核兵器を廃絶し戦争を起こさない世界を実現するため、新たな決意で努力することを誓い、全(すべ)ての原爆犠牲者の御霊(みたま)に衷心より哀悼の誠を捧(ささ)げます。

2004(平成16年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

「75年間は草木も生えぬ」と言われたほど破壊し尽された8月6日から59年。あの日の苦しみを未(いま)だに背負った亡骸(なきがら)——愛する人々そして未来への思いを残しながら幽明界(ゆうめいさかい)を異(こと)にした仏たちが、今再び、似島(にのしま)に還(かえ)り、原爆の非人間性と戦争の醜さを告発しています。

残念なことに、人類は未(いま)だにその惨状を忠実に記述するだけの語彙(ごい)を持たず、その空白を埋めるべき想像力に欠けています。また、私たちの多くは時代に流され惰眠(だみん)を貪(むさぼ)り、将来を見通すべき理性の眼鏡は曇り、勇気ある少数には背を向けています。

その結果、米国の自己中心主義はその極に達しています。国連に代表される法の支配を無視し、核兵器を小型化し日常的に「使う」ための研究を再開しています。また世界各地における暴力と報復の連鎖は止(や)むところを知らず、暴力を増幅するテロへの依存や北朝鮮等による実のない「核兵器保険」への加入が、時代の流れを象徴しています。

このような人類の危機を、私たちは人類史という文脈の中で認識し直さなくてはなりません。人間社会と自然との織り成す循環が振り出しに戻る被爆60周年を前に、私たちは今こそ、人類未曾有(みぞう)の経験であった被爆という原点に戻り、この一年の間に新たな希望の種を蒔(ま)き、未来に向かう流れを創(つく)らなくてはなりません。

そのために広島市は、世界109か国・地域、611都市からなる平和市長会議と共に、今日から来年の8月9日までを「核兵器のない世界を創(つく)るための記憶と行動の一年」にすることを宣言します。私たちの目的は、被爆後75年目に当る2020年までに、この地球から全(すべ)ての核兵器をなくすという「花」を咲かせることにあります。そのときこそ「草木も生えない」地球に、希望の生命が復活します。

私たちが今、蒔(ま)く種は、2005年5月に芽吹きます。ニューヨークで開かれる国連の核不拡散条約再検討会議において、2020年を目標年次とし、2010年までに核兵器禁止条約を締結するという中間目標を盛り込んだ行動プログラムが採択されるよう、世界の都市、市民、NGOは、志を同じくする国々と共に「核兵器廃絶のための緊急行動」を展開するからです。

そして今、世界各地でこの緊急行動を支持する大きな流れができつつあります。今年2月には欧州議会が圧倒的多数で、6月には1183都市の加盟する全米市長会議総会が満場一致でより強力な形の、緊急行動支持決議を採択しました。

その全米市長会議に続いて、良識ある米国市民が人類愛の観点から「核兵器廃絶のための緊急行動」支持の本流となり、唯一の超大国として核兵器廃絶の責任を果すよう期待します。

私たちは、核兵器の非人間性と戦争の悲惨さとを、特に若い世代に理解してもらうため、被爆者の証言を世界に届け、「広島・長崎講座」の普及に力を入れると共に、さらにこの一年間、世界の子どもたちに大人の世代が被爆体験記を読み語るプロジェクトを展開します。

日本国政府は、私たちの代表として、世界に誇るべき平和憲法を擁護し、国内外で顕著になりつつある戦争並びに核兵器容認の風潮を匡(ただ)すべきです。また、唯一の被爆国の責務として、平和市長会議の提唱する緊急行動を全面的に支持し、核兵器廃絶のため世界のリーダーとなり、大きなうねりを創(つく)るよう強く要請します。さらに、海外や黒い雨地域も含め高齢化した被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。

本日私たちは、被爆60周年を、核兵器廃絶の芽が萌(も)え出る希望の年にするため、これからの一年間、ヒロシマ・ナガサキの記憶を呼び覚ましつつ力を尽し行動することを誓い、全(すべ)ての原爆犠牲者の御霊(みたま)に哀悼の誠を捧(ささ)げます。

2005(平成17年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

被爆60周年の8月6日、30万を越える原爆犠牲者の御霊(みたま)と生き残った私たちが幽明(ゆうめい)の界(さかい)を越え、あの日を振り返る慟哭(どうこく)の刻(とき)を迎えました。それは、核兵器廃絶と世界平和実現のため、ひたすら努力し続けた被爆者の志を受け継ぎ、私たち自身が果たすべき責任に目覚め、行動に移す決意をする、継承と目覚め、決意の刻(とき)でもあります。この決意は、全(すべ)ての戦争犠牲者や世界各地で今この刻(とき)を共にしている多くの人々の思いと重なり、地球を包むハーモニーとなりつつあります。

その主旋律は、「こんな思いを、他(ほか)の誰(だれ)にもさせてはならない」という被爆者の声であり、宗教や法律が揃(そろ)って説く「汝(なんじ)殺すなかれ」です。未来世代への責務として、私たちはこの真理を、なかんずく「子どもを殺すなかれ」を、国家や宗教を超える人類最優先の公理として確立する必要があります。9年前の国際司法裁判所の勧告的意見はそのための大切な一歩です。また主権国家の意思として、この真理を永久に採用した日本国憲法は、21世紀の世界を導く道標(みちしるべ)です。

しかし、今年の5月に開かれた核不拡散条約再検討会議で明らかになったのは、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮等の核保有国並びに核保有願望国が、世界の大多数の市民や国の声を無視し、人類を滅亡に導く危機に陥れているという事実です。

これらの国々は「力は正義」を前提に、核兵器の保有を入会証とする「核クラブ」を結成し、マスコミを通して「核兵器が貴方(あなた)を守る」という偽りの呪(まじな)いを繰り返してきました。その結果、反論する手段を持たない多くの世界市民は「自分には何もできない」と信じさせられています。また、国連では、自らの我儘を通せる拒否権に恃(たの)んで、世界の大多数の声を封じ込めています。

この現実を変えるため、加盟都市が1080に増えた平和市長会議は現在、広島市で第6回総会を開き、一昨年採択した「核兵器廃絶のための緊急行動」を改訂しています。目標は、全米市長会議や欧州議会、核戦争防止国際医師の会等々、世界に広がる様々な組織やNGOそして多くの市民との協働の輪を広げるための、そしてまた、世界の市民が「地球の未来はあたかも自分一人の肩に懸かっているかのような」危機感を持って自らの責任に目覚め、新たな決意で核廃絶を目指して行動するための、具体的指針を作ることです。

まず私たちは、国連に多数意見を届けるため、10月に開かれる国連総会の第一委員会が、核兵器のない世界の実現と維持とを検討する特別委員会を設置するよう提案します。それは、ジュネーブでの軍縮会議、ニューヨークにおける核不拡散条約再検討会議のどちらも不毛に終わった理由が、どの国も拒否権を行使できる「全員一致方式」だったからです。

さらに国連総会がこの特別委員会の勧告に従い、2020年までに核兵器の廃絶を実現するための具体的ステップを2010年までに策定するよう、期待します。

同時に私たちは、今日から来年の8月9日までの369日を「継承と目覚め、決意の年」と位置付け、世界の多くの国、NGOや大多数の市民と共に、世界中の多くの都市で核兵器廃絶に向けた多様なキャンペーンを展開します。

日本政府は、こうした世界の都市の声を尊重し、第一委員会や総会の場で、多数決による核兵器廃絶実現のために力を尽くすべきです。重ねて日本政府には、海外や黒い雨地域も含め高齢化した被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。

被爆60周年の今日、「過ちは繰返さない」と誓った私たちの責任を謙虚に再確認し、全(すべ)ての原爆犠牲者の御霊(みたま)に哀悼の誠を捧(ささ)げます。

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

2006(平成18年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

放射線、熱線、爆風、そしてその相乗作用が現世(げんせ)の地獄を作り出してから61年——悪魔に魅入られ核兵器の奴隷と化した国の数はいや増し、人類は今、全(すべ)ての国が奴隷となるか、全(すべ)ての国が自由となるかの岐路に立たされています。それはまた、都市が、その中でも特に罪のない子どもたちが、核兵器の攻撃目標であり続けて良いのか、と問うことでもあります。

一点の曇りもなく答は明らかです。世界を核兵器から解放する道筋も、これまでの61年間が明確に示しています。

被爆者たちは、死を選んだとしても誰(だれ)も非難できない地獄から、生と未来に向かっての歩みを始めました。心身を苛(さいな)む傷病苦を乗り越えて自らの体験を語り続け、あらゆる差別や誹謗(ひぼう)・中傷を撥(は)ね返して「他(ほか)の誰(だれ)にもこんな思いをさせてはならない」と訴え続けてきたのです。その声は、心ある世界の市民に広がり力強い大合唱になりつつあります。

「核兵器の持つ唯一の役割は廃絶されることにある」がその基調です。しかし、世界政治のリーダーたちはその声を無視し続けています。10年前、世界市民の創造力と活動が勝ち取った国際司法裁判所による勧告的意見は、彼らの蒙(もう)を啓(ひら)き真実に目を向けさせるために、極めて有効な手段となるはずでした。

国際司法裁判所は、「核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に反する」との判断を下した上で、「全(すべ)ての国家には、全(すべ)ての局面において核軍縮につながる交渉を、誠実に行い完了させる義務がある」と述べているからです。

核保有国が率先して、誠実にこの義務を果していれば、既に核兵器は廃絶されていたはずです。しかし、この10年間、多くの国々、そして市民もこの義務を真正面からは受け止めませんでした。私たちはそうした反省の上に立って、加盟都市が1403に増えた平和市長会議と共に、核軍縮に向けた「誠実な交渉義務」を果すよう求めるキャンペーン(Good Faith Challenge)を「2020ビジョン(核兵器廃絶のための緊急行動)」の第二期の出発点として位置付け展開します。さらに核保有国に対して都市を核攻撃の目標にしないよう求める「都市を攻撃目標にするな(Cities Are Not Targets)プロジェクト」に、取り組みます。

核兵器は都市を壊滅させることを目的とした非人道的かつ非合法な兵器です。私たちの目的は、これまで都市を人質として利用してきた「核抑止論」そして「核の傘」の虚妄を暴き、人道的・合法的な立場から市民の生存権を守ることにあります。

この取組の先頭を切っているのは、米国の1139都市が加盟する全米市長会議です。本年6月の総会で同会議は、自国を含む核保有国に対して核攻撃の標的から都市を外すことを求める決議を採択しました。

迷える羊たちを核兵器による呪(のろい)から解き放ち、世界に核兵器からの自由をもたらす責任は今や、私たち世界の市民と都市にあります。岩をも通す固い意志と燃えるような情熱を持って私たちが目覚め起(た)つ時が来たのです。

日本国政府には、被爆者や市民の代弁者として、核保有国に対して「核兵器廃絶に向けた誠実な交渉義務を果せ」と迫る、世界的運動を展開するよう要請します。そのためにも世界に誇るべき平和憲法を遵守し、さらに「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め高齢化した被爆者の実態に即した人間本位の温かい援護策を充実するよう求めます。

未(いま)だに氏名さえ分らぬ多くの死没者の霊安かれと、今年改めて、「氏名不詳者多数」の言葉を添えた名簿を慰霊碑に奉納しました。全(すべ)ての原爆犠牲者の御霊(みたま)に哀悼の誠を捧(ささ)げ、人類の未来の安寧を祈って合掌致します。

2007(平成19年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

運命の夏、8時15分。朝凪(あさなぎ)を破るB-29の爆音。青空に開く「落下傘」。そして閃光(せんこう)、轟音(ごうおん)——静寂——阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)。

落下傘を見た少女たちの眼(まなこ)は焼かれ顔は爛(ただ)れ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天を衝(つ)き、衣服は原形を止めぬほどでした。爆風により潰(つぶ)れた家の下敷になり焼け死んだ人、目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人——辛うじて生き永らえた人々も、死者を羨(うらや)むほどの「地獄」でした。

14万人もの方々が年内に亡くなり、死を免れた人々もその後、白血病、甲状腺癌(こうじょうせんがん)等、様々な疾病に襲われ、今なお苦しんでいます。

それだけではありません。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、生きる意味を問う日々が続きました。

しかし、その中から生れたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。「こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ」と、忘れてしまいたい体験を語り続け、三度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を未来(みらい)永劫(えいごう)忘れてはなりません。

こうした被爆者の努力にもかかわらず、核即応態勢はそのままに膨大な量の核兵器が備蓄・配備され、核拡散も加速する等、人類は今なお滅亡の危機に瀕(ひん)しています。時代に遅れた少数の指導者たちが、未だに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けているからです。

しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。かつての植民地は独立し、民主的な政治が世界に定着しました。さらに人類は、歴史からの教訓を汲んで、非戦闘員への攻撃や非人道的兵器の使用を禁ずる国際ルールを築き、国連を国際紛争解決の手段として育ててきました。そして今や、市民と共に歩み、悲しみや痛みを共有してきた都市が立ち上がり、人類の叡智(えいち)を基に、市民の声で国際政治を動かそうとしています。

世界の1698都市が加盟する平和市長会議は、「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という事実を元に、2020年までの核兵器廃絶を目指して積極的に活動しています。

我がヒロシマは、全米101都市での原爆展開催や世界の大学での「広島・長崎講座」普及など、被爆体験を世界と共有するための努力を続けています。アメリカの市長たちは「都市を攻撃目標にするな」プロジェクトの先頭に立ち、チェコの市長たちはミサイル防衛に反対しています。ゲルニカ市長は国際政治への倫理の再登場を呼び掛け、イーペル市長は平和市長会議の国際事務局を提供し、ベルギーの市長たちが資金を集める等、世界中の市長たちが市民と共に先導的な取組を展開しています。今年10月には、地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」総会で、私たちは、人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛けます。

唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。また、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、平均年齢が74歳を超えた被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。

被爆62周年の今日、私たちは原爆犠牲者、そして核兵器廃絶の道半ばで凶弾に倒れた伊藤前長崎市長の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、核兵器のない地球を未来の世代に残すため行動することをここに誓います。

2008(平成20年)年平和宣言(広島)

平均年齢75歳を超えた被爆者の脳裡(のうり)に、63年前がそのまま蘇(よみがえ)る8月6日が巡って来ました。「水を下さい」「助けて下さい」「お母ちゃん」———被爆者が永遠に忘れることのできない地獄に消えた声、顔、姿を私たちも胸に刻み、「こんな思いを他の誰(だれ)にもさせない」ための決意を新たにする日です。

しかし、被爆者の心身を今なお苛(さいな)む原爆の影響は永年にわたり過少評価され、未だに被害の全貌(ぜんぼう)は解明されていません。中でも、心の傷は深刻です。こうした状況を踏まえ、広島市では2か年掛けて、原爆体験の精神的影響などについて、科学的な調査を行います。

そして、この調査は、悲劇と苦悩の中から生れた「核兵器は廃絶されることにだけ意味がある」という真理の重みをも私たちに教えてくれるはずです。

昨年11月、科学者や核問題の専門家などの議論を経て広島市がまとめた核攻撃被害想定もこの真理を裏付けています。核攻撃から市民を守る唯一の手段は核兵器の廃絶です。だからこそ、核不拡散条約や国際司法裁判所の勧告的意見は、核軍縮に向けて誠実に交渉する義務を全(すべ)ての国家が負うことを明言しているのです。さらに、米国の核政策の中枢を担ってきた指導者たちさえ、核兵器のない世界の実現を繰り返し求めるまでになったのです。

核兵器の廃絶を求める私たちが多数派であることは、様々な事実が示しています。地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」が平和市長会議の活動を支持しているだけでなく、核不拡散条約は190か国が批准、非核兵器地帯条約は113か国・地域が署名、昨年我が国が国連に提出した核廃絶決議は170か国が支持し、反対は米国を含む3か国だけです。今年11月には、人類の生存を最優先する多数派の声に耳を傾ける米国新大統領が誕生することを期待します。

多数派の意思である核兵器の廃絶を2020年までに実現するため、世界の2368都市が加盟する平和市長会議では、本年4月、核不拡散条約を補完する「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を発表しました。核保有国による核兵器取得・配備の即時停止、核兵器の取得・使用につながる行為を禁止する条約の2015年までの締結など、議定書は核兵器廃絶に至る道筋を具体的に提示しています。目指すべき方向と道筋が明らかになった今、必要なのは子どもたちの未来を守るという強い意志と行動力です。

対人地雷やクラスター弾の禁止条約は、世界の市民並びに志を同じくする国々の力で実現しました。また、地球温暖化への最も有効な対応が都市を中心に生れています。市民が都市単位で協力し人類的な課題を解決できるのは、都市が世界人口の過半数を占めており、軍隊を持たず、世界中の都市同士が相互理解と信頼に基づく「パートナー」の関係を築いて来たからです。

日本国憲法は、こうした都市間関係をモデルとして世界を考える「パラダイム転換」の出発点とも言えます。我が国政府には、その憲法を遵守し、「ヒロシマ・ナガサキ議定書」の採択のために各国政府へ働き掛けるなど核兵器廃絶に向けて主導的な役割を果すことを求めます。さらに「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、また原爆症の認定に当たっても、高齢化した被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を要請します。

また来月、我が国で初めて、G8下院議長会議が開かれます。開催地広島から、「被爆者の哲学」が世界に広まることを期待しています。

被爆63周年の平和記念式典に当たり、私たちは原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、長崎市と共に、また世界の市民と共に、核兵器廃絶のためあらん限りの力を尽し行動することをここに誓います。

2009(平成21年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

人類絶滅兵器・原子爆弾が広島市民の上に投下されてから64年、どんな言葉を使っても言い尽せない被爆者の苦しみは今でも続いています。64年前の放射線が未(いま)だに身体を蝕(むしば)み、64年前の記憶が昨日のことのように蘇(よみがえ)り続けるからです。

幸いなことに、被爆体験の重みは法的にも支えられています。原爆の人体への影響が未(いま)だに解明されていない事実を謙虚に受け止めた勇気ある司法判断がその好例です。日本国政府は、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め高齢化した被爆者の実態に即した援護策を充実すると共に、今こそ省庁の壁を取り払い、「こんな思いを他(ほか)の誰(だれ)にもさせてはならぬ」という被爆者たちの悲願を実現するため、2020年までの核兵器廃絶運動の旗手として世界をリードすべきです。

今年4月には米国のオバマ大統領がプラハで、「核兵器を使った唯一の国として」、「核兵器のない世界」実現のために努力する「道義的責任」があることを明言しました。核兵器の廃絶は、被爆者のみならず世界の大多数の市民並びに国々の声であり、その声にオバマ大統領が耳を傾けたことは、「廃絶されることにしか意味のない核兵器」の位置付けを確固たるものにしました。

それに応(こた)えて私たちには、オバマ大統領を支持し、核兵器廃絶のために活動する責任があります。この点を強調するため、世界の多数派である私たち自身を「オバマジョリティー」と呼び、力を合せて2020年までに核兵器の廃絶を実現しようと世界に呼び掛けます。その思いは、世界的評価が益々(ますます)高まる日本国憲法に凝縮されています。

全世界からの加盟都市が3,000を超えた平和市長会議では、「2020ビジョン」を具体化した「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を、来年のNPT再検討会議で採択して貰(もら)うため全力疾走しています。採択後の筋書は、核実験を強行した北朝鮮等、全(すべ)ての国における核兵器取得・配備の即時停止、核保有国・疑惑国等の首脳の被爆地訪問、国連軍縮特別総会の早期開催、2015年までの核兵器禁止条約締結を目指す交渉開始、そして、2020年までの全(すべ)ての核兵器廃絶を想定しています。明日から長崎市で開かれる平和市長会議の総会で、さらに詳細な計画を策定します。

2020年が大切なのは、一人でも多くの被爆者と共に核兵器の廃絶される日を迎えたいからですし、また私たちの世代が核兵器を廃絶しなければ、次の世代への最低限の責任さえ果したことにはならないからです。

核兵器廃絶を視野に入れ積極的な活動を始めたグローバル・ゼロや核不拡散・核軍縮に関する国際委員会等、世界的影響力を持つ人々にも、2020年を目指す輪に加わって頂きたいと願っています。

対人地雷の禁止、グラミン銀行による貧困からの解放、温暖化の防止等、大多数の世界市民の意思を尊重し市民の力で問題を解決する地球規模の民主主義が今、正に発芽しつつあります。その芽を伸ばし、さらに大きな問題を解決するためには、国連の中にこれら市民の声が直接届く仕組みを創(つく)る必要があります。例えば、これまで戦争等の大きな悲劇を体験してきた都市100、そして、人口の多い都市100、計200都市からなる国連の下院を創設し、現在の国連総会を上院とすることも一案です。

被爆64周年の平和記念式典に当り、私たちは原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、長崎市と共に、また世界の多数派の市民そして国々と共に、核兵器のない世界実現のため渾身(こんしん)の力を振り絞ることをここに誓います。

最後に、英語で世界に呼び掛けます。

We have the power. We have the responsibility. And we are the Obamajority.

Together, we can abolish nuclear weapons. Yes, we can.

2010(平成22年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

「ああ やれんのう、こがあな辛(つら)い目に、なんで遭わにゃあ いけんのかいのう」―――65年前のこの日、ようやくにして生き永らえた被爆者、そして非業の最期を迎えられた多くの御霊(みたま)と共に、改めて「こがあな いびせえこたあ、ほかの誰(だれ)にも あっちゃあいけん」と決意を新たにする8月6日を迎えました。

ヒロシマは、被爆者と市民の力で、また国の内外からの支援により美しい都市として復興し、今や「世界のモデル都市」を、そしてオリンピックの招致を目指しています。地獄の苦悩を乗り越え、平和を愛する諸国民に期待しつつ被爆者が発してきたメッセージは、平和憲法の礎であり、世界の行く手を照らしています。

今年5月に開かれた核不拡散条約再検討会議の成果がその証拠です。全会一致で採択された最終文書には、核兵器廃絶を求める全(すべ)ての締約国の意向を尊重すること、市民社会の声に耳を傾けること、大多数の締約国が期限を区切った核兵器廃絶の取組に賛成していること、核兵器禁止条約を含め新たな法的枠組みの必要なこと等が盛り込まれ、これまでの広島市・長崎市そして、加盟都市が4000を超えた平和市長会議、さらに「ヒロシマ・ナガサキ議定書」に賛同した国内3分の2にも上る自治体の主張こそ、未来を拓(ひら)くために必要であることが確認されました。

核兵器のない未来を願う市民社会の声、良心の叫びが国連に届いたのは、今回、国連事務総長としてこの式典に初めて参列して下さっている潘基文閣下のリーダーシップの成せる業ですし、オバマ大統領率いる米国連邦政府や1200もの都市が加盟する全米市長会議も、大きな影響を与えました。

また、この式典には、70か国以上の政府代表、さらに国際機関の代表、NGOや市民代表が、被爆者やその家族・遺族そして広島市民の気持ちを汲(く)み、参列されています。核保有国としては、これまでロシア、中国等が参列されましたが、今回初めて米国大使や英仏の代表が参列されています。

このように、核兵器廃絶の緊急性は世界に浸透し始めており、大多数の世界市民の声が国際社会を動かす最大の力になりつつあります。

こうした絶好の機会を捉(とら)え、核兵器のない世界を実現するために必要なのは、被爆者の本願をそのまま世界に伝え、被爆者の魂と世界との距離を縮めることです。核兵器廃絶の緊急性に気付かず、人類滅亡が回避されたのは私たちが賢かったからではなく、運が良かっただけだという事実に目を瞑(つぶ)っている人もまだ多いからです。

今こそ、日本国政府の出番です。「核兵器廃絶に向けて先頭に立」つために、まずは、非核三原則の法制化と「核の傘」からの離脱、そして「黒い雨降雨地域」の拡大、並びに高齢化した世界全(すべ)ての被爆者に肌理(きめ)細かく優しい援護策を実現すべきです。

また、内閣総理大臣が、被爆者の願いを真摯(しんし)に受け止め自ら行動してこそ、「核兵器ゼロ」の世界を創(つく)り出し、「ゼロ(0)の発見」に匹敵する人類の新たな一頁を2020年に開くことが可能になります。核保有国の首脳に核兵器廃絶の緊急性を訴え核兵器禁止条約締結の音頭を取る、全(すべ)ての国に核兵器等軍事関連予算の削減を求める等、選択肢は無限です。

私たち市民や都市も行動します。志を同じくする国々、NGO、国連等と協力し、先月末に開催した「2020核廃絶広島会議」で採択した「ヒロシマアピール」に沿って、2020年までの核兵器廃絶のため更に大きなうねりを創(つく)ります。

最後に、被爆65周年の本日、原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げつつ、世界で最も我慢強き人々、すなわち被爆者に、これ以上の忍耐を強いてはならないこと、そして、全(すべ)ての被爆者が「生きていて良かった」と心から喜べる、核兵器のない世界を一日も早く実現することこそ、私たち人類に課せられ、死力を尽して遂行しなくてはならない責務であることをここに宣言します。