広島・長崎と戦争責任─原水爆禁止運動以前の動向

広島・長崎と戦争責任─原水爆禁止運動以前の動向(宇吹暁)(『季刊戦争責任研究』第74号、日本の戦争責任センター、20111215)所収

はじめに

広島と長崎で被爆した人々の中には多くの外国人が含まれている。当時、アメリカ軍人をはじめイギリス・オーストラリア・オランダなどの将兵が捕虜として収容されていた。さらに、数千人に及ぶ外国人非戦闘員が居住していたことも、見逃しえない事実である。両都市およびその周辺地域には、日本の植民地支配下にあって「日本国臣民」とされていた朝鮮人が相当数生活していた。広島には、多数のアメリカ生まれの日系アメリカ人、ドイツ・ロシア・東南アジア諸国・中国・モンゴルなどの市民・聖職者・留学生が居住しており、長崎でも、外国籍の宣教師や修道女をはじめ多くの中国人が生活していたのである。これらの人々の多くは、被爆後祖国へ帰国した。また、被爆者の中には、戦後、アメリカ・カナダ・オーストラリア・ブラジル・アルゼンチン・ペルーなどの国々に移住した人々もあった(『広島・長崎の原爆災害』〔岩波書店、一九七九年〕)。原爆被害者の問題が、もともと日本の国内問題にとどまらないものであることは、こうした人々の存在を考えれば明らかである。
広島・長崎両市には、国立の原爆死没者追悼平和祈念館が開設されている。第二次世界大戦による死没者の追悼施設で「国立」の性格を持つ施設は、この外には東京都千代田区の「千鳥ケ淵戦没者墓苑」があるのみある。広島の「原爆ドーム」は、一九九六年一二月にユネスコの世界遺産リストに登録された。海外には、「アウシュビッツ・ビルケナウ ナチスドイツの強制収容所」や冷戦時代に米国が核実験を行ったマーシャル諸島の「ビキニ環礁」など、戦争に関連する世界遺産が存在する。しかし、アジアでは、第二次世界大戦以降の戦争・平和に関連した世界遺産は、「原爆ドーム」以外に存在しない。このような広島・長崎の原爆被害の在りようは、原爆被害が、日本やアジアの戦争被害の中で、特別な役割を担ってきた結果であるとともに、今後も担い続けることを期待されている証であろう。
これまで、広島・長崎の被害は、しばしば、「真珠湾攻撃」・「天皇」・「終戦」・「国際法」・「アメリカ大統領」・「国家補償」・「加害責任」など国家レベルのキーワードと対の形で論じられてきた。「真珠湾攻撃とヒロシマ」はその一例である。これらの論議は、現在なお進行中である。
被爆から六〇余年が経過し、広島・長崎の体験の歴史化が急速に進行している。この体験の歴史的意味を明らかにするためには、広島・長崎の被害に関連して展開した戦争責任に関する論議や動向を踏まえることが必要であろう。本稿の目的は、その前提作業として、そうした論議や動向を跡付けることである。広島・長崎の被害は、ビキニ水爆事件を契機として国内外でクローズアップされる。この被害をめぐる戦争責任論議の担い手は多様化し、その内容も深化する。ここで取り上げることができるのは、被爆直後からビキニ水爆事件までの期間であるが、その後の論議の論点の多くは、この時期に姿を現している。

一、 被爆直後の原爆批判キャンペーン

日本の戦争指導者は、広島の原爆被爆直後、国民向けには、これまでの防空対策を徹底すれば防御可能という態度をとった。しかし、その一方では、この爆弾の非人道性を最大限強調した。一九四五年八月一〇日、日本政府は、アメリカにその使用の中止を求める抗議文を渡した。抗議の根拠は、新型爆弾は毒ガス以上の残虐性をもつものであり、その使用は国際法違反(「原爆使用=国際法違反」説)であるからというものであった。また、一五日に国民に発表された「終戦紹書」も、原爆を「残虐ナル爆弾」と表現し、「頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル」と、その残虐さを指摘するが、使用責任を取り上げてはいない。ただ、注目されるのは、この指摘の後ろに、戦争継続が、「我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却」するから、ポツダム宣言を受諾するとの文言が続いている点である。
九月四日の衆議院で、高橋守平が決議案(皇軍将兵並国民勤労戦士に対する感謝敬弔に関する件)の趣旨弁明を行うが、彼は、その中で、原子爆弾のもたらした被害を敗戦の原因の一つに挙げ、「是れ以上の戦は日本民族の破滅であり、世界文明の破壞との大慈愛から、戦争終結の大詔を渙発せられた」と述べている。ニューヨーク・タイムズのロバート・トランブル記者は、九月五日付の同紙で、高橋の発言を取り上げ、つぎのように報じた。
高橋守平代議士は、議会において、戦死者に弔意を表し、原爆が早期終戦の主要な原因であると簡単に述べた。この反応は、ここではよく出会うもので、日本にとって、それが、将来面子を保つことに役立つとしばしば語られた
これらは、終戦詔書の原爆への言及が、原爆使用を終戦の理由(「原爆使用=終戦招来」)としたものと理解されていることを示している。
八月下旬、広島では、原爆被爆者や爆心地域での復興作業従事者の間に、脱毛・発熱・下痢などの諸症状や血液異常が出現した。この事実は、マスコミにより七〇年生物不毛説(広島の廃墟には、今後七〇年間、殺人性の放射能が残るという説)とともに伝えられ、国民の間に原爆の底知れぬ恐怖を流布した。また、同盟通信が、こうした状況を海外に伝えた。戦争が終わったにも関わらず、原爆放射線の持続的影響が被爆地に残っているという事実は、被災地の住民のみならず、国内外に大きな波紋を投げかけた。
九月一三日、重光葵外相は、スウェーデン・スイス・ポルトガルの公使に対し,アメリカにおける最近の日本の捕虜虐待批判に対抗して、原爆問題を利用する必要があると述べ、同盟通信が政府の原爆被害報告、広島(九月三日)・長崎(四日)への勅使派遣、日々増加している死者の数などについて詳細に報道していることを伝え、それに対する海外の反応の報告を求めている(『MAGIC SUMMARY』No.1269 15 September 1945)。戦後の国際社会に向けた日本政府による原爆被害情報発信の背景には、このような意図があったのである。
八月三〇日、連合国従軍記者団第一陣として厚木に到着したニューヨーク・タイムズ記者クルック・ホーンは、日本人記者団の質問に対して、「原子爆弾をアメリカがどうして使ったというのかね。それなら日本は真珠湾攻撃をどうしてやったか!」と問い返したという(『朝日新聞』八月三一日付)。東久邇宮新首相は、アメリカ人記者の質問書に対する返書の中で、「米国民よ、どうか真珠湾を忘れて下さらないか.われわれ日本人も原子爆弾による惨害を忘れよう」と述べている(『朝日新聞』九月一六日付)。この二つは、真珠湾攻撃と原爆攻撃が対置された早期の事例である。
八月下旬から、日本のマスコミに、原爆使用責任を問う論調が現れた。八月二二日の『読売報知』のコラム「陣影」は,「今回の戦に於て真に勝利者としての誇りを満足に味ひ得る国が果して何所にあらうか(中略)第一彼らの勝利は残虐なる原子爆弾などの非人道的手段によって得たものである」とのべ、同月月二八日の同紙は、石原莞爾のつぎのような談話を掲載した。
原爆と中小都市焼爆で日本本土を荒廃し、数百万人の非戦斗員を殺傷せしめたのであるから,今後日本が恭順の意を表して男らしく屈伏したからには現物賠償のどうのこうのをと金持国にも似合はぬケチなことを言はず、反対に日本再建の資金位出したらどうか.日本の宗教界も米国のとった原子爆弾に真正面から人道無視の刻印を捺して執拗に抗議すべきである。
また、九月一五日付の『朝日新聞』は、「戦後復興の諸施策如何」との問に対する鳩山一郎の回答を掲載した。そこでは、「極力米人をして罹災地の惨状を視察せしめ、彼ら自身、自らの行為に対する報償の念と復興の責任とを自覚せしむること」と述べられていた。GHQは、九月一八日には、『朝日新聞』の四八時間発行停止処分を行なったが、その理由の一つには、原爆投下責任を基礎にアメリカによる日本の復興責任を論じた鳩山一郎の談話を掲載したことをあげていた

二、国会での原爆論議

九月上旬来日したGHQは、日本で実施されていた原爆被害調査を厳重な管理下に置くとともに、八月一九日には、プレス・コードを指令した。こうした措置は、原爆被害を戦争責任回避に利用しようとする意図を挫くものではあった。これ以後、原爆使用を追及する国内でのさまざまな論調は姿を消す。しかし、これで原爆被害への言及が消えたわけではない。国会における論議だけでも、そのことが確認できる。復興に関連した論議の中で、広島・長崎両市の被害がしばしば取り上げられた。また、原爆投下を批判するさまざまな発言も存在した。
世耕耕一は一九四九年一一月二四日(「衆議院予算委員会」)、「原子爆弾を使用して戰争するということは、これは非人道的だ、かように私は考えております」と発言した。
堀眞琴〈労農党〉は、一九五一年一一月一七日(「平和条約及び日米安全保障條約特別委員会」)、参議院での平和条約と日米安全保障條約の討論の中で、反対理由の一つに「無差別爆撃」や「原子爆弾」により生じた「連合国が日本に持つ財産」の補償をしなければならなくなることを挙げている。菊川孝夫(社会党の第二控室)が、翌一八日(「参議院本会議」)、連合国財産補償法案に反対した理由も、堀と同じ内容であった。
清瀬一郎(参考人)は、一九五一年一二月一四日(参議院法務委員会)で、「今までの平和条約というものは、戦争犯罪人はお互いに大赦しよう」というものであるのにかかわらず、「今回の平和条約第一一条(「極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判の受諾」の記述を含む)に疑問を呈し、「例えば東京の無差別爆撃、これは犯罪ですわね。広島の原子爆弾投下、これも当時では犯罪です」と述べている。
以上は、原爆投下に批判的な意見であるが、原爆被害へ言及は、この外にも見受けられる。広島県出身の参議院議員山下義信は、一九四九年一二月一九日(参議院厚生委員会)に、原爆が「終戦の端緒」、「有名な世界都市となった」「機縁」と発言している。また、八嶋三郎(政府委員)は、一九五一年二月二〇日(「参議院建設委員会」)の答弁の中で、「御承知の通りに広島、長崎という都市は原爆によりまして大きな被害をこうむった、これによりまして日本に平和をもたらし、世界の平和というものを招来するとても大きな起因になったということは言えると思うのであります」と述べている。これらから、終戦詔書に端を発する「原爆使用=終戦招来」説が、占領期の原爆被害者援護や広島・長崎両市の復興支援の議論のなかで、生き続けていたことを知ることができる。

三、キリスト者

一九四五年一一月二三日、長崎の被爆者であり、キリスト者である永井隆は、「天主公浦上信徒代表」として読み上げた「原子爆弾死者合同葬弔辞」の中で、浦上への原爆被害を神の摂理とした(高橋真司『長崎にあって哲学する 核時代の死と生』(北樹出版、一九九四年七月)。四九年一月、永井の著作『長崎の鐘』が日比谷出版社から出版された。永井は、同書の序文で、「この[日本人の]無差別な殺傷行為を止め、戦争を終結させるために、アメリカと全世界とが原子爆弾を使用せざるを得なかった所以である。かくすることにより、彼等は日本およびその他の国々における無数の人命を救うことができたのである」と述べ、アメリカの原爆使用の正当性を主張している。
東洋工業株式会社(現:マツダ)教育主任中尾一真(三九才)は、広島市郊外の同社工場で被爆した経験の持ち主である。彼は、一九四六年八月六日、中央教会の焼け跡で開催された信徒大会で一同を代表し、「我等は無力にして、戦争とその惨禍の防止に対し、為すなかりしことを神と人との前に衷心よりざんげする」との宣言を述べた(日本基督教青年会同盟『天よりの大いなる声』〔東京トリビューン社、一九四九年〕142~143頁)。
広島のメソジスト教会の牧師である谷本清は、一九四七年の平和祭を前にした毎日新聞記者の取材に対し、「原爆の批判はわれわれの役目ではない」、「それはわれわれ以外の民族によってなされるべきこと」と語っている(今村得之・大森実『ヒロシマの緑の芽』〔世界文学社、一九四九年〕)。
ここに紹介した三人のキリスト者のうち、永井と中尾は、原爆被害の責任を自らの問題としてとらえている。中尾は、広島YMCAが市内一一校の六年生の学童一四〇〇名を招待して開催したクリスマス映画鑑賞会で次のように発言している(『天よりの大いなる声』48~49頁)。。
おぢさんたちは 世界中のおとなになり代って みなさんにおわびを申します おとなのみにくい心が戦争をひきおこし みなさんをこんなひどい目にあわせてしまいました
どんなに沢山 みなさんのお友達が死んだでしょう 広島で、長崎で 南京で マニラで 今日は戦災児育成所からも見えていますが どんなに沢山罪のない子供が辛い思いをしてるでしょう
世界中で 本当に戦争責任のないのは みなさんだけ、子供だけ みなさんこそ戦争の被害者 おとなはみんな大馬鹿者
彼が一九四六年八月の信徒大会で述べた戦争への反省の言葉が、改めて小学生に向けて発せられたと理解できる。
谷本は、前の二人と異なり、原爆批判の必要性は認めるが、日本人の役割ではないとの立場に立っている。谷本の特異な発言の背景には、彼の経歴(アメリカ・アトランタにあるエモリー大学神学院の一九四〇年卒業生)とジョン・ハーシー(一九四六年五月取材)の「ヒロシマ」レポートの登場人物であったことが考えられる。これらの経歴により海外の情報に接することができた彼には、海外の人々による広範な原爆批判に期待を寄せることができたのであろう。

四、天皇・靖国

一九四七年八月六日、広島市で今日の平和記念式典につながる初の式典が開催された。当時、平和祭と呼ばれたこの行事は、国際的に大きな反響を呼ぶが、ここで注目されるのは、主催者が、昭和天皇のこの式典への参列を要望していることである。式典挙行のための各界代表者の会合(五月に開催)で、式典に天皇の行幸を願い出ることが満場一致で申し合わされ、これを受けて県知事が宮内府に交渉する。平和祭参列は実現しなかったが、同年一二月七日、被爆地への行幸が実現した。爆心地の市民広場で開催された市民奉迎式典には五万人が参加した。この日は、日米開戦日一二月八日の前日にあたり、海外メディアの一八人が取材した(小野勝『天皇と廣島』〔文化社、一九四九年〕)。ニューヨーク・タイムズは、八日付の同紙一面に “Hirohito Rules Out New ‘Pearl Harbor’” の見出しで広島発のUP電を掲載している。前出の谷本清は、天皇行幸の前後に、記者の取材に対し、「天皇制はキリストの理想に両立し得る」とし、その根拠として「敗戦後空白となった日本人の心に愛と信をさずけるのがキリストの理想ならば、纏まりを失った日本人の横の結びとなるのが天皇である」と述べている(今村得之・大森実『ヒロシマの緑の芽』〔世界文学社、一九四九年〕)。なお、天皇は、一九四九年五月二八日には、長崎を訪れた。この時、数万の市民が、浦上三菱球場の奉迎場を埋めており(長崎市役所『長崎市史年表』一九八一年)広島同様多くの市民の歓迎を受けた。
天皇行幸では、両被爆地の多くの市民が歓迎した。しかし、天皇への好意的なものばかりではなかった。国会議事録からでもつぎのような事例を見出すことができる。
その一つは、京都大学でのことである。同大学の学生は、天皇の来学(一九五一年一一月一二日)の二日前、大学当局に天皇への「公開質問状」を提出していた。渡部義通は、一一月二一日(「衆議院文部委員会」)、五項目からなる質問状の内容を紹介し、政府の見解をただした。五番目の項目は、同年の夏に学外で開催した原爆展を学内で開催しようとしたことに関連したもので、その内容はつぎのとおりである。
五、広島、長崎の原爆の悲惨はあなたも終戦の詔書で強調されていました。そのことは私たちはまったく同意見で、それを世界に徹底させるために原爆展を制作しましたが、その開催があなたの来学を理由として妨害されています。あなたはそれを希望されるでしょうか。また私たちは特にあなたにそれを見ていただきたいと思いますが、見ていただけるでしょうか。
また、道徳教育をめぐる論議の中でのことであるが、一九五一年一一月二六日(参議院文部委員会)、矢川徳光(参考人)が、少年少女の原爆体験記『原爆の子』を取り上げ、その中で「片岡修という当時中学校の一少年であつた人が、やはり天皇の問題について疑問を提出しておる」ことを紹介している。その内容は、当時の中学生が、原爆に被爆して死にゆく級友に慰めとして「軍人勅諭」を暗誦し、「天皇陛下万歳」を唱えた状況を伝える箇所であった(長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』〔岩波書店、一九五一年〕二八六頁)。
一九五一年、日本政府が講和条約発効を見越し旧軍人の援護を公式に取り上げると、広島で原爆犠牲者遺族の援護を求める運動が始まった。国内での組織的運動としては、これが初めてのものであった。同年一一月、広島市長は、政府と国会に「原爆犠牲者遺族援護に関する請願書」を提出した。その内容は、被爆「当時広島市は全市要塞化し」「老幼男女の区別なく」「戦場にあった旧軍人と同じ立場に置かれていた」ことを理由に、原爆で死亡した義勇隊員と動員学徒の遺族に対する旧軍人同様の国家補償を求めるとともに、これらの犠牲者の霊の靖国神社への合祀を要望するものであった(参議院社会労働委員会調査室『広島市における原爆障害者対策に関する調査概要』〔一九五六年〕)。
これを皮切りに、広島市長・市議会議長、県知事・県議会議長、国会議員を巻き込む形で、政府や国会に対する請願・陳情が展開された。これらは、戦傷病者戦没者遺族等援護法案の国会上程前の行動であったが、同法案が上程された国会の公聴会(一九五二年三月二六日 衆議院厚生委員会)には、広島原爆犠牲者遺家族援護連盟委員長任都栗司が、広島において、二万一一〇二人の国民義勇隊・動員学徒・徴用工・女子挺身隊員が軍の強力な要請にもとづいて出動中原爆の犠牲になったことを述べ、その遺族の援護を訴えた。

五、ABCC(原子爆弾傷害研究所)

一九四八年一二月二三日夜、広島市内の開業医である原田東岷のもとを急患が訪れた。白血病か悪性貧血か診断がつかなかった原田は、翌日、アメリカの研究機関ABCCを訪れ、白血病との診断結果を得た。原田医師が、広島の原爆被爆者の中に初めて白血病患者を発見した瞬間であった。診断を下したアメリカ人の軍医中尉は原田に「私はこの病気を待っていたのです」と語ったが、ABCCにとっても初めての白血病患者であったことがわかる。原田の診療への協力は、ABCCの他の医師からも得られ、原田とABCCとの良好な関係が続くことになる(原田東岷『ヒロシマの外科医の回想‐ヒロシマからベトナムへ』〔未来社、一九七七年〕)。一九四九年五月、参議院厚生委員会の調査メンバーが日赤広島支部の「指導者階級の座談会を開き、原爆による妊娠並びに出産率、或いは放射能の影響、又人口問題、社会事業団体等の状況の調査報告を受け」た。その際、ABCCの日系二世のドクターがわざわざ臨席し、「原爆の影響の調査研究のための米国の大規模な方策の一部」を紹介している(「参議院厚生委員会」一九四九年五月一〇日)。ABCCが、本格的な研究を開始するに当たり、広島の医療関係者や機関と良好な関係を築こうとしている様子をうかがわせる。
しかし、広島には、ABCCに対する強い不満が存在していた。一九五二年八月四日に長崎市内で開催された広島・長崎両原爆都市建設特別委員会の席上、ABCCに対する批判がなされ、広島の特別委員会委員長任都栗司は「アメリカはケロイド症状に悩む原子病患者をネズミかモルモットぐらいにしか考えていない、単なる研究資料として取扱っているが治療機関を設置すべきでアメリカはその責任がある」と述べている。
また、「アメリカは原爆投下のつぐないとして両市の復興を促進すべき責任がある」との意見が強く打出された。 中村長崎特別委員長も、つぎのように語った。
惨殺行為が国際法で禁止されていたにかかわらず、アメリカは一しゅんにして幾万の非戦闘員の生命を奪ったのだから、このつぐないは当然負うべきである、われわれはこのむねの申入れを広島とともに講和締結前、米極東軍司令部の民事部にたいし行ったが、講和前であり公にされなかった、原爆による損害の請求をアメリカの世論に訴えるのはわれわれの権利である(『長崎日日新聞』一九五二年八月六日付)。

六、原爆被害者の会とABCC

一九五二年八月一〇日、原爆ドームの傍らで土産物店を開いていた吉川清(マスコミから「原爆一号」と呼ばれていた)や峠三吉・山代巴・川手健・野村英一らにより、広島市内で「原爆被害者の会」が組織された。結成時の会員は数十人であったが、その後の被爆者運動につながる様々な活動を展開する。八月二四日に開いた第一回幹事会で、当面の仕事として原爆症患者の治療問題の交渉と資金募集を決定した。一〇月六日、ABCCのテーラー所長と面会、「ABCCに無料治療機関を設置する様要求する」決議を申し入れたが、拒否された。理由は、ABCCの目的がちがうとのことであった。一〇月二〇日に開いた第二回幹事会で「軍事目的が濃厚と思われ、被害者にとって何の利益にもならないABCCに対しては今後一切協力しない態度を決定」した。(川手健「半年の足跡」(『原爆に生きて』))。なお、一〇月六日のABCC訪問には、佐久間澄ら広島大学物理教室のメンバーや雑誌『改造』(「原爆特集号」一一月一五日発行)のルポルタージュ執筆のため広島を訪れていた武谷三男も同席していた(M.T「ABCC の内幕」(『改造』増刊号、一九五二年一一月)。
一九五三年三月、大阪の弁護士岡本尚一が原爆被害者の会を訪れた。用件は、自分の計画している原爆損害賠償請求訴訟の提訴の原告者として運動を起こすことの申し入れであった。会では,三月二九日の第五回幹事会で,次のような決議を行い、その旨を広島弁護士会に伝え協力を依頼した。
1.我々原爆被害者は今回の提訴には全面的に賛成であり,条件がととのえば何時でも原告者として,アメリカ政府,並びに原爆投下の決定に参与した米国人を告発する用意がある。
2.我々が提訴についてかかる態度をとったのは,原爆が人道上許しがたい虐殺の道具であり,これが広島に投下され、三〇万の人々を殺し,一〇数万の被害者を出した事実に対し,今もって憤怒をいやす何らの理由も見出さないからである。この提訴が原爆禁止の世論を更にたかめ,再びかかる悲惨事のくりかえされない様,世界の平和運動の一層強大になる事を願って止まない。
3.我々は個人としてではなく,原爆被害者の唯一の自主的団体である原爆被害者の会として提訴をおこす。その他の具体的な方法については,広島弁護士会と相談の上決定したい(「原爆被害者の会機関紙「芽生え」№.1 一九五三年四月五日)。

七、極東軍事裁判の余波

講和条約発効後、極東軍事裁判の関係者二人による発言や行動が広島・長崎に大きな波紋を生んだ。その一人は、一九五二年一二月に広島を訪れた元極東軍事裁判判事R・B・パールの発言である。彼は、同年の八月に除幕した広島平和記念都市建設碑の「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」との碑文の「過ち」に、異を唱えたが、これを契機に、市民の間に碑文への賛否両論が沸き起こった(石田宜子「過ちは繰返しませんから─碑文論争の歩み」〔『広島市公文書館紀要』二〇号、一九九七年〕)
もう一人は大阪の弁護士岡本尚一の原爆訴訟の構想と実現に向けた行動である。彼は、極東国際軍事裁判に主任弁護人として参加する中で、「講和条約が発効した後においては、尠くとも広島及び長崎に対する原爆の投下についてはこの責任を民事不法行為の面において採りあげて原爆投下の決定に参与した指導者等及び国家に対して不法行為の管轄裁判所に対し提訴致し度いと念願し」ており、「訴訟の遂行が可能か否かに関して研究すべき主要法律問題について一応卑見を原爆民訴或問と題して簡単な問答体」にまとめ、これを、広島・長崎在住の弁護士六四人および弁護士・学者・宗教家など六四人に送付し、意見と協力を求めた(昭和二八年一月一四日付広島弁護士会長宛岡本尚一書簡)。
広島・長崎両弁護士会はともにこれをとりあげ特別委員会を設けて検討したが,結局この様に大きな問題は日本弁護士連合会で取扱うのが妥当との結論となり,問題は日弁連に移された。日弁連内に設けられた「原爆被害者救済に関する国際的措置の取扱調査委員会」は,一二月一四日,日弁連会長に次のような要旨の意見書を提出した。
1.日弁連はこの問題についてどの様な措置をとるのが妥当かを考えるため相当数の委員を選んで法律的・実際的な調査研究を行うべきだと考える。
2.日弁連は原爆の惨害は人類最大の恐怖であることを天下に伝え,世界の宗教家・法律家・人権擁護協会等によびかけ原爆使用禁止の国際的立法化を期することに一歩を進めるべきだと考える。
一二月一九日の日弁連理事会は,この報告にもとづいて第二次調査委員会の設置を決定した(「芽生え」No.2 一九五四年一月一八日)。
一九五四年一月八日,岡本尚一の提案によりこの訴訟を実現させるための実行団体である原爆損害求償同盟が結成された。法理論の広範な検討が着手される前にこのように急速に訴訟の準備に着手したのは,この訴訟の時効が同年四月二八日で切れることが判明したからである。同盟結成の連絡を受けた原爆被害者の会は、一月六日の幹事会で,同盟役員として温品道義・竹内武の二人を選出,八日東京の学士会館で開かれた結成総会には竹内が出席した。
原爆被害者の会が、岡本の提案に直ちに支持を表明したのにくらべ,広島の弁護士会の対応は慎重であった。その原因は、主として日米親善の障害とならないか、そのような裁判が理論的に成立するか、の二点にあったといわれている(松井康浩『戦争と国際法 原爆裁判からラッセル法廷へ』〔三省堂、一九六八年〕)。
東京の弁護士松井康浩(岡本の原爆訴訟構想に共鳴して参加し、病のため一九五六年九月の公判を最後に法廷から姿を消した岡本に代わり訴訟を引き継いだ)は、のちに、弁護士会などの対応について、岡本弁護士を失望させたことを明らかにするとともに、彼自身の意見を述べている。その内容は、つぎのようなものである。
太平洋戦争遂行過程での日本軍国主義によるアジア諸国民に対する深刻な打撃、南京大虐殺その他加害の深刻さが、日本国民のアメリカ政府に対する損害請求という攻撃的方法の発想を抑止していたのかもしれない(松井康浩『原爆裁判 核兵器廃絶と被爆者援護の法理』〔新日本出版社、一九八六年八月〕二〇頁)。

おわりに

ここまで、広島・長崎の原爆被害に関連して展開された戦争責任の論議や動向を紹介したが、最後に、これらの論議や動向のいくつかについて、ビキニ水爆事件以降の展開を概観しておきたい。
その第一は、原爆被害の投下責任を損害賠償請求という形で展開する主体の誕生である。岡本尚一が提唱した原爆被害損害賠償請求訴訟構想は、一九五五年四月に原爆被害者による東京地裁(原告二人)と大阪地裁(原告二人)への提訴として実現する。大阪地裁の裁判は、原告の意向により東京地裁に移送され一つの裁判となるが、その判決が一九六三年一二月に下された。その内容は、原告の請求を棄却するものであったが、「原爆投下は国際法違反」との司法判断を引き出した。この判決は、その後の日本の原水爆禁止運動や被爆者運動に大きな影響を与えることになる。
第二は、「原爆被害(アメリカ側からは〈被害〉ではなく〈使用〉)=終戦招来」説である。ビキニ水爆事件以後、目立たなくなっているが、今日まで、原爆被害者の援護や同情の根拠として引き継がれている。原爆投下を「やむをえない」(一九七五年一〇月三一日の天皇の発言)、「しょうがない」(二〇〇七年六月三〇日の久間章生防衛大臣の発言)とする見解は、この説を受けたものと考えられる。
第三は、復興責任についてである。一九四九年八月の広島平和都市建設法と長崎国際文化都市建設法の制定は、戦争責任との直接的な関連はないが、政府やGHQが、他の戦災との特異性を認めたことにより実現したものである。
第四は、真珠湾、マニラ、南京における日本軍の国際法違反行為や残虐行為との対比である。本文で紹介した長崎のキリスト者永井隆の『長崎の鐘』の後半には、「マニラの悲劇」(内容は日本軍が戦争中にフィリッピンでおこなった残虐行為の解説書で、この本の総ページ数の四〇%を占める)が付されているが、これは、一九四八年三月にGHQのウィロビーが,刊行許可の条件として提示したものである(モニカ・ブラウ『検閲 一九四五-一九四九―禁じられた原爆報道』〔時事通信社、一九八八年〕)。また、広島市の一九四八年の平和祭に出席したイギリス連邦軍司令官ロバートソンは、メッセージの中で「広島に下されたこの天罰は軍国主義を追及せる日本国民全体への応報の単なる一部」と述べている(「英連邦軍総司令官ロバートソン中将メッセージ」、『市勢要覧 昭和二三年版』〔広島市、一九四九年〕)。占領期にみられるこうした取り上げ方は、戦争展や平和博物館の展示には、単に懲罰的な視点からではない意図で引き継がれている。
第五は、動員学徒に関わる問題である。靖国神社合祀は、遺族の強い願いであった。また、生存した動員学徒の中にも、それを願う人々が存在する。一九五六年以降「動員学徒犠牲者の会」が県単位で生まれるが、これらの会が、靖国神社合祀の要求を受け継いでいることを、広島県動員学徒犠牲者の会などの出版物で確認することができる。
広島・長崎両県の会員には、動員学徒の生存者を中心に原水爆禁止運動や被爆者運動と深い関わりを持つものが多数存在する。会員の担い手は遺族から動員学徒の生存者に移り、その進展にともない活動内容が変化してきた。その中で注目されるのは、動員学徒の生存者が、各出身校の平和教育の担い手となっていることである(広島県動員学徒犠牲者の会『動員学徒誌 被爆五〇年記念』〔一九九五年〕)。
第六は、ABCCに関わる問題である。占領下にも広く存在していたABCCへの強い批判は、講和条約発効直後に一気に表面化した。一九五三年九月に原爆被害者の会が会員から抽出した七〇人を対象としたアンケートにABCCに関する項目がある。残っていた調査原票四一人分の結果は、つぎのようなものであった。
一、ABCCのやっていることをいいと思うか
いいと思う八、よくないと思う十四、どちらでもよい一一、わからない八、
二、ABCCはあった方がよい
よい四、ない方がよい一三、どちらでもよい一四、わからない八、(治療ならよい)二
三、アメリカに対する損害賠償請求
賛成三一、反対四、どちらでもよい一、不明五
ABCCの事業の評価と存在の可否に対する回答からは、会員のABCCへの拒否反応がそれほど強いものとは考えられない。これと比較して注目されるのは、アメリカに対する損害賠償請求に多くの会員が賛成していることである。この結果から、ABCCへの批判が、アメリカの原爆投下責任を追及する性格を持つことを知ることができる。ABCCは、一九七五年、アメリカの研究機関から日米共同の研究機関である放射線影響研究所に改組され現在に至っている。

文献:戦争責任・戦後補償

文献:戦争責任・戦後補償<作成中

720

発行
年月日
書名 編著者 発行所
1960
0210 戦争責任 竹内好・吉本隆明・村上一郎・竹内実・橋川文三 春秋社
1965
1212 南京作戦の真相 熊本第6師団戦記 下野一霍 東京情報社
1967
0320 三千人の生体実験 島村喬 原書房
1972
0720 中国の日本軍 本多勝一 創樹社
1973 「南京大虐殺」のまぼろし 鈴木明 文芸春秋
1975
0815 天皇の戦争責任 井上清 現代評論社
1115 戦争責任論序説 大沼保昭 東京大学出版会
1977
0301 現代史におけるアジア-帝国主義と日本の戦争責任 荒井信一 青木書店
 0815  あるB・C級戦犯の戦後史-ほんとうの戦争責任とは何か  富永正三  水曜社
1981
1010 新聞の犯した戦争責任 池田一之 経済往来社
1982
0325 中国の旅 本多勝一 朝日新聞社
0815 反核と戦争責任-「被害者」日本と「加害者」日本 岩松繁俊 三一書房
1231 決定版 南京大虐殺 洞富雄 現代史出版会(発売:徳間書店)
1983
0815 日の丸は赤い泪に―第731部隊員告白記 越定男 教育資料出版会
1984
0801 証言・南京大虐殺 戦争とはなにか 南京市文史史資料研究会、加々美光行・姫田光義訳 青木書店
1985
0530 東京裁判から戦後責任の思想へ 大沼保昭 有信堂
0719 戦争責任 家永三郎 岩波書店
1986
0102 天皇の軍隊と南京事件―もうひとつの日中戦争史 吉田裕 青木書店
0305 南京大虐殺の証明 洞富雄 朝日新聞社
0315 反核と日本の戦争責任-1985・12・7シンポジウム記録集 反核100000人委員会
0801 南京の日本軍―南京大虐殺とその拝啓 藤原彰 大月書店
0820 聞け!血涙の叫び 旧台湾出身日本兵秘録 基佐江里編著
 旧日本軍人軍属遺族救助基金会 支援委員会出版局
1987
0120 南京への道 本多勝一 朝日新聞社
 0820  南京事件を考える  洞富雄・藤原彰・本多勝一編  大月書店
1989
0415 民衆の戦争責任 高橋彦博 青木書店
0515 長崎市長への七三〇〇通の手紙-天皇の戦争責任をめぐって 径書房編 径書房
0720 戦争責任を訴えるひとり旅-ロンドン・ベルリン・ニューヨーク 富山妙子 岩波書店
1990
0415
0701 現代史における戦争責任-現代史シンポジウム 藤原彰・荒井信一編 青木書店
 1205  日系アメリカ人-強制収容から戦後補償へ  岡部一明  岩波書店
 1991
0715 日中戦争いまだ終らず―マレー「虐殺」の謎 中島みち 文芸春秋
 1225  キリスト者の戦争責任と平和運動  キリスト者平和の会編  かもがわ出版
 1992
0720 朝鮮植民地支配と戦後補償 戦後補償問題連絡委員会編 岩波書店
0725 戦後補償を考える-アジアの声第6集 国際フォーラム実行委員会編 東方出版
0921 南京大虐殺 日本人への告発 南京大虐殺の真相を明らかにする全国連絡会編 東方出版
1993
0601 憲法Bunko―平和・戦争責任・戦時補償 平和のための大阪の戦争展実行委員会;日本機関紙協会大阪府本部共編 日本機関紙出版センター
0720 浄土真宗の戦争責任 菱木政晴 岩波書店
0728 戦争責任の受けとめかた-ドイツと日本 加藤周一 アドバンテージサーバー
1122 連合国捕虜虐待と戦争責任 油井大三郎・小菅信子 岩波ブックレットNo.321
1994
0310 戦後世代の戦争責任 加藤周一 かもがわ出版
0531 泰緬鉄道と日本の戦争責任 捕虜とロームシャと朝鮮人と G・マコーマック著・内海愛子編 明石書店
0730 日本の戦後補償 日本弁護士連合会編 明石書店
0815 宗教者の戦争責任懺悔・告白資料集 日本宗教者平和協議会 白石書店
0915 ハンドブック戦後補償(増補版) 内海愛子・越田綾・田中宏・飛田雄一(監修) 梨の木舎
1225 戦争責任と戦後責任-祖父の罪を孫が償うのか 望田幸男 かもがわ出版
**** 南京大虐殺 徐志耕(秋子訳) 外文出版社(中国・北京)
1995
0315 50年目の戦争責任 破防法研究会 星雲社
0420 もう待てない今こそ戦後補償を! 高木健一 凱風社
0620 キーワード・日本の戦争犯罪 小田部雄次・林博史・山田朗 雄山閣出版
0620 弁護士がみた戦後補償と人権 村山晃 部落問題研究所
0707 戦争と平和の事典-現代史を読むキーワード 松井愈・林茂夫・梅林宏道・渡辺賢二・吉池俊子・綿引光友・伊藤田直史 高文研
0720 日本の中国侵略と毒ガス兵器 歩平著、山辺悠喜子・宮崎教四郎(監訳) 明石書店
0815 在韓被爆者が語る被爆50年-求められる戦後補償 韓国の原爆被害者を救援する市民の会
1215 PEACE!PEACE!PEACE!わたしたちに戦争責任はないのか 日本戦没学生記念会(わだつみ会)編 情況出版
1996
0310 戦争責任Vol.4-特集:50年目の責任 アジアに対する日本の戦争責任を問う民衆法廷準備会編 樹花社
0328 日中戦争の悲劇―写真でつづる中国からの証言 馬振犢・陳仲丹・林慧敏(編著 )藤尾直正・藤尾玲子(訳)

 

柳原書店
0531 日本軍の細菌戦・毒ガス戦―日本の中国侵略と戦争犯罪 731部隊国際シンポジウム実行委員会編 明石書店
0801 在韓被爆者が語る被爆50年-求められる戦後補償<改訂版> 韓国の原爆被害者を救援する市民の会
0815 戦後世代の戦争責任 田口裕史 樹花舎(発行所)・星雲社(発売所)
1115 教科書から消せない戦争の真実―歴史を歪める藤岡信勝氏らへの批判 家永三郎(監修)吉見義明・藤原彰・安井三吉・大日方純夫(著) 教科書検定訴訟を支援する全国連絡会(発売:青木書店)
1997
0725 現代歴史学と戦争責任 吉田裕 青木書店
0801 南京の日本軍―南京大虐殺とその背景 藤原彰 大月書店
1009 南京の真実 ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴィッケルト編、平野卿子訳 講談社
1998
0225 戦争責任-過去から未来へ アジアに対する戦争責任を問う民衆法廷準備会 緑風出版
0315 季刊戦争責任研究№19 日本の戦争責任資料センター
0323 裁かれた戦争犯罪―イギリスの滞日戦犯裁判 林博史 岩波書店
0615 季刊戦争責任研究 №20 日本の戦争責任資料センター
0731 戦争責任と核廃絶 岩松繁俊 三一書房
1999
0515 戦前の「水豊」から「安野」の今へ 西松建設の戦争責任 中国人強制連行・西松建設裁判を支援する会
0630 戦争責任と「われわれ」 「「歴史主体」論争」をめぐって 安彦一恵・魚住洋一・中岡成文編 ナカニシヤ出版
0731 731面積の系譜―細菌戦部隊と秘蔵のファイル 太田昌克 日本評論社
0901 戦後補償とは何か 朝日新聞戦後補償問題取材班 朝日文庫
1210 戦後責任論 高橋哲哉 講談社
2000
1105   天皇の戦争責任  加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣  径書房
2001
 0220 グローバリゼーションと戦争責任 金子勝 岩波書店
0805 日本の戦争責任をどう考えるか 歴史若いワークショップからの報告 船橋洋一編著 朝日新聞社
2004
0728 毒ガス戦と日本軍 吉見義明 岩波書店
2006
 0710  検証戦争責任Ⅰ  読売新聞戦争責任検証委員会編著  中央公論新社
1010 検証戦争責任Ⅱ 読売新聞戦争責任検証委員会編著  中央公論新社
 2006
0625 シンガポール華僑虐殺―日本軍はシンガポールで何をしたのか 林博史 高文研
2015
0901 アメリカの戦争責任 戦後最大のタブーに挑む 竹田恒泰 PHP研究所
2019
0520 検証「戦後民主主義」 わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか 田中利幸 三一書房

すうおぺい:中国人戦争被害者の要求を支える会ニュース

中国人戦争被害者の要求を支える会ニュース「すうおぺい」<作業中

No. 発行年月日 メモ
01
02 19960217 敬蘭芝さん来日 中国からの訴え 全国市民集会報告
 2022040s
03
04
05
06
07
08
09
10
 11
52 200605 中国人強制連行・強制労働事件 長野訴訟 不当判決
01
02
03
04
05
06
07
08
09
52 200605  「Suopei」=中国語で「索賠」(賠償請求)の意味
20220403202208248

アジアの声-侵略戦争への告発

『アジアの声-侵略戦争への告発』(戦争犠牲者を心に刻む会編、東方出版、1987年3月27日)

見出し 備考
001 集会報告集の刊行にあたって
003 趣意書
009 呼びかけ人名簿
015 開催にあたって(小山仁示)
019 第1部 各国からの証言
021 強制連行指揮官の戦争犯罪(日本)吉田清治
戦争犯罪者の証人として/従軍慰安婦の悲劇/被爆者は日本人だけではない
026 日本軍の侵略と泰緬鉄道の惨状(タイ)テーパンヤ・スティー
泰緬鉄道の犠牲者たち/ジェス博物館を世界中の人々に
031 非人道的な日本軍の虐待(シンガポール)陸培春
母の戦争体験/イナゴに似た残酷な日本軍/拷問の手口/許しがたい靖国神社公式参拝/日本人に期待したい良識ある行動
043 捕虜への虐待、バターン死の行進(フィリピン)マリア・フェリア
バターン降伏で約八万人の捕虜が死の行進/母の死/日本軍の無差別な拷問と虐殺/今も続く日本の侵略
〈日本軍によるフィリピン住民虐殺のレポート〉
はじめに/バタンガス/日本軍によるフィリピン占領/聞き取り/日本人に対して思うこと
059 広島が私の顔を奪った(韓国)辛泳洙
日本語は屈辱の言葉/いまだ迷える韓国人の霊たち/被爆によって別人になった/「不幸な歴史」を再び繰り返さない/真の日韓親善を
068 父の死と日本人の戦争犯罪(中国)陳貞馥
日本軍が約三○万人の中国人を虐殺/過去の罪を認めない日本
073 沈黙の時(上杉聰・沙田明)
一五分間の沈黙に思いを馳せる/詩
080 不戦の誓い(大島孝一・伊勢谷功・松井義子)
当集会開催までの経過/不戦の誓い
087 第2部 シンポジウム アジアの中の日本-過去と今
日本人は、いま何をすべきか/タイの八月一五日/在日アジア人は虫けらか/関西新空港はアジア侵略の基地/広島・長崎には本当に原爆が落ちたのか!/平和のために/良識を問う日本政府の言動/歴史をゆがめた教科書に抗議の輪を/各地の運動からの肉声/すべての日本人が加害者の立場で
123 第3部 タイ現地集会
悲願の平和寺院を建立/泰緬鉄道建設隊の死の体験/タイの地に立って思うこと/敗戦前後の模様/教育の場で伝えたい日本の戦争犯罪/親日感情に甘えは禁物/一人一人の心で世界平和を
145 第四部 経過報告・資料
第一回呼びかけ人会議/第二回呼びかけ人会議/賛同人と事務局について/第一回実行委員会/第二回実行委員会/ホームステイ/知事訪問と戦争資料室/八・一五集会/関連集会/会計報告/反省と今後
161 賛同人名簿
173 「一五年戦争」と靖国神社にかんする参考資料目録
181 あとがき-集会アンケートにふれて

趣意書

 一九八五年八月一五日、中曽根首相による靖国神社公式参拝は、内外からの厳しい批判の声にさらされました。私たちの多くも、さまざまな形で、この公式参拝に異議を申し立ててきました。その理由の一つは、憲法が強く要求している政教分離の原則を踏みにじり、信教や思想の自由を侵すものであると考えるからです。

しかし、私たちの批判は、それにとどまりません。靖国神社への公式参拝は、本当の意味で、戦没者を追悼することにならないという思いを強く抱きつづけてきたからなのです。

靖国神社に祀られた戦没者の多くは、侵略戦争に駆り出されていった人たちです。たとえば、全合祀者の九五パーセントは、「満州事変」以来の「一五年戦争」ヘの参加者です。そこには、周知のように、A級戦犯さえも含まれています。靖国神社は、これらの人々を「英霊」とし、誉め讃える施設です。首相がいかに宗教色を除くように配慮したと強弁しても、この施設に崇敬の意思表示をしたことは、紛れもない事実です。

首相自ら、一九八五年七月の自民党第五回軽井沢セミナーで、靖国神社に祀られた人たちを「国のために殉じた人」と呼ぴ、「感謝をささげるのは当然。さもなくば誰が国に命をささげるか」と演説しました。

これは、アジア・太平洋地域および対戦国の人たちに重大な惨害をもたらした戦争犯罪を免責するだけでなく、人々の死を政治的に利用し、再び同じ誤ちを繰り返すと宣言したと同じことです。アジアからの強い抗議は当然のことですが、加えて、死者を著しく冒涜するものであると言わざるをえません。

これまで、私たちは、靖国神社に祀られている戦没者の多くを、むしろ侵略戦争に強制動員された被害者であると考えてきました。したがって、その追悼は、「英霊」として讃えることではなく、戦争犠牲者として苦しみと悲しみを胸に刻みつけ、悲劇を二度と繰り返さないために、私たちこそが責任を果たしつづけることでなければならないと考えてきました。そして、ささやかながら今日まで、私たちは、それぞれの立場と方法でそれを実践してきました。

私たちの親や兄弟、親族そして友人、またその周囲には数多くの戦死者がいます。そして、その人たちに悲しみの思いを馳せるにしたがい、私たちは重大なことに気付いてきました。

それは、私たちの知己、親族を、戦争による「犠牲者」と呼ぶなら、私たちの国によって踏みにじられ、辱めを受け、虐殺されていったアジア・太平洋地域での死者を何と呼べばよいのか、ということです。むしろ、私たちが真っ先に思いを馳せ、心に刻み、悲しみのうちに記憶しつづけなければならなかったのは、私たちの親族や友人によって傷つけられ、殺されていった人たちの方ではなかったか、ということなのです。

南京で無差別に虐殺された二○万人とも三○万人とも数えられる人たち、重労働や拷問で殺され、捨てられ、埋められた万人坑の人たち、生体実験や解剖に付され、「丸太」と呼ばれて人間の尊厳の一切を奪われて死んでいった七三一部隊による犠牲者、強制連行によって奴隷労働を強いられ、従軍慰安婦として軍人に凌辱され、空襲で、原爆で、病で、異邦の地に絶望のうちに死んでいった朝鮮の人たち、銃剣や日本刀によって切り裂かれたルソン島の幾千とも幾万ともいわれる老若男女、バターン半島の「死の行進」で斃れた幾千ものアメリカ軍捕虜の人たち、食糧の供出と苛酷な労働で殺されていったインドネシアの人たち、「枕木の数だけ死者をだした」といわれる泰緬鉄道の建設現場に斃れていったタイ・ビルマ・マレーシアの「ロームシャ」や、イギリス軍捕虜の人たち、そして、シンガポールで虐殺された数万の「華僑」の人たち、皇民化政策によって文字や文化を奪われ、侵略者である日本のために徴兵され、傷つき、斃れていった台湾の人たち、そして、アジア全域に広がる抗日闘争での犠牲者。私たち日本人の多くは、四○年間にわたって、この人たちのことを忘れ、頬かむりをし、ただ ひたすら身内の死のみを悼んできたというのは言い過ぎでしょうか。

一九五二年以来、八月一五日に開かれる政府主催の「全国戦没者追悼式」には、原爆や空襲による民間日本人の被害者が加えられていますが、アジア・太平洋地域で命を奪われた人たちは除外されています。そして、戦後四一年目の八月、中曽根首相は、それにもあきたらず、日本の軍人・軍属のみを神と祀る靖国神社へ、国の最高責任者として崇敬の意を表したのです。

私たちは、激しい憤りを押さえきれません。同時に、心の奥深くに強い苦悩を抱かざるをえません。私たちの国を代表するはずの戦後歴代の政府は、過去の誤ちを世界の人たちの前に、一度として慚愧したことがありません。そして、私たち自身も、そのことを真の課題となしえないままに、ここまできてしまいました。政府は、再び新たな誤ちへとすすみつつあります。

今、首相が過去の罪責を忘れることを「戦後政治の総決算」と呼ぴ、新たな犯罪へすすもうとするのであれば、私たちは、それに正面から抵抗して、過去の罪責を深く心に刻み、そこから立ち直る新しい道を捜し求め、渾身のカで歩みはじめるほかありません。そのためには、四○年間放置してきたところから出発する必要があります。

このような考えから、私たちは、靖国神社の公式参拝にかわる、すべての戦争犠牲者と向き合う新たな追悼と平和追求のあり方を生みだすために、模索を開始することにしました。

これまでの討議から、私たちは、次のような原則と方法を提案したいと思います。多くの方がたが賛同くださり、集会の実現に協力、参加いただきますよう呼びかけます。

一、原則

(1)「一五年戦争」における日本の戦争犯罪の犠牲となった人たちに、さらに広く深く思いを馳せ、それを心に刻もうとすること。そのために、関連する事実の発堀に努めるとともに、アジア・太平洋地域で亡くなった人たちの遺族を訪れ、また招き、交流しつつ、直接被害者の声にぷれながら、私たち自身の変革をめざすこと。

(2)以上を基礎とし、日本の戦争犠牲者-思想的、宗教的信条ゆえに弾圧を受け、生命を奪われた人たち、原爆・空襲・沖縄戦で斃れた民間人、またアジア・太平洋各地で、また日本本土内で犠牲になった日本人軍人・軍属など-ヘの思いを整理し、「英霊」として讃えるのではなく、悲しみのうちに記憶し、長く語り継ぐ努力を積み重ねる。

(3)犠牲者の死は、また生き残った人たちの苦しみは、今日生きる私たちが過去の誤ちを反省し、再び同じ誤ちを繰り返さないために、あくまで平和を守る責任を負いつづけることによってしか償うことができないことを明らかにし、そのための道を捜し、また歩みつづけることを言う。

(4)以上について同意する人たちが、宗教や思想・信条・社会的立場の違いを超えて、共同して集まりをもてるよう、相互に最大限の努力をはらう。

二、方法

(1)以上の原則を実現するために、宗教的儀式等によらないで、「一五分間の沈黙の時」を中心に据え、内外の犠牲者の証言や表現活動などで構成する集会を開催する。

(2)集会は、アジアの人たちにとって解放の日であるとともに、日本の民衆にとっても解放の日となるべき八月一五日に大阪地区において開催し、その前後に可能な限り日本全国とアジア各地で同趣旨の集会を実現するよう努める。

(3)集会の実現、とりわけアジア・太平洋地域の遺族への訪問、招請に向けて広範に賛同人を募り、一口一○○○円の基金を集める。賛同人は個人の資格とするが、団体の協力は広く求める。

以上

一九八六年三月二六日


OATH OF PEACE--NO MORE WAR

First of all, we would like to extend our heartful thanks to the guests from abroad for their participation in this forum.

It is 41 years since the end of the ‘Fifteen-Year-War’ which was provoked by Japan and has brought about. the great and severe damages and left the scars to the various parts of Asia.

Today’s forum gave us an opportunity to listen to the strong appeals from the war victims and their families in the Asian-Pacific region.

We find no words to express our astonishments and grief by learning the brutarity of the war crimes which were committed by Japan in the past as well as the seriousness of continuing discrimination, oppression and economic invasion by Japan against countries in the region.

On August 15, 1985, Prime Minister Nakasone visited Yasukuni Shrine which symbolizes worship of the Japanese dead soldiers as gods and praises a death for war as the highest virtue. His visit was made in the capacity of a head of state, which no other post-war prime ministers had ever done.

However, severe criticism arose immediately after his visit in different parts of the world, and it finally became a great power to make him refrain from this year’s visit.

Comparing with these critical voices from abroad, criticism inside the country was very weak, of which we are deeply ashamed.

Moreover, some people have started fighting back with hostility, claiming that the sensible voices from overseas are “interference in the internal aftairs”.

However, Iistening to the acute and grave cries of the foreign guests, we ascertained that the criticism from abroad has no single indication of interference. On the contrary, it is a warning of the risk that Japan may repeat the same error since the Japanese society as a whole has shown no reflection on the invasion into the Asian countries during the war, which was the worst “mterference m the mternal affairs”.

We will engrave in our mind the seriousness of the war crimes cornmitted in the pas_t and the great weight of the innumerable deaths thereupon, and we will act to come up to the expectations of those who gave us valuable speech today.

We hereby swear :

1 . that we will further strengthen our movement for peace and disarmament so that the Japanese military and weapons will never crush and destroy your land again,

2 . that we will strengthen our appeal for prompt and sincere measures on behalf of the Hibakushas living in Korea towards the Japanese govern-ment, who does not yet clearly admit the responsibility for war and has not made even the minimum compensation to them as pointed out in the speech of the Korean Hibakusha,

3 . that we will give our thorough consideration to the fact that the Japanese society still has bias and discrimination against people in the Asian-Pacific region and economically oppresses them, and we will further strengthen our efforts to change our society and way of living.

On August 15, 1986

By all participants of “Forum to Ponder on the War Vrctims m the Asran Pacific Region and Engrave It in Our Mind”.

 

2022年4月(日録)

2022年4月(日録)

できごと
01 SとZOOMで話す。原爆関係資料について。
01 ヒロシマ遺文への投稿=「広島県の近代化遺産」
02 N君(学生時代の研究室で同期)死亡。
02  ヒロシマ遺文への投稿=「2022年4月(日録)」、「アジアの声-侵略戦争への告発」
03  ヒロシマ遺文への投稿=「中国人戦争被害者の要求を支える会」
04 **(ガーデン夢工房)、桜が丘庭木で道路に枝がはみ出したものを伐採。
04  ヒロシマ遺文への投稿=「中国人戦争被害者の要求を支える会ニュース」。
05  ヒロシマ遺文への投稿=「日本の戦争責任センター」、「文献:戦争責任・戦後補償」。
06  ヒロシマ遺文への投稿=「広島・長崎と戦争責任─原水爆禁止運動以前の動向」、「季刊 戦争責任研究」。
07  ヒロシマ遺文への投稿=「年表:チェルノブイリ原発事故1986~88」
08 呉市民劇場。前進座「くずーい 屑屋でござい」。新日本造機ホール。<市民劇場は解散したが、残務整理で確定した予算残金での公演。7月19日にも。>
08  ヒロシマ遺文への投稿=「年表:チェルノブイリ原発事故 1989」、「同前 1990」、「同前 1991」、「同前 1992」、「同前 1993」、「同前 1994」、「同前 1995」
09 ヒロシマ遺文への投稿=「年表:チェルノブイリ原発事故1996」、「年表:チェルノブイリ原発事故1997」、「年表:チェルノブイリ原発事故1998」、「
年表:チェルノブイリ原発事故1999」、「年表:チェルノブイリ原発事故2000~」
10 ヒロシマ遺文への投稿=「「桑原裁判」の証人尋問記録」、「原爆医療法に基づく認定申請却下処分の取消請求事件(昭和44年(行ウ)第8号)」、「年表:桑原原爆訴訟」、
11 ヒロシマ遺文への投稿=「『桑原裁判判決(全文)-昭和48年4月19日言渡』(水爆禁止広島県協議会・広島県原爆被害者団体協議会)」、「桑原裁判の経過と問題点」
12 ヒロシマ遺文への投稿=「桑原訴訟に対する田辺判決の矛盾について 佐久間澄」、「桑原裁判の判決について 相良勝美」、「三菱広島・元徴用工裁判を支援する会」、「深川宗俊関連資料」
13 **より電話。森滝資料40箱分が広島大学文書館へ託された由。
14 ヒロシマ遺文への投稿=「在韓被爆者渡日治療広島委員会」、「年表:在韓被爆者渡日治療広島委員会」、「在韓被爆者問題を考える」、「在韓被爆者問題市民会議」、「見捨てられた在韓被爆者-日・韓両政府は彼らを見殺しにするのか-」
15 ヒロシマ遺文への投稿=「土居和江」。
16 ヒロシマ遺文への投稿=「ヒロシマから生物・化学兵器を考える」
17 ヒロシマ遺文への投稿=「大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑」、「大久野島毒ガス資料館」。
18 ヒロシマ遺文への投稿=「戦争記念館 戦争展 読売新聞大阪本社社会部」
19 ヒロシマ遺文への投稿=「資料:日本現代史研究会」
20 ヒロシマ遺文への投稿=「現代史サマーセミナー開催一覧」、「731免責の系譜-細菌戦部隊と秘蔵のファイル」、「イラン毒ガス被害者とともに」。
21 ヒロシマ遺文への投稿=「戦争はどのように語られてきたか」、「8ケ国語訳「世界の人へ」 朝鮮人被爆者の記録」、「天皇の逝く国で(ノーマ・フィールド)」。
22 ヒロシマ遺文への投稿=「現代歴史学と戦争責任(吉田裕)」
23 ヒロシマ遺文への投稿=「レポート 揺れる京大 紛争の序章」.
24 ヒロシマ遺文への投稿=「東大闘争 その事実と論理(井上清)」、「嵐の中に育つわれら――東大闘争の記録」、「「満州事変」と広島」、「南京の日本軍―南京大虐殺とその背景(藤原彰)」。
25 ヒロシマ遺文への投稿=「年表:沖縄・広島 1972年~」、「沖縄文化共同取材ツアー(日本機関紙協会広島県本部)」。
26 ヒロシマ遺文への投稿=「シナリオ 世界の人へ 朝鮮人被爆者の記録」、「朝鮮人被爆者と私(岡正治)」、「年表:沖縄・広島 1995年」、「年表:沖縄・広島 1972年~94年」、「年表:沖縄・広島 1996年~2000年」
27 赤帽、桜が丘の書庫に来る。資料15箱を広島へ。
27 ヒロシマ遺文への投稿=「タブーへの挑戦ー本島(長崎市長)発言に市民は…」。
28 ヒロシマ遺文への投稿=「広島県原爆被害者団体協議会陳情書(市長宛、1970年6月16日)」
29 ヒロシマ遺文への投稿=「長崎の証言20年」、「日印サルダボヤ協会」、「機関紙サルダボヤ」
30 ヒロシマ遺文への投稿=「沖縄を返せ 荒木栄作品集「不知火」所収」。

 

年表:中国人被爆者

年表:中国人被爆者 <作業中

年月日 事項 備考
1950
1111 中国共産党機関紙,中国人留学生の被爆体験記を掲載(1979年2月22日「中国新聞」)。
1957
1113 長崎刑務所浦上支所、同所の墓地から収容中原爆で死亡した中国人34柱の分骨をおこなう。日中友好協会を通じ中国に引き取られる予定。
1115 長崎刑務所浦上支所、原爆死した中国人33柱とその後病死した1柱計34柱の遺骨引渡式を挙行。天津郊外の殉難烈士慰霊堂に収められる予定。
1958
0409 長崎の浦上収容所で原爆の犠牲となった36柱を含む中国人俘虜殉難者の合同慰霊祭、東京芝の真福寺で挙行。10日出港の白山丸の第8次遺骨送還(120柱)に先立ち実施。(「原水爆禁止ニュース」NO.56)
1970
0727 日中友好協会長崎県連合会の代表4人、諸谷長崎市長に原爆死した中国人捕虜33人を殉難者名簿に記載するよう申し入れ。市長は、別冊に記載すると回答。
0809 長崎市、原爆犠牲者慰霊・平和祈念式を挙行。約8000人が参列。被爆者代表の辻幸江が「平和の誓い」を述べる(初)。中国人33人の名前も奉安(外国人は初)。
1970
0221? 中国人留学生の被爆体験記が、1950年11月11日付中国共産党機関紙に掲載されていたことが判明。
1120 広島県議会訪中団、中国人被爆者の日本での検診、中国での原爆展開催を計画中であると発表。
1130 広島県議会訪中団のメンバー帰国し、首相に、中国人被爆者の広島での検診・中国での原爆展開催実現に協力を要請。
1207 中日友好協会顧問、中国人被爆者の来日・検診について、中国側には問題はないとの意向表明。
1980
0325 広島県議会日中友好議員団、広島で被爆した元中国人留学生に広島への招待状を送付。
1981
0717 広島で被爆した中国人(2名)、検診のため来広。(31日帰国。)
0727 長崎で被爆した中国人に、被爆者手帳交付される。
1982
0417 長崎外国人戦争犠牲者追悼碑建立委員会、外国戦争犠牲者追悼文集「核廃絶人類不戦」を出版。被爆した中国人・朝鮮人などの証言を掲載。
1983
0702 広島で被爆死した中国人留学生三名を新たに確認。広島大庶務部国際主幹の追跡調査によって。
1985
0622 中国訪問から帰国した総評・原水禁被爆者代表団、広島市で記者会見。広島で被爆した中国人留学生らを招待する計画など発表。
1016? 原水禁国民会議、留学中に広島市で被爆した中国人 2名に、同市への招待状を送付。原爆病院での検診なでを計画。
1017 留学中に広島市で被爆した中国人被爆者、死去。( 原水禁国民会議が広島市で検診を受けるよう招待を計画。)
1127? 広島県原水禁、被爆した元中国人留学生の招請計画を、招待者の死亡などで、来春に延期。
1986
0606 旧広島文理大留学中に被爆した中国人被爆者、治療のため来広( 14日、長崎市を訪問、16日、広島原爆病院に入院) 。
1988
0514? 広島で被爆した中国人元留学生由明哲、再来日を希望。日本の知人ら、招請のための資金援助などを呼びかけ。
1991
0222 朝日新聞社、湾岸戦争について、韓国人被爆者・在米被爆者・オランダ人被爆者・中国人被爆者らに意見を聴取し、紙上に掲載。
0630? 「中国往還-現代史の視点」(小林文男広大総合科学部教授著)、出版。中国人原爆被爆者の取材報告などを収録。
1992
0310 本島長崎市長、平和公園の旧浦上刑務支所で被爆死した中国・朝鮮人46人の名誉回復措置について、市議会で市長の所管外と答弁。
0508 長崎の証言の会、旧長崎刑務所浦上刑務支所で原爆死した中国人の遺族が、中国で確認されたことを明らかにする。
0606 中国で戦時中の対日民間賠償運動を続ける研究所助手、広島で被爆した中国人2人が見つかったと発表。
0614 中国強制連行調査訪中団、報告集会を広島YMCAで開催。強制連行され広島で被爆したとされる中国人が渡日治療を求めていることが紹介される。
0625 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島YMCAで発足会を開催。約15人が参加。戦時中、加計町の安野発電所建設に強制連行され広島市で被爆した中国人の実態解明が目的。
0803 長崎県被爆二世教職員の会、中国河北大学の協力で長崎市平和公園の旧浦上刑務支所で被爆死した中国人4人の遺族を新たに確認したと発表。
0803? 強制連行された中国人被爆者との交流を進める会、広島市内の司法関係施設で被爆した11人の消息の調査を求める書簡を中国の研究者に送付。
0804? 中国から強制連行され広島の刑務所内で被爆した中国人2人、当時の手記を共同通信に寄せる。
0812 広島刑務所が「獄中被爆」を訴えていた中国・青島市の徐立伝に在監を照明する回答書(7月22日付)を送っていたことが判明。
0813 広島刑務所内で被爆した中国人徐立伝が死亡していたことが判明。
0818 広島刑務所で獄中被爆した中国人生存者の存在が判明。
0825 強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会、広島キリスト教社会館で会合。被爆が証明されながら死去した徐立伝の追悼集会を9月15日に開催することなどを決定。
0915 広島刑務所で被爆し、1992年7月に死亡した中国人被爆者徐立伝の追悼集会、広島YMCAで開催。40人が出席。
0917 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島刑務所で被爆した中国人被爆者の実態調査と渡日治療などの援護措置を広島市長に申し入れ。
1009 強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会、広島刑務所で被爆した中国人被爆者張文彬の被爆者健康手帳交付申請書の写しを広島市に提出。
1025 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島刑務所で被爆した中国人張文彬の被爆者健康手帳の取得と渡日治療を実現するための集会を広島市内で開催。新潟市のフリー・ライター佐藤杏子が張との会見の模様を報告。約20人が参加。
1102 高清真(中国人)が広島刑務所で被爆したことを裏付ける公文書が存在することが判明。
1202 劉宝辰・中国河北大学講師、強制連行された中国人帰国者の消息について調査のため広島入り。3日、広島市役所で記者会見し、刑務所で被爆したことが明らかになったのは、徐立伝の1人のみと公表。
1993
0223 鎌田定夫長崎総科大学教授など市民有志、旧長崎刑務所浦上支所で原爆の犠牲になった中国人遺族を長崎原爆犠牲者追悼・平和記念式典に招待するために募金を開始。
0301? 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、日本へ強制連行され広島刑務所で服役中被爆した中国人の張文彬(72才)を、被爆者健康手帳の取得や治療のため5月に広島に招くことを計画。
0310 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島刑務所で被爆した中国人の生存が新たに3人確認されたと発表。
0310? 広島刑務所、中国人被爆者張文彬に原爆投下時に在監していたことを認める文書を発送。来日時に被爆者手帳が取得できる道が開ける。
0314 鎌田定夫長崎総科大学教授・平野伸人県被爆者二世教職員の会会長ら、「中国人原爆犠牲者遺族を招く会」の結成集会を長崎被災協会議室で開催。16人が参加し、旧浦上刑務支所の原爆犠牲者の遺族を平和式典に招待するため資金協力を呼びかけ。
0424 宮崎安男広島県原水禁代表委員ら3人、広島刑務所で被爆したとみられる中国人3人の証言を取材するため訪中。11間の日程。
0511 丹羽雄哉厚相、参議院厚生委員会で強制連行の中国人被爆者(広島)の救済に前向き名見解を表明。
0511 宮崎安男広島県原水禁代表委員ら、広島刑務所で被爆したと名乗りでた中国人3人の聞き取り調査(4月24日-5月4日まで訪中)の結果を発表。
0516 張文彬(広島刑務所で被爆した中国人被爆者)、「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」の招きで広島入り。
0517 中国人被爆者張文彬、広島市に被爆者健康手帳の交付を申請。
0518 中国人被爆者張文彬、広島市の河村病院に検査入院。
0520 広島市、中国人被爆者張文彬に被爆者健康手帳を交付。
0521 中国人被爆者張文彬、原爆に被爆した広島刑務所を訪問。
0523 広島県原水禁など、「張文彬さん(中国人被爆者)のお話しを聞く集い」を広島労働会館で開催。約100人が参加。
0524 中国人被爆者張文彬、9日間の広島での日程を終え、かつて強制連行された新潟に向かう。
0723 長崎市の「中国人原爆犠牲者遺族を招く会」、招待する遺族関係者の8人と滞在日程(8月7日-10日)を発表。
0729 広島刑務所で被爆した中国人被爆者2人(呂学文・孟昭恩)、広島県原水禁などの招きで広島入り。
0730 広島市、広島刑務所で被爆した中国人被爆者2人(呂学文・孟昭恩)に被爆者手帳を交付。
0731 中国人被爆者呂学文、48年ぶりに広島県加計町の労働現場を訪問。
0731 中国人被爆者呂学文・孟昭恩、広島県加計町の善福寺で挙行された中国人殉難者追悼法要に参列。
0731? 広島県安野中学校の生徒ら、広島入りしている中国人被爆者から同町での強制労働の実態などの聞き取りを計画。
0801 強制連行された中国人被爆者「孟昭恩先生・呂学文先生のお話をきく集い」、広島労働会館で開催。約50人が参加。
0802 「中国人原爆犠牲者遺族を招く実行委員会」、9日の平和式典に招く予定であった浦上刑務支所で原爆の犠牲になった中国人収容者の遺族の旅券発行が間に合わず、12月8日の招待に変更。
0802 中国人被爆者呂学文・孟昭恩、広島市の河村病院に検査入院。4日、退院。
0803 中国人被爆者呂学文・孟昭恩、西松建設中国支社に強制労働に対する謝罪や補償を求める要求書を提出。
0805 「アジア被爆者フォーラム」、被爆48周年原水爆禁止世界大会国際会議広島大会の分科会として初めて開催。中国の被爆者らが体験談。
0805 中国人被爆者の呂学文・孟昭恩、被爆地である広島刑務所を訪問。
0806 中国放送(テレビ)、「トンネルに風が吹いた日-強制連行・被爆中国人を追って」を放映。
0806 広島県山県郡の安野中学校生徒会、中国人被爆者呂学文・孟昭恩を招いて体験を聞く。
0809 広島市、中国人被爆者2人(呂学文・孟昭恩)に原爆特別措置法に基づく「保健手当」1か月分を支給。中国人被爆者への手当交付は初。
1110 広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、西松建設中国支店を訪れ、2人の中国人被爆者からの謝罪・補償要求などを同社が拒否する回答書を提出したことに反論。
1121 広島県加計町・安野中学校生徒、中国人強制連行をテーマにした劇を文化祭で上演。
1126 広島市、中国人被爆者張文彬の救援を求める書簡を受け取る。
1207 強制連行され長崎刑務支所で被爆死した中国人の遺族ら7人、長崎入り。
1208 「原爆犠牲者追悼・日中不再戦の集い」、長崎市平和会館で開催。約100人が参加。強制連行され長崎の浦上刑務支所で服役中被爆した中国人遺族らも参加。
1208 長崎市の「中国人原爆犠牲者遺族を招く会」、日鉄鉱業島町鉱業所が外務省に提出した「華人労務者就労顛末報告書」の写しを公表。
1209 長崎県高教組佐世保支部など、来県中の中国人原爆犠牲者の遺族ら7人を招いて「12・8を考える市民のつどい」を開催。約70人が参加。
1211 大内厚生大臣、参議院厚生委員会で中国在住の被爆者の渡日治療に取り組む意向を明らかにする。
1220 強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会、大内厚生大臣の孫平化中国日本友好協会長宛の書簡(12月14日付、日本の原爆2法による援護措置を説明)を広島市原爆被害対策部に示し、市独自の救済措置を要望。
1994
0118 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、被爆中国人補償問題で西松建設中国支店で3回目の交渉を実施。
0214? 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」に広島で獄中被爆した中国人が大連に生存しているとのしているとの連絡が届く。
0426 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」のメンバー6人、中国人の代理で広島市の西松建設中国支社と交渉。同支社、独自に現地調査を行う意向を明らかにする。
0501 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、調査のため訪中(3回目)。8日、帰国。13日、帰国記者会見。
0607 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、中国人被爆者などの外国人被爆者の実態調査や援護を求める要請文を広島市長宛に提出。
0622 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、西松建設広島支店に強制労働させられた中国人への補償などを求める要求書を提出。
0710 「広島の強制連行を調査する会」・「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島県加計町のダムや発電所などで歴史や生存者の現状を学ぶ会を開催。約100人が参加。
0712? 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島市長に6月7日付で提出した要請書に対する7月8日付の回答を受け取る。内容は、中国人被爆者の調査や援護の支援は「困難」というもの。
0801 広島県、中国から広島文理大に留学中被爆した中国・北京市の元大学教授由明哲を県費で広島に招待し、10月2日のアジア大会開会式に出席出来るよう計らうことを決める。
0803 広島県加計町立安野中学校生徒、同町の中国人や朝鮮人を動員して建設した発電所などを見学。講師は「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」などのメンバー。
0819 広島市、広島刑務所で服役中被爆した中国人被爆者呂学文が持病の片頭痛の治療への支援を訴える市長あての書簡を受け取る。
0928 由明哲(広島文理大の元留学生で中国人被爆者)、アジア大会の開会式に出席するため北京から広島入り。
1112 広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」など、「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」を発足させる(広島平和会館)。18人が参加。
1117 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、西松建設の担当者と広島県山県郡加計町の安野発電所建設工事に従事させられた中国人について初めて現地調査を実施。
1226? 広島県加計町の安野発電所に強制連行され広島で被爆した中国人?瑞雪に広島刑務所が「在監証明」を送っていたことが判明。
1995
0101? 広島市、被爆50周年の記念事業として平和記念式典に南北米や朝鮮半島、中国、東南アジア各国の被爆者を招待することを決める。
0107? 広島の市民団体「強制連行された中国人被爆者と交流をすすめる会」、5月に宋継尭、8月に被爆死した楊希恩の妻子を広島に招くことを計画。
0206 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、西松建設中国支店との6回目の交渉を実施。新たに医療費の負担を要望。
0425 広島県原水禁など9団体でつくる「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」、5月に宋継尭を招くことを決める。
0518 宋継尭、「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」の招きで来日。
0520 「強制連行された中国人被爆者との交流を進める会」、調査結果をまとめた「中国人被爆者・癒えない痛苦-獄中被爆の真相を問う」(明石書店刊)を発行。
0520 中国人被爆者宋継尭、広島県加計町を訪問。強制労働者収容所跡を訪れた後、正念寺での中国人犠牲者30人の追悼法要に参列。
0521 「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」、宋継尭の「証言を心に刻む会」を広島市の広島労働会館で開催。約100人が参加。
0526 宋継尭、「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」のメンバーとともに、東京の西松建設本社を訪れ、補償を要求。
0605 広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者と交流をすすめる会」、戦時中に強制連行され被爆した中国人于瑞雪が5月9日に死亡したとの連絡を遺族から受け取る。
0708? 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、「中国人被爆者・癒えない痛苦-獄中被爆の真相を追う」を発行。
0730 戦時中広島県内に強制連行され被爆死した中国人労働者の遺族3人、県原水禁など9団体でつくる「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」の招きで来日。
0801 「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」の招きで広島市入りしている3人、被爆死した可能性のある広島市内の2カ所を訪れる。
0803 「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」、原爆の犠牲になった中国人労働者の追悼式を広島市の平和記念公園・原爆供養塔前で挙行。約30人が参列。西区民文化センターで証言集会を開催。
0805 強制連行され被爆死した中国人遺族の楊世斗、広島市内で開催された原水禁などの世界大会分科会に出席。
0807 西松建設、強制連行され広島市内で被爆死した中国人の遺族へ、謝罪・死亡通知を拒否する回答文書を届ける。遺族は受け取りを拒否。
0815 中国河北省保定市で「安野強制連行・広島被爆受難者聯誼会が結成される。同市を訪問した広島県内の市民団体「強制連行された中国人被爆者との交流を進める会」の訪中団と協議の上結成。
0925 中国人被爆者・遺族で組織する「安野強制連行・広島被爆受難者聯誼会」、日本政府と当時の雇用主西松建設に損害賠償などを求める要求書を郵送。
1025 広島市の市民団体「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」のメンバー、「安野強制連行・広島被爆受難者聯誼会」の委任を受けて、当時の中国人らの雇用主の西松建設中国支店で賠償などについて交渉。
1996
0312? 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、7人目の被爆者の生存を確認。
0617 広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島刑務所と広島市に対し、中国人被爆者の実態調査を実施することなどを要請。
0627 広島市の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、山県郡加計町の発電所建設現場で中国人を働かせていた西松建設と交渉、同社の調査内容などを明らかにするよう求める。
0820? 広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、帰国後死亡した中国人被爆者1人の消息を確認。
1107 戦時中日本に強制連行された中国人元労働者2人、広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会の中谷悦子代表の案内で広島市の原爆資料館を見学。
0211? ワールドフレンドシップセンター(広島市)、ルポ「中国人被爆者・癒えない痛苦」の英訳作業を実施。
0430 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島県加計町に連行された中国人労働者の証言などを収録した教材ビデオを制作。
0508 広島刑務所で被爆した中国人・喊允伝、被爆者健康手帳を申請するため広島市を訪問。9日、申請。12日、建設工事で働かされていた加計町の安野発電所を訪問。
0510 「中国人強制連行国際シンポジウム広島集会」、広島市で開催。約200人が参加。喊允伝ら(中国人被爆者)らが報告。-11日。11日、呂学文が証言。
0513 「安野労工・広島原子爆弾受難者聯誼会」代表・呂学文ら、工事を担当していた西松建設中国支店に対し補償を求める交渉を広島弁護士会館で実施。14日、同社を相手取り提訴する方針を決める。
0630 広島県加計町安野の発電所建設現場で働かされた元中国人労働者が当時の雇用主の西松建設に損害賠償訴訟を起こす件で、弁護団などが広島市内で初会合。
0801? 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、戦時中に広島県加計町に強制連行された中国人の証言を基に紙芝居「陳さんとイチョウ」を制作。
0806 「8・6ヒロシマ平和へのつどい1997」、広島市の県民文化センターで開催。約100人が参加。中谷悦子「強制連行・中国人被爆者との交流をすすめる会」代表が戦後補償を訴える。

 

広島県立文書館紀要

広島県立文書館紀要

号(発行年月日)  著者  論文名 備考
1(198903)  熊田重邦  創刊の辞
2(199003)  熊田重邦   広島県立文書館の現状と将来
 安藤福平  広島県移住史海外調査報告
3(199403)
 4(199703)
 5(199903)
  6(200303)
 7(200103)  西村晃  広島県深安郡山野村役場文書の引継と管理について―庄屋文書と戸長役場文書を中心に―
 8(200503)  安藤福平  《史料紹介》広島軍用水道について
 9(200703)  数野文明  残された村の記録―広島県深安郡山野村役場文書の保存とその背景―
10(200903)  石本 俊憲  開館20周年を迎えて
 開館20周年に寄せて―広島県立文書館関係者からの寄稿―
熊田重邦・稲葉勝典・岡田一雄・松下孝昭・松井輝昭・土居義博
天本賢三・木谷  健・安藤福平・森脇  功・小地原美保子
広島県立文書館の20年《年表》
11 (201108)
 12(20130)
 13(201508)  安藤 福平  《史料紹介》原爆投下直後の在広陸軍部隊公文書「船舶司令部作命綴」と「第五十九軍作命甲綴」
 14(201802)  三浦豊  広島県立文書館における学校資料の収集と課題
 15(202103)   平岡 典昭 開館30周年を振り返って
開館30周年に寄せて ―広島県立文書館関係者からの寄稿―
松浦義輝・・荒川數昭・安藤福平・長沢 洋・数野文明
松浦 義輝 広島県立文書館長として(第6代館長)
角 正明 平成から令和へ─ 平成の文書館の思い出 ─(前館長)
荒川 數昭 回想(元副館長)
 広島県立文書館の20年から30年《年表》
安藤福平 回想:広島県立文書館開館前後平(元副館長)
長沢 洋 開館 30 周年に寄せて(元総括研究員)
数野文明 文書館時代(平成10~19年度)を振り返って(広島県立安西高等学校主幹教諭、元副主任研究員)
16(202203)

広島県立文書館だより 記事抄録

広島県立文書館だより  記事抄録<作業中

広島県立文書館だより 

発行年月日 著者 タイトル 備考
01 199009 熊田重邦(館長) 発刊にあたって
開館後の文書館雄主な出来事
1988年10月1日開館
02 199107
03 199309
広島県立文書館5年の歩み
文書館における資料の取扱いと基本姿勢―「広島県立文書館だより第2号の反省」―
04 199408
05 199503
06 199509
07 199603
安藤福平 〈資料探訪〉山野村役場文書
安藤福平 〈閲覧室から〉新聞資料の閲覧
08 199609
09 199703
10 199708
11 199803 安藤福平 〈表紙〉戦時期の村役場文書(山野村役場文書)
12 199809 林光輝(甲山町大田庄歴史館) 県内史料保存利用機関における古文書の保存と整理―大田庄歴史館の取り組みから―
13 199903 西向宏介 〈他館の紹介5〉沖縄県文書館
14 199909
15 200003 安藤福平 表紙 全国水平社のポスター(天野卓郎文書)
16 200007
17 200107 菅真城(広島大学50年史編集室員) カープと広島大学との意外な関係
20220401100929179
新江みどり(広島市立中島小学校) 閲覧室から 教室を飛び出して
18 200107
19 200201
20 200207
21 200301
22 200307
文書館のホームページを開設しました
「路面電車が語るヒロシマ」の御案内/平成14年度の主なできごと
23 200401 数野文明 共同企画「路面電車が語るヒロシマ」と
連携イベント「被爆電車でめぐるヒロシマ―歴史と平和を親子で学ぼう―」
24 200407
25 200501
26 200507 安藤福平 戦前の県庁文書
27 200601 石本俊憲 (当館館長)文書館から見える風景―着任1年目の随想―
28 200607 石本俊憲
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46 202203
47
48

 

年表:韓国の原爆被害者を救援する市民の会

年表:韓国の原爆被害者を救援する市民の会<作業中

年月日 事項 備考
1971    
12 韓国の原爆被害者を救援する市民の会、発足。  
1972    
0109? 京阪神で結成された「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、募金を開始。  
0225 韓国の原爆被害者を救援する市民の会、機関紙『早く、援護を!』(第1号 1972年2月25日)を発行。  
1974    
07 豊永恵三郎「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」広島支部長、辛泳洙・韓国原爆被害者協会前会長から原爆手帳取得のための証人探しを依頼する手紙を受け取る。  
0801 趙判石韓国原爆被害者援護協会会長・郭貴勲湖南支部長・朴海君総務部長、「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の招きで大阪市入り。  
0805 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」・河村虎太郎・深川宗俊・栗原貞子ら、全ての被爆者に手帳を交付するよう求める要望書を広島市長に提出。  
11 韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部、発足。  
1121 韓国釜山在住の韓国人被爆者・崔英順、「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の招きで来日。22日、広島市入りし、河村病院に入院。  
1975    
0627 日本キリスト教婦人矯風会・韓国の原爆被害者を救援する市民の会の代表ら、外国人にも日本人と同じように被爆者手帳を交付するよう田中厚相に要請書を送る。  
0820 廬長寿「日本広島三菱重工業韓国人被爆沈没遺族会」会長、韓国原爆被害者援護協会の郭貴勲・白光欽両副会長、「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の招きで広島市を訪問。  
1123 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、総会を広島市内で開催。韓国・釜山市在住の崔季*が難病の手術をできるよう招待状を送ることを決める。  
1976    
0620 深川宗俊や韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部など、「三菱重工業韓国人徴用工原爆被爆者・沈没遺族を支援する会」を結成することを決める。29日、広島市内で発足。  
1978    
1221 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、在韓被爆者実態調査の中間報告発表。  
1979    
0723 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、在韓被爆者実態調査のため訪韓。  
1980    
0224 韓国の原爆被害者を救援する市民の会、ビデオ「在韓被爆者」などを見る会を、吹田市で開く。  
0803 韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部、広島市で「在韓被爆者を囲む会」開催。  
1981    
0305 韓国の原爆被害者を救援する市民の会、大阪市で外国人被爆者援護の会開く。(ビデオ・講演など。)  
0612 韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部、市内で「ビデオで見る在韓被爆者問題映写会」を開催。  
0823? 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、原爆をテーマにしたビデオライブラリーを開設。  
1982    
1030? 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、在韓被爆者援護に関する抜本的な改善を求める一万人署名運動開始。  
1983    
08 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、パンフレット「在韓被爆者問題入門‐入門編」刊行。  
0901 韓国教会女性連合会、日本の市民グループ「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、在韓被爆者の初の実態調査結果まとめ発表。  
1984    
0428 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、日本人医師の韓国派遣などを厚生省に陳情。  
1985    
0402 韓国の原爆被害者を救援する市民の会、韓国の原爆被爆者を考える集いを広島市で開催(約30人参加)。  
1986    
0412 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、広島市で、「韓国の原爆被害を考える集い」を開催( 約60人出席) 。15日は、大阪市で開催。  
1015 韓国の原爆被害者を救援する市民の会、「在韓被爆者の渡日治療継続を求める集いー 10.15集会」を大阪市で開催。  
1987    
0708 「広島市民が描いた原爆絵画展」(韓国の原爆被害者を救援する市民の会主催)、大阪市で開催。大阪府のカメラマンによる在韓被爆者の写真10点も展示。  
1127 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」など、広島市に、原爆資料館に「加害者コーナー」を設置することを要望。  
1988    
0718? 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、在韓被爆者援助の緊急募金(目標額200 万円)を実施。  
1989    
0110 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」代表、訪韓し、カンパ200万円を韓国原爆被害者協会に贈呈。  
0510? 大阪市の韓国人廣川誠一、韓国の原爆被害者を救援する市民の会に100万円を寄付。読売新聞の「白いチョゴリの被爆者」の記事(3月19日付)が契機。  
1990    
0418? 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、大阪市で「韓国被爆者歓迎大阪交流集会」を開催(日本側約60人参加)。  
0531 大阪市の淡路中学校生徒、修学旅行で来広し、街頭募金で集めた約37万円を、「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」に寄託。  
1991    
0511 在韓被爆者渡日治療広島委員会総会、広島YMCAで開催(約50人参加)。韓国の原爆被害者を救援する市民の会の松井義子会長による講演「枯れススキに花は咲いたか-(支援金)40億円と在韓被爆者の現状」など。  
0730 韓国の原爆被害者を救援する市民の会、広島市で、元三菱徴用工韓国人被爆者を囲む集いを開催。元徴用工の訴えと、大阪の高校生のヒロシマ学習の発表。  
0925 韓国の原爆被害者を救援する市民の会など、韓国原爆被害者協会の役員らを招き被爆者認定業務を研修してもらうことについて、広島市に協力を要請。  
1106 「韓国原爆被害者協会」の役員(2人)、来日し、広島市で被爆者認定作業について研修を開始。「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」が招請。  
1992    
0804 韓国の原爆被害者を救援する市民の会長崎支部結成集会、長崎市内で開催。約20人が参加。  
0902 「アジア・太平洋の戦争犠牲者に対して反省し、心に刻む碑(仮称)」の建立委員会結成準備会、広島市内で開催。「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」のメンバーら約15人が参加。  
1993    
0515 在韓被爆者渡日治療広島委員会、総会を広島YMCAで開催。約40人が参加。市場淳子「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」大阪支部長が講演。  
1994    
0328 韓国人原爆被害徴用者同志会の方勲栽会長、同会員朴昌煥の2人、徴用時の未払い賃金の支払を求めるため広島入り。「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」(大阪府)の招き。  
0526 豊永恵三郎「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」広島支部長ら、「韓国人原爆被害三菱徴用者同志会」の会員53人の代理で、戦時中の年金加入の確認を広島東保険事務所に申請。  
1995    
0124 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部」、広島法務局が朝鮮人元徴用工が求めている「供託名簿」の閲覧を認める意向であることを明らかにする。  
0130 韓国在住の被爆者の朴昌煥、「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の招きで広島入り。「韓国人原爆被害三菱徴用者同志会」が当時の賃金支払を求めている問題で広島法務局で供託金名簿を閲覧する予定。  
0204 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、「韓国人原爆被害三菱徴用者同志会を支援する広島集会」を広島労働会館で開催。約80人が参加。出席予定の朴昌煥は、心臓疾患で参加できずメッセージを寄せる。  
0508 広島市内で被爆者援護法の学習会。韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部や原爆2法研究会のメンバーなど約20人が参加。外国に住む被爆者の法的救済を求める運動を始めることを申し合わせる。  
0907 米国ハワイ大学東西センターで国際会議「アジア・太平洋戦争追憶の会」を開催。-9日。「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」広島支部の豊永恵三郎が招待され出席。  
1011 豊永恵三郎「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」広島支部長、広島県の社会保険審査官が三菱重工の韓国人元徴用工の年金支給請求を4日付で却下していることを公表。  
1109? 韓国の原爆被害者を救援する市民の会、冊子「在韓被爆者が語る被爆50年-求められる戦後補償」を発行。  
1128 韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部・広島の強制連行を調査する会のメンバーなど、広島YMCAで会合、「三菱広島・元徴用工被爆者の裁判を支援する会」の結成を決める。  
1207 豊永恵三郎「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」広島支部長、在韓被爆者・趙順南が申請していた被爆者援護法の特別葬祭給付金を代理人として受け取る。  
1996    
0325 広島平和文化センター、ビデオ「ヒロシマの証言-韓国人被爆者は語る」を原爆資料館で公開。豊永恵三郎「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」広島支部長が講演。  
0705 車貞述韓国原爆被害者協会釜山支部長・平野伸人韓国の原爆被害者を救援する市民の会長崎支部長、長崎原爆資料館の加害展示の充実などを、長崎市に要望。  
1997    
0707 韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部と被爆者援護法研究会、「在外被爆者にも被爆者援護法を求める集い」を広島市内で開催。倉本寛司と鄭相石が出席。約50人が参加。  
1998    
0123? 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」・「被爆者援護法研究会」、冊子「在外被爆者にも被爆者援護法の適用を」を出版。  
0812 崔日出韓国原爆被害者協会会長と豊永恵三郎韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部長、広島県庁の放射線被曝者医療国際協力推進協議会事務局に韓国人医師の研修受け入れを要請。  
1215 松井義子「韓国の原爆被害者を救援する市民の会会長」、死亡。70才。  
1999    
0712 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」広島支部、在韓被爆者の支援策を要請。  
0713? 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、被爆者援護法の韓国内での適用について日本政府と協議することを求める要請書を金大中大統領あてに送付。  
0812? 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」や韓国原爆被害者協会など、在外被爆者にも被爆者援護法を適用するよう政府に求める署名活動を開始。  
1024 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」と「被爆者援護法研究会」、「在外被爆者を囲む夕べ」を広島市西区民文化センターで開催。今回が3回目。森田隆在ブラジル原爆被爆者協会会長や韓国人被爆者・李康寧らが在外被爆者への援護法適用を訴える。約70人が参加。  
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
   
 
   
2021  
 0304  「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」、韓国人被爆者の証言をまとめた手記集を駐広島韓国総領事館に寄贈<『中国新聞』20210305>  
     
2022
0221 豊永恵三郎「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」世話人(85歳)、オンラインで講演。(広島大学比較文化日本学プロジェクト研究センター主催)。<『中国新聞』20220220>
0417 韓国の原爆被害者を救援する市民の会、結成50周年記念集会を広島市内で開催。

 

強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会

強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会

年表<作業中

年月日 事項 備考
1990
*** 広島の牛尾美保子・川原洋子、中国人強制連行問題に取り組むため、「6・30花岡の会」を結成。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
07 「6・30花岡の会」のメンバー、安野発電所の中国人強制連行の跡を訪問(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
1992
01 安野発電所に強制連行された中国の生存者・張濂の手記、「花岡問題」に取り組む「中国人強制連行を考える会」のメンバーを通じて、広島にもたらされる。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
0429 牛尾美保子・川原洋子・橋本親往(通訳)・柴田和広(中国放送)、安野発電所建設工事に強制連行された生存者を訪ねて中国を訪問(中国人強制連行調査団)。-5月4日。中国人被爆者・徐立伝に面会。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
0608 毎日新聞、日本へ強制連行され広島で被爆した中国人2人(徐立伝・張文彬<高清珍>)が見つかったとの北京発の記事を掲載。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
0614 訪中報告集会。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
0623 牛尾美保子ら、中国人被爆者・徐立伝の被爆の裏付けのため、広島刑務所・広島地方検察庁・広島県警などに調査を要請。
0625 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島YMCAで発足会を開催。約15人が参加。戦時中、加計町の安野発電所建設に強制連行され広島市で被爆した中国人の実態解明が目的。
07 強制連行者名簿のうち、広島で「入獄」中とある10人に手紙を送付。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
0721 中国人被爆者・徐立伝、死亡。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
0803? 強制連行された中国人被爆者との交流を進める会、広島市内の司法関係施設で被爆した11人の消息の調査を求める書簡を中国の研究者・劉宝辰に送付。
0804 共同通信、中国人被爆者2人(徐立伝・張文彬)の手記を配信。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
0825 強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会、広島キリスト教社会館で会合。被爆が証明されながら死去(7月21日)した徐立伝の追悼集会を9月15日に開催することなどを決定。
0917 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島刑務所で被爆した中国人被爆者の実態調査と渡日治療などの援護措置を広島市長に申し入れ。
09 新潟市のフリーライター佐藤杏子、単身訪中し中国人被爆者張文彬と面会。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
1009 強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会、広島刑務所で被爆した中国人被爆者張文彬の被爆者健康手帳交付申請書の写しを広島市に提出。
1025 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島刑務所で被爆した中国人張文彬の被爆者健康手帳の取得と渡日治療を実現するための集会を広島市内で開催。新潟市のフリー・ライター佐藤杏子が張との会見の模様を報告。約20人が参加。
1993
01 中国・河北大学の劉宝辰に中国人被爆者の追跡調査を依頼。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)。呂学文・孟兆恩・鄭光遠の3人の消息を掴む。
 0301?  「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、日本へ強制連行され広島刑務所で服役中被爆した中国人の張文彬(72才)を、被爆者健康手帳の取得や治療のため5月に広島に招くことを計画。
0310  「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめ会」、広島刑務所で被爆した中国人の生存が新たに3人(呂学文・孟兆恩・鄭光遠)確認されたと発表。
 0424  宮崎安男広島県原水禁代表委員・「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」のメンバーら5人(強制連行された中国人をたずねる訪中団)、広島刑務所で被爆したとみられる中国人3人の証言を取材するため訪中。11間の日程。
 0427  強制連行された中国人をたずねる訪中団、中国人被爆者・呂学文と面会。-29日。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
 0430  強制連行された中国人をたずねる訪中団、2人の中国人被爆者(孟兆恩・鄭光遠)と面会。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
0516  張文彬(広島刑務所で被爆した中国人被爆者)、「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」の招きで広島入り。
 0517  中国人被爆者張文彬、広島市に被爆者健康手帳の交付を申請。
0518  中国人被爆者張文彬、広島市の河村病院に検査入院。
 0520  広島市、中国人被爆者張文彬に被爆者健康手帳を交付。
 0523  広島県原水禁など、「張文彬さん(中国人被爆者)のお話しを聞く集い」を広島労働会館で開催。約100人が参加。
 0524  中国人被爆者張文彬、9日間の広島での日程を終え、かつて強制連行された新潟に向かう。
 05  東京華僑総会、中国人強制連行に関する「外務省報告書」と各事業場の「事業場報告書」を公表。
 0729  広島刑務所で被爆した中国人被爆者2人(呂学文・孟昭恩)、広島県原水禁などの招きで広島入り。
0730  広島市、広島刑務所で被爆した中国人被爆者2人(呂学文・孟昭恩)に被爆者手帳を交付。
 0731  中国人被爆者呂学文と孟昭恩、48年ぶりに広島県加計町の労働現場を訪問。広島県加計町の善福寺で挙行された中国人殉難者追悼法要に参列。
 0801  写真展・「安野」からの証言、広島労働会館で開催。
 0801  強制連行された中国人被爆者「孟昭恩先生・呂学文先生のお話をきく集い」、広島労働会館で開催。約50人が参加。
0803  中国人被爆者呂学文・孟昭恩、西松建設中国支社に強制労働に対する謝罪や補償を求める要求書を提出。
 0806  広島県山県郡の安野中学校生徒会、中国人被爆者呂学文・孟昭恩を招いて体験を聞く。
 09  強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会、呂学文・孟昭恩の西松建設に対する要求書への回答(9月29日付)を受け取る。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
 1110  西松建設中国支店を訪れ、2人の中国人被爆者からの謝罪・補償要求などを同社が拒否する回答書を提出したことに反論。
 1114  厚生省、北京の中日友好協会に対し、日本では被爆者の治療を無料で受けられる制度があることを通知。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
 1220  強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会、大内厚生大臣の孫平化中国日本友好協会長宛の書簡(12月14日付、日本の原爆2法による援護措置を説明)を広島市原爆被害対策部に示し、市独自の救済措置を要望。
 1994
0118  「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、被爆中国人補償問題で西松建設中国支店で3回目の交渉を実施。
0214?  「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」に広島で獄中被爆した中国人が大連に生存しているとのしているとの連絡が届く。
 0426  「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」のメンバー6人、中国人の代理で広島市の西松建設中国支社と交渉。同支社、独自に現地調査を行う意向を明らかにする。
 0501  「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、調査のため訪中(3回目)。8日、帰国。13日、帰国記者会見。
 0503  「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」の訪中団、大連在住の被爆者・于瑞雪に面会。
 0607  強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、中国人被爆者などの外国人被爆者の実態調査や援護を求める要請文を広島市長宛に提出。
 0622  「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、西松建設広島支店に強制労働させられた中国人への補償などを求める要求書を提出(第5回目の交渉)。
 0622  社会党の清水澄子、参院外務委員会で、中国人強制連行についての政府の見解をただす。中国人強制連行の事実を初めて公式に認める。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
 0710  「広島の強制連行を調査する会」・「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島県加計町のダムや発電所などで歴史や生存者の現状を学ぶ会を開催。約100人が参加。
0712?  「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島市長に6月7日付で提出した要請書に対する7月8日付の回答を受け取る。内容は、中国人被爆者の調査や援護の支援は「困難」というもの。
 0803  広島県加計町立安野中学校生徒、同町の中国人や朝鮮人を動員して建設した発電所などを見学。講師は「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」などのメンバー。
 1105  五十嵐官房長官、「花岡受難者聯誼会」代表と会い、政府首脳として初めて花岡事件について謝罪。(『中国人被爆者・癒えない痛苦』)
 1112  広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」など、「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」を発足させる(広島平和会館)。18人が参加。
 1117  「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、西松建設の担当者と広島県山県郡加計町の安野発電所建設工事に従事させられた中国人について初めて現地調査を実施。
 1995
 0206  「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、西松建設中国支店との6回目の交渉を実施。新たに医療費の負担を要望。
 0520  「強制連行された中国人被爆者との交流を進める会」、調査結果をまとめた「中国人被爆者・癒えない痛苦-獄中被爆の真相を追う」(明石書店刊)を発行。
 0526  宋継尭、「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」のメンバーとともに、東京の西松建設本社を訪れ、補償を要求。
 0815  中国河北省保定市で「安野強制連行・広島被爆受難者聯誼会が結成される。同市を訪問した広島県内の市民団体「強制連行された中国人被爆者との交流を進める会」の訪中団と協議の上結成。
 1025  広島市の市民団体「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」のメンバー、「安野強制連行・広島被爆受難者聯誼会」の委任を受けて、当時の中国人らの雇用主の西松建設中国支店で賠償などについて交渉。
 1996
 0312?  「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、7人目の被爆者の生存を確認。
 0617  広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島刑務所と広島市に対し、中国人被爆者の実態調査を実施することなどを要請。
 0627  広島市の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、山県郡加計町の発電所建設現場で中国人を働かせていた西松建設と交渉、同社の調査内容などを明らかにするよう求める。
 0820?  広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、帰国後死亡した中国人被爆者1人の消息を確認。
 1107  戦時中日本に強制連行された中国人元労働者2人、広島の市民グループ「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」の中谷悦子代表の案内で広島市の原爆資料館を見学。
 1997
0430  「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、広島県加計町に連行された中国人労働者の証言などを収録した教材ビデオを制作。
0510 「中国人強制連行国際シンポジウム広島集会」、広島市で開催。約200人が参加。喊允伝ら(中国人被爆者)らが報告。-11日。11日、呂学文が証言。
0801? 「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」、戦時中に広島県加計町に強制連行された中国人の証言を基に紙芝居「陳さんとイチョウ」を制作。
0806 「8・6ヒロシマ平和へのつどい1997」、広島市の県民文化センターで開催。約100人が参加。中谷悦子「強制連行・中国人被爆者との交流をすすめる会」代表が戦後補償を訴える。
2004
2008
2009
2012
2013
2014
2015
2016
2017
 1015  西松安野雄幸基金運営委員会、広島県安芸太田町坪野の安野発電所建設に強制連行された中国人労働者を追悼し日中友好を誓う集いを、発電所近くの石碑前で挙行(中国新聞20171016)
2018
1020 王小軍さん(故・徐立伝さんの孫)のお話を聞く会(広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会)、広島市で開催。約50人が参加。(『中国新聞』20181019、20181021)
2020
1018 広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会主催の犠牲者を追悼し日中友好を祈念する集い、安野発電所(安芸太田町)近くの石碑前で開く。参列者約50人。
2021
1014 広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会主催、故呂学文(原告団長)の活動を振り返る会を広島弁護士会館で開催。(『中国新聞』20211014)

年表:長野のヒバクシャ

年表:長野のヒバクシャ<作業中

年月日 事項 備考
1955
0822 長野県原水協準備会、第1回原水禁長野県大会を長野県立長野図書館講堂で開催。広島・長崎の被爆者4名、長野県在住の被爆者松尾敦之・花岡邦子が参加。(「生き続けて」710205)
0913 宇野長崎市社会課長、渡辺千恵子に長野県岡谷市立南部中学校3年生が贈ってきた義援金1202円と激励の手紙17通を手渡す。(長崎日々)
0913 原水爆禁止長野県協議会、結成大会を善光寺大勧進で開催。会長に半田孝海善光寺副住職、副会長に高野イシ県婦連会長、事務局長に宮尾貞子を選出。(「生き続けて」710205)
1120 原水爆禁止長野県協議会や信州大学学生など、「原爆被災者治療資金」の募金活動(1円カンパ)を実施。(「生き続けて」710205)
1206 原水爆禁止日本協議会被爆者救援委員会、広島・長崎を除く各地の被災者(約8万人)を対象に被災者の無料健康診断を開始。資金には、中国からの寄付金を充当。群馬・長野・神奈川がモデル・ケース。6・7両日、群馬大学附属病院で。
1207 日本原水協の「被爆者無料健康診断実施モデル地区」として長野県内で被爆者検診を実施。7日、佐久病院、7-8日、松本信州大学病院、長野日赤病院、上諏訪日赤病院、下伊那日赤病院。28名が受診。(「生き続けて」710205)
1956
「信濃路にひろがる原水爆禁止運動 県民一人一円出しあって 被災者救援の愛の手・・・全国でも一番熱心だといわれる長野県の例」『アカハタ』1956年1月1日
0201 高野イシ長野県原水協副会長・宮尾貞子同事務局長・松尾敦之・花岡邦子、被災者の会世話人会を開催。(「生き続けて」710205)
0205 長野県原水爆被災者の会、善光寺大勧進で結成。県内の被爆者8名と県原水協関係者が出席。会長:松尾敦之、副会長:前座良明・花岡邦子などを決定。(「生き続けて」710205)
「・・・同年九月十九日に日本原水協が、そして十月十八日に長野県原水協が結成され、「原爆被災者治療資金」の募金がおこなわれた。この資金によって県下五カ所の病院で健康診断を実施し、二十八名が受診した。そのなかに私もはいっていた。私はここではじめて原水協とのつながりができ、そのことによって、はじめて自分の怒りやなやみをきいてもらえる人たちができた。翌年、日本原水協の指導によって、県原水協の協力で健康診断を受けた二十八名とその後判った六名に呼びかけ、「長野県原水爆被災者の会」を結成することができた。ときに一九五六年二月五日のことだった。そして会則のなかで、「原水爆禁止運動に協力することをもって目的とする。このため原水爆禁止長野県協議会とは密接な連絡をはかる」こともきめた。<前座良明「長野における反原爆運動二十年と私」広島・長崎の証言の会『広島・長崎30年の証言(下)』(未来社、1976年)>
0324 長野県原水爆被災者の会、善光寺大勧進で結成。県内の被爆者8名と県原水協関係者が出席。会長:松尾敦之、副会長:前座良明・花岡邦子などを決定。(「生き続けて」710205)
0624 長野県原水協常任委員会、松本母の会の募金1万円を被災者の会へ伝達。(現金受領は5月4日)。(「生き続けて」710205)
0709  原水爆禁止世界大会長崎実行委員会、鹿児島平和友の会と長野県原水協の被災者派遣の要請に応え、鹿児島に辻幸枝・小幡悦子、長野に山口仙二・永富郁子を派遣することを決定。10日、鹿児島班、13日、長野班が出発。(長崎日々)
 0713  山口仙二・永富郁子(長崎原爆青年乙女の会)、長野原水協の招請に応じて長崎を出発。(長崎日々)
0808 「日赤長野病院、同下伊那病院、信州大学医学部附属病院、佐久病院ではいまもなお被爆者の診療をつづけており、また県原水爆禁止協議会に昨年十二月いらいあつめられた被爆者救援寄金は現在百五万円をこえている。」『アカハタ』1956年8月8日
 0809  松尾敦之長野県原水爆被災者の会会長、長野県代表団21人とともに第2回原水爆禁止世界大会に参加。(「生き続けて」710205)
0811  森滝日記=藤居平一氏、被害者代表四名とともに登壇して謝辞を述べ全会衆感動。許女史は平元夫人を抱擁。各国元首のメッセージ。ブルガーニン首相も。宣言文は長野の宮尾女史が読む。決議文は青山氏と中山女史。「原爆許すまじ」の大合唱。
0821  京都府原爆被災者の会、東京の会より被爆者実態調査用紙を受領。(厚生省が被爆地以外の実態を知るため企画したもので東京・京都・愛媛・埼玉・長野が参加)。(「京友会のあゆみ」910333)
1003?  長野県から広島原対協に寄金。差出人不明で、毎月200円を送るとの手紙。(毎日新聞)
1005  原爆被害者の会会長温品道義、長野県を訪れ、原爆被害者の実相を訴え。14日、帰広。
 1125  長野県原水協、結成1周年大会を開催。(「生き続けて」710205)
1205  長野県原水爆被災者の会、会独自の活動として長野日赤(10名)、諏訪日赤(3名)、松本信州大学病院(5名)、佐久総合病院(2名)、下伊那日赤(なし)で被爆者検診を実施。-15日。(「生き続けて」710205)
 1957
 0811   前座良明長野県原水爆被災者の会副会長・坂田信男同幹事、第3回原水爆禁止世界大会に参加。(「生き続けて」710205)
  1101  原水爆禁止平和長野県民大会、長野市内で開催。約1000人が参加。前座良明長野県原水爆被災者の会副会長、被爆者の苦しみなどを訴える。(「生き続けて」710205)
 1958
 0518  長野県原水爆被災者の会、第4回総会を上山田温泉三楽荘で開催。松尾会長辞任にともない前座良明会長など新役員を決定。(「生き続けて」710205)
0806 長野県の全国高校体操女子選手団一行、長崎原爆病院を慰問。(西日本)
1116 長野県原水爆被災者の会、第5回総会を松本市外浅間温泉玉の湯で開催。(「生き続けて」710205)
1959
0517 長野県原水爆被災者の会、第6回総会を松本市龍宮鉱泉で開催。支部を設けることを決定。会員数72名。(「生き続けて」710205)
0725 長野大学附属小学校生徒ら5人、千羽鶴を広島市に送る。映画「千羽鶴」を見たのが契機。
0731  藤枝自民党副幹事長、原水爆禁止世界大会に神奈川・長野など8県から自民党所属の県疑団が参加することを明らかにする。
1960
0214 長野県原水爆被災者の会、第7回総会を松本市浅間温泉栄の湯で開催。会員数77名。(「生き続けて」710205)
1968
1970
0702  広島市・長崎市・朝日新聞社、原爆国内展を高崎・浜松・長野・東京・札幌・函館で開催。~8月30日。[広島原爆資料館][「遺品は語る」]
 1975
0802 吉川清、長野市の福祉会館で講演(長野原水禁の依頼)。
1977
1028 長野県の定時制高校生、修学旅行で原爆体験学ぶため来広。広島市の高校生と交流会。
1125 仏核実験に抗議して、広島市内三ケ所で座り込み。呉市でも初の座り込み。詩人栗原貞子の友人の長野県の主婦、座り込みに参加。
1978
1124 朝日新聞社、原子爆弾の記録展を長野市の長野東急デパートで開催(~29日).
1221 長野県被団協など、原爆の記録展を松本市の信濃ギャラリーで開催(~25日).
1980
0801 長野県被団協など、「人類生存のために!被爆者がかいた原爆の絵展」を県下10会場で開催(~10月2日).
1981
0202 長野県被爆者の会、「ふたたび被爆者をつくらせないために!原爆被爆者援護法の実現を要求するつどい」を長野市の労働会館で開催.90名余参加.
0805 長野市で、「ノーモア・ヒロシマ・コンサート’81」開催。
1019 長野県厚生連佐久総合病院従業員組合、平和問題学習会を開催.
1982
0130? 長野県立飯田高校生徒、被爆体験記「白いチョゴリの被爆者」についての感想文で毎日新聞社賞受賞。
0312 長野県議会、「核兵器の廃絶と軍縮の推進に関する意見書」を採択。
0707 長野・松本市で不再戦の集いを開催.
0914 長野県の農業協同組合、広島原爆病院を慰問。
1115 長野県高校長会、「核兵器廃絶に関する意見」を採択。
1117 長野県原水爆被災者の会、「被爆者は訴える!反核のつどい-ヨーロッパ反核運動との交流12日間,いまなぜ援護法か」を松本市で開催.80人参加.
1983
0910 長野県の農協職員ら、原爆病院を慰問。
1984
0513 長野県原水爆被災者の会、諏訪市で総会.
0704 長野県議会、「非核平和県民宣言」を決議。都道府県レベルでの非核宣言は(徳島県議会に次いで二番目)
0914 長野県の農協職員、広島原爆病院を慰問。
1985
** 長野県・篠ノ井旭高校の生徒、松代大本営の保存・公開を長野市長に提起。
0325 長野県議会、被爆者援護法制定を求める意見書を全会一致で可決.
0604 長野県観光課職員、広島市の原爆養護ホームを慰問。
0911 長野県経済連の職員、広島原爆病院を慰問し、特産品を寄贈。
1986
0322 広島県議会、「核兵器廃絶に関する広島県宣言」を、全会一致で採択( 都道府県では、神奈川・長野などに次いで 6番目) 。
0603 長野県の観光キャンペーンで来広した一行、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」を慰問。
0901 米ロサンゼルス市在住の航空技師長野亮、出身地の鹿児島県に被爆証人なしで被爆者手帳の交付を申請。
0913 長野県の農協職員、広島原爆病院を慰問し、リンゴを寄贈。
1010 広島市出身の故森本明(被爆者)の友人ら、長野県の故人の建てたペンションで、追悼のレコードコンサートを開催。
1987
0911 長野県のあづみ農協職員、広島原爆病院を慰問、リンゴを寄贈。
1211 長野県原水爆被災者の会、「ふたたび被爆者をつくらないために 原爆被爆者援護法を 今すぐに!」の意見広告を信濃毎日新聞に掲載.
1988
0914 長野県の農協職員、広島赤十字原爆病院を慰問、リンゴを寄贈。
1989
0504? 広島折鶴の会、長野市の布コイ製造業赤石平太郎から託された「こいのぼり」をブラジルのヒロシマ中学校に寄贈。
0513 長野県被団協(長友会)、定期総会を開催。-14日。
0914 長野県の「あづみ農協」職員、広島赤十字・原爆病院を訪れ、リンゴを寄贈。
1990
** 長野市、松代大本営の地下壕の一部を公開。1989年6月末までに74万2000人が見学。
0327 「第1回少年少女ナガサキの旅」(日本生協連主催)、長崎市で開催(長崎・広島・長野などの小・中学生約100人参加)。被爆体験談の聴取など。
0722 長野県原水爆被災者の会、「いまなぜ被爆者援護法かを考える全県学習会」を長野市内で開催。
0913 長野県のあづみ農協、広島赤十字・原爆病院にリンゴを寄贈。
1991
0326 長野県の住職ら、日本チェルノブイリ連帯基金を設立。現地での調査のため、訪ソ。
0511 長野県被団協(長友会)、定期総会を開催。-12日。
0714 きょうちく会(体験記集「原爆の子」の執筆者のグループ)の早志百合子ら(4人)、同書の編者である長田新の故郷長野県茅野市を訪ね墓参。今年は同書の出版から40年、長田没後30年。
0806 長野県松本市の「ピカドン」食堂店主、長野県の遺族代表として、平和祈念式に参列。
0912 長野県・あづみ農業協同組合の職員ら、広島赤十字・原爆病院を訪れ、特産のリンゴを贈呈。
1992
0225 長野県被団協副会長・矢崎坂治、死去。69歳。
0409 長野県被団協、草の根全国行脚長野県集会を長野市内で開催。約40人が参加。
0911 長野県豊科町のアヅミ農協の職員ら、広島赤十字・原爆病院をリンゴ1,200個をもって慰問。同農協は、広島中央卸売市場に出荷したことから昭和56年から毎年慰問。
1993
0801 「ノーモア ヒロシマ・ナガサキ-第13回長野平和音楽祭」、長野県民文化会館で開催。
1994
0909 長野県豊科町のJAあづみのの職員、収穫したばかりのリンゴを持って広島赤十字・原爆病院を慰問。
1995
0809 長崎市新興善小学校、平和集会を開催。元針尾海兵団軍医・降旗良知(長野県松本市在住)ら元軍医9人、同行で救護活動について話す。
0913 長野県豊科町のJAあづみの職員ら、リンゴを広島赤十字・原爆病院に届ける。
1217 長野県茅野市に非核平和宣言都市・茅野市の決意を託した「原爆の火・平和の塔」が市民の募金で建立され除幕。
1996
0910 長野県のあづみ農協、広島赤十字原爆病院にリンゴ1200個を届ける。
1997
0329? 1947年頃の広島市の平和公園を撮影した写真が長野県で見つかる。
0720 全国各地で戦争遺跡の保存運動を行っている22団体、長野市で全国シンポジウム(第1回)を開催。広島からなど100人が参加。戦争遺跡全国ネットワークを結成。
?? 安曇野ちひろ美術館開館。
1998
0113 長野冬季五輪の聖火リレー、広島市の平和公園を1周。
0327 長野冬季パラリンピックの閉会式を企画した「アクトジャパン日本楽劇人協会」の代表、閉会式会場を飾った折り鶴のうち2万羽を長崎原爆資料館に寄贈。
0329 長野冬季パラリンピックの閉会式を企画した「アクトジャパン日本楽劇人協会」の代表、閉会式会場を飾った折り鶴のうち2万羽を広島市平和公園の「原爆の子の像」に捧げる。
 2017
0327 藤森俊樹日本被団協事務局次長(長野県茅野市)、核兵器禁止条約をつくる交渉会議(米ニューヨーク・国連本部)で演説(『中国新聞』20170805)
 0805  中国新聞「8・6式典 都道府県遺族代表の思い 受け継いだ記憶 次世代へ」。<長野県代表>
 2018
0310 藤森俊樹日本被団協事務局次長(長野県茅野市)、核兵器禁止条約をテーマにした講演会(2018国際女性デーひろしま実行委員会主催)で講演。(『中国新聞』2018年3月11日)
 0522  中国新聞連載「緑地帯 ちひろとヒロシマ」(~5月31日、8回連載)

厚生大臣および沖縄県知事への要望書 1972年9月25日

厚生大臣および沖縄県知事への要望書

(沖縄県原爆被爆者協議会・日本原水爆被害者団体協議会  1972年9月25日)

要望書

 私達が広島・長崎で被爆して二七年が経ちました。その間、本土では昭和三二年原爆医療法が、昭和四三年原爆被爆者特別措置法が施行され、本土被爆者へは不十分ながら医療を中心とした福祉対策が行なわれてきました。

一方、沖縄県在住の被爆者はアメリカの施政権のもとで長く放置され、四二年の「了解覚書」、特別措置法の準用以後も本土被爆者との格差は歴然たるものがあります。

今回本土各県被爆者代表が渡沖し、沖縄県被爆者との懇談を行なうことによってこのことは愈々明白になりました。本土の被爆者は国の施策の不十分さをおぎなうため各地方自治体で独自の被爆者対策をかなりの程度進めさせています。

原爆被爆者医療、生活対策のために、医療施設、社会保障施設全般の水準の本土との格差を是正し、一日も早くニ七年間堪えつづけ、而も年々老令化していく被爆者のために、県当局が左記の事項に対して勇断をもって実施して下さることを要望するものであります。

要望事項

一、別添の日本政府への要求(実態調査、認定病院の設置、専門医師の配置と施設設備の充実、医師への原爆医療研修、広島・長崎等の専門医の沖縄派遣、広島・長崎等への専門病院での治療経費の国庫負担等)については、沖縄県に於てもその推進の為に努力すること。又当面その実施を県費支出によって行うこと。

二、健康診断受診者全員に奨励金を支給し、一般検診の際も交通費を増額すること。

三、一般疾病医療機関を増設し、原爆医療法の主旨徹底と原爆医療の為の医師研修につとめること。

四、県、病院、被爆者の三者懸談会を開催しその定期化を計ること。

五、全被爆者に栄養費を支給し、入、通院、自宅療養、六○才以上の被爆者に見舞金を支給すること。

六、公営住宅への優先入居を認めること。

七、生活困窮被爆者に特別手当を支給すること。

八、地方税の減税措置を講ずること。

昭和四七年九月二五日

沖縄県原爆被爆者協議会
日本原水爆被害者団体協議会

沖縄県知事殿

日本政府への要求

一、沖縄県被爆者は昭和四〇年厚生省調査から除外されているので直ちに医療生活を含む実態調査を行なうこと。

二、沖縄県に直ちに原爆医療法指定医療機関(認定病院)を設置すること。

三、それを中心に専門医師を配置し検査、治療に必要な施設、設備の充実を計ること。

四、沖縄県在住医師の原爆医療研修を実施すること。

五、当面沖縄県被爆者の健康診断の為、広島・長崎等の専門医を国費を以って派遣すること。

六、沖縄の被爆者が広島・長崎等の専門病院で治療入院をする場合はその交通費、宿泊費等の一切の経費及び留守家族に対しての援助金を支給すること。

七、昭和三二年から医療法準用に至る期間の被爆者の医療費、自己負担分を政府は補償すること。

沖縄県在住被爆者対策推進調査団報告集(1973年6月)

沖縄県在住被爆者対策推進調査団報告集

(日本原水爆被害者団体協議会  1973年6月)

1.はじめに

2.調査団趣旨

3.調査団名簿

 

団長 伊東 壮 日本被団協事務局長
団員 尾島良平 神奈川県被団協会長
団員 木戸 大 愛知県被団協事務局長
団員 葉山利行 長崎県被団協事務局長
団員 長尾当代 東京都被団協委託事業部長
事務局 伊藤直子 日本被団協事務局員

 

4.調査団日程

1972年9月

 

23 那覇着、沖縄県原爆被爆者協議会総会にのぞみ、総会後懇談。
24 金城理事長の案内で南部戦跡を訪問・慰霊。
25 沖縄タイムス、日赤病院、民主診療所を訪問・懇談。16時より沖縄県被爆協役員と共に県庁交渉。
26 金城文栄、与那嶺盛徳氏の案内で、中部米軍基地を見学。
27 那覇発。

 

5.沖縄県被爆者の実態

<沖縄県原爆被爆者協議会「沖縄在住被爆者の実情報告」より>

6.現地行動報告

7.厚生大臣および沖縄県知事への要望書

8.沖縄県被爆協への便り-厚生省交渉報告-

9.調査団感想文

Struve Geodetic Arc–map

Struve Geodetic Arc – map of inscribed property作業中

Struve Geodetic Arc – UNESCO World Heritage Centre
 (Belarus, Estonia, Finland, Latvia, Lithuania, Norway, Republic of Moldova, Russian Federation, Sweden, Ukraine)
キャプチャ1 キャプチャ2  

 

 

 

Norway,

Sweden,

Finland, 

Russian Federation,

Estonia,

 Latvia, 

Lithuania, 

Belarus,

Ukraine

Republic of Moldova,

over

 

Struve Geodetic Arc

Struve Geodetic Arc – UNESCO World Heritage Centre

Struve Geodetic Ar<作業中

he Struve Arc is a chain of survey triangulations stretching from Hammerfest in Norway to the Black Sea, through 10 countries and over 2,820 km. These are points of a survey, carried out between 1816 and 1855 by the astronomer Friedrich Georg Wilhelm Struve, which represented the first accurate measuring of a long segment of a meridian. This helped to establish the exact size and shape of the planet and marked an important step in the development of earth sciences and topographic mapping. It is an extraordinary example of scientific collaboration among scientists from different countries, and of collaboration between monarchs for a scientific cause. The original arc consisted of 258 main triangles with 265 main station points. The listed site includes 34 of the original station points, with different markings, i.e. a drilled hole in rock, iron cross, cairns, or built obelisks.

Outstanding Universal Value

Brief synthesis

The determination of the size and shape of the world was one of the most important problems of natural philosophy since at least the 4th century B.C. The development, in the 16th century, of a measurement system called “triangulation” improved the ability to determine the size and shape of the world. In this system, long chains of triangles were measured, creating arcs that stretched along hundreds and thousands of kilometres.

The Struve Geodetic Arc is a chain of survey triangulations stretching from Hammerfest in Norway to the Black Sea, through ten countries and over 2,820 km. These are points of a survey, carried out between 1816 and 1855 by several scientists (surveyors) under leadership of the astronomer Friedrich Georg Wilhelm Struve, which represented the first accurate measuring of a long segment of a meridian. This helped to establish the exact size and shape of our planet and marked an important step in the development of earth sciences and topographic mapping. It is an extraordinary example of the development of sciences and of collaboration among scientists from different countries, as well as monarchs, for a common scientific cause.

Prior to the Struve Geodetic Arc, an arc of about 2,400 km had been measured in India by Lambton and Everest (completed in 1845), and a shorter arc in Lithuania by Carl Tenner. Struve, who was working at the Dorpat University (currently University of Tartu in Estonia), decided that he would establish an arc following a line of longitude (meridian) passing through the observatory of the university. The new long arc, later to be known as the Struve Geodetic Arc, was eventually created by connecting earlier, shorter arcs to the southern one measured by Tenner, and their extension to the north and south. The arc thus covered a line connecting Fuglenæs, near Hammerfest at the Arctic Ocean, with Staro-Nekrassowka, near Ismail, on the Black Sea shores, along more than 2,800 km. The original arc consisted of 258 main triangles with 265 main station points. The inscribed property includes 34 of the original station points established by Struve and his colleagues between 1816 and 1851 – four points in Norway, four in Sweden, six in Finland, two in Russia, three in Estonia, two in Latvia, three in Lithuania, five in Belarus, one in Moldova and four in Ukraine. Other preserved sites of the Arc are protected nationally.

These marks take different forms: small holes drilled in rock surfaces, and sometimes filled with lead; cross-shaped engraved marks on rock surfaces; solid stone or brick with a marker inset; rock structures (cairns) with a central stone or brick marked by a drilled hole; individual bricks; as well as especially constructed ‘monuments’ to commemorate the point and the arc.

The Struve Geodetic Arc is an extraordinary example of the interchange of human values in the form of international scientific collaboration, as well as an outstanding example of a technological ensemble.

Criterion (ii): The first accurate measuring of a long segment of a meridian, helping in the establishment of the exact size and shape of the world exhibits an important step in the development of earth sciences. It is also an extraordinary example for interchange of human values in the form of scientific collaboration among scientists from different countries. It is at the same time an example for collaboration between monarchs of different powers, for a scientific cause.

Criterion (iv): The Struve Geodetic Arc is undoubtedly an outstanding example of a technological ensemble – presenting the triangulation points of the measuring of the meridian, being the non-movable and non-tangible part of the measuring technology.

Criterion (vi): The measuring of the arc and its results are directly associated with humans wondering about their world, its shape and size. It is linked with Sir Isaac Newton’s theory that the world is not an exact sphere.

Integrity

The inscribed property consists of 34 components, which in total comprise an area of 0.6 ha, with buffer zones amounting to a total of 11 ha. All components of the Struve Geodetic Arc are linked to one chain and a number of the Arc sites belong to national state geodetic reference networks that confer integrity even with the geodetic measurements processed today.

Authenticity

The inscribed components of the property have special characteristics and significance on a technological and scientific level. All points are maintained in their original location and changes are limited to some later constructions marking the locations.

Protection and management requirements

For the inscription of the Struve Geodetic Arc, the ten countries involved collaborated in locating and investigating the sites of historical measurements by using available geodetic observation data and by means of the recent measurement methods as well as satellite geodesy. Upon identification of the component parts, each State Party provided legal protection in accordance with its national frameworks, which in practice entails that some points are covered by laws protecting geodetic points and also by laws for the protection of cultural heritage.

At the national level, each State authority, usually the national mapping authority with the involvement of local administrative authorities, is responsible for the conservation and management of the Struve Geodetic Arc. At the international level, management is the responsibility of the Coordinating Committee, which meets every other year and is run according to management mechanisms agreed upon by all ten countries.

Based on the resolutions of the Coordinating Committee, national representative organizations actively promote the Struve Geodetic Arc via different tasks, such as the producing post stamps and envelopes (completed by Belarus, Estonia, Finland, Latvia, Lithuania, Moldova, Sweden, Ukraine); making promotional movies and educational leaflets, books and articles; preparing exhibitions; translating documentation; restoring geodetic instruments and other materials, and even minting commemorative coins for the Struve Geodetic Arc (Belarus, Moldova).

Ukraine: UNESCO statement 20220224

Ukraine: UNESCO statement 20220224<作成中

Ukraine: UNESCO statement following the adoption of the UN General Assembly resolution – UNESCO World Heritage Centre

UNPress release

ESCO’s statement on the recent developments in Ukraine

UNESCO

UNESCO is deeply concerned about the ongoing military operations and the escalation of violence in Ukraine. As stated by the UN Secretary-General, such operations are violations of the territorial integrity and sovereignty of Ukraine and are inconsistent with the Charter of the United Nations.

UNESCO calls for respect for international humanitarian law, notably the 1954 Hague Convention for the Protection of Cultural Property in the Event of Armed Conflict and its two (1954 and 1999) Protocols, to ensure the prevention of damage to cultural heritage in all its forms.

This also includes the obligations under the United Nations Security Council Resolution 2222 (2015) on the protection of journalists, media professionals and associated personnel in situations of conflict, to promote free, independent and impartial media as one of the essential foundations of a democratic society, and which can contribute to the protection of civilians.

UNESCO also calls for restraint from attacks on, or harm to, children, teachers, education personnel or schools, and for the right to education to be upheld.

over

 

Ukraine: UNESCO statement 20220303

Ukraine: UNESCO statement<作成中

Ukraine: UNESCO statement following the adoption of the UN General Assembly resolution – UNESCO World Heritage Centre

Following the adoption by the United Nations General Assembly of the Resolution on Aggression against Ukraine, and in light of the devastating escalation of violence, UNESCO is deeply concerned by developments in Ukraine and is working to assess damage across its spheres of competence (notably education, culture, heritage and information) and to implement emergency support actions.

The UNGA Resolution reaffirms the paramount importance of the UN Charter and commitment to the sovereignty, independence, unity, and territorial integrity of Ukraine within its internationally recognized borders, and it demands “that the Russian Federation immediately cease its use of force against Ukraine.”

The Director-General, Audrey Azoulay, fully concurs with the opening remarks made by the Secretary-General at the Special Session of the General Assembly, during which he said that “this escalating violence — which is resulting in civilian deaths, including children – is totally unacceptable.”

In addition, she calls for the “protection of Ukrainian cultural heritage, which bears witness to the country’s rich history, and includes its seven World Heritage sites – notably located in Lviv and Kyiv; the cities of Odessa and Kharkiv, members of the UNESCO Creative Cities Network; its national archives, some of which feature in the UNESCO Memory of the World Register; and its sites commemorating the tragedy of the Holocaust.”

“We must safeguard this cultural heritage, as a testimony of the past but also as a vector of peace for the future, which the international community has a duty to protect and preserve for future generations. It is also to protect the future that educational institutions must be considered sanctuaries.”

Consistent with its mandate, UNESCO demands the immediate cessation of attacks on civilian facilities, such as schools, universities, memorial sites, cultural and communication infrastructures, and deplores civilian casualties, including students, teachers, artists, scientists and journalists. These include women and children, girls especially, disproportionately impacted by the conflict and displacement.

In the field of education, Resolution 2601 adopted in 2021 by the UN Security Council states that UN Member States are to “prevent attacks and threats of attacks against schools and ensure the protection of schools and civilians connected with schools, including children and teachers during armed conflict as well as in post-conflict phases”. The General Assembly Resolution of 2 March expresses grave concern at reports of attacks on civilian facilities including schools. In this regard, UNESCO strongly condemns attacks against education facilities, with the damaging of at least seven institutions in the past week, including the attack on 2 March on Karazin Kharkiv National University.

The nationwide closure of schools and education facilities has affected the entire school-aged population — 6 million students between 3 and 17 years old, and more than 1.5 million enrolled in higher education institutions. The escalation of violence hampers the protective role of education, and the impact may be far-reaching including in neighbouring countries.

In the field of culture, UNESCO underlines the obligations of international humanitarian law, notably the 1954 Hague Convention for the Protection of Cultural Property in the Event of Armed Conflict and its two (1954 and 1999) Protocols, to refrain from inflicting damage to cultural property, and condemns all attacks and damage to cultural heritage in all its forms in Ukraine. UNESCO calls also for the full implementation of UN Security Council Resolution 2347.

In this respect, UNESCO is gravely concerned with the damages incurred by the city of Kharkiv, UNESCO Creative City for Music, and the historic centre of Chernihiv, on Ukraine’s World Heritage Tentative List. UNESCO deeply regrets reports of damage to the works of the celebrated Ukrainian artist, Maria Primachenko, with whose anniversary UNESCO was associated in 2009.

UNESCO condemns also the attack that affected the Babyn Yar Holocaust memorial, the site of one of the largest mass shootings of Jews during World War II, and calls for the respect of historic sites, whose value for education and remembrance is irreplaceable.

In order to prevent attacks, UNESCO, in close coordination with the Ukrainian authorities, is working to mark as quickly as possible key historic monuments and sites across Ukraine with the distinctive emblem of the 1954 Hague Convention, an internationally recognised signal for the protection of cultural heritage in the event of armed conflict.  In addition, UNESCO has approached the Ukrainian authorities with a view to organising a meeting with museum directors across the country to help them respond to urgent needs for safeguarding museum collections and cultural property. In cooperation with UNITAR/UNOSAT, UNESCO will be monitoring the damages incurred by cultural sites through satellite imagery analysis.

In the field of access to information and freedom of expression, UNESCO recalls its previous statement underlining obligations under UN Security Council Resolution 2222 to protect media professionals and associated personnel. It further notes, as in the same resolution, “media equipment and installations constitute civilian objects, and in this respect shall not be the object of attack or of reprisals, unless they are military objectives”.

In this respect, UNESCO is deeply concerned about reports of the targeting of media infrastructure, including the shelling of Kyiv’s main television tower on 1 March 2022, with multiple reported fatalities, including at least one media worker, as well as cases of violence against journalists and attempts to restrict access to the Internet.

In a conflict situation, free and independent media are critical for ensuring civilians have access to potentially life-saving information and debunking disinformation and rumours.

At the request of a group of Member States, the UNESCO Executive Board will hold a Special Session on 15 March “to examine the impact and consequences of the current situation in Ukraine in all aspects of UNESCO’s mandate”.

over