「01 月忌」カテゴリーアーカイブ

5月忌(一覧)

5月忌(一覧)

没年 氏名 読み 享年 備考
01 1951 永井隆 ながい・たかし 43 長崎医科大学付属医院内で原爆被爆
01 1981 中村敏 なかむら・さとし 72 共同通信社元編集局総務。広島被爆の第一報を打電した元同盟通信広島支社編集部長。
01 1985 ジェンキンズ、クニコ・ じぇんきんず 59 全米被爆者協会副会長。1973年から副会長を務め、在米被爆者検診の実施などに貢献。
02 2009 忌野清志郎 いまわの・ きよしろう 58 ロック・ミュージシャン。本名:栗原清志(くりはら・きよし)。
02 2016 新屋英子 しんや・えいこ 87 本名:鶉野英子(うずの)。大阪の劇団「関西芸術座」の創立メンバー。一人芝居「チョゴリの被爆者」。『女優新屋英子 私の履歴書』(2005年、解放出版社)
03 1955 千葉亮 ちば 広島で被爆した東京在住の高校生。
原爆症発症以来、全国の高校生らが支援カンパ。9日、成城高校、生徒会葬を執行。約2000名が参列(読売新聞)。
03 1971 高橋和巳 たかはし・かずみ 39 作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)<投稿
03 2017 月丘夢路 つきおか・ゆめじ 95 宝塚歌劇団、女優。本名:井上明子。広島市中区出身。映画「ひろしま」に出演。
04 1985 菊池武彦 きくち・たけひこ 91 京都大学名誉教授。
京都大学原爆災害調査班の一員として1945年8月に広島を調査。『京都大学原子爆弾災害総合研究調査班の成立と活動』、『大野陸軍病院における京大原爆総合研究調査班の山津波による遭難の状況(私の日記から)』。お宅を訪問。被爆直後の写真について教示をいただく。<資料年表:菊池武彦
06 1964 佐藤春夫 さとう・はるお 詩人・小説家。原民喜の葬儀委員長。
1951年11月15日広島城址に建立された原の詩碑に撰文「詩碑の記」を記す。『広島県現代文学事典』竹原陽子・記)
06 1980 渡辺忠雄 わたなべ・ただお 81 元広島市長(1955~59年)。<投稿
08 1972 砂原格 すなはら・かく 『砂原格追想録』(砂原格先生顕彰会・会長森本亨、1978.5.8)〈投稿
08 2008 伏見康治 ふしみ・こうじ 98 物理学者。1953年日本学術会議会長。1958年参議院議員(公明党)。
09 2012 碓井静照 うすい・しずてる 74  8歳の時被爆。<投稿
広島県医師会会長、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)日本支部長などを歴任。第67回(2010年)中国文化賞(中国新聞社主催)。
09 1965 田谷春夫 たたに・はるお 詩人・歌人。
1932年5月赤色救援会広島支部の責任者として検挙・起訴される。広島で被爆。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記)
09 2018 村井志摩子 むらい・しまこ 89 劇作家・演出家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)
09 2024 文沢隆一 ふみさわ・りゅういち 96 作家。資料年表:文沢隆一(本名:増本勲一)
10 1981 今川卓治 いまがわ・たくじ 84 被爆医師 今川卓治』(今川静子、19870510)
10 1991 中川保雄 なかがわ・やすお 神戸大学教養学部教授。科学技術史。
著書に『放射線被曝の歴史』。広島大学原医研資料センター所蔵資料を熱心に調査。直接の面識無し。
10 2017 田原伯 たはら・つかさ 84 原爆文献研究家。<投稿>。
11 1975 梶山季之 かじやま・としゆき 46 1948年広島高等師範学校入学。[広島大学]『広島県現代文学事典』(天瀬裕康・記)編年資料:梶山季之
11 2004 山本達雄 やまもと・たつお 88 「原爆の火」保存者。兵役に就いていた広島で、原爆投下直後に残り火をカイロに採取し、故郷の福岡県星野村で20年以上保存。広島に投下された人類史上初めての原子爆弾の火=世界で唯一の「火」。
12 1979 塩月正雄 しおつき・まさお 58 東北大学医学部を卒業後見習士官として大村病院に所属。
被爆者治療に従事。。「初仕事は安楽殺だった」(光文社 1978.8.15 )の著者。
14 1998 山田典吾 やまだ・てんご 81 映画監督。作品に「はだしのゲン」・「白い町ヒロシマ」。
14 2002 草野信男 くさの・のぶお 92 病理学者。元日本原水協理事長。投稿
15 1973 ラビノビッチ、ユージン・ らびのびっち 71 Eugene Rabinowitch マンハッタン計画の主任研究者。[70ヒロシマ会議]
15 2009 豊田利幸 とよた・としゆき 89 核物理学者。「パグウォッシュ会議」に日本代表としてかかわり、その日本版の「科学者京都会議」でも活躍。
16 1977 島薫 しま・かおる 79 外科島病院長。
原爆は島病院の上空でさく裂。『島薫あれもこれも』(紺野耕一編、島忍発行、1983.5.15)
16 2006 渡辺正治 わたなべ・しょうじ 広島大学原医研時代の先輩。
5月20日葬儀・告別式。<別記予定>
18 1952 中井正一 なかい・まさかず 52 美学者・哲学者。1946年9月、広島県労働文化協会を創設。1948年、国立国会図書館副館長に就任。『広島県大百科事典』(板根俊英・記)。『広島県現代文学事典』(佐々木暁美・記)。
18 2007 前野良 まえの・りょう 94 原水禁国民会議顧問。
広島湾の軍艦上で被ばく。その後の1ヵ月あまりの救護活動。1955年の最初の世界大会から原水禁運動に参加。http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0707_4.htm
21 1991 斗桝良江 とます・よしえ 『私の原爆記』
21 2010 小松茂美 こまつ・しげみ 75 古筆学者、美術史学者。広島で被爆。<投稿
「死の淵にたって」(『平家納経の世界―国宝の謎を推理する』(六興出版、19861226)pp.133-136。
22 1964 下田隆一 しもだ・りゅういち 65 原爆裁判の原告の一人。
22 1988 佐藤月二 さとう・つきに 79 元広島大学教育学部教授。広島県史跡名勝天然記念物調査委員(1947年2月~)。
1949年当時、原爆ド-ムの保存を主張。著書『むさしあぶみ』(溝本積善館、19720215)。
23 1981 吉野源三郎 よしの・げんざぶろう 82 雑誌「世界」初代編集長。
日本ジャーナリスト会議初代議長(1955年2月、)。「被爆30周年国際フォーラム」の代表世話人。1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人。
23 2012 岡本直正 おかもと・なおまさ 91 広島大学原爆放射能医学研究所所長(1970.4.1~1977.3.31)。
24 1956 中林智子 なかばやし・ともこ 原爆乙女の会のメンバー。
アメリカのマウント・サイナイ病院で手術中に死去。日本時間25日。
24 2007 大庭みな子 おおば・みなこ 作家。『広島県現代文学事典』(瀬崎圭二・記)
26 1982 植村環 うえむら・たまき 91 日本YWCA名誉会長。
原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員。日本原水協代表委員。世界平和アピール七人委員会のメンバー。1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人。
26 1999 辛泳洙 しん・よんす 80 元韓国原爆被害者協会会長。
国外に住む外国人としては始めて原爆被爆者手帳を取得。http://www.asahi-net.or.jp/~hn3t-oikw/kaihou/No_25/9907_1shin.html
26 2000 阿左美信義 あさみ・のぶよし 65 広島弁護士会長・日本弁護士連合会副会長などを歴任。
「石田原爆訴訟」の弁護団に加わる。「悼記 衰えなかった弱者救済への情熱」(『中国新聞』2000.7.4)
28 1984 森戸辰男 もりと・たつお 95 広島大学初代学長(13年間)。
[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。[51広島大学平和問題研究会会長]。[52広島平和問題談話会]。1951年に、「広島大学平和問題研究会」を発足させる。
29 1986 松崎寿和 まつざき・ひさかず 72 日本史研究者。広島大学教授。中国文化賞(1974年)
30 1978 片山哲 かたやま・てつ 90 元総理大臣。
憲法擁護国民連合議長、衆議院議員、[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。
30 1983 山本康夫 やまもと・やすお 105 歌人。
短歌誌「真樹」主宰者(被爆者)。『広島県現代文学事典』(山本光珠・記)。
30 2006 今村昌平 いまむら・しょうへい  79 映画監督、脚本家、映画プロデューサー.
『広島県現代文学事典』(佐藤武・記)

 

4月忌(一覧)

 

没年 氏名 読み 享年 備考
01 2012 森亘 もり・わたる 86 元東京大学総長。原爆死没者慰霊等施設基本問題懇談会座長。<投稿
01 2016 藤村耕市 ふじむら・こういち 86 元三次地方史研究会会長。<投稿
01 2020 山西義政 やまにし・よしまさ 97 (株)イズミ(広島県広島市、山西泰明社長)創業者。1997年、個人コレクションを中心に泉美術館を開設。<資料年表:山西義政
02 1974 福田須磨子 ふくだ・すまこ 52 長崎原爆の被爆者。詩人。1975年8月2日、長崎市爆心地公園に慰霊碑建立。
02 1984 渡辺漸 わたなべ・すすむ 80 広島大学原医研初代所長。自宅を訪問、面談、資料閲覧・借用。
02 2005 ヨハネ・パウロ二世 ぱうろ 84 4月2日(日本時間3日)。1981年2月25日広島訪問。<『教皇訪日公式記録 ヨハネ・パウロⅡ世』主婦の友社、19810402><投稿
02 2008 大北威 おおきた・たけし 83 広島大原爆放射線医科学研究所所長。ノーベル平和賞を受賞(1985年に)した「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」のメンバー。<投稿><資料年表:大北威
02 2016 居森清子 いもり・きよこ 82 広島の本川国民学校で被爆、児童で唯一の生存者。西本雅実「評伝」(『中国新聞』2016.4.5)
03 2011 長崎源之助 ながさき・げんのすけ 87 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(瀬崎圭二・記)
04 0984 伊藤実雄 いとう・じつお 1946年4月の総選挙で広島全県区(当時)から初当選、1期。『古稀を越えて 伊藤實雄』(1982.2.25)<投稿
04 1997 杉村春子 すぎむら・はるこ 91 女優。本名:石山春子。広島市出身で、被爆ドラマに出演。。映画吹き込み場に立ち会う。『広島県現代文学事典』(九内悠水子・記)。<投稿
05 1958 岡本尚一 おかもと・しょういち 66 弁護士。広島・長崎の被爆者とともに原爆求償同盟を組織し、1955年4月、東京地裁に、原爆投下の国際法違反を明確にし、被害の賠償を求める訴訟を起こす。<『原爆民訴或問』
05 1960 楮山ヒロ子 かじやま・ひろこ 17 広島で被爆。急性リンパ性白血病のため広島市民病院で死亡。<投稿>。<原爆ドームと楮山ヒロ子
05 1961 都築正男 つづき・まさお 68 東京帝国大学教授。遺族宅を調査<投稿
05 1964 マッカーサー、ダグラス・ 84 連合国軍最高司令(1945~50年)
07 1971 椎尾弁匡 しいお・べんきょう 94 全日本仏教会副会長、大正大学学長、増上寺大僧正[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。
07 1990 大原亨 おおはら・とおる 74 元社会党代議士(広島選出)。党原爆対策特別委員会などを歴任。衆議院議員。『志あるところ必ず道あり 大原亨追悼録・遺稿集』(発行編纂委員会、19910806)。宇吹の高校時代の同級生の父。
07 1957 羽仁もと子 はに・もとこ 83 自由学園長・全国友の会会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。
08 1982 上代タノ じょうだい・たの 95 「世界平和アピール七人委員会」のメンバー。1956年から9年間、日本女子大学学長。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。
09 2010 井上ひさし いのうえ・ひさし 75 日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任。<投稿
10 1959 瀬戸奈々子 せと・ななこ 27 『かえらぬ鶴』(瀬戸奈々子・林田みや子、二見書房、19611012)
10 2004 小黒薫 おぐろ・かおる 90 1974~1978年、広島女学院大学長<投稿
11 2001 稲賀敬二 いなが・けいじ 73 国文学者。平安文学。1947年(昭和22年)広島高等学校文科甲類卒業。広島大学名誉教授。『明日何方ぞ迷い猫 稲賀敬二遺文集』<資料年表:稲賀敬二
11 2016 ユソフ、ペンギラン ゆそふ、ぺんぎらん 94 元南方特別留学生として広島文理科大学に在学中被爆。元ブルネイ首相。<投稿
12 2017 葉山、ペギー はやま、ぺぎー 83 歌手。祖父が広島で被爆死。1965年広島賛歌「ああ広島」を歌い、レコード化。第1回「広島平和音楽祭」に出演。
13 1980 蜂谷道彦 はちや・みちひこ 76 「ヒロシマ日記」の著者で被爆者。<投稿
14 1986 ボーボワール、シモーヌ・ド・ ぼーぼわーる 78 仏の作家。1966年10月、来広し、原爆資料館などを見学。<宇吹=京都での講演会を聞く
14 2001 勅使河原宏 てしがわら・ひろし 74 映画監督、草月流家元。<投稿>。
15 1980 サルトル、ジャン・ポール・ さるとる 仏の哲学者。1966年来広し、原爆病院など訪問。長崎も訪問。
15 19895 調来助 しらべ・らいすけ 長崎大名誉教授(被爆者)。「医師の証言・長崎原爆体験」などの著者。長崎市栄誉市民。
16 1972 川端康成 かわばた・やすなり 72 日本ペンクラブ会長[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<投稿
17 1992 秦野裕子 はたの・ひろこ 広島大学原医研事務官。職場の同僚
17 1996 藤居平一 ふじい・へいいち 80 日本被団協初代事務局長。聞き書きを作成
18 1955 アインシュタイン、アルバート あいんしゅたいん 76 理論物理学者。ユダヤ系ドイツ人。ナチスに追われて渡米。ルーズベルト大統領に原爆開発を提言。Albert Einstein
18 1961 長田新 おさだ・あらた 75 広島大学教授。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。[51広島大学平和問題研究会理事]。[日本原水協代表委員]。<「原爆の子」の父長田新
18 1971 大木正夫 おおき・まさお 69 作曲家。交響曲「ヒロシマ」。
18 1993 羽原好恵 はばら・よしえ  47 RCC勤務。研究会で面識。<投稿
18 2016 金子満広 かねこ・みつひろ 91 日本共産党書記局長、衆議院議員など歴任。
22 1981 ダフ、ペギー だふ・ 71 イギリス生まれの平和運動家。「軍縮と平和のための国際連合」(ICPP)書記長。1977年以降の原水爆禁止統一世界大会の大会宣言起草委員長を務める。
22 1985 原田勉 はらだ・つとむ 1953「酔心」旗揚げ。『なに糞経営愕』(原田勉、朝日書院、19650625)
22 2000 武谷三男 たけたに・みつお 88 理論物理学者で素粒子論の第一人者。戦時中、理化学研究所で仁科芳雄に協力し原爆開発研究に従事。<投稿予定>
23 1960 賀川豊彦 かがわ・とよひこ 72 [50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。国際平和協会会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。キリスト教社会運動家。『広島県現代文学事典』(田辺健二・記)
23 1973 阿部知二 あべ・ともじ 69 小説家。1950年?イギリスで開かれた世界ペン大会に参加、田辺耕一郎から託された被爆アルバムや資料をもとに広島の惨状を訴える。
23 2011 森井忠良 もりい・ちゅうりょう 81 『明日を創る―提言・新世紀の社会保障』(森井忠良、NTT出版、1996.6.6)。1972年、旧広島2区で旧日本社会党から衆議院議員に初当選、1996年に落選するまで7期。村山富市改造内閣で厚生大臣。社会党原爆被爆者対策特別委員長など。宇吹と同郷。
23 2012 山田浩 やまだ・ひろし 87 広島大学教授。専攻は政治史・国際関係論。<資料年表:山田浩
24 1988 広瀬ハマコ ひろせ・はまこ 83 元広島女学院理事長。<投稿
24 2017 藤居みえ ふじい・みえ 藤居平一夫人。<投稿予定>
24 2008 深川宗俊 ふかがわ・むねとし 87 歌人。本名:前畠雅俊=まえはた・まさとし)。旧三菱重工業の韓国人徴用工の指導員。三菱広島・元徴用工被爆者裁判を支援する会共同代表。<投稿
25 1951 藤野七蔵 ふじの・しちぞう 65 『藤野七蔵氏追懐録』(藤野七蔵氏追懐録編纂委員会、広島瓦斯株式会社内、1952年4月25日)<投稿
28 1960 川手健 かわて・たけし 県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。偲ぶ会に参列。『広島県現代文学事典』(小宮山道夫・記)<資料年表:川手健
28 1962 西本敦 にしもと・あつし 日本山妙法寺僧侶。日ソ協会支部事務局長。1958年原水禁世界大会で、広島-東京間の第1回平和大行進の全コースを歩く。
28 2009 粟津潔 あわづ・きよし 80 「ヒロシマ・アピールズ」ポスター第2作を制作。
30 1977 森脇幸次 もりわき・こうじ 68 中国新聞論説委員、取締役編集局長、中国地方経済連合会常務理事。<投稿

 

熊田重邦

熊田重邦

くまだ しげくに
192002生
20130129没
享年92歳

 

資料

『熊田教授退官記念事業会』(記念録、1983年3月)
『熊田重邦先生勲三等旭日中綬章受章記念祝賀会(式次第・出席者名簿)』(1994年6月24日)

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ヒロシマを”追体験”
貴重な未公開資料を収める  本年度中に刊行へ  原爆資料の”紙碑”をめざして
編集を進める広島県史編さん室
「被爆の実相を明らかにするとともに、広島県民の責務としてそれを後世に伝えるための”紙碑”をたてる」。広島県史編さん室(広島市宇品東、広島女子大内・熊田重邦室長)はこういった趣旨で、現在「広島県史・原爆資料編」の編集を進めている。あの日から26年。この間いろいろな機関、団体、個人により、さまざまな形で被爆体験の記録がまとめられている。広島県が独自に原爆に関する諸資料を集大成するのは初めて。いま編集中途ではあるが、再び同じ体験が繰り返されてはならないという願いを”紙碑”にきざみ込む作業が続けられている「原爆資料編」の編集意図や方針、それに沿って収録される資料のあらましなどをまとめた。
本文 「広島県史」全32巻の編集は43年度から10ヵ年の継続事業として始められた。3年間の資料調査・収集をおえ46年度からは本格的な編集作業にはいり、「原爆資料編」ほか1巻が本年度中に、出版第1号として刊行される。この資料編が最初に、発行されるのも、県史全体からみてその意義が大きく、重いからだろう。
今日・将来の問題
編集の意図は、被爆体験を単に過去の事実として記録にとどめるだけでなく、今日・将来にわたる問題としてとらえることにある。つまり「死者の復権を図ると同時に、今日もなお放射能障害によって生命の危機を内在させている被爆者、胎内被曝者、被爆二世など、将来に不安を残す生者の問題を鋭く社会に問いかけるものとして原爆関係資料を最大限に生かす」ことである。そして、核兵器が人類滅亡の危険性をはらんで巨大化している今日「ヒロシマを全世界に”追体験”させることにより、核兵器全廃の世論を起こすこと」を大きなテーマにしている。これらの意図を踏まえ、被爆体験を郷土の歴史-ひいては人類の歴史-の中に正しく位置づけながら、広島の”個別体験”を”人間一般の体験”にまで高める努力をし、原爆が人間に与えた悲惨さを明らかにすることによって”人間の尊厳”を考えさせるようすがとする-といった理念をこの資料編に盛り込んでいる。また「原爆資料編」の編集方針については、国内はもとより国際的にもその集成が求められていることから、被爆の実態を明らかにするため、主として未公開資料を中心に、生の資料を骨子にしている。収集された資料は相当な点数になるようだが、その中で被爆直後の実態、救護活動のもようを通して「被爆の実相」を明らかにするため、戦災の記録、調査活動の詳細な資料が特に重視される。それらを通して「被爆者の苦悩や被爆前後の状況を歴史的、科学的に正しく理解することにより、未来への展望を妨げるような”偏見”をなくする。「被爆後の物質的、精神的復興に果たした行政や団体、個人の役割の長短を見きわめて将来の指針とする」ことにしている。
軍関係の記録も
収録される資料群は、主として軍関係の調査記録と官公庁や町村の記録文書の2つに大別される。そのおもなものをあげると軍関係では8月8日、本格的な調査団として広島入りした「大本営調査団」の調査資料がある。この調査団は参謀本部の有末中将らの一行で、目的は使用爆弾が何かを究明することだった。そして同行した理化学研究所の仁科芳雄博士が「原子爆弾」であることをつきとめ、報告している。「陸軍省広島災害調査班」の資料は、陸軍軍医学校、臨時東京第一陸軍病院から大本営調査団と同時に広島へ派遣された軍医による医学的調査を内容としたものである。この2つの資料は、最悪の状態の中で軍当局がどのような調査を行い、非常事態に対処したかがうかがえる記録で、当時はいずれも”極秘”の資料であった。のちに一部は断片的に発表されたり、資料として引用されているが、系統だって総合的に資料化されるのは初めて-という。またこのほかに呉鎮守府関係の諸調査資料が多数含まれている。
混乱の状況克明に
次に県や市町村関係の資料では、まず広島県の「戦災記録」がある。これはすでに新修広島市史や続広島原爆医療史にも収録されてはいるものの、当時広島県行政の動きを知る上で貴重な資料であり、被爆直後の処置、救護活動、調査などの公式記録として取り上げられる。町村役場関係の文書では佐伯郡廿日市町宮内・地御前、安佐郡佐東町八木・川内、安芸郡坂町など主として広島市周辺の町役場にあった被災者調査資料がある。坂や八木、宮内などの諸資料は、県史の資料所在調査中に発見されたものが多数あり、資料としても価値の高いものである。特に「宮内村日誌」などは被爆直後の混乱した状況を克明に記載しており、救護活動の実態がかなり具体的に知られる。また、広島市草津本町で発見された国民義勇隊の記録も救護所の動きや義勇隊の救護状況を知る資料として貴重なものとされている。このように「原爆資料編」の編集は、これまで埋もれていた多くの資料をも発掘してきた。「町村役場の資料がいかに無視されてきたかがわかる」と関係者がいうように”埋蔵資料”をもう一度総点検する必要があり、そういった資料を被爆実態の究明に役立てるよう県全体として取り組むべきだ-という指摘もある。
人間の尊重ふまえて
このほか広島地方気象台の8月6日付け「気象日誌」や「津田町日記」など公的な日記、日誌類や調査団の記録としては、東大をはじめ当時広島へ調査団を出した各大学関係の公・私的な資料も収録の予定である。「原爆資料編」の全般について熊田重邦室長は「8月6日の時点で、広島市や周辺町村ではどうなっていたか、生の記録をもとにして”被爆の実相”を明らかにすることであり、人間の尊厳-人間の尊重という理念をふまえて、あくまでも科学的に資料をとらえること。広島市民としてはもちろんだが、もっと広島県民という広い観点で資料を集成していきたい」と話している。いずれにしても、1,000ページ余りの資料編では、収録される資料に限界のあることはやむをえない。だが、集成される資料の1つ1つに重い意味があり、さらに資料の紙背にある”文字なき記録”は多くの被爆の実態について語りかけてくれるだろう。

あ

被爆体験の風化をくいとめるために、被爆の実相を明らかにする資料集成が進められている(広島県史編さん室で)

『中国新聞』1971年8月2日

****************

熊田重邦(広島県立文書館長)「地方公文書館の業務―広島県立文書館の場合」(出典:『北の丸―国立公文書報第24号』1992年3月)

熊田重邦(広島県立文書館長)「情報化社会における文書館の課題―広島県立文書における公文書管理を中心として」(出典:『北の丸―国立公文書報第24号』1992年3月)

 

田原伯

田原 伯 たはら

つかさ

原爆文献研究家。終戦時に朝鮮半島から引き揚げる際、傷ついた被爆者や広島の廃虚を目撃したのが活動の原点に。1968年、今堀誠二広島大教授(当時)らと原爆被災資料広島研究会を結成し、原爆文学や被爆体験記、占領期文献などを網羅した「原爆被災資料総目録」第1~4集を発行。(『中国新聞』)
  生

 

20170510没

84歳

資料

1985 04  01 宇吹暁「蔵書あれこれ」『河図洛書―渓水社10周年記念』(渓水社、1985年4月1日)pp.140-143
原爆問題についての私の師の一人であるT(田原)氏との出会いは、広島市内のあるガレージであった。そこには、T氏の管理する原爆関係の本が持ち込まれていた。私は学生時代から平和、原爆問題に関心を持っていた。広島県の歴史の中でも重要なテーマと思い、その関連の本について、卒業後も気をつけていた。しかし、T氏の本の大半は、初めて目にするものであった。その後、T氏は、しばしば「蔵書を前の議論」の機会をつくってくれた。それは、私が、学生時代以来、久しく忘れていたものであった。私の原爆文献漁りが、T氏との出会いを契機に始まった。
2017 05 12 「田原伯氏死去 原爆文献を調査」『中国新聞』2017.5.12
2017 05 18 「悼記 綿密調査 非条理を告発 原爆文献研究家 田原伯さん 10日、84歳で死去」

「9年前に脳出血で倒れ、リハビリを続けたが、第5集の発行という執念は果たせなかった。「お疲れさま」と声を掛けたくなる。ただ、あの圧倒的な仕事ぶりに一度でも触れると、「後は任せて」とたやすく口にできない自分がもどかしい。原爆犠牲者の無念をしっかり継承できているのかどうか。核兵器が廃絶できない人類全体に対し、幻さんが残した宿題は重い。」(編集局長・江種則貴)『中国新聞』2017.5.18

わが昭和史(松前重義)

『わが昭和史』(松前重義、朝日新聞社、19870330)

内容

1 死線を越えて
懲罰召集にかけられる/高指令部付の二等兵に/祖国に生還/反東上運動に奔走/大政/翼賛会に飛び込む/技術者運動の先頭に立つ/ヒロシマ原爆の投下
2 青春の日々
3 柔道一代
4 教育への挑戦
5 政治と理念
6 民間外交20年
あとがき
松前重義年譜

シナリオ・生きていてよかった[抄](1956年5月)

シナリオ・生きていてよかった

脚本・監督 亀井文夫

製作   原水爆禁止日本協議会・日本ドキュメントフィルム社

広島、長崎の原爆症患者の生活を捉えた真実の記録映画がはじめてつくられた。この姿を世界中に訴えて!とケロイドの娘さんも自らすすんでカメラの前に立った。これはそのシナリオを亀井監督が本誌のために特に書き改めたものである。

第1部 死ぬことは苦しい[撮影場所のみ摘記]

・(広島日赤病院)

・(長崎医大の付属病院)

・(広島日赤病院の廊下)

・(広島・比治山下のあるバラック)

第2部 死ぬことは苦しい だが 生きることも苦しい

・(ある家の室内)

・(広島の繁華な街)

・(梅の花が咲いている山村)

・(日赤病院の一室)

・(長崎医大の付属病院の一室)

・(諫早から長崎へ通うバス道路)

・(広島・五日市にある戦災孤児育成所)

第3部 死ぬことは苦しい だが、生きることも苦しい でも、生きていてよかった

・(日本座敷)

・(広島市・宇品町にある明成園)

・(ある家庭の庭先)

・(長崎、路地の奥の家)

・(長崎の道路工事)

・(丘陵へつづくなだらかな坂道)

・(長崎の原爆記念館の陳列棚)

・(再び浦上の美しい道)

出典:『婦人公論』1956年5月号

 

都築正男「原子爆弾災害調査研究班に就て」(1952年9月)

都築正男「原子爆弾災害調査研究班に就て」

今般、科学研究費交付金総合研究計画に基いて、新に『原子爆弾災害調査研究班』が設けられることとなり、過日、研究班の編成を終わり愈々その作業を始めることになった。就ては、その発足に当り、新研究班が設けられるに至った動機と経緯とを述べ且つ研究班運営の方針を考察し、以て関係各位の御参考に供したい。

昭和20年8月上旬広島市及び長崎市に落とされた原子爆弾によって発生した災害に就いては、当時設けられた文部省学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会に於て詳しい調査研究が行われ、我邦学界の総力を挙げて、その真相を明らかにすべく努力せられたのであった。特別委員会の仕事は前後3ケ年に亘って継続せられ、その間、アメリカ側から派遣せられた原子爆弾調査団とも協力し、理学、生物学、工学、医学、農学等の領域に亘って、広汎研究が行われ、多くの報告が出来上がった。

そこで、原子爆弾災害調査研究特別委員会は、その後、調査研究報告を発表し且つ刊行しようとしたが、色々な事情で、ことが円滑に進行せず且つ刊行費の調達に就いても困難があり、ために延々となっていたことは遺憾なことであった。ところが、その後新しく発足した日本学術会議はこの刊行事業を学術研究会議から引継ぎ、幸にして、刊行費の調達に就いても見透しがついたので、昭和26年8月先づ『総括篇』として概要を記した部分を刊行し、次で『各論篇』として報告書全部を刊行し得る配となったのであって、各論篇は昭和27年秋頃発刊の予定である。

原子爆弾災害に関する総合的の調査研究は前述のように、約3ケ年に亘る特別委員会の作業によって大略終了し、昭和23年以後は特に興味を持つ研究者が夫々の立場から、原子爆弾災害そのもの、或いはそれと直接間接に関連のある事項に就いて、個別的に調査研究をせられていたばかりであったので、纏った報告として発表せられたものは多くない。

一方アメリカ側は昭和22年6月原子爆弾の災害に就て、主として医学的の立場から長期に亘る調査研究を行うことを計画し、日本側としては予防衛生研究所がその世話をすることとなり、昭和23年2月以来準備を始め、昭和24年2月広島市に原子爆弾影響研究所(Atomic Bomb Casualty Commission, Laboratory-略名ABCC)を新設し、次で長崎市にも研究分室を設けて調査研究を開始した。

爾来、広島及び長崎に於けるABCC研究所の職員は熱心に調査研究せられて、夫々成績を挙げておられるようではあるが、もともと、原子爆弾の被爆者を主な対象としての仕事であるために、色々と困難な事情があり且つ研究所の行き方が純アメリカ式であるために、被検者との間に意志の疎通を欠き或は誤解を生ずる等のことも起ったようであった。しかし、時と共に互の理解も出来又互の気持もわかって来て、作業は大体に於て計画通り円満に進んでいるようである。それだけに、他面、仕事の面で或る程度の偏位を余儀なくされている点があるのではなかろうか。他国に於けるこの種の文化事業が甚だ困難なことであることは云うまでもない。ABCC研究所の前所長 Dr.Tessmer もその点に就ては色々と考慮せられていたが、現所長 Dr.Taylor は特にこの点に就ては多大の関心を持ち、熱心にことに当たっていられるようである。

日本側としては、原子爆弾災害に関する医学的調査研究は前述のように、昭和22年度で一先ずその総合的研究を終了したのであったが、その後、広島及び長崎を初めとし、その他の地区に於ても、原子爆弾の被爆者間に色々の後遺症が残されていることが注意せられるようになり、その内でも、既に注目せられているものとしては、貧血症、白血病、白内障等を挙げることが出来よう。又関係医家の間では、被爆生存者が時々異常な病像を示すことがあることが認められ、或は次のような機転によるのではないかとも考えられ始めている。即ち、強力な放射能による傷害の結果として、生存者にも、色々の内臓の障碍が残されており、平素は特別の故障はないにしても、何等か異常の状況が起って病的現象の発現を見る場合には、それ等内臓の機能障碍が、これに関連して、特殊な病像を示すのではなかろうかとの考え方である。

原子爆弾被爆生存者はその大部分が現在も猶広島及び長崎地区に居住しているが、昭和25年10月の国勢調査の結果から判断しても、意外に多くの人々が、日本内各地に転住して、ちらばっているようである。

従って、それ等の人々に就て適切な健康管理を行うことは我邦医学徒の責務であらねばならない。

昭和23年以来、一時下火になっていた我邦における原子爆弾災害の調査研究熱が、そのような関係から、最近、再び盛んとなり、それ等と関連する熱、光、放射能等による傷害に関する研究と共に、各学会等に発表せられるものが漸くその数を増して来たようである。特に、この方面には密接な関係を持つ病理学会、血液病学会、放射線医学会等に於ては、夫々の立場から放射線傷害対策委員会を設けて総合研究を始めるに至った。

そこで、昭和26年暮頃から、有志の間で、この際再び原子爆弾災害調査研究の統合機関を設けてはとの話合が進められていた。ところが昭和27年1月26日広島ABCC研究所々長 Dr.Taylor 初め主要研究員の方々が東京に来られ、日本学術会議の肝入で、ABCCの事業の紹介並に業績発表の講演会が開かれ、同時にABCC及び予防衛生研究所関係の方々と、日本学術会議関係者との懇談も行われた。その結果、統合研究機関設立の議が急に具体化し、塩田広重博士を代表者として原子爆弾災害調査研究班が組織せられることとなったのである。

今般設立を見た原子爆弾災害調査研究班は上述のような事情で生れ出でたものであるから、その発足に当っては、特に次の諸点に就て、特別の考慮が払われなければならない。

1.本研究班の研究項目は純学問的の点だけでなく、あらゆる面で、国際的の性質を帯びていること。

2.アメリカ側の研究所が広島市及び長崎市で研究所を設け、充実した陣容で、すでに3ケ年余研究に従事しており、その初めから、日本側としては予防衛生研究所がその世話係をしていること。

3.広島市及びその付近では、広島医科大学及び日本赤十字社広島支部病院、広島県立病院、広島逓信病院等が従来からの関係で引続いて研究していること。

4.長崎市及びその付近では長崎大学医学部が従来の関係から引続いて研究をしていること。

5.病理学会、血液病学会及び放射線医学会では何れも放射線傷害対策委員会を設けて、夫々の立場から研究が始められたこと。

従って、原子爆弾災害調査研究班はその運営にあたって、特に次の諸点を強調すべきものと思う。

1.本研究班は今後我邦学会独自の立場で運営せられるべきこと。

2.本研究班は今後我邦に於ける原子爆弾災害調査研究の権威ある機関として存在し、既存研究団体間の統合連絡機関として活動するように運営せらるべきこと。

3.本研究班は予防衛生研究所を通じ、アメリカABCC研究所とは常に密接な連絡をとり、相互に協力し得るように運営せらるべきこと。

本研究班の編成にあたっては、上述の事情が考慮され、研究事項に関しては、権威ある独自の研究が十分に行われ得ると共に、各方面との円滑な連絡、相互の協力が支障なく達成し得られるように注意されて、別紙のような研究員の構成によって編成せられたのである。

本研究班の研究項目は最もその重要性が認められている医学部門に於けるものから着手するよう計画されており、第一年度(昭和27年度)に於ける研究計画項目は次の通りに定められた。

1.原子爆弾災害に関する未完結調査及び研究の継続

2.被爆者後遺症に関する調査研究

3.被爆者屍体の病理学的研究

4.原子爆弾災害に関連する基礎的研究

第二年度(昭和28年度)以降に於ては、次の方針で運営せられることとなる予定である。

1.第1年度の研究を継続し且つ増強する。

2.本研究を更に生物学的分野に拡大する。

3.研究成果の出版計画。

[以下略]

山下義信

義信
189403生

(明治27)

 

19890730

(昭和64)

広島戦災児育成所の創始者。呉市出身、浄土真宗本願寺派の特任布教使などを経て従軍。復員後、1945年12月、原爆孤児たちを養育する「広島戦災児育成所」を広島県佐伯郡五日市町に創設。53年1月、広島市に移管するまで171人の孤児を育てる。47年、社会党から参議院議員(広島地方区)に当選、59年まで2期務め、原爆医療法制定に尽力(『中国新聞』)

日記・日誌・資料より[敬称略]

1981 11 06 山下義信宅訪問。[『宇吹』という名前に関心。「うすい」という名前の友人が一中時代にいたが親戚かとの問い。内容についての話は無かったが、下記の資料(紙1枚)をプレゼントされる。]
山下
1989 08 05 「ひと きのう きょう 流れ雲 山下義信さん(7月30日没 95歳) 原爆孤児に「家庭」作る」(渡辺雅隆)『朝日新聞(夕刊)』1989年8月5日
1995 06 24 RCCテレビ『補償なき半世紀』(午後3時半-)のビデオを見る。山下義信の所蔵資料が目玉。援護法の当初案に原子力開発にともなう被曝者の救済策が入っていたことを初めて知る。藤居・宮田千秋も出演。「戦時災害保護法」の事実経緯に誤りがあった。
1995 12 02 原田東岷インタビュー=医療法については山下義信と灘尾弘吉が熱心に世話をしてくれた。任都栗を含め、われわれは、政治家を利用もしたが、偽手帳問題など、その悪影響もあった。本当に困っている人は仕方がないとして、法に安易にすがる姿勢には疑問を持つ。
1996 03 23 Sの話=山下義信は、戦災孤児収容所についての詳しい資料を持っている。しかし、実名入りなので公開していない。2017
2017 04 25 <『広島戦災児育成所と山下義信』新田光子、法蔵館、2017.3.21>を昭和図書館で借り出し、読了。

山下義信

資料1 天皇陛下巡幸に関する質問主意書

http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/001/syuh/s001111.htm

質問主意書
(質問第百十一号)昭和二十二年十一月六日配付
天皇陛下巡幸に関する質問主意書
右の質問主意書を国会法第七十四条によつて提出する。
昭和二十二年十一月四日
山下 義信
参議院議長 松平 恒雄 殿
天皇陛下巡幸に関する質問主意書
陛下には引続いて全国を巡幸遊ばされ、戦災者を中心に、親しく慰問激励のお言葉をたまわり、経済再建の思召から生産現場などにも臨ませられ、国民も心から感激して御歓迎に熱狂する有様は、誠に感銘に堪えないところであるが、この際次の諸点を質問して政府の善処を要望するものである。
一 天皇陛下巡幸に関する宮内府の処置については挙げて政府の責任と思うが如何。
二 地元地方公共団体長或は宮内府行幸事務関係者などのはからいにて、行幸巡路、お立寄地点などを決定する模様であるが、種々物議を醸し、非難を招き、請託、懇請激烈をきわめ、甚しきに至つては下検分に際して歓待を要するとの風評もある。政府はこれらの弊害なきよう訓告を出していると信ずるも、断乎しゆく正を励行せねばならぬ。巡幸プログラム等の決定については、政府は十分監督しているや否や。又これが所管は何大臣とするものか。
三 近く十一月下旬から中国地方巡幸の御予定と聞くが、その中には広島市も訪わせ給うと承る。同市はいうまでもなく原爆の廃墟都市にして、この地に天皇ののぞませられるは内外の感無量とするところである。
さればその巡幸予定のごとき真に御仁慈に相応わしきよう慎重に吟味されねばならないと思うが政府の所見は如何。
四 然るに聞くところによれば現在においては、同市は二時間余にて通過される程度に止まるとのことである。いわゆる素通りの程度に計画されてあるということは、実に心なきわざと遺憾に堪えざるものである。
政府はかかる巡幸計画を至当と考えるか如何。
世紀の歴史的都市を訪い給うことは、ただに一地方の問題ではないと思う。日本天皇と原爆その地の御行動とは世界の注視するところとなろう。希くは平和日本の象徴であらせたまう天皇として最も厳粛なる歴史的行幸であらせらるるよう政府の中枢部においても深甚なる考慮と関心とを払われんことを希求して止まない。
本員は政府の賢明なる答弁を期待するものである。

 

第1回国会(特別会)
答弁書
(答弁書第百十一号)昭和二十二年十一月十八日配付
内閣参甲第一二四号
昭和二十二年十一月十四日
内閣総理大臣 片山 哲
参議院議長 松平 恒雄 殿
参議院議員山下義信君提出天皇陛下巡幸に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。
参議院議員山下義信君提出天皇陛下巡幸に関する質問に対する答弁書
一、宮内府は、内閣総理大臣の所轄であるから、宮内府の処置については政府は責任を負う。
二、行幸巡路、お立寄地点の決定については、当該都道府県の原案にもとずいて宮内府において全般の計画を見合つて案を作成する。
風評の如きは全然事実無限であると信ずるが、今後も斯かることのないように充分注意する。
三、四、広島御巡幸については、目下案を作成中であつて決定していない。

 

藤居平一

 

ふじい へいいち 19150807生 19960417没

 

 略歴
広島市民生委員連盟理事
広島市社会福祉協議会理事
1954.09 原水爆禁止運動広島協議会常任委員
1955.05 原水爆禁止世界大会広島準備会財政副委員長
1955.09 原水爆禁止日本協議会常任理事
1955.11 原水爆禁止広島協議会事務局次長
1955.11 原水爆禁止広島協議会原爆被害者救援委員会幹事長
1956.02 広島県原爆被害者大会実行委員会事務局長
1956.05 広島県原爆被害者団体協議会代表委員・事務局長
1956.05 全国社会福祉協議会原爆被害者救援特別小委員会代表
1956.08 日本原水爆被害者団体協議会事務局長

 

原爆被害問題研究の恩師

 「先生は、原水爆禁止運動について、どう思われますか」、「忘れた」。「先生は、第1回原水爆禁止世界大会の中で重要な役割を果たされています。何か思い出されることは、ありませんか」、「忘れた」。1995年12月のある日、原爆医療法制定当時に広島市の医師会の幹部だったドクターのお宅で、数回繰り返されたQ&Aです。それまで、「原爆医療法の成立」(広島大学テレビ公開講座用の1テーマ)過程について、打ち解けてお話してくださっていたドクターの顔が、突然無表情になりました。私のシナリオでは、原水禁運動が原爆医療法成立に果たした積極的な役割(藤居さんから学んだことです)が予定されています。カメラは回り続けています。窮地に立った私は、「藤居さんをご存知ですか」と話題を変えてみました。ドクターの表情が緩みました。「良く知っている。快男児だった」。会話がつながりました。シナリオどおりにはなりませんでしたが、インタビューを無事終えることができました。

私自身が藤居さんに初めてお会いした(熊田重邦先生の紹介)のは、1980年(昭和55)4月26日のことです。しかし、その3年前の1977年に「藤居資料」に出会っています。それは、広島大学法学部の北西允研究室の2箱の段ボールの中にありました。当時、私は、日本人の核意識をテーマとする文部省の研究班(庄野直美班長)の仕事で同研究室に出入りしていました。この研究が一段落ついた7月、北西教授は、私に、この資料を生かして欲しいと託されました。聞けば、それは、石井金一郎教授が日本の原水爆禁止運動の歴史をまとめるために藤居さんから借用したもので、石井教授の死(1967年)後、同教授が預かっていたとのことでした。

私は、大学卒業後約6年間、広島県史編さん室に勤務し、今堀誠二・熊田の両先生の指導の下で、『広島県史・原爆資料編』編纂業務に従事しており、原爆問題に関する資料は、かなりのものに目を通していたつもりでいました。しかし、「藤居資料」(簿冊13冊、一点資料も含めた総点数は429点)のほとんどは、初めて目にするものでした。学生時代、数人の先輩から、歴史研究を志すものにはいつか自分の研究を方向づける資料との運命的な出会いが訪れると聞かされていました。「藤居資料」と出会った私は、とっさに「これだ!」と思いました。早速、勤務先の原爆放射能医学研究所で、整理に取りかかり、8月末には目録を作成しました。この経緯を熊田先生に伝えたところから、資料の主であった藤居さんとの出会いが実現したわけです。

それから15年の間の私の原爆被害問題研究の歩みは、藤居さんとともにありました。翌年から始まった藤居さんへの聞き取りは、1984年まで続きました。その録音テープは、120分テープで60本に及んでいます。その成果は、広島大学原爆被災学術資料センター資料調査室発行の『資料調査通信』に「まどうてくれ-藤居平一聞書」として8回(第5号1981年12月号から第29号1984年1月号)にわたり、まとめさせていただきました。

この作業の中で、藤居さんは、原爆被爆者運動草創期に活躍された多くの人々に紹介してくださいました。中でも忘れられないのは、原水爆禁止日本協議会が製作した映画「生きていてよかった」の関係者との出会いです。1982年3月には、草月流の勅使河原宏家元(この映画の助監督)が出席された同派の広島支部の会合に、原爆乙女の会の会員だった人たちと一緒に参加させていただきました。また、同年7月には、藤居さんの発案で、映画に出演された主だった方々を招いて、広島市の平和記念館で同映画の上映会を開催しました。関係者の招待に奔走されたのは竹内武さんでしたが、私も映写技師として裏方を勤めさせていただきました。

竹内さんから日本原水爆被害者団体協議会の初期資料である「平和会館資料」を借用したのは、この上映会から5日後のことでした。この資料との格闘は、1985年6月まで続きました。この間に整理した資料(1963年の原水爆禁止運動分裂までのもの)は、単行本・パンフレット・逐次刊行物合わせて901点4373冊、文書綴・ノート類は55冊3897点、一点資料1287点に及ぶものでした。

1995年10月26日夜、藤居さんから自宅に電話がありました。日赤病院からとのことで、7月下旬に広島で開催されたパグウォッシュ会議のことや、広島大学原医研に新たに導入された機器のことを話されました。しかし、突然、すごい剣幕で怒鳴られたかと思うと、電話が切れてしまいました。病室の電話の接続にトラブルが生じたものと思い、再び電話がかかるのを待っていましたが、かかっては来ませんでした。そして、これが、私が聞いた藤居さんの最後の声となりました。「藤居平一聞書」のために録音テープを取り始めたのは日赤病院の病室でした。そして、最後の声も同病院内からのもの。私には、入院生活の合間に藤居さんからお話を伺っていたような印象があります。今では、翌朝すぐにお見舞いにゆくべきだったと悔やんでいますが、その時は、死につながる病とは思ってもいませんでした。

藤居さんの原爆被害に対する関心は、この15年間に、大きく変りました。「まどうてくれ」の作業に応じてくださった気持ちを、「紙の碑を残したい」と語られていました。いわば関心は、「過去」あったわけです。ところが、その後、関心が「現在・未来」へ移りました。時期的には、1990年前後と記憶しています。この頃から藤居さんは、私にしばしば原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申に対する批判や原爆被害を調査・研究する「医者・科学者グループ」の組織化への協力を要請されました。しかし、私には、荷が重すぎて積極的な回答ができません。その度に励ましとお叱りを受けました。藤居銘木に残された資料を1996年7月30日に頂いて帰りましたが、同社の高瀬さんが丁寧に準備されたその資料からは、お亡くなりになる直前まで、藤居さんがこれらの問題と取り組まれていた様子が伝わってきました。

藤居さんは、私に多くの宿題を残して逝かれました。「庶民の歴史を世界史にする」、これは藤居さんから私が聞いた好きな言葉の一つです。過去10年間、私は原爆手記の収集と分析を行ってきましたが、この作業を私は藤居さんへのレポートと考えています。

1996年5月のある夜、私は広島駅前の飲み屋で、二人の先生と同席していました。広島在住のA先生が、友人であるB先生(日本の平和運動のリーダーの一人)に、原水爆禁止運動に関心を持つ私を引き合わしてくださったのです。何から話してよいか迷った私は、「藤居さんをご存知ですか」と聞いてみました。即座に出た答は、「日本被団協を作った人でしょ」でした。1955年当時、B先生にとって藤居さんは雲の上の存在だったそうです。しかし、しばしば原水爆禁止運動関係の会合でお目にかかったことがあるとのことでした。初対面の会話が、これを機にはずんだことは言うまでもありません。

同じ年の7月、私は、信濃毎日新聞社に1956年当時の長野県内の被爆者組織について問い合わせの電話を入れました。「藤居資料」では、日本被団協は、広島・長崎・愛媛・長野の4県の被爆者組織で出発したことになっています。しかし、藤居さんは、長野の組織の状況をご存知なかったのです。同社からは、オリンピック関連の取材で手一杯であるが、あなたが長野に調査に来れば、そのこと自体を記事にすることができる、それによって当時の状況を知る手がかりが得られるのでは、との親切な回答をいただきました。

私は、藤居さんの「現在・未来」の課題にはお役に立つことができませんでした。しかし、私の「過去」との取り組みは、これからも藤居さんととともに続きます。