原爆被害者相談員の会

原爆被害者相談員の会 1981年6月13日発足

若林節美「原爆被害者相談員の発足と1年間のあゆみ」
(「ヒバクシャ-ともに生きる1号」所収)より

一九八○年十二月十一日、原爆による苦しみをなめ尽くしてきた被爆者は、原爆被爆者対策基本問題懇談会の意見書(以下、意見書)を期待と不安の中で、じっと待っていた。
それは、被爆者のみならず、被爆者援護や核廃絶を願う人々にとって、被爆者援護法が制定されるか否かは、日本の将来、ひいては人類の未来が問われるという重大な関心事であった。
しかし、報告された意見書は、国の戦争責任を回避し、原爆の被害を矮小化し、そしてあいまいな国家補償論で、三十五年間にわたる被爆者の苦渋に満ちた歴史に意味を与えず、逆に、被爆者に衝撃を与え、生きる意欲を奪ってしまうものであった。
年の瀬も迫る中、日常的に被爆者に接するソーシャル・ワーカー(以下、ワーカー)は、被爆者の悲しみ、怒りを見すごすことはできず、二十人の被爆者の怒りの声を、厚生大臣宛に直訴状として届けた。
震える手で直訴状をつづった老被爆者は、「夫と娘の死にようはひどいものでした。苦しんで、苦しんで……。生きる支えだった息子は、九年間生きましたが、白血病で狂うようにして死にました。たった一人残された私は、あとどれだけ生きられるかわかりません。この死を無駄にしないで下さい。」と訴えた。しかし、この被爆者は長年願い続けてきた援護法の日の目を見ないまま、意見書の衝撃と寒さのため、一ケ月後に他界してしまった。
こうした二十名の被爆者の怒りと抗議の声は政治の前にはむなしく、私たちの小さな灯は、意見書を乗り越える取組みへと燃えていった。

 被害者相談員の会の発足

一九八一年六月一三日、専門ボランティアによる原爆被害者相談が広島市内でスタートした。
これは、不当な意見書を乗り越えるために約半年をかけて産み出された、私たちの唯一の方法であり、運動であった。
今日、被爆者の高令化にともない、被爆者の問題は、複雑かつ深刻化し、とりわけ、被爆者援護の遅れは、被爆者のくらしや、こころの再建を非常に困難にしてきた。
この被爆者の問題に対し、行政や、各関係団体、各機関で相談事業が行なわれてきたが、今日の被爆者の切実な要請に応えるためには、一層、相談事業を強化しなければならず、しかも、専門的知識と経験を生かした総合的、かつ継続的な相談事業が求められていた。
それは、谷間で苦しむ被爆者のために、広く相談窓口を設け、被爆者の直接相談に応じながら、被爆者がかかえる現行二法の問題点、及ぴ、その被害の実態を科学的に究明し、しかも被爆者が被爆者として主体的に生きるための条件を整えていくという内容であった。
しかし、この相談事業の中心的役割を担わなければならないワーカーにとって、これほど重要な課題を目指すには、余りにも荷が重すぎ、不安は隠し切れなかった。
使命感と不安の中で、ワーカー、弁護士、研究者、教師、団体職員、市民等によって原爆被害者相談員の会が発足し、被爆者相談が取り組まれていった。こうして、過去五年にわたる原爆被害者問題研究会活動、NG0国際シンポジウムでの生活史調査、そして「三十五年目の被爆者」の出版等、ねばり強い活動経験が、さまざまな不安を一つ一つとり除き、次のような多くの成果と教訓を残した。

参考

年月日 事項
197511 広島原爆被爆者問題ケースワーカー研究会
198208 原爆被害者証言のつどい
198212 ヒバクシャ-ともに生きる1号
1981~ 年表:原爆被害者相談員の会

 

 

原水爆禁止広島母の会

原水爆禁止広島母の会 1959年9月1日第1回準備会

第5回世界大会に参加した婦人たちの中には,大会の中で明らかにされた安保条約改定の危険性に触発され,日常的な学習や活動を通じて大会の決議やアピールを実践する恒常組織をつくろうという気運が生まれた。1959(昭和34)年9月1日に広島市平和記念館で開かれた国際一斉行動広島中央集会を機に第1回準備会を持ったが,この時は労組の婦人部代表も参加しており,組織の上でむずかしい論議が出てまとまらなかった。その後,数度の会合の結果,個々の婦人の自発的組織として原水爆禁止母の会が発足した。
母の会は,1960(昭和35)年6月2日,広島県母親連絡協議会など七つの婦人団体とともに,広島県・市当局および県・市議会に安保批准阻止・国会解散を要求した声明書を提出するとともに,広島市内でビラを配布した。また,同年8月8日には,広島地区働く婦人連絡協議会・広島子供を守る会などとともに広島市ではじめての母親大会を開催した。「生命を生みだす母親は生命を育て生命を守ることをのぞみます」との横断幕を掲げた会場(国鉄職員会館)には,150人が参加,(1)子どもと教育,(2)暮らしについて,(3)平和問題,(4)地域婦人と働く婦人の結びつき,の4分科会に分れて討論を行った(「中国新聞」1960年8月8日)。
1961(昭和36)年6月14日の平和行進の広島出発にあたっては,「しろがねもこがねも玉も何せんにこの子の上に原爆を落すな」との歌を幼児の絵と一緒に書いたプラカードをみどり色のリボンで首からつるして参加した。こうした街頭活動の一方で,1961(昭和36)年4月には機関誌の発行を申し合わせ,6月14日の平和行進の日に『ひろしまの河』を創刊した(前田とみ子「原水爆禁止広島母の会の活動について」)。
母の会の会員のほとんどは,原爆でても,原爆によって象徴される徹底した非人間性こそすべての悪の根源であリ,人間性を大切にすることが平和と愛の始めであるという点で一致していた。機聞紙『ひろしまの河』は,創刊号(発行日は6月15日となっている)で,原爆孤老(山口勇子)・原爆未亡人(正田篠枝)を取りあげたのをはじめ,次表のように,原爆被害をめぐる諸問題をさまざまな角度から提起した。

『ひろしまの河』は,持続的な原爆手記発表の場でもあった。上田篠枝は,第1号に「私の苦悩と寂寞」と題して,自らの被爆記を寄せるとともに,第4号には,夫の兄弟の消息を伝えた手記「被爆の系譜」を寄稿した。第5号の手記特集以後,毎号数人の被爆手記の掲載をつづけ,第15号(1967年8月1日)までに掲載手記数は37点にのぼった。

ひろしまの河 NO.1(1961年6月15日発行)

タイトル 著者
原爆孤老 山口勇子
歌集「小さき旗」から 南雅子
私の苦悩と寂寞 正田 篠枝
歌集「さんげ」から 正田篠枝
16年後の2人の娘からの手紙 升川貴志栄
未だ癒えず 油井善子
9回の手術を受けて 小玉満子
広島・現代の救済 栗原貞子
原爆慰霊碑めぐり
(1)石田学園の巻、(2)市立女学校の巻
小西信子
(原水協通信)より
=殖える核保有国今年こそ実験停止を
(原水協通信)より
=盛んなイギリスの平和大行進
詩・平和公園にて 八島藤子
老人に腰かけを
原爆17回忌
広島と死神
あとがき

 

各号発行年月日

発行年月日 発行年月日 発行年月日 発行年月日
19610615 19621201 11 19650101 16 19720720
19610801 19630501 12 19650801 17 19730725
19611001 19630806 13 19660301 18 19740725
19611201 19631220 14 19660801 19 19750725
19620801 10 19640425 15 19670801

 

『ひろしまの河』の主要掲載記事

号数 発行年月日 記事
1 19610615 原爆十七回忌に捧ぐ
2 19610801 座談会「被爆体験と今日の私たち」出席者=永瀬清子・林田みや子・西隅幸枝・日詰しのぶ・斉藤冨美江・森滝市郎・山口勇子・小西信子・升川貴志栄・藤井ゆり
座談会「原水爆時代の文学をめぐって」出席者=中川国雄・荏原肆失・小久保均・大原美耶雄・増原正・浜野千穂子・深川宗俊・小西信子・栗原貞子
3 19611001 米・ソ核実験抗議特集号
4 19611201 特集:被爆地の原水禁運動はどうあるべきか
5 19620801 被爆十七年の市民感情の方向-ABCCを中心に、 今なおつづく広島:手記八編
6 19621201 岩国基地:わたしたちのまわりは米軍基地にとりまかれている
7 19630501 原爆孤児あゆみグループのこと
8 19630806 八月特集号
9 19631220 特集:故峠三吉詩碑建設記念
10  19640425
11  19650101
12  19650801
13  19660301
14  19660801
15  19670801
16  19720720  復刊一号<原爆体験の今日的課題>
17  19730725  原爆体験特集号
18  19740725  援護法制定の悲願をこめて
19 19750725  思出の疎開児童紙芝居

 

宇吹寄稿文「蔵書あれこれ」

『河図洛書―渓水社10周年記念』(渓水社、1985年4月1日)pp.140-143

河図洛書140

 

河図洛書141

河図洛書143

原爆問題についての私の師の一人であるT(田原)氏との出会いは、広島市内のあるガレージであった。そこには、T氏の管理する原爆関係の本が持ち込まれていた。私は学生時代から平和、
原爆問題に関心を持っていた。広島県の歴史の中でも重要なテーマと思い、その関連の本について、卒業後も気をつけていた。しかし、T氏の本の大半は、初めて目にするものであった。その後、T氏は、しばしば「蔵書を前の議論」の機会をつくってくれた。それは、私が、学生時代以来、久しく忘れていたものであった。私の原爆文献漁りが、T氏との出会いを契機に始まった。

河図洛書142

 

 

 

広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)

広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)

1978.9.14 於YMCA

広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)

(佐々木)東京に行っている広島の撮影分は、入れるというより記録に残しておくだけにしないと。

(松重)それらを入れないと、集大成にならないのではないか。ほとんど出版されているのではないか。

(佐々木)出版物掲載分も記録として残してはどうか。木村さんのは(大和人絹内撮影)ほとんど東京へ行っているのではないか。それを入れるとなると、いろいろ問題が出てくる。個人と写したものと、軍や警察が写したものを一緒にするとトラブルが起きはしないか。

(木村)主人も死んでいるし、撮影を指示した医師も死んでいて、当時のことがわからなくなっている。当時の看護婦さんなどは生きている。

(佐々木)行動記録が今は一番大切ではないか。今後写真が出てきた場合、推定の根拠になる。死なれた人のは、もうわからなくなってしまう。6×6で何枚、キャビネで何枚などという記録が大事。

川本さんの写真――N.G.ピンボケなどのネガが残っている。最初写したものは、米軍が全部持って帰った。それではもう一度撮れとの警察の指示で写したものが残っている。

大和人絹の中には相原さんは行っていない。日赤と逓信病院のみ。大和人絹の中は木村さんのものだけで済ましている。軍と警察のものだけがわからない。

(尾糠)憲兵隊に提出。ネガを提出したかどうかわからない。

(佐々木)川本さんも尾糠さんと同じコースを歩いている。

(尾糠)終戦後すべての写真を焼いた。写真班の横に穴を掘ってうめた。

(佐々木)東京空襲のも警視庁のものだけ残っている。東京のもの、ライカで30本ぐらい写している。

(松重)川本さんの写真、現像ミスも含めれば4~50枚残っているのでは。見たものだけでもそれくらいある。

(佐々木)

(松重)出版物のも写したものにまちがいなければ、複写してでも残してはどうか。

(佐々木)それはいいが、あいまいなものまで加えると目録の価値がなくなる。木村さんは自分の責任でとったもの以外は、自分で写したものとは言われなかった。軍と警察以外のものは、ほぼ検討がつく。

(松重)今日来ておられない人のネガ、枚数の確認と行動記録をつくることが必要。

(川原)6日は罹災者へ食料をもていったと言っていた。7日から写したものと思われる。軍人と一緒に巡ったそうだ。

(木村)宇品が解散になるまで、やめさせてもらえなかった。

(佐々木)9月15日頃までと聞いた。

(川原)相原さんが(調べるため)問い合わせた件についてもすべて返事を主人の代理で書いた思えがある。あの手紙が借りれれば書けると思うんだが。

(佐々木)相原さんがどこかに出すつもりがなければ、借りれると思うが。

川原さんが我々にもっと心を開いてくれたらなあ。

(川原)あの頃は市役所とのいきちがいがあったので、何もしゃべらなくなった。

(佐々木)相原さんは、S44、ぼくが東京へ行くまでは何も知らなかった。

(入室)(山本よしえ)中国新聞写真部に松重君と一緒にいた。

(佐々木)川原さんがついて行ったのは憲兵隊の人と一緒だったと言っていた。

(尾糠)私も憲兵隊と一緒に行った。

(川原)次の日(終戦日)行かれないからと憲兵隊の人にカメラを貸したら、もう返してもらえなくなった。

(佐々木)江波へも行っている。どうやって行ったのか、宇品から船で行ったのかも知れない。

(川原)楠木を写したものは、ゆがんだので写し直した。ゆがんだものが相原さんのところにあり、まっすぐなったのが残っている。

(松重)藤井さんは撮影しているか。

(川原)藤井さんは出ていないと聞いているが、会って話した時には、自分も出たと言っておられた。

(松重)来年どうしても出版しなければならないということはないが、みんないつ死ぬかわからないから早くしておきたい。

(深田)林(タクマ)さんは、自分のは大したことは何(ママ)から、と言っておられたが、早く行っていないと、もう高齢だから。

(松重)川本さんのは、息子が私に任せると言っているが、足どりをまとめておかなくては。

(佐々木)息子さんではわからないのではないか。私も警察関係の人々にずい分聞いたがわからなくなった。

(松重)いよいよ本職の新聞記者にやってもらわなくてはどうにもならないのではないか。今、原災研は150~60万ある。

(岸田)キャビネで揃えたらどうか。費用の点は自分でやっておくことにし、やれない人は私のところでもやるから。

(佐々木)36mmはベタ焼きの方がよい。

(岸田)虫目がねで見るようなですよ。

(山本)出版するのなら写真のサイズを考えておかないと。

中国新聞屋上から、同僚(谷川君)と一緒に移した。合計4枚出てきた。あとは整理してみないとわからない。

(佐々木)わかるものは、もう作業しましょうや。

(川原)当時のことは何も知らないから、私は遠慮さしてください。

(佐々木)尾糠さんは川原さんの行動を知っていないか。

(尾糠)わからない。写真を見ればわかるものがある。

(佐々木)藤井さんが元気な時聞いたら、現像焼付みな別々の人間がやったのだから、だれが写したかわかりはしないよと言っておられた。それがほんとのことだろうと思う。

(松重)キャビネに統一して。

(佐々木)35mmもか。

(松重)そうだ。

(山本)(岸田)利用にはキャビネが良い。

(松重)カード添付写真はキャビネ版とする。行動記録はいつにするか。

(岸田)11月末までにやったらどうか。

(松重)行動記録、11月末までに〆切ったらどうか。

(松重)<ネガ再製について>

市平和文化センターから手紙。田中にやらせるからオリジナルネガを貸して欲しいとの要請があった。それについての私案をつくった。8・6前に依頼があった。

(岸田)<貸出しの場合撮影者の同意をうる>は個人ではなく撮影者の会にしたらどうか。

(山本)撮影者の会を通してやったらどうか。

(岸田)撮影者の会としての権威をもたなくては。

(佐々木)個人で協力しない人もいる。それをどう考えるか。職員が個人でやって、充分責任をもっていない。

(深田)島本

(川原)〃

(入室)(黒石)

(岸田)佐々木さんは佐々木さんの意志ですればよい。

(松重)字句については、また考えてみる。

(佐々木)出版などで依頼があった場合どうか。

(岸田)個人へ来たら、撮影者の会へ連絡することにする。代表者・会則をつくる必要がある。

(松重)原爆写真は公共性が強いから、金銭面は慎重でなくてはならぬ。文化センターは永久保存用ネガと貸出用ネガをつくろうとしている。

(佐々木)文化センターは、いる写真といらない写真を別けようとしている。公文書館は全部を保存しようとしている。

(松重)文化センターは、貸出用ネガがあれば良い。

(松重 三)借りに来たが(キャビネ)何のあいさつもない。

(山本)原稿なら原稿料がでるのだから写真に対しても謝礼があって当然。

(松重)これは森本タイジさんの写真です。

(佐々木)もうこれで集まって話すよりも、あとは通信でやったらどうか。

(黒石)会費をとったらどうか。

(佐々木)1000円づつ集めたらどうか。2000円。

            次回11月末までに通信でやる。

(川原)記録の会の写真は返ってくるか。

(松重)あれは言いますよ。

            15:35 終了

 

 

現代と広島の会

「現代と広島」の会

設立:1978年7月10日

年表

年月日 報告者 「タイトル」ほか
1 19780710 発足準備の話し合い。 参加者8名 。朝日会館屋上
2 19780828  宇吹 「 被爆直後の原爆報道」
3 19780925  田原  「不思議な広島」
4 19781030  藤原  「尾道時代の中井正一」
5 19781120  宇吹 「 原爆と市民」
6 19781218   忘年会。 参加者7名 。源蔵。
資料「「現代と広島の会」1978年の歩み」1979.1.29
7 19790129  木村
8 19790226  田原  「原爆手記の考察(Ⅰ)」
9 19790326  深川  「被爆朝鮮人徴用工について」
10 19790423 田原  「子どもの視界の中で―継承の問題―」
11 19790522  島津 「 原爆孤児の戦後―広島戦災孤児育成所を中心に」
12 19790625  今田  「鮎川信雄の『死の灰詩集』批判について」
資料「「現代と広島の会」1979年(前半)の歩み」1979.6.25
13 19790723  松林  「町内会・部落会等の廃止について」
197908 10日~11日。合宿(呉市・国民宿舎温度ロッジ。7名領収書計41933円)
14 19790810  石踊  10:30~安芸書房の現状など
15 19790810  深川宗俊  13:35~「消えた国旗批判」
16 19790810  田原  16:30~<ピカ研(調査報告綴)、原爆ババアなど>
17 19790811  藤原  09:20~「戦後の広島県内文化運動について」
18 19790811  宇吹  「『原水禁運動の原点』をめぐって」<レジメが行方不明>
19 19790917  島津 「太平洋核実験場から」
20 19791022 内田恵美子 「原爆被災資料論」<レジメのタイトル「資料センター発足後の経緯・問題点・今後の課題」、「広島大学原爆放射能医学研究所の沿革」>
21 19791112 安藤  「早速整爾論」
 土師ダム(日帰り会場)
19810512 石踊  安芸書房の現状など
19810512 田原  梶山季之、中国文化連盟など、
19810616 島津  「中国山地の製鉄業」
19810714  田原  「ピカ時評」命日の紹介。