原爆参考資料陳列室(原爆記念館)
開設:1949(昭和24)年9月25日
| 広島市、市内中央公民館内に暫定的に 原爆参考資料陳列室(原爆記念館)を開設。 長岡省吾が中心となり収集した 被爆岩石・瓦・コンクリート・植物類などを 机や椅子の上に並べた。 |
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| 写真:中央公民館横に開設された原爆資料館。 出典:「広島市勢要覧」1951年版 |
参考資料
文沢隆一「平和記念資料館物語」(『季刊平和教育1』、明治図書、1976.5.15)
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。
| 広島市、市内中央公民館内に暫定的に 原爆参考資料陳列室(原爆記念館)を開設。 長岡省吾が中心となり収集した 被爆岩石・瓦・コンクリート・植物類などを 机や椅子の上に並べた。 |
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| 写真:中央公民館横に開設された原爆資料館。 出典:「広島市勢要覧」1951年版 |
参考資料
文沢隆一「平和記念資料館物語」(『季刊平和教育1』、明治図書、1976.5.15)
9月に亡くなった人々
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | |
| 01 | 2002 | 林重男 | はやし・しげお | 84 | 写真家。文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に参加、広島と長崎を撮影。<資料年表:林重男> |
| 02 | 1994 | 門秀一 | かど・しゅういち | 79 | 核禁広島県民会議初代議長。広島大学名誉教授。西洋倫理哲学専攻。<資料年表:門秀一> |
| 02 | 1999 | 尾津訓三 | おづ・くんぞう | 65 | 劇作家。広島で被爆。「追記 だれよりも願った地域演劇の復興」(『中国新聞19991102』田原直樹・記)<資料年表:尾津訓三> |
| 02 | 2017 | 土山秀夫 | つちやま・ひでお | 92 | 元長崎大学長。2009年2月28日に面識。<16時半~、広島(代表:難波健治)・長崎(代表:峠憲治)の報道関係者の交流会。会場:長崎新聞社。19時~懇親会。>宇吹の質問および意見<平和教育、平和行政、市民運動、医学者の動向、IPPNW、パグウォッシュ会議>に丁寧な応答。 |
| 03 | 2018 | オマール、サイド | さいど・おまーる | 19 | マラヤ(現マレーシア)の王族。 南方特別留学生。興南寮(広島市大手町)で被爆。<資料年表:サイド・オマール>51.pdf (hiroshima-u.ac.jp) |
| 04 | 1965 | シュバイツァー、アルベルト・ | 90 | 1952年度のノーベル平和賞受賞。 | |
| 1962年6月30日、赤道直下のランバレネの病院で森瀧市郎氏の訪問を受ける。出典:http://www.ne.jp/asahi/nozaki/peace/data/gen_moritaki.html 森瀧宅で、当時のアルバムを前にこの時の話を聞く(宇吹) | |||||
| 04 | 2009 | 大山広司 | おおやま・ひろし | 91 | 元広島県議会議長、元全国都道府県議会議長会会長。『広島県議の半世紀 : 五人の知事に相まみえて : 大原博夫氏・永野巌雄氏・宮澤弘氏・竹下虎之助氏・藤田雄山氏』(大山広司・述、大平泰・記、溪水社、2005)1918生 |
| 05 | 1998 | 堀田善衛 | ほった・よしえ | 80 | 小説家。『広島県現代文学事典』(山根繁樹・記)<資料年表:堀田善衛> |
| 06 | 1998 | 黒沢明 | くろさわ・あきら | 88 | 映画監督。「生きものの記録」・「八月の狂詩曲」で核問題を取り上げる。 |
| 07 | 2020 | 岩佐幹三 | いわさ・みきそう | 91 | 修道中学在学中、被爆。1953年金沢大学教官となり同大名誉教授。1960年「石川県原爆被災者友の会」を設立。日本被団協事務局次長(2000年)・同会代表委員(2011年)<資料年表:岩佐幹三> |
| 08 | 1981 | 湯川秀樹 | ゆかわひでき | 74 | 1949年日本人として初のノーベル物理学賞受賞。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。「世界平和アピール七人委員会」メンバーとして平和運動にも尽力。[70ヒロシマ会議]<資料年表:湯川秀樹> |
| 10 | 2014 | 坂井義則 | さかい・よしのり | 69 | 1945年(昭和20年)8月6日広島原爆被爆直後に広島県三次市で誕生。父は被爆者。1964年東京オリンピックの開会式で聖火リレーの最終ランナー。 |
| 11 | 2019 | 粟屋憲太郎 | あわや・けんたろう | 75 | 日本近現代史研究者。著書に『東京裁判への道』など。1944年 6月11日生<資料年表:粟屋憲太郎> |
| 14 | 2010 | 大道あや | だいどう・あや | 101 | 絵本作家。本名:大道アヤコ。丸木スマ母、丸木位里は兄。19090411誕生。 |
| 15 | 1990 | 土門拳 | どもん・けん | 80 | 写真家。1958年に被爆者を写した写真集「ヒロシマ」を発表。『広島県現代文学事典』(20101220)<田中裕之・記><資料年表:土門拳> |
| 15 | 2010 | 秋信利彦 | あきのぶ・としひこ | 75 | 放送ジャーナリスト。中国放送(RCC)ディレクター・記者・常務取締役歴任。きのこ会。1935生。<資料年表:秋信利彦> |
| 18 | 2011 | 小野増平 | おの・ますへい | 64 | 中国新聞社入社(1970年4月)、ニューヨーク支局長(1990年8月)・東京支社長(2002年2月)・編集局長(2005年)、広島経済大学メディアビジネス学科教授 (2007年9月)を歴任。(広島大学文書館<解題:小野増平関係文書目録>) |
| 19 | 2002 | 好村冨士彦 | こうむら・ふじひこ | 71 | 広島文学資料保全の会代表。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)『考えるとは乗り越えることである―好村冨士彦遺稿・追悼集』2003<資料年表:好村冨士彦> |
| 20 | 1976 | 升川貴志栄 | ますかわ・きしえ | 78 | 原水爆禁止広島母の会会長。<資料年表:升川貴志栄> |
| 20 | 1981 | 竹下健児 | たけした・けんじ | 55 | 放射線物理学者。1945年学徒動員先の長崎で被爆。1965年広島大学原医研教授。 |
| 20 | 2009 | 大江志乃夫 | おおえ・しのぶ | 81 | 日本現代史家。 |
| 21 | 2011 | 辺見じゅん | へんみ・じゅん | 72 | 広島女学院創立120周年記念2006年度企業懇談会・講演会(会場:リーガロイヤルホテル)講演会:辺見じゅん「生きるための自分力」。並んで挨拶。宇吹:大和ブーム批判に取り組んでいることを伝えると自著『女たちの大和』(ハルキ文庫、2005年)を挙げて切り返えされる。 |
| 21 | 2017 | 森本順子 | もりもと・じゅんこ | 85 | オーストラリア在住の絵本作家。広島女学院高女在学中に被爆。 |
| 22 | 2010 | 橘祐典 | たちばな・ゆうてん | 77 | 本名:橘裕彦(ひろひこ)。映画監督。原爆記録映画「にんげんをかえせ」など。 |
| 23 | 1954 | 久保山愛吉 | くぼやま・あいきち | 40 | 第5福龍丸無線長。1954年3月1日にアメリカが南太平洋ビキニ環礁で実施した水爆実験で被曝。<資料年表:久保山愛吉> |
| 24 | 2015 | 福島菊次郎 | ふくしま・きくじろう | 94 | 写真家。<資料年表:福島菊次郎> |
| 27 | 1970 | 木野 普見雄 | きの・ふみお | 62 | 作曲家。1945年8月9日、長崎市役所に出勤中原爆に被爆。<資料年表:木野 普見雄> |
| 27 | 1983 | バーチェット、ウィルフレッド・ | 72 | ジャーナリスト。広島の被爆のもようを世界に最初に報道。<資料年表:バーチェット> | |
| 27 | 2019 | 布川弘 | ぬのかわ・ひろし | 61 | 広島大学大学院総合科学研究科教授。広島市被爆70年史編集研究会で同席。 |
| 28 | 1986 | 谷本清 | たにもと・きよし | 77 | 日本基督教団広島流川教会牧師。教会で面談。 |
| [50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆乙女の米での手術実現などに尽力。86アキバ・プロジェクト」で来日した米記者、被爆牧師死去の記事(60行余)を掲載。AP通信を通じて米の各メディアに配信。[69原爆被災資料広島研究会]。『広島県現代文学事典』<田中裕之・記>19090627生。<資料年表:谷本清> | |||||
| 28 | 1991 | 中本 たか子 | なかもと・ たかこ | 87 | 小説家。1927年上京、『女人芸術』誌に参加。1941年蔵原惟人と結婚。<資料年表:中本 たか子> |
| 28 | 1991 | 佐久間澄 | さくま・きよし | 80 | 広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆。お宅で面談、資料を閲覧。<資料年表:佐久間澄> |
| 28 | 2023 | 小河原正己 | おがはら・まさみ | 83 | 1940年山梨県生まれ。NHKプロデューサー。<資料年表:小河原正己> |
| 佐久間澄
|
さくま・きよし | 19910928生19910928没 | 享年80 |
| 広島大学名誉教授。広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆し、原水禁運動に貢献。広島大学。お宅で面談、資料を閲覧 | |||
資料
| 死亡記事 | 1991年9月29日付、中国・朝日・読売・長崎・赤旗 |
| 追悼文 | 庄野直美(広島女学院大学名誉教授)「佐久間澄氏を悼む 核兵器廃絶に尽力」(掲載新聞不明) |
佐久間澄さんをしのぶ会
| 日時 | 1992年12月26日 | |
| 会場 | 広島国際会議場・ダリア(広島平和公園内) | |
| 資料 | 会への案内(呼びかけ人:) | |
| 式次第 | ||
| 遺族礼状 | ||
| 宇吹宛佐久間書簡(8月26日付) | ||
| 報道 | 不明紙、赤旗 | |
1946年8月~1965年3月(誕生から高校時代)
| 本籍 | 広島県呉市 | ||||
| 小学校 | 呉市立吉浦小学校 | ||||
| 中学校 | 呉市立吉浦中学校 | ||||
| 高等学校 | 修道高等学校 | ||||
森滝市郎
| もりたき・いちろう | 19010428生 19940125没 |
享年92歳 | [51広島大学平和問題研究会会長理事(文)]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。広島県君田村生まれ。京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。[70ヒロシマ会議]。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。 |
「庄野直美」論
| 庄野直美 | しょうの・なおみ | 1925年生
2012年2月18日没 |
Naomi SHONO |
庄野直美先生は、私のヒロシマ研究の先輩である。とりわけ、私が広島県史編さん室・広島大学に勤務した時期にはお世話になった。彼の足跡をたどりつつ、私にとっての「庄野直美」を振り返ってみた(文中で、名前を掲げる人々の敬称を省く非礼をお許しください)。
「人間銘木 藤居平一追想集」(同編集委員会編、藤居美枝子発行、1997年)(注1)に、庄野による藤居(日本原水爆被害者団体協議会初代事務局長)への追悼文が収録されている。これによると、彼が、藤居と知り合ったのは第1回原水爆禁止世界大会の大会運営事務局で、1956年初め以降は、藤居宅に泊まり込んで相談と激論を重ねた。さらに東京に発足した原水爆禁止日本協議会の会合にはしばしば一緒に出席したという。
私は、「原水爆被害白書 かくされた真実」(日本原水協専門委員会編、日本評論新社、1961年)を、学生時代から辞書的に利用していた。私には、「広島・長崎の原爆災害」(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編、岩波書店、1979年)が出版されるまでは、原爆被害を網羅的に概説した最も信頼できる本であった。この「あとがきに」によれば、佐久間澄・杉原芳夫とともに「原爆被害の実態」(第2章、第3章)の第一稿の執筆にあたっている(注2)。
「ヒロシマの証言 平和を考える」(広島平和文化図書刊行会編、日本評論社、1969年)は、広島市の平和推進事業の一環として設けられた編集委員会により発行された。本書の「刊行にあたって」に編集委員5人(注3)・執筆者7人(注4)の名前が記されている。これによれば、庄野だけが、編集者であり執筆者であった。一方、広島の平和教育が組織的・継続的に推進されるようになるのは1972年の広島平和教育研究所設置以降のことである。「平和教育研究 広島平和教育研究所・年報 Vol.1 1972」から、庄野が同研究所の国際交流部長に就任していることがわかる。庄野は、1967年の広島平和文化センターの設置から始まる広島市の平和行政や平和教育の初期から重要な役割を担っていたのである。
「原爆三十年―広島県の戦後史」(広島県編・刊、1967年)で、庄野は「原爆被災の概要」「原爆症」「被爆者の連帯」「平和研究」を執筆した。編集事務局員の私の仕事は、執筆要領に沿った彼の原稿調整を行うことであった。この作業の中で、私は、被爆二世の遺伝的影響の記述に疑問を感じてしまった。にわか勉強では、疑問が解けない。私はまず、県の関係課を訪ね見解を聞いた。その上で庄野を訪ね、原稿と県の見解が異なっていることを伝えた。すると庄野は、私に、遺伝的影響の研究概況と自らの見解を詳細に話してくれた。後日、私は、彼から県の見解に沿った修正原稿を受け取った。私が平和運動や行政から原稿の執筆を依頼された時や被爆二世問題に接するたびに思い出すできごとである。
被爆30年以降、広島・長崎両市(注5)と日本原水協が、国連を中心とした国際活動に乗り出した。両市は、1976年に「国連アピール資料編集専門委員会」(委員長・今堀誠二)を立ち上げる(注6)。『核兵器の廃絶と全面軍縮のために―国連事務総長への要請』(ヒロシマ・ナガサキ、1976年)がその成果である。このアピールの資料編「原爆被害の実態―広島・長崎」は、「物理的破壊」、「身体的破壊」、「社会的破壊」の三つの柱から構成されているが、庄野が前二者の原案を石田定(広島原爆病院内科武法)の協力で起草した。庄野は、同じ時期に日本原水協に事務局を置く団体(注7)が作成した「広島・長崎の原爆被害とその後遺-国連事務総長への報告」(1976年)にも作成のための専門家グループ(注8)の一人でもあった。なお、1977年には、こうした国内の動きに呼応するかのような海外の流れが、国内に流れ込み、この二つの流れのほか、多くの組織・団体を巻き込む大潮流となる。1977年の国連NGO被爆問題シンポジウム(注9)は、その事例である。「広島・長崎の原爆災害」(前掲)は、以上の成果を踏まえ、広島大学・長崎大学の研究者を中心にまとめられたものである。基礎原稿の執筆者が、「物理学関係」「医学生物学関係」「人文社会科学関係」の3分野で掲載されており、「物理学関係」に岡島俊三・岡林隆敏・竹下健児・橋詰雅とともに庄野の名前がある。発行(1979年)時、ある新聞は、原爆被害の集大成と報じた(注10)。
「原爆モニュメント碑文集」(原爆モニュメント研究グループ編・刊、1978年)では、庄野はスポンサーであった。私も一員であった研究会(広島県歴史教育者協議会のメンバーで構成)の横山英代表の指示で、庄野の勤務先の広島女学院大学に研究費を受け取りに行った(注11)。「核と平和―日本人の意識」(庄野直美・永井秀明・上野裕久編、法律文化社、1978年)は、1975年に発足した広島大学平和科学研究センターの研究プロジェクト「核意識構造の実態研究」による研究成果の一部である。このプロジェクトに参加した研究者は、全国13大学の27人であり、専攻分野は十数領域に及んでいる。私もその一員として、資料の収集と整理作業を中心となって進めていた永井秀明のお手伝いをした。この研究グループは、庄野を研究代表者として、1976年・77年に文部省科学研究費補助金の交付を受けている(注12)。
私が庄野の元で、あるいは共に働いたのは、この時期までである。庄野の足跡はこの後も続く。「ヒロシマ・ナガサキの証言 創刊号」(発行所:広島・長崎の証言の会、発行人:秋月辰一郎・庄野直美、1982年)や「広島の被爆建造物―被爆45周年調査報告書」(監修者:庄野直美、発行者:被爆建造物を考える会、発行所:朝日新聞広島支局、1990年)がその証である。また被爆40周年の1985年には「ヒロシマ・ナガサキ平和基金」を設立している。私は、彼からこれらへの参加を強く求められたが固辞した。理由は、依頼内容が事務局への関与であり、それは私の職場における立場では困難だったからである。
(うぶき・さとる=元広島女学院大教授、日本現代史・日本文化史)
(注1)私は、田中聰司(元中国新聞記者)とともにこの本の編集のお手伝いをした。
(注2)第一稿の執筆者:石井金一郎・伊東壮・大江志乃夫・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・杉原芳夫・田沼肇・山手茂・吉田嘉清。
(注3)広瀬ハマコ・今堀誠二・田淵実夫・森脇幸次・庄野直美。
(注4)森下弘・永田守男・文沢隆一・大牟田稔・平岡敬・石田明・庄野直美。庄野が執筆総括者を務めている。
(注5)今から見れば不思議に思えるが、被爆地の広島・長崎両市が連携して被爆問題に取り組み始めるのは、1975年(被爆30年)の平和文化都市連携の調印以降のことである。
(注6)専門委員会の広島側委員は、原田東岷(副委員長)・石田定・岡本直正・庄野・湯崎稔の5人、長崎側委員は秋月辰一郎(副委員長)など5人であった。
(注7)名称は「核兵器全面禁止国際協定締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団派遣中央実行委員会」
(注8)伊東壮・川崎昭一郎・草野信男・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・峠一夫。なお、広島・長崎両市に関わった専門家と比べて注目されるのは、庄野のみが、両者に名を連ねていることである。
(注9)庄野とNGOにまつわるエピソードを一つ。私が、NGO(Non-Governmental Organization=非政府組織)という言葉を初めて知るきっかけは県の関係者からの問い合わせである。私の勤務先の広島大学原爆放射能医学研究所でも話題になっていた。シンポジウムの主催者は、県知事や研究所長にあいさつと後援の依頼していた。広島で最も詳しかったのは庄野だったように覚えている。私は、庄野情報によりその内容をぼんやりと理解した。参加した人々が十分理解していたとは思えないが、シンポジウムは、当時存在していた原爆被害に関わる多く動きを糾合した。そして、この成功は、その後の被爆問題をめぐる雰囲気を大きく変化させた。私は、特定の組織に属さずに多くの仕事を成し遂げた庄野直美を「NOM人」(Non- Organization Movement=非組織運動の人)と呼ぶのがふさわしいと考えている。
(注10)この評価には、事務局の下働き的立場にいた私は違和感を抱いた。この本の広島部分の記述には、1977年には、「原爆と広島大学―『生死の火』学術篇」(広島大学原爆死没者慰霊行事委員会、1977年)の成果に依拠するところが多い。この本には庄野は関わっていない。
(注11)額は、10万円?20万円?30万円?いずれにしても、印刷費に満たないものであった。会では、会員の調査のための交通費や謄写版刷りの会報の費用にすることを申し合わせたように思う。
(注12)私は、うかつにも「原爆モニュメント碑文集」と「核と平和」は、まったく別の動きと思い込んでいた。しかし、今では、前者に関連して私が庄野から受け取った金は、この科研費の一部だったと推測している。
2月に亡くなった人々
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 01 | 1973 | 長岡省吾 | ながおか・しょうご | 71 | 広島大学理学部[学研調査]。被爆時、広島文理科大学嘱託として山口県に地質調査で出張中。翌日入市。被爆資料収集に努めた(初代広島原爆資料館長)。<別記> |
| 01 | 1997 | 河合幸尾 | かわい・ゆきお | 広島女子大学元教授。原爆被害者相談員の会代表。宇吹所蔵資料=「故・河合幸尾先生をしのぶ会」(19970405広島県民文化センター)<資料> | |
| 01 | 2003 | ネルソン、リチャード | ねるそん | 77 | 広島原爆投下機エノラ・ゲイの無線士(出典:『中国新聞』20030208) |
| 01 | 2008 | 小野文子 | おの・ふみこ | 広島大学原爆死没者慰霊行事委員会の委員。<別記> | |
| 02 | 2013 | 山岡ミチコ | やまおか・みちこ | 82 | 被爆証言者。<別記> |
| 04 | 1980 | 佐々木雄一郎 | ささき・ゆういちろう | 63 | 被爆記録写真を撮り続けた広島の写真家。[69原爆被災資料広島研究会]。<別記> |
| 04 | 1993 | 柿手春三 | かきて・しゅんぞう | 84 | 画家。「広島平和美術展」創立。代表幹事。<別記> |
| 05 | 1991 | ペドロ、アルぺ | ぺどろ | 被爆当時、長束修道院院長。出典:『中国新聞』20110428(増田咲子記者) | |
| 06 | 1989 | 甲斐英男 | かい・ひでお | 61 | 広島県史編さん室の上司。<資料年表:甲斐英男> |
| 06 | 2012 | 重松逸造 | しげまつ・いつぞう | 94 | 放射線影響研究所元理事長。<別記> |
| 06 | 2024 | 小沢征爾 | おざわ・せいじ | 88 | 指揮者。「ヒロシマ 指揮棒に思い 犠牲者へ心寄せ」(『中国新聞』20240210<西村文・記>) |
| 07 | 1971 | 尾形静子 | おがた・しずこ | 44 | 広島市広瀬国民学校で勤務中被爆。<別記> |
| 07 | 1987 | 小西ノブ子 | こにし・のぶこ | 80 | 反戦被爆者の会会長。『炎の巡礼者 ヒロシマの母 小西のぶ子遺稿集』(小西のぶ子遺稿集編集委員会、社会評論社、19880806) |
| 07 | 2016 | 若木重敏 | わかき・しげとし | 100 | 著書:『広島反転爆撃の証明』(文芸春秋、1989.7)、『原爆機反転す: ヒロシマは実験室だった (光文社文庫 わ 8-1) 』 |
| 08 | 1961 | 雑賀忠義 | さいか・ただよし | 67
|
広島高等学校教授の時被爆。英文学者。1957年広島大学を定年退官。広島平和公園にある原爆慰霊碑の碑文の作者。<別記> |
| 08 | 1980 | 平野義太郎 | ひらの・よしたろう | 82 | 日本平和委員会名誉会長。原水爆禁止日本協議会の結成に参加。[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]<別記> |
| 08 | 1997 | 小谷鶴次 | こたに・つるじ | 84
|
広島大学名誉教授。政経学部教授時代に世界連邦建設運動にかかわる。<別記> |
| 08 | 2015 | 栄久庵憲司 | えくあん・けんじ | 85 | 工業デザイナー。2005年5月18日広島女学院大学春季講演会で講演「道具と人の世界」。人文館303。超満員。3年宇吹ゼミの学生もかなり参加。<別記> |
| 09 | 1982 | 加藤新一 | かとう・しんいち | 81
|
広島市在住の被爆者。[52広島平和問題談話会](日本国際連合協会広島支部局長)。第1回国連軍縮特別総会に参加。<別記> |
| 09 | 1985 | 真下信一 | ました・しんいち | 78 | 哲学者[1982推進連絡会議呼びかけ人]<別記> |
| 09 | 1995 | フルブライト、ウィリアム・ | ふるぶらいと | 89 | 元米上院議員。広島・長崎への原爆投下に衝撃を受け、日本が復興し、国際社会に復帰するためには人材の育成が不可欠との信念から1946年に「フルブライト交流計画」を創設。<別記予定> |
| 09 | 1996 | 小笠原基生 | おがさわら・もとお | 69
|
記録映画監督。「ヒロシマ・原爆の記録」、「ヒロシマ・母たちの祈り」などを監督。<別記> |
| 10 | 2010 | 森一久 | もり・かずひさ | 84 | 元日本原子力産業会議副会長、肺炎で3日死去、84歳。1926年広島生まれ。京都大学在学中に広島で家族とともに被爆。<別記> |
| 10 | 2012 | 宇根利枝 | うね・としえ | 93 | 「宇根利枝さんが死去 慰霊碑に献水 半世紀以上 93歳」(『中国新聞』20120212、田中美千子記)<別記> |
| 10 | 2018 | 松原美代子 | まつばら・みよこ | 85 | 12歳の時、建物疎開の作業中に爆心地から約1.5キロで被爆。<別記> |
| 10 | 2018 | 荒角理宰 | あらかど・りさい | 99 | 山陽ジャスコ株式会社元会長。体験記(私家版)あり(『中国新聞』1995年8月2日)。『被爆50周年を迎えて-私の原爆体験談 』(1995年08月01 日刊)<別記>別記 |
| 11 | 1985 | 村上忠敬 | むらかみ・ただよし | 77 | 広島大学高師教授。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。広島大学名誉教授。1970年4月~74年3月、広島女学院大学長。1968年~83年、核禁広島県民会議議長。在韓被爆者のための医師団派遣などに尽力。[70ヒロシマ会議]<別記> |
| 11 | 1990 | レイノルズ、バーバラ | れいのるず、ばーばら | 74
|
米の平和運動家。1951年に来広し、18年間広島市に滞在、1962年に広島・長崎平和巡礼団を組織するなど平和運動に貢献。<別記> |
| 11 | 1992 | 殿敷侃 | とのしき・ただし | 50
|
造形作家。3歳の時、広島で両親が被爆死。2日後に疎開先にから広島市に帰る。広島大学中退、1978年久保貞次郎の勧めで版画を始める。両親の遺品等を題材とした絵画、版画など、原爆の問題をとりあげた作品を制作。殿敷侃 :: 東文研アーカイブデータベース (tobunken.go.jp)。 |
| 12 | 2018 | 松尾雅彦 | まつお・まさひこ | 76 | 【訃報】相談役 松尾雅彦 逝去のお知らせ 逝去のお知らせ20180213.pdf (calbee.co.jp)『生きて・カルビー元社長、松尾雅彦さん(1941年~)』(『中国新聞』20100406~0428、15回連載)、山本洋子「評伝・松尾雅彦カルビー元社長」(『中国新聞』20180214) |
| 13 | 1970 | 近藤寿治 | こんどう・ひさじ | 被爆時、広島文理科大学学長(兼高師校長)として出張中。後日入市[広島大学] | |
| 13 | 2008 | 市川崑 | いちかわ ・こン | 92 | 映画監督。広島にいた母を含む家族8人全員が原爆被爆。『東京オリンピック』(1965年、東京オリンピック映画協会) 総監督。 |
| 14 | 1992 | 有末精三 | ありすえ・せいぞう | 96 | 元陸軍中将。終戦時参謀本部第2部長。大本営調査団の団長として広島入り。「原子爆弾広島へ落ちる」『終戦秘史・有末機関長の手記』(有末精三、芙蓉書房、71960815)pp26-38。 |
| 15 | 2001 | 小沼十寸穂 | こぬま | 94 | 広島大学名誉教授。広島の被爆者の精神的苦痛による後障害を実態調査。 |
| 16 | 1977 | 末川博 | すえかわ・ ひろし | 84 | 立命館大学学長・総長。1892年11月20日生。 |
| 16 | 1994 | 小佐々八郎 | こささ・はちろう | 88 | 日本被団協顧問。長崎原爆被災者協議会会長などを歴任。藤居平一氏の紹介で自宅を訪問。 |
| 16 | 2007 | 宮崎安男 | みやざき・やすお | 78 | 原水爆禁止日本国民会議の副議長。全電通中国地方本部委員長、1974年から広島県原水禁事務局長、代表委員経て、96年から04年まで原水禁国民会議副議長、の後も広島県原水禁顧問。広島平和会館・原爆被害者相談所の相談員。<別記> |
| 16 | 2021 | バーナード・ラウン | 99 | ハーバード大学公衆衛生所付属の心臓病研究所長。1980年創設の「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」共同会長。田城明「バーナード・ラウン氏を悼む 命を守る延長に反核運動」(『中国新聞』20210316) | |
| 17 | 2011 | 黒川万千代 | くろかわ・まちよ | 81 | 旧姓富永。広島女専1年生のとき校内で被爆。日本被団協事務局次長など歴任。<別記> |
| 18 | 1987 | 壬生照順 | みぶしょうじゅん | 79 | 宗教NGO[82推進連絡会議呼びかけ人]天台宗華厳院住職。全日本仏教会評議員、仏教徒平和の会幹事長、日本宗教者平和協議会理事長。<別記> |
| 18 | 2011 | 尾糠政美 | おぬか・まさみ | 18 | 陸軍船舶練習部写真班員(23歳)のとき被爆。<広島原爆被災撮影者の会> |
| 18 | 2012 | 庄野直美 | しょうの・なおみ | 86 | 九州帝国大学理学部1年のとき入市被爆。宇吹追悼文あり。<別記> |
| 19 | 2017 | 林京子 | はやし ・きょうこ | 86 | 作家。長崎県立長崎高等女学校3年の時、学徒動員中の三菱兵器工場で被爆。短編『祭りの場』(『群像』1975.6)で第18回群像新人文学賞、および第73回芥川賞。『広島県現代文学辞典』(岩崎清一郎・記)<別記> |
| 20 | 1979 | 金子弥吉 | かねこ・やきち | 78 | 山口県被団協初代会長。芸備銀行横の路上(爆心から500㍍内)で被爆。 |
| 20 | 1985 | 中野好夫 | なかの・よしお | 81 | 英文学者。原水禁運動などに尽力。[82推進連絡会議呼びかけ人]。学生時代の友人の父。 |
| 20 | 2001 | 今堀宏三 | いまほり・こうぞう | 広島文理科大学卒業後、1946年金沢高師教授、1949年金沢大学理学部助教授を経て、1960年に大阪大学教授に就任。その後、福井県立短期大学(現福井県立大学看護短期大学部)学長、鳴門教育大学学長、広島女子大学(現県立広島大学)学長、日本生物教育学会会長を歴任。 | |
| 20 | 2018 | 金子兜太 | かねこ・ とうた | 98 | 俳人。『たっぷり生きる』(金子 兜太 / 日野原 重明、毎日学芸出版 、2010) |
| 21 | 1961 | 下中弥三郎 | しもなか・やさぶろう | 82 | 世界連邦会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記> |
| 21 | 2021 | 関千枝子 | せき・ちえこ | 88 | 旧姓富永。ノンフィクション作家。著書に「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」。<資料年表:関千枝子> |
| 22 | 1968 | 名越史樹 | なごや・ふみき | 7 | 白血病で死亡。<別記> |
| 22 | 1998 | 荘司雅子 | しょうじ・まさこ | 88 | 台湾出身。奈良女子高等師範学校卒業後、1935年広島大学教育学科に入学。長田新の勧めなどでフレーベル研究。「資料年表:荘司雅子」 |
| 22 | 2019 | 加納実紀代 | かのう・ | 78 | 出典:高雄きくえ「加納実紀代さんを悼む 銃後の加害と被害問う」(『中国新聞』20190226)<別記> |
| 24 | 2011 | 藤平典 | とうへい・のり | 82 | 広島高等師範学校生(16歳)の時、学徒動員先の東洋工業で被爆。東京都原爆被害者団体協議会会長、日本原水爆被害者団体協議会代表委員など。 |
| 24 | 2021 | 児玉健次 | こだま・けんじ | 87 | 広島大学文学部在学中の1956年8月に開催された8・6学生平和会議(1956年8月5~7日)の実行委員長<別記> |
| 26 | 1955 | 今堀恭子 | いまほり・きょうこ | 43 | 被爆当時広島市女教諭。広島文理科大学の第1回女子卒業生。<別記> |
| 26 | 1968 | 浜井信三 | はまい・しんぞう | 62 | 初代公選広島市長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起)]。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記> |
| 26 | 2002 | 鎌田定夫 | かまた・さだお | 72 | 長崎総合科学大学教授、長崎平和研究所長。<別記予定> |
| 26 | 2003 | 藤原彰 | ふじわら・あきら | 80 | 歴史学者。宇吹は1980年5月1日から81年2月28日まで文部省内地研究員として一橋大学藤原彰研究室に在籍。<資料年表:藤原彰> |
| 26 | 2019 | 見崎進 | みさき・すすむ | 92 | 第五福竜丸元乗組員。 |
| 26 | 2019 | 松尾文夫 | まつお・ふみお | 85 | 元共同通信ワシントン支局長。著書「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」などで「相互献花外交」を訴え続けたことが評価され、2017年度日本記者クラブ賞受賞。 |
| 27 | 1987 | 亀井文夫 | かめい・ふみお | 78 | 映画監督。被爆者を描いた「生きていてよかった」(1956年)などを制作。<別記> |
| 27 | 2003 | 小田 丕昭 | おだ・ひしょう | 92 | 洋画家。出典:寺本泰輔「原爆抽象画秘めた鋭さ 小田 丕昭氏を悼む」『中国新聞』20030227 |
| 28 | 1986 | パルメ、オロフ | ぱるめ・おるふ | 59 | スウェーデン首相。暗殺。1981年に、「軍縮と安全保障に関する独立委員会」委員長として、来広し、原爆資料館などを見学。<別記> |
| 28 | 2001 | 武田寛 | たけだ・ひろし | 1935年福山市出身。広島大学工学部卒業後、民間企業勤務。1970年日本共産党広島県委員会勤務。1984年~97年、原水爆禁止広島県協議会事務局長。日本原水協担当常任理事。<『爆央と爆心 1945年8月6日ヒロシマで何が起きたのか』> | |
| 28 | 2015 | 松谷みよ子 | まつたに・みよこ | 89 | 児童文学作家。 |
| 日 | 没年 | 氏名 | よみ | 享年 | |
| 01 | 1997 | サーバー、ロバート・ | Robert Serber | 88 | マンハッタン計画に参加した米科学者。ファーレル・モリソンらとともに被爆地調査。 |
| 01 | 2004 | 嘉屋文子 | かや・ふみこ | 90 | ハワイ島生まれ。5歳の時、一家で帰国。広島市南観音町の自宅前で被爆。県内政部衛生課勤務。<投稿> |
| 01 | 2006 | 小島丈児 | こじま・じょうじ | 89 | 広島大名誉教授。<投稿>岩石学。『小島丈兒先生追悼文集』(2007/06/01) |
| 03 | 1975 | 佐藤栄作 | さとう・えいさく | 74 | 広島平和記念式典に初めて参列した内閣総理大臣。ノーベル平和賞受賞者。<投稿> |
| 05 | 1989 | 加藤陽三 | かとう・ようぞう | 内務・防衛官僚、政治家。防衛事務次官、衆議院議員(2期)。海田町名誉町民。<投稿> | |
| 05 | 2003 | 松元寛 | まつもと・ひろし | 78 | 英文学者。 広島大学名誉教授。<投稿><『ヒロシマという思想―「死なないために」ではなく「生きるために」』> |
| 05 | 2008 | 松井康浩 | まつい・ひろやす | 85 | 弁護士。日本原水協代表理事。『原爆裁判 核兵器廃絶と被爆者援護の法理』 |
| 07 | 1984 | 大内五良 | おおうち・ごろう | 74 | 広島市医師会長(1957~59年)。広島県医師会長(1967~82年)。原爆乙女の渡米治療、在米被爆者検診などに貢献。<投稿> |
| 07 | 2001 | 河本一郎 | かわもと・いちろう | 72 | 「原爆被害者の会」設立、「広島折鶴の会」結成に奔走。谷本清平和賞(第13回=2001年没後)受賞。<投稿> |
| 07 | 2018 | 日高六郎 | ひだか・ろくろう | 101 | 社会学者。 |
| 08 | 2018 | 谷川和穂 | たにかわ・かずほ | 87 | 自民党衆議院議員。防衛庁長官、法務大臣など歴任。<投稿> |
| 08 | 2003 | 山田かん | やまだ・かん | 72 | 長崎県県立図書館勤務。利用中に面識。 |
| 10 | 1982 | 小山祐士 | こやま・ゆうし | 78 | 劇作家。原爆をテーマにした劇「泰山木の木の下で」などの作者。『広島県現代文学事典』(秋枝美保・記)<投稿> |
| 10 | 1989 | 沢近宏 | さわちか・ひろし | 71 | 広島原対協副会長。同副会長は、宇品船舶司令部で、軍医として勤務中被爆。戦後、被爆者治療活動に尽力。<投稿> |
| 10 | 1996 | 小倉豊文 | おぐらとよふみ | 96 | 広島大学名誉教授。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)<投稿> |
| 11 | 1984 | 湯崎稔 | ゆざき・みのる | 53 | [69原爆被災資料広島研究会]。広島大学総合科学部教授。広大原医研で、爆心五百メートル以内の復元調査に従事。職場の上司。『世紀を超えて 爆心地復元運動とヒロシマの思想』<投稿> |
| 12 | 1978 | 郭沫若 | かくまつじゃく | 85 | 1955年12月来広し。原爆慰霊碑参拝(藤居平一との会話)。広島大学で「平和共存」のテーマで講演。<投稿> |
| 12 | 2004 | 下崎末満 | しもざき・すえみつ | 57 | 「インタビュー・この人に聞く ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト世話人代表」(『読売新聞』19990830) |
| 12 | 2011 | 大村英幸 | おおむら・ひでゆき | 88 | 広島青年文化連盟初代委員長。<投稿> |
| 12 | 2017 | 据石和江 | すえいし・かずえ | 90 | 米国広島・長崎原爆被爆者協会会長。https://www.rafu.com/2017/06/据石和江さん死去%ef%bc%9a米国広島・長崎原爆被爆者協/ |
| 14 | 1986 | 名越操 | なごや・みさお | 『ヒロシマ母の記』(汐文社、19850616)。広島市在住の被爆者、死去。白血病で死亡した息子への思いをつづった「ぼく生きたかった」の著者。<投稿> | |
| 14 | 1989 | 黒田秀俊 | くろだひでとし | 84 | 元原水協事務局長。1955年当時、原水協結成に尽力。<投稿> |
| 14 | 2019 | 山崎寛治 | やまさき・かんじ | 91 | 県立広島二中(現・観音高校)の代用教員だった17歳の時同校で被爆。旧天神町北組の慰霊碑の世話役。<投稿> |
| 14 | 2008 | 河瀬正利 | かわせ・まさとし | 67 | 広島大学名誉教授、広島県文化財保護審議会委員。被爆建物保存運動に尽力<投稿> |
| 15 | 1965 | 正田篠枝 | しょうだしのえ | 54 | 歌人。『広島県現代文学事典』『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)<投稿> |
| 15 | 1994 | 荒木武 | あらき・たけし | 78 | 広島市長。27代(19750223~19790223)28代(19790223~19830222)29代(19830223~19870222)30代(19870223~19880222)。『荒木武』 |
| 16 | 1961 | ジュノー、マルセル | じゅのーMarcel Junod | 57 | スイス国籍の外科医。赤十字国際委員会駐日代表として来日。1945年9月8日、GHQの医薬品ともに広島入り。<投稿> |
| 16 | 1974 | 金井利博 | かない・としひろ | 60 | [52広島平和問題談話会](中国新聞社学芸部記者)。中国新聞社取締役論説担当。原爆被災白書運動を提唱。<資料年表:金井利博> |
| 16 | 1998 | 江口保 | えぐちたもつ | 69 | 「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」を主宰した長崎の被爆者。平和教育。<資料年表:江口保> |
| 16 | 2021 | 森脇勝義 | もりわき・かつよし | 86 | 1987年~非核の政府を求める広島の会常任世話人。<資料年表:森脇勝義> |
| 17 | 1992 | ビーザー、ジェイコブ | Jacob Beser | 71 | 広島・長崎両市への原爆投下機の唯一の搭乗員。Lt. Jacob Beser, radar countermeasure officer |
| 18 | 1983 | ルイス、ロバート・アルビン | るいすRobert A. Lewis | 65 | 広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」号の副操縦士。Capt. Robert A. Lewis, co-pilot |
| 18 | 2018 | 加藤剛 | かとう・たけし | 80 | 俳優。映画『ヒロシマ一九六六』に出演。<資料年表:加藤剛> |
| 19 | 2017 | 岡ヨシエ | おか・よしえ | 86 | 原爆投下第一報。『炎のなかに 原爆で逝った級友の25回忌によせて』(旧比治山高女第5期生の会、1969/08/06)<資料年表:岡ヨシエ> |
| 20 | 2002 | 吉川豊 | きっかわ・ゆたか | 86 | 吉川豊似島学園理事長「創立五十周年記念誌に寄せて」(『似島学園 50年のあゆみ』) |
| 20 | 2017 | シャル、ウィリアム | しゃる、うぃりあむ | 95 | 1949年ABCCに赴任、遺伝調査を実施。放射線影響研究所副理事長、米テキサス大学教授。〈資料年表:ウィリアム・シャール〉 |
| 21 | 1967 | 石井金一郎 | いしい・きんいちろう | 45 | [52広島平和問題談話会](広島女子短期大学助教授)。[54世界平和集会世話人(発起)]。元広島大学教授。日本原水協専門委員。〈資料年表:石井金一郎〉 |
| 21 | 1987 | 河村虎太郎 | かわむら・とらたろう | 73 | 医師。核禁会議広島県民会議議長。在韓被爆者渡日治療広島委員会代表。<投稿> |
| 22 | 1993 | 市岡正憲 | いちおか・まさのり | 74 | 広島県被団協理事長・県原水協理事長。<資料年表:市岡正憲> |
| 23 | 2002 | 亀井正夫 | かめいまさお | 86 | 元国鉄再建監理委員会委員長。広島被爆者。<投稿> |
| 24 | 2008 | 大倉記代 | おおくらきよ | 67 | 「サダコ」・虹基金を設立。 |
| 24 | 2019 | 松本善明 | まつもと・ぜんめい | 93 | 日本共産党衆議院議員。1950年いわさきちひろ(画家)と結婚。藤原彰(宇吹の一橋大学内地研修時代の指導教官)の友人。 |
| 25 | 1999 | 原田東岷 | はらだとうみん | 87 | 外科医。「原爆乙女」の渡米治療に尽力。ワールド・フレンドシップ・センター初代理事長。広島市名誉市民。<投稿><資料年表:原田東岷> |
| 26 | 1965 | 佐伯好郎 | さえき・よしろう | 93 | 中国キリスト教・法制史学者。広島県生まれ。1947年から9年間廿日市町長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。 |
| 26 | 1989 | 美空ひばり | みそら・ひばり | 歌手。第1回広島平和音楽祭に出演。1988年の15周年の同音楽祭にも参加し、原爆をテーマにした「一本の鉛筆」を歌唱。 | |
| 26 | 2006 | 井出三千男 | いで・みちお | 65 | 広島市安佐北区出身。変貌する都市広島をフィルムに残した写真家。 <資料年表:井出三千男> |
| 27 | 1978 | 熊平源蔵 | くまひら・げんぞう | 97 | 金庫メーカーのクマヒラ創業者。『熊平源蔵伝 人とその』、『熊平源蔵追想録』、 |
| 28 | 2007 | 宮沢喜一 | みやざわ・きいち | 内閣総理大臣(第78代)『戦後政治の証言』(読売新聞社、1991.8.30)。広島県名誉県民。<資料年表:宮澤喜一> | |
| 28 | 2008 | 佐々木久子 | ささき・ひさこ | 81 | 随筆家・評論家。『わたしの放浪記』。『広島県現代文学事典』(天瀬裕康・記)<投稿> |
| 28 | 2021 | 山田拓民 | やまだ・ひろたみ | 90 | 長崎原被災者協議会(被災協)の元事務局長。旧制長崎県立長崎中学校2年の時、長崎市鳴滝町の同校(爆心地から約3・3キロ)で被爆。 |
| 29 | 1979 | 桧山袖四郎 | ひやま・そでしろう | 80 | 『檜山袖四郎―広島県政に賭けた生と死』(刊行委員会、1981.6.20)<資料年表:桧山袖四郎> |
| 29 | 2020 | 荻野晃也 | おぎの・こうや | 80 | 元京都大講師、原子核工学、電磁波環境研究所主宰。京都大学美術研究会の先輩。 |
| 33 | 2020 | 高山等 | たかやま・ひとし | 89 | 『高山等資料』(広島県立文書館) https://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000746monjogun_183 昭和20年8月6日から12月20日までに傷痍軍人広島療養所(現国立療養所広島病院)に入院した被爆者218名のカルテ。(平成14年6月記) 高山等氏が出版した『ヒロシマの追憶』『ヒロシマの追憶と今日』に掲載した手記や,平和のために被爆地の果たす役割について国内外から寄せられたメッセージの原文など。(平成15年12月記) |
10月に亡くなった人々
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 01 | 2012 | 河合護郎 | かわい・ごろう | 84 | 広島平和文化センター元理事長。原爆投下の4日後の1945年8月10日、親族を捜すため爆心地付近に入り被爆。1950年に広島市職員。企画調整局長、民生局長などを歴任。1987年から5年間、広島平和文化センター理事長。退任後は市民団体「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」の共同代表に就任。資料年表:河合護郎 |
| 02 | 2014 | 坂本義和 | さかもと・よしかず | 87 | 国際政治学者。 |
| 02 | 2015 | 犬丸義一 | いぬまる・ぎいち | 87 | 歴史研究者。1967年の歴史科学協議会の結成に参加、全国委員を務める。元長崎総合科学大学教授。資料年表:犬丸義一 |
| 02 | 2017 | 中村敏 | なかむら・さとし | 73 | 中国新聞記者、日本ジャーナリスト会議(JCJ)広島支部幹事、広島マスコミ9条の会運営委員など歴任。『中村敏遺稿集』。「中村敏さんを偲ぶ会」(20171118、会場:広島市文化交流会館) |
| 02 | 2018 | 西川潤 | にしかわ ・じゅん | 82 | 1936年 9月22日 生。平和研究の草分け。学生時代から早大代表として原水爆禁止運動に参加。(大平隆彦「西川潤さんを悼む」『中国新聞』20181214) |
| 03 | 2017 | 佐伯敏子 | さえき・としこ | 97 | 「被爆者の魂守り続け 97歳 佐伯敏子さん死去」(宮崎園子『朝日新聞20171005』)、「原爆供養塔通い40年 佐伯敏子さんを偲ぶ会」(宮崎園子『朝日新聞20171204』) |
| 05 | 1972 | 細田民樹 | ほそだ・たみき | 作家。1982年生。『広島県大百科事典』(坂根俊英・記)『広島県現代文学事典』(石田浩子・記)。 | |
| 05 | 2001 | 瀬長亀次郎 | せなが・かめじろう | 94 | 沖縄人民党委員長。衆議院議員として人民党で1期、日本共産党として連続5期。1973年以降共産党幹部会副委員長。資料年表:瀬長亀次郎 |
| 07 | 2001 | 大牟田稔 | おおむた・みのる | 71 | 元中国新聞論説主幹、1992年、広島平和文化センター理事長。『広島県現代文学事典』(小宮山道夫・記)。資料年表:大牟田稔 |
| 08 | 1982 | ノエルベーカー、フィリップ・J・ | 92 | 英の平和運動家。1962年、初めて広島を訪問、ヒロシマ会議(1970年)、77年、81年にも来訪。[70ヒロシマ会議] | |
| 08 | 2000 | 高木仁三郎 | たかぎ・じんざぶろう | 62 | 市民団体「原子力資料情報室」代表。 |
| 09 | 1992 | 今堀誠二 | いまほり・せいじ | 77 | 広島大学名誉教授。前広島女子大学長。資料年表:今堀誠二 |
| 09 | 1994 | 飯沢匡 | いいざわ・ただす | 85 | 『アサヒグラフ 8月6日号 原爆被害の初公開』発行時の同誌編集長。 |
| 10 | 1983 | 松尾敦之 | まつお あつゆき | 79 | 俳人。長崎被爆者。資料年表:松尾敦之 |
| 10 | 2009 | 新江義雄 | しんえ・よしお | 62 | 筆名:山ノ木竹志。広島合唱団。2009/1/24 山ノ木竹志とその仲間たちコンサート (県民文化センター)2010/1/31 山ノ木竹志をうたうコンサート (厚生年金会館)。資料年表:新江義雄 |
| 11 | 2003 | 田坂正利 | たさか・まさとし | 76 | 福島病院院長。1927年呉市生まれ。 <田坂正利> |
| 11 | 2017 | 荒井信一 | あらい・しんいち | 91 | 歴史学者。「日本の戦争責任資料センター」共同代表、「戦争と空爆問題研究会」・「韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議」などの代表を務める。『朝日新聞』2017.11.5 資料年表:荒井信一 |
| 12 | 2006 | 田端展 | たばた・てん | 79 | 小説家。本名:小久保三好。広島工業専門学校1年生の時、勤労動員先の中国配電大洲製作所(爆心地から3・6キロ)で被爆。享年79歳。『広島県現代文学事典』(寺島洋一・記) |
| 13 | 2002 | 関屋綾子 | せきや・あやこ | 87 | 東京YWCA、日本YWCA会長、世界平和アピール七人委員会委員、原爆の図丸木美術館館長。関屋綾子 |
| 14 | 1953 | 徳田 球一 | とくだ ・きゅういち | 59 | 日本共産党(戦後)書記長(初代)。『原子爆弾と世界恐慌 時局と生活叢書1集』(19491225)徳田 球一 |
| 15 | 1980 | 栗原唯一 | 73 | 『栗原唯一追悼 平和憲法の光をかかげて』(栗原貞子、詩集刊行の会、1980.1.15)。元社会党県議. | |
| 15 | 1990 | 土門拳 | どもん・けん | 80 | 写真家。1958年に被爆者を写した写真集「ヒロシマ」を発表。『広島県現代文学事典』(田中裕之・記)。 |
| 15 | 1993 | 香川亀人 | かがわ・かめと | 97 | 広島県呉市。方面委員、民生委員。 |
| 15 | 2010 | 松尾雅嗣 | まつお・まさつぐ | 65 | 元広島大平和科学研究センター長。資料年表:松尾雅嗣 |
| 16 | 1990 | 原田一三 | はらだ・いちぞう | 86 | 広島県能美島出身。日中友好協会呉支部長。宇吹が小学生から中学生にかけ切手収集の趣味を持ったのは先生のおかげ。 <原田一三> |
| 16 | 1990 | 三宅泰雄 | みやけやすお | 82 | 元東京教育大学教授。「第五福竜丸事件」の調査にあたり、原水禁運動に貢献。 |
| 18 | 1979 | 坂田修一 | さかたしゅういち | 71 | [1954世界平和集会世話人(常任)](広島市助役)。広島市助役(1951年6月~55年4月)。広島平和文化センター理事長(初代、1967年~73年8月。 |
| 18 | 1982 | 重藤文夫 | しげとう・ふみお | 79 | 広島原爆病院の初代院長(被爆者)。[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。原爆病院長室で面談、資料を閲覧。<資料年表:重藤文夫> |
| 19 | 1995 | 丸木位里 | まるき・いり | 94 | 日本画家。「原爆の図」。『広島県現代文学事典』(西原大輔・記)資料年表:丸木位里 |
| 22 | 1922 | 青木圭介 | あおき・けいすけ | 77 | 1973広島女子大学文学部社会福祉学科、2001年4月京都橘女子大学文化政策学部。2010年4月1日学長(第10代)。 |
| 23 | 23 | 久保田卓三 | くぼた・たくそう | 県立三次中学校在学中、海軍第一空廠に勤労動員、1945年8月6日被爆。公認会計士。 | |
| 24 | 2021 | 坪井直 | つぼい ・すなお | 96 | 日本原水爆被害者団体協議会代表委員。広島県原爆被害者団体協議会理事長。広島市名誉市民。資料年表:坪井直 |
| 25 | 1955 | 佐々木禎子 | ささき・さだこ | 12 | 広島市の中学生、白血病で死去。佐々木禎子 | ヒロシマ遺文 (hiroshima-ibun.com) |
| 25 | 2011 | 安倍一成 | あべ・ かずなり | 84 | 山口県原爆被爆者支援センター「ゆだ苑」理事長(1993年〜2008年)。1986年中国文化賞受賞。 |
| 26 | 1965 | 三村剛昂 | みむら・よしたか | 67 | 1898年3月広島県竹原生。広島文理科大学教授(物理学)の時被爆。 |
| 26 | 2017 | 神田三亀男 | かんだ・みきお | 95 | 民俗学者、歌人。『広島県現代文学事典』(綾目広自・記)資料年表:神田三亀男 |
| 27 | 2003 | 石田明 | いしだ・あきら | 75 | 全国原爆被爆教職員の会会長、広島県原水禁代表委員、社民党同県連顧問、元同県議。17歳の時、広島原爆の爆心から約1キロの広島市中区八丁堀の路面電車の中で被爆。教員、広島県教組委員長を経て83年から県議となり、今年4月に引退。原爆白内障の認定申請却下を不当とした「石田原爆訴訟」を広島地裁に起こし、76年7月に全面勝訴。自社さ連立政権下、94年の社会党(現社民党)の基本方針転換には同県本部を挙げて反対。資料年表:石田明 |
| 29 | 2023 | 中塚明 | なかつか・あきら | 94 | 元奈良女子大学文学部教授。19290917生。大学(京都大学文学部史学科国史学専攻)の先輩。資料年表:中塚明 |
| 30 | 1997 | 栗栖洋 | くりす・ひろし | 67 | 広島県被団協、常任理事、事務局次長、副理事長を歴任。『わたしの心が癒されるときは 栗栖洋遺稿・追悼文集』(広島県原爆被害者団体協議会被爆者相談所、1998/10/30)資料年表:栗栖洋 |
| 30 | 2016 | 宗藤尚三 | むねとう・しょうそう | 88 | 広島県府中町・こばと幼稚園園長。被爆牧師。資料年表:宗像尚三 |
| 31 | 2014 | 本島等 | もとしま・ひとし | 92 | 元長崎市長。 |
| ** | 2018 | 山下義宣 | やました・よしのり | 創価学会青年部広島県反戦出版委員会委員長。胎内被爆者。宇吹の高校時代の同級生。 宇吹メモ:1990410創価学会小西・山下来所。山下義宣 | |
団体名簿
| 資料名 | 作成者 | 作成者 年月日 | 備考 |
| 原水爆関係団体名簿 | 広島市衛生局原爆被害対策課 | 19670201 | |
| 平和関係団体調査報告書(広島市関係・その1) | 広島平和文化センター | 196803 | |
| 平和関係団体のしおり | 広島平和文化センター | 197003 | |
| 平和団体を訪ねて | 広島平和文化センター | ||
| 「平和文化」第2号~第22号(197608~198003)に連載。17団体を紹介 | |||
| 被爆体験証言者交流の集い 団体・グループ紹介一覧表 | 被爆体験証言者交流の集い世話人 | 19930301 | |
7月に亡くなった人々
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 01 | 1988 | 加納竜一 | かのう・りゅういち | 84 | 元元日本映画社専務。被爆直後の広島・長崎で記録映画を製作。<資料年表:加納竜一> |
| 01 | 2000 | 宇都宮徳馬 | うつのみや・とくま | 93 | 政治家・実業家。月刊誌「軍縮問題資料」創刊。<資料年表:宇都宮徳馬> |
| 02 | 1982 | 高橋幸八郎 | たかはし・こうはちろう | 70 | 日本学術会議副会長[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人] |
| 02 | 1993 | 中野清一 | なかのせ・いいち | 88 | 広島大学名誉教授。元立命館大学教授。「あゆみグループ」を組織し、原爆孤児を支援。<資料年表:中野清一> |
| 03 | 2012 | 古浦千穂子 | こうら・ちほこ | 81 | 小説家、広島文学資料保全の会代表。『広島県現代文学事典』(執筆:梅原勝己)<資料年表:古浦千穂子> |
| 04 | 1981 | 木村功 | きむら・いさお | 58 | 新劇俳優。『広島県現代文学事典』(九内悠水子・記)19230622生。<資料年表:木村功> |
| 06 | 1990 | 杉本春生 | すぎもと・はるお | 詩人、文芸評論家。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記)<資料年表:杉本春生> | |
| 06 | 1992 | 大原三八雄 | おおはらみやお | 87 | 「世界原爆詩集」(角川文庫)を編集。広島女子大学・広島工業大学名誉教授。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記)<資料年表:大原三八雄> |
| 06 | 2011 | 松浦総三 | まつうら・そうぞう | 96 | 評論家。19141125生。 |
| 06 | 2013 | 山口仙二 | やまぐちち・ | 82 | 長崎の被爆者。「藤居平一聞き書き」作業の中に登場。藤居の紹介で面談。<山口仙二> |
| 07 | 1976 | 板倉静夫 | いたくら・しずお | 50 | レッド・パージで三菱広島造船の首切りにあう。機関紙活動、労組書記の活動などを続けながら、1957年の第3回世界大会以来、広島原水協、広島原水禁の事務局次長を歴任。19250103広島市向洋本町生まれ。 |
| 07 | 1990 | 愛宮真備 | えのみやまきび | 92 | フーゴ・ラッサール=ドイツ生まれのイエズス会員。広島市の幟町天主公教会(幟町教会)で被爆。世界平和記念聖堂を建設することに尽力 |
| 07 | 2022 | 朝尾直弘 | あさお ・なおひろ | 90 | 1931年12月17日、大阪府吹田市生。京都大学時代の教官。一橋大学内地留学にあたり藤原彰教授を紹介していただく。 |
| 08 | 1979 | 朝永 振一郎 | ともなが ・しんいちろう | 73 | 物理学者。ノーベル物理学賞(1965年)。生誕1906年3月31日<朝永 振一郎> |
| 08 | 1992 | 木村毅一 | きむら・きいち | 88 | 京都大学名誉教授。京大理学部の助教授時代の1945年8月、調査団員として広島入り。 |
| 08 | 1995 | 河村盛明 | かわむら・せいめい | 72 | 『河村盛明評論集 傷痕よりの出発』(河村盛明、六法出版社、1992.5.30)<河村盛明> |
| 09 | 1950 | 長崎五郎 | ながさき・ごろう | 67 | 『長崎五郎を偲ぶ』(長崎孝、19621225)。<長崎五郎を偲ぶ> |
| 09 | 1981 | 田中好一 | たなか・こういち | 87 | [50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆ドーム保存を推進。<資料年表:田中好一> |
| 09 | 2012 | 山田五十鈴 | やまだ・いすず | 95 | 女優。本名:美津<みつ>。映画「生きていてよかった」のナレーションを「山田美津子」名義で担当。 |
| 10 | 1993 | 井伏鱒二 | いぶせ・ますじ | 95 | 作家。本名:井伏 滿壽二。小説『黒い雨』の作者。『広島県現代文学事典』(前田貞昭・記) |
| 12 | 2011 | 沼田鈴子 | ぬまた・すずこ | 87 | 22歳の時、勤務先の旧広島逓信局(中区東白島町)で被爆。崩壊した建物の下敷きになり左足を切断。映画「にんげんをかえせ」(1982年)に、被写体として登場。<資料年表:沼田鈴子> |
| 13 | 1979 | 小倉馨 | おぐら・かおる | 58 | 広島平和文化センター事務局長(1977年~)。[69原爆被災資料広島研究会]。原爆資料館館長。『広島県史原爆資料版』所収の英文資料の翻訳でお世話になる。<資料年表:小倉馨> |
| 13 | 2005 | 橋口収 | はしぐち・ おさむ | 大蔵官僚。19210908生まれ。広島銀行頭取(198406)、広島商工会議所会頭(1988~99)を歴任。著書『「近代」の座標軸を求めて― 文明・文化そぞろある記』(金融財政事情研究会、19970716) | |
| 13 | 2011 | 末宗明登 | すえむね | 84 | 1988年から2005年まで広島県原爆被害者団体協議会<金子一士理事長>事務局長。「広島被爆者団体連絡会議」の事務局長も経験。<資料年表:末宗明登> |
| 14 | 1976 | 山崎与三郎 | やまさき・よさぶろう | 86 | [1969原爆被災資料広島研究会]。<資料年表:山崎与三郎> |
| 14 | 1994 | ロベルト・ユンク | ゆんく | 『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)。『戦後ヒロシマの記録と記憶 小倉馨のR・ユンク宛書簡 上・下』(若尾祐司・小倉桂子編、名古屋大学出版会、2018年7月10日)<資料年表:ロベルト・ユンク> | |
| 14 | 2008 | 田中隆荘 | たなか・りゅうそう | 82 | 生物学者。広島大学学長・広島市立大学初代学長。<田中隆荘> |
| 14 | 2015 | 竹前栄治 | たけまえ・えいじ | 84 | 占領史研究家。出版社の叢書執筆者の会合で同席。介護犬同伴だったことに強い印象。<資料年表:竹前栄治> |
| 15 | 2004 | チャールズ・スウィーニー | 84 | 長崎原爆投下爆撃機ボックスカーの機長(少佐、25歳)。 『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』(チャールズ・W・スウィーニー著 黒田剛訳、原書房、2000/07/31) | |
| 17 | 1982 | 江上不二夫 | えがみ・ふじお | 71 | 生化学者。元日本学術会議会長[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[1982推進連絡会議呼びかけ人]。 |
| 17 | 1999 | 北西英子 | きたにし・ひでこ | 70 | 「広島女性史研究会」代表。論文「近・現代広島女性の歩み」(『広島市公文書館紀要 第14号』)<北西英子> |
| 18 | 1991 | 坪田正夫 | つぼた・まさお | 67 | 大阪市生野区原爆被害者の会会長。句画集「かの一ぱつの原爆に」(新樹社)。<坪田正夫> |
| 18 | 2004 | 林茂夫 | はやし・しげお | 75 | 本名:塩伸一。軍事評論家。京大原爆展の関係者。追悼論文集『無防備地域運動の源流―林茂夫が残したもの』(日本評論社、20060720)<林茂夫> |
| 18 | 2017 | 日野原重明 | ひのはら・しげあき | 105 | 聖路加国際病院理事長。<資料年表:日野原重明> |
| 18 | 2019 | 天野之弥 | あまの・ゆきや | 72 | 外交官。国際原子力機関(IAEA)事務局長。 |
| 19 | 1977 | 大木惇夫 | おおき・あつお | 82 | 詩人。広島市天満町生まれ。本名・軍一。広島商業学校卒業。1941年、文化部隊宣伝班の一員として、ジャワ作戦に配属。『広島県現代文学事典』(石田浩子・記)。<資料年表:大木惇夫> |
| 19 | 2011 | 原田芳雄 | はらだ・よしお | 71 | 俳優。映画『父と暮らせば』(原作:井上ひさし、監督:黒木和雄)に父役で出演。2004年公開。 |
| 20 | 2008 | 佐々木寅夫 | ささき・とらお | 70 | 洋画家、日展会員。1938年広島県山県郡豊平町生まれ。『ひろしまインターネット美術館』 |
| 20 | 2019 | 岡本三夫 | おかもと・みつお | 86 | 平和学者。1976年、四国学院大学で初の平和学講座を開講。1992年に第9条の会ヒロシマを結成。<資料年表:岡本三夫> |
| 21 | 1992 | 徐立伝 | じょ・りつでん | 70 | 広島刑務所内で被爆した中国人 |
| 22 | 2021 | 那須正幹 | なす・まさもと | 79 | 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)。 |
| 24 | 1991 | 志水清 | しみず・きよし | 84 | 元広島大学原医研所長。<資料年表:志水清> |
| 24 | 2011 | 増岡博之 | ますおか・ ひろゆき | 88 | 67年衆院選(旧広島2区)に自民党から出馬、初当選、当選8回。この間、厚相、党国対委員長などを歴任。 |
| 26 | 1980 | 今中次麿 | いまなか・つぎまろ | 87 | [52広島平和問題談話会](広島大学政経学部教授)。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。広島大学名誉教授。世界平和評議会評議員、第1回原水爆禁止世界大会議長、広島平和教育研究所議長。『広島県大百科事典』(中村義知・記)。<今中次麿 生涯と回想> |
| 26 | 2019 | 山本治朗 | やまもと・じろう | 70 | 中国新聞社社主・会長。『中国新聞百年史』(中国新聞社史編さん室、1992/12/15) |
| 28 | 2010 | 増岡敏和 | ますおかとしかず | 82 | 8月6日(1945年)には海軍の予科練(飛行機練習生)で松山航空隊に入隊、8月6日頃は軍隊疎開で愛媛県の南部の深浦町にいた。敗戦の数日以内に広島市に帰る。祖母、母、長妹(原爆死)、次妹被爆弟たちは学童疎開中。<資料年表:増岡敏和> |
| 30 | 1980 | 山下 義信 | やました・ぎしん | 95 | 元参院議員。1945年に原爆孤児を養育する「広島戦災児育成所」を創設、参院社労委員として原爆医療法制定に尽力。<資料年表:山下義信> |
| 31 | 2001 | 小寺 初世子 | こでら・さよこ | 69 | 大阪国際大法政経学部教授、広島県立広島女子大名誉教授、国際法。論文:「朝鮮人被爆者の法的地位」(『広島女子大学文学部紀要 第7号』1972)<資料年表:小寺初世子> |
| ?? | 2011 | 村上経行 | むらかみ・つねゆき | 93 | 『平和に生きる』(村上経行後援会、1972.10.1)、『広島のねがいを国政へ 活躍する、村上経行さん』(村上経経行後援会、1975.12.25)、<村上経行> |
止
5月忌(一覧)
| 日 | 没年 | 氏名 | 読み | 享年 | 備考 |
| 01 | 1951 | 永井隆 | ながい・たかし | 43 | 長崎医科大学付属医院内で原爆被爆 |
| 01 | 1981 | 中村敏 | なかむら・さとし | 72 | 共同通信社元編集局総務。広島被爆の第一報を打電した元同盟通信広島支社編集部長。 |
| 01 | 1985 | ジェンキンズ、クニコ・ | じぇんきんず | 59 | 全米被爆者協会副会長。1973年から副会長を務め、在米被爆者検診の実施などに貢献。 |
| 02 | 2009 | 忌野清志郎 | いまわの・ きよしろう | 58 | ロック・ミュージシャン。本名:栗原清志(くりはら・きよし)。 |
| 02 | 2016 | 新屋英子 | しんや・えいこ | 87 | 本名:鶉野英子(うずの)。大阪の劇団「関西芸術座」の創立メンバー。一人芝居「チョゴリの被爆者」。『女優新屋英子 私の履歴書』(2005年、解放出版社) |
| 03 | 1955 | 千葉亮 | ちば | 広島で被爆した東京在住の高校生。 | |
| 原爆症発症以来、全国の高校生らが支援カンパ。9日、成城高校、生徒会葬を執行。約2000名が参列(読売新聞)。 | |||||
| 03 | 1971 | 高橋和巳 | たかはし・かずみ | 39 | 作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)<投稿> |
| 03 | 2017 | 月丘夢路 | つきおか・ゆめじ | 95 | 宝塚歌劇団、女優。本名:井上明子。広島市中区出身。映画「ひろしま」に出演。 |
| 04 | 1985 | 菊池武彦 | きくち・たけひこ | 91 | 京都大学名誉教授。 |
| 京都大学原爆災害調査班の一員として1945年8月に広島を調査。『京都大学原子爆弾災害総合研究調査班の成立と活動』、『大野陸軍病院における京大原爆総合研究調査班の山津波による遭難の状況(私の日記から)』。お宅を訪問。被爆直後の写真について教示をいただく。<資料年表:菊池武彦> | |||||
| 06 | 1964 | 佐藤春夫 | さとう・はるお | 詩人・小説家。原民喜の葬儀委員長。 | |
| 1951年11月15日広島城址に建立された原の詩碑に撰文「詩碑の記」を記す。『広島県現代文学事典』竹原陽子・記) | |||||
| 06 | 1980 | 渡辺忠雄 | わたなべ・ただお | 81 | 元広島市長(1955~59年)。<投稿> |
| 08 | 1972 | 砂原格 | すなはら・かく | 『砂原格追想録』(砂原格先生顕彰会・会長森本亨、1978.5.8)〈投稿〉 | |
| 08 | 2008 | 伏見康治 | ふしみ・こうじ | 98 | 物理学者。1953年日本学術会議会長。1958年参議院議員(公明党)。 |
| 09 | 2012 | 碓井静照 | うすい・しずてる | 74 | 8歳の時被爆。<投稿> |
| 広島県医師会会長、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)日本支部長などを歴任。第67回(2010年)中国文化賞(中国新聞社主催)。 | |||||
| 09 | 1965 | 田谷春夫 | たたに・はるお | 詩人・歌人。 | |
| 1932年5月赤色救援会広島支部の責任者として検挙・起訴される。広島で被爆。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記) | |||||
| 09 | 2018 | 村井志摩子 | むらい・しまこ | 89 | 劇作家・演出家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記) |
| 09 | 2024 | 文沢隆一 | ふみさわ・りゅういち | 96 | 作家。資料年表:文沢隆一(本名:増本勲一) |
| 10 | 1981 | 今川卓治 | いまがわ・たくじ | 84 | 『被爆医師 今川卓治』(今川静子、19870510) |
| 10 | 1991 | 中川保雄 | なかがわ・やすお | 神戸大学教養学部教授。科学技術史。 | |
| 著書に『放射線被曝の歴史』。広島大学原医研資料センター所蔵資料を熱心に調査。直接の面識無し。 | |||||
| 10 | 2017 | 田原伯 | たはら・つかさ | 84 | 原爆文献研究家。<投稿>。 |
| 11 | 1975 | 梶山季之 | かじやま・としゆき | 46 | 1948年広島高等師範学校入学。[広島大学]『広島県現代文学事典』(天瀬裕康・記)編年資料:梶山季之 |
| 11 | 2004 | 山本達雄 | やまもと・たつお | 88 | 「原爆の火」保存者。兵役に就いていた広島で、原爆投下直後に残り火をカイロに採取し、故郷の福岡県星野村で20年以上保存。広島に投下された人類史上初めての原子爆弾の火=世界で唯一の「火」。 |
| 12 | 1979 | 塩月正雄 | しおつき・まさお | 58 | 東北大学医学部を卒業後見習士官として大村病院に所属。 |
| 被爆者治療に従事。。「初仕事は安楽殺だった」(光文社 1978.8.15 )の著者。 | |||||
| 14 | 1998 | 山田典吾 | やまだ・てんご | 81 | 映画監督。作品に「はだしのゲン」・「白い町ヒロシマ」。 |
| 14 | 2002 | 草野信男 | くさの・のぶお | 92 | 病理学者。元日本原水協理事長。投稿 |
| 15 | 1973 | ラビノビッチ、ユージン・ | らびのびっち | 71 | Eugene Rabinowitch マンハッタン計画の主任研究者。[70ヒロシマ会議] |
| 15 | 2009 | 豊田利幸 | とよた・としゆき | 89 | 核物理学者。「パグウォッシュ会議」に日本代表としてかかわり、その日本版の「科学者京都会議」でも活躍。 |
| 16 | 1977 | 島薫 | しま・かおる | 79 | 外科島病院長。 |
| 原爆は島病院の上空でさく裂。『島薫あれもこれも』(紺野耕一編、島忍発行、1983.5.15) | |||||
| 16 | 2006 | 渡辺正治 | わたなべ・しょうじ | 広島大学原医研時代の先輩。 | |
| 5月20日葬儀・告別式。<別記予定> | |||||
| 18 | 1952 | 中井正一 | なかい・まさかず | 52 | 美学者・哲学者。1946年9月、広島県労働文化協会を創設。1948年、国立国会図書館副館長に就任。『広島県大百科事典』(板根俊英・記)。『広島県現代文学事典』(佐々木暁美・記)。 |
| 18 | 2007 | 前野良 | まえの・りょう | 94 | 原水禁国民会議顧問。 |
| 広島湾の軍艦上で被ばく。その後の1ヵ月あまりの救護活動。1955年の最初の世界大会から原水禁運動に参加。http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0707_4.htm | |||||
| 21 | 1991 | 斗桝良江 | とます・よしえ | 『私の原爆記』 | |
| 21 | 2010 | 小松茂美 | こまつ・しげみ | 75 | 古筆学者、美術史学者。広島で被爆。<投稿> |
| 「死の淵にたって」(『平家納経の世界―国宝の謎を推理する』(六興出版、19861226)pp.133-136。 | |||||
| 22 | 1964 | 下田隆一 | しもだ・りゅういち | 65 | 原爆裁判の原告の一人。 |
| 22 | 1988 | 佐藤月二 | さとう・つきに | 79 | 元広島大学教育学部教授。広島県史跡名勝天然記念物調査委員(1947年2月~)。 |
| 1949年当時、原爆ド-ムの保存を主張。著書『むさしあぶみ』(溝本積善館、19720215)。 | |||||
| 23 | 1981 | 吉野源三郎 | よしの・げんざぶろう | 82 | 雑誌「世界」初代編集長。 |
| 日本ジャーナリスト会議初代議長(1955年2月、)。「被爆30周年国際フォーラム」の代表世話人。1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人。 | |||||
| 23 | 2012 | 岡本直正 | おかもと・なおまさ | 91 | 広島大学原爆放射能医学研究所所長(1970.4.1~1977.3.31)。 |
| 24 | 1956 | 中林智子 | なかばやし・ともこ | 原爆乙女の会のメンバー。 | |
| アメリカのマウント・サイナイ病院で手術中に死去。日本時間25日。 | |||||
| 24 | 2007 | 大庭みな子 | おおば・みなこ | 作家。『広島県現代文学事典』(瀬崎圭二・記) | |
| 26 | 1982 | 植村環 | うえむら・たまき | 91 | 日本YWCA名誉会長。 |
| 原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員。日本原水協代表委員。世界平和アピール七人委員会のメンバー。1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人。 | |||||
| 26 | 1999 | 辛泳洙 | しん・よんす | 80 | 元韓国原爆被害者協会会長。 |
| 国外に住む外国人としては始めて原爆被爆者手帳を取得。http://www.asahi-net.or.jp/~hn3t-oikw/kaihou/No_25/9907_1shin.html | |||||
| 26 | 2000 | 阿左美信義 | あさみ・のぶよし | 65 | 広島弁護士会長・日本弁護士連合会副会長などを歴任。 |
| 「石田原爆訴訟」の弁護団に加わる。「悼記 衰えなかった弱者救済への情熱」(『中国新聞』2000.7.4) | |||||
| 28 | 1984 | 森戸辰男 | もりと・たつお | 95 | 広島大学初代学長(13年間)。 |
| [50ヒロシマ・ピース・センター理事]。[51広島大学平和問題研究会会長]。[52広島平和問題談話会]。1951年に、「広島大学平和問題研究会」を発足させる。 | |||||
| 29 | 1986 | 松崎寿和 | まつざき・ひさかず | 72 | 日本史研究者。広島大学教授。中国文化賞(1974年) |
| 30 | 1978 | 片山哲 | かたやま・てつ | 90 | 元総理大臣。 |
| 憲法擁護国民連合議長、衆議院議員、[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。 | |||||
| 30 | 1983 | 山本康夫 | やまもと・やすお | 105 | 歌人。 |
| 短歌誌「真樹」主宰者(被爆者)。『広島県現代文学事典』(山本光珠・記)。 | |||||
| 30 | 2006 | 今村昌平 | いまむら・しょうへい | 79 | 映画監督、脚本家、映画プロデューサー. |
| 『広島県現代文学事典』(佐藤武・記) | |||||
| 日 | 没年 | 氏名 | 読み | 享年 | 備考 |
| 01 | 2012 | 森亘 | もり・わたる | 86 | 元東京大学総長。原爆死没者慰霊等施設基本問題懇談会座長。<投稿> |
| 01 | 2016 | 藤村耕市 | ふじむら・こういち | 86 | 元三次地方史研究会会長。<投稿> |
| 01 | 2020 | 山西義政 | やまにし・よしまさ | 97 | (株)イズミ(広島県広島市、山西泰明社長)創業者。1997年、個人コレクションを中心に泉美術館を開設。<資料年表:山西義政> |
| 02 | 1974 | 福田須磨子 | ふくだ・すまこ | 52 | 長崎原爆の被爆者。詩人。1975年8月2日、長崎市爆心地公園に慰霊碑建立。 |
| 02 | 1984 | 渡辺漸 | わたなべ・すすむ | 80 | 広島大学原医研初代所長。自宅を訪問、面談、資料閲覧・借用。 |
| 02 | 2005 | ヨハネ・パウロ二世 | ぱうろ | 84 | 4月2日(日本時間3日)。1981年2月25日広島訪問。<『教皇訪日公式記録 ヨハネ・パウロⅡ世』主婦の友社、19810402><投稿> |
| 02 | 2008 | 大北威 | おおきた・たけし | 83 | 広島大原爆放射線医科学研究所所長。ノーベル平和賞を受賞(1985年に)した「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」のメンバー。<投稿><資料年表:大北威> |
| 02 | 2016 | 居森清子 | いもり・きよこ | 82 | 広島の本川国民学校で被爆、児童で唯一の生存者。西本雅実「評伝」(『中国新聞』2016.4.5) |
| 03 | 2011 | 長崎源之助 | ながさき・げんのすけ | 87 | 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(瀬崎圭二・記) |
| 04 | 0984 | 伊藤実雄 | いとう・じつお | 1946年4月の総選挙で広島全県区(当時)から初当選、1期。『古稀を越えて 伊藤實雄』(1982.2.25)<投稿> | |
| 04 | 1997 | 杉村春子 | すぎむら・はるこ | 91 | 女優。本名:石山春子。広島市出身で、被爆ドラマに出演。。映画吹き込み場に立ち会う。『広島県現代文学事典』(九内悠水子・記)。<投稿> |
| 05 | 1958 | 岡本尚一 | おかもと・しょういち | 66 | 弁護士。広島・長崎の被爆者とともに原爆求償同盟を組織し、1955年4月、東京地裁に、原爆投下の国際法違反を明確にし、被害の賠償を求める訴訟を起こす。<『原爆民訴或問』> |
| 05 | 1960 | 楮山ヒロ子 | かじやま・ひろこ | 17 | 広島で被爆。急性リンパ性白血病のため広島市民病院で死亡。<投稿>。<原爆ドームと楮山ヒロ子> |
| 05 | 1961 | 都築正男 | つづき・まさお | 68 | 東京帝国大学教授。遺族宅を調査<投稿> |
| 05 | 1964 | マッカーサー、ダグラス・ | 84 | 連合国軍最高司令(1945~50年) | |
| 07 | 1971 | 椎尾弁匡 | しいお・べんきょう | 94 | 全日本仏教会副会長、大正大学学長、増上寺大僧正[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。 |
| 07 | 1990 | 大原亨 | おおはら・とおる | 74 | 元社会党代議士(広島選出)。党原爆対策特別委員会などを歴任。衆議院議員。『志あるところ必ず道あり 大原亨追悼録・遺稿集』(発行編纂委員会、19910806)。宇吹の高校時代の同級生の父。 |
| 07 | 1957 | 羽仁もと子 | はに・もとこ | 83 | 自由学園長・全国友の会会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。 |
| 08 | 1982 | 上代タノ | じょうだい・たの | 95 | 「世界平和アピール七人委員会」のメンバー。1956年から9年間、日本女子大学学長。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。 |
| 09 | 2010 | 井上ひさし | いのうえ・ひさし | 75 | 日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任。<投稿> |
| 10 | 1959 | 瀬戸奈々子 | せと・ななこ | 27 | 『かえらぬ鶴』(瀬戸奈々子・林田みや子、二見書房、19611012) |
| 10 | 2004 | 小黒薫 | おぐろ・かおる | 90 | 1974~1978年、広島女学院大学長<投稿> |
| 11 | 2001 | 稲賀敬二 | いなが・けいじ | 73 | 国文学者。平安文学。1947年(昭和22年)広島高等学校文科甲類卒業。広島大学名誉教授。『明日何方ぞ迷い猫 稲賀敬二遺文集』<資料年表:稲賀敬二> |
| 11 | 2016 | ユソフ、ペンギラン | ゆそふ、ぺんぎらん | 94 | 元南方特別留学生として広島文理科大学に在学中被爆。元ブルネイ首相。<投稿> |
| 12 | 2017 | 葉山、ペギー | はやま、ぺぎー | 83 | 歌手。祖父が広島で被爆死。1965年広島賛歌「ああ広島」を歌い、レコード化。第1回「広島平和音楽祭」に出演。 |
| 13 | 1980 | 蜂谷道彦 | はちや・みちひこ | 76 | 「ヒロシマ日記」の著者で被爆者。<投稿> |
| 14 | 1986 | ボーボワール、シモーヌ・ド・ | ぼーぼわーる | 78 | 仏の作家。1966年10月、来広し、原爆資料館などを見学。<宇吹=京都での講演会を聞く> |
| 14 | 2001 | 勅使河原宏 | てしがわら・ひろし | 74 | 映画監督、草月流家元。<投稿>。 |
| 15 | 1980 | サルトル、ジャン・ポール・ | さるとる | 仏の哲学者。1966年来広し、原爆病院など訪問。長崎も訪問。 | |
| 15 | 19895 | 調来助 | しらべ・らいすけ | 長崎大名誉教授(被爆者)。「医師の証言・長崎原爆体験」などの著者。長崎市栄誉市民。 | |
| 16 | 1972 | 川端康成 | かわばた・やすなり | 72 | 日本ペンクラブ会長[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<投稿> |
| 17 | 1992 | 秦野裕子 | はたの・ひろこ | 広島大学原医研事務官。職場の同僚 | |
| 17 | 1996 | 藤居平一 | ふじい・へいいち | 80 | 日本被団協初代事務局長。聞き書きを作成 |
| 18 | 1955 | アインシュタイン、アルバート | あいんしゅたいん | 76 | 理論物理学者。ユダヤ系ドイツ人。ナチスに追われて渡米。ルーズベルト大統領に原爆開発を提言。Albert Einstein |
| 18 | 1961 | 長田新 | おさだ・あらた | 75 | 広島大学教授。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。[51広島大学平和問題研究会理事]。[日本原水協代表委員]。<「原爆の子」の父長田新> |
| 18 | 1971 | 大木正夫 | おおき・まさお | 69 | 作曲家。交響曲「ヒロシマ」。 |
| 18 | 1993 | 羽原好恵 | はばら・よしえ | 47 | RCC勤務。研究会で面識。<投稿> |
| 18 | 2016 | 金子満広 | かねこ・みつひろ | 91 | 日本共産党書記局長、衆議院議員など歴任。 |
| 22 | 1981 | ダフ、ペギー | だふ・ | 71 | イギリス生まれの平和運動家。「軍縮と平和のための国際連合」(ICPP)書記長。1977年以降の原水爆禁止統一世界大会の大会宣言起草委員長を務める。 |
| 22 | 1985 | 原田勉 | はらだ・つとむ | 1953「酔心」旗揚げ。『なに糞経営愕』(原田勉、朝日書院、19650625) | |
| 22 | 2000 | 武谷三男 | たけたに・みつお | 88 | 理論物理学者で素粒子論の第一人者。戦時中、理化学研究所で仁科芳雄に協力し原爆開発研究に従事。<投稿予定> |
| 23 | 1960 | 賀川豊彦 | かがわ・とよひこ | 72 | [50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。国際平和協会会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。キリスト教社会運動家。『広島県現代文学事典』(田辺健二・記) |
| 23 | 1973 | 阿部知二 | あべ・ともじ | 69 | 小説家。1950年?イギリスで開かれた世界ペン大会に参加、田辺耕一郎から託された被爆アルバムや資料をもとに広島の惨状を訴える。 |
| 23 | 2011 | 森井忠良 | もりい・ちゅうりょう | 81 | 『明日を創る―提言・新世紀の社会保障』(森井忠良、NTT出版、1996.6.6)。1972年、旧広島2区で旧日本社会党から衆議院議員に初当選、1996年に落選するまで7期。村山富市改造内閣で厚生大臣。社会党原爆被爆者対策特別委員長など。宇吹と同郷。 |
| 23 | 2012 | 山田浩 | やまだ・ひろし | 87 | 広島大学教授。専攻は政治史・国際関係論。<資料年表:山田浩> |
| 24 | 1988 | 広瀬ハマコ | ひろせ・はまこ | 83 | 元広島女学院理事長。<投稿> |
| 24 | 2017 | 藤居みえ | ふじい・みえ | 藤居平一夫人。<投稿予定> | |
| 24 | 2008 | 深川宗俊 | ふかがわ・むねとし | 87 | 歌人。本名:前畠雅俊=まえはた・まさとし)。旧三菱重工業の韓国人徴用工の指導員。三菱広島・元徴用工被爆者裁判を支援する会共同代表。<投稿> |
| 25 | 1951 | 藤野七蔵 | ふじの・しちぞう | 65 | 『藤野七蔵氏追懐録』(藤野七蔵氏追懐録編纂委員会、広島瓦斯株式会社内、1952年4月25日)<投稿> |
| 28 | 1960 | 川手健 | かわて・たけし | 県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。偲ぶ会に参列。『広島県現代文学事典』(小宮山道夫・記)<資料年表:川手健> | |
| 28 | 1962 | 西本敦 | にしもと・あつし | 日本山妙法寺僧侶。日ソ協会支部事務局長。1958年原水禁世界大会で、広島-東京間の第1回平和大行進の全コースを歩く。 | |
| 28 | 2009 | 粟津潔 | あわづ・きよし | 80 | 「ヒロシマ・アピールズ」ポスター第2作を制作。 |
| 30 | 1977 | 森脇幸次 | もりわき・こうじ | 68 | 中国新聞論説委員、取締役編集局長、中国地方経済連合会常務理事。<投稿> |
平和と学問を守る大学人の会は,1959(昭和34)年7月7日の常任理事会および7月20日の理事会において,日米安全保障条約改定交渉の即時打ち切りを求める声明書の案を作成し,それを会の名において発表することについて,全会員の賛否を問うことを決定した。この声明は,152人中77人の賛成を得て7月31日に発表された。
同会有志は,11月初めには,再度声明文の発表を企画,前回よりも広い範囲の署名を集めるため,会員外の人々にも呼びかけ人(=世話人)となってもらうよう働きかけた。11月19目の第1回世話人会時点では,29人が世話人となることを承諾,12月初めには40数人の文化人・学者からなる安保改定反対共同声明広島世話人会が発足した。
世話人会の討議の結果,「一般大衆署名は他団体の運動に期待することにし,世話人会としては広島県下の文化人・学者の安保改定にたいする反対意志の表明に運動の重点をおき,その立場から全国民の運動にサポートを与えるという方針を打ち出した。12月10日には,次のような声明書を作成,48人の世話人名で共同声明への参加を呼びかけた。
昨年の秋から交渉が進められてきた新しい日米安全保障条約は,その全貌が国民に明らかにされないままに,いよいよ調印されようとしています。
この日米安全保障条約の改定にたいして私どもは日本の安全と平和,世界の平和をねがう見地から深刻な不安を感じます。
政府は今回の条約改定の目的として日本の安全と自主性の回復とをあげ,その具体的な問題として,日米共同防衛の原則を確立すること,在日米軍の配備,装備並びに出動を協議事項とすること,期限を十年にすることなどをあげています。
しかしながら,第一に,これによって日本が戦争にまきこまれる危険がかえって大きくなるばかりか,極東における国際的な緊張が緩和されないで,かえって強められる恐れがあります。合衆国が一方的に他国と紛争をひきおこしたばあい,日本はその意思いかんにかかわりなくほとんど自動的に参戦せしめられることになるでしょうし,事前協議にかんする規定も,寸秒を争うミサイル戦の時代においては事実上実効をもたないと考えられます。
第二に,これによって,原水爆禁止という日本国民全体,とくに原爆被災者である私ども広島県民の悲願が日本自身の手でふみにしられる恐れがあります。改定条約の中に,バンデンバーグ決議をもりこんだ「共同防衛」の原則が確立されることによって,当然に日本の軍事力の増強,とくに核武装が避けられないものとなるでしょう。
第三に,これによって日本国憲法と国内民主主義にさらに重大な制約が加えられる恐れがあります。この改定によって国内法上違憲の疑いのある日本の自衛隊が国際的に合法化され,ひいては「共同防衛」の原則によってその海外派兵が避けられなくなり,この面から日本国憲法改定のための突破口が開かれることが懸念されます。また,日米協議事項を定めることとひきかえに,秘密保護法がつくられる恐れもあります。
フルシチョフ・ソ連首相の訪米と来春に予定されているアイゼンハワー米大統領の訪ソ,また,国連における八十二か国の軍縮決議の可決など,急速に世界情勢が平和と軍縮に向かおうとしている今日,日本がなぜ急いでこのように多くの重大な疑点のある条約を,しかも十年間という長い期限を定めて結ばなければならないのでしょうか。このことについても私どもは納得できません。
ふたたび戦争の悲劇をくりかえさないことを念願している私どもは,以上の理由からしてこのたびの日米安全保障条約改定交渉ならびに調印は中止すべきであると考えます。
右声明致します。
この声明書は,12月25日,広島大学関係者374人をはじめ,文学者・画家・舞踊家など計531人の名前とともに発表され,内閣・国会・各政党および県内の市長・市議会議長その他諸団体に送付された。
世話人会は,共同声明発表後もひきつづき存続し,1960(昭和35)年2月28日には,広島市内専立寺において相原和光・佐久間澄を講師として安保研究集会を開催,集会終了後,参加者は平和公園原爆慰霊碑前まで静かなる行進を実施した。また,3月16日には,安保改定阻止広島県民共闘会議主催の「安保改定阻止・日中国交回復・生活と権利を守る国民大行進」に積極的に参加した。
5月19日から20日にかけての国会は,安保条約を自民党の単独で採決,これを契機に安保反対の運動は最大の盛り上がりを示すが,世話人会は,6月4日,広島キリスト者平和奉仕会・広島平和問題談話会・広島文学会・平和と学問を守る大学人の会とともに,「新安保反対,平和と民主主義を守る抗議集会および行進」を行った。
昭和33年9月27日,広島市内の光道会館で広島平和委員会の結成総会が開かれた。
これは,在広の日本平和委員会々員十余名の集まりであった広島平和協議会が原水爆問題に限定されがちな広島県原水協の制約を越えて、原水爆問題のみならず、民主主義の確保、憲法擁護,基地撤廃など広範な平和運動を進めるための組織として準備したものであった。(広島平和協議会「広島平和協議会へ参加のお願い」昭和33年9月)。
成総会には県内から50人が参加(総会当日の入会者は60人)し,日中関係・勤評問題・国際続一行動の点について討議を行った。また,当日,会長(佐久間澄)・幹事(佐久間・板倉静夫・三宅登・石井金一郎・村中好穂・石田千鶴子・松江澄)を決定している(「広島平和ニュース」No.1)。
広島平和委は,10月末に労働者を中心とした部会を開いたが,40人近く参加した。この時の討議で岩国基地行進を成功させようということが強く主張された。この行進というのは,10月16日に広島で開催された日本原水協中国ブロック山陽側会議で決定されたものである。この時,11・1国際共同行動デーの取り組みとして,広島・山口両県原水協共催で,核武装阻止岩国墓地平和大行進と岩国市における大衆集会を開催することとなった(「広島原水協情報」No.1 昭和33年10月30日)。
11月8日から9日にかけて広島から岩国まで40人近くの人々が徒歩行進を行ったが,その半数以上は広島平和委の労働者部会に参加した者かあるいはその働きかけによる参加者であった。広島平和委員会が結成後初めて取り組んだ続一行動である岩国基地行進の成功は,その後の平和運動に少なくない影響力を与えた(「広島大学人会会報」N。.22)。同会自身の総括によれば,その意義は次のようである。
①平和委員会グルーブによる目的意識的な活動によって基本的に成功した。労働者部会の果した役割はこの成功を決定づけた。
②運動の目標の面で,不充分ながらも警職法闘争を平和を守る運動の一環としてとらえ,この闘争に組織された力を意識的な行動方向をうちだすことによって,民主主義と平和の闘争を統一的に発展させた。
③運動の方法の面で,従来くりかえされた官僚的な上からの動員方法を打破し下からの自主的参加とそのための活動を強調し,それは基本的に実現され,今回の「行進」の重要な特徴としてその成功を保障する主要な原因となった。
④この「行進」は従来の一般的,抽象的な原水禁運動を,昨年の美保基地闘争から発展させ,具体的な基地反対の行動にたかめ広島の平和運動を前進させた。
⑤さらにこの「行進」は国鉄第二支部の経験にみられるように,行動を通じて活動家をつくりだし,今後の平和活動の一層の発展を保障した。
昭和33年12月初めには,会員数は100人を越え,各地・各職域に,平和委員会結成の動きが生まれた。
8・6学生平和会議
主催:広島大学学生自治会
1956年8月5~7日
第1日(5日)
午前9時半~午後5時半 広島児童文化会館
広島大学・広島女子短大、北海道・東北・東京・京都・四国・九州など全国80の大学・高校から約500人が参加。
開会宣言=棗田金治(広島大学文学部)
実行委員長あいさつ=児玉健次(広島大学文学部)
「原爆許すまじ」全員合唱
平和問題シンポジューム
講演
長田新日本教育学会会長
佐久間澄広島大学教授
柳田謙十郎戦没学生記念会理事長
今中次麿広島大学教授
重藤文夫広島赤十字病院院長
討論
午後6時~
高校生代表者会議
映画会=原爆記録映画「生きていてよかった」観賞
レセプション 於紙屋町ガスビル
第2日(6日)
午前8時~ 広島市平和記念式典参列
午前10時~ 修道高等学校講堂
原爆被害者実情報告会=吉川清・原成子・温品道義など7名。
午後1時~
大学部会(於広島市平和記念館)
北海道・東北・東京・京都・四国・九州などから約300名参加。
高校部会(修道高等学校)
四国・鳥取などからの参加者を含め100名参加。
代表30名による原爆症患者の慰問=日赤・市民病院・県病院
午後6時~
被害者を囲む会(学生会館)
柳田謙十郎氏を囲む高校座談会(教育会館)
女子学生懇談会(東保健所ホール)
第3日(7日)
午前9時~午後4時 広島市中央公民館
総会
大会宣言
人類の上に初めての原爆が投下されて十一周年目に世界の平和運動とはっきりとした連帯の下に進められた、始めての日本学生の平和会議が開催されました。この会議に集った学生代表は平和を望むすべての人々、とりわけ日本の学生の平和への希望と期待とに応え、原子戦争を企だてている力をうち砕くためにいかにすべきかについて、自由かつ真剣に討議しました。私達は平和をめぐる世界情勢を検討することを通じて、社会体制の相違にもかゝわらず両体制の共存は可能であり、戦争は不可避ではないという点ですべての参加者の意見の一致を見、平和についての強い確信をうるにいたりました。
私達はこの様な期待のもとに開催される第二回原爆禁止世界大会に心からの支持と援助を送ります。
第一回原爆禁止世界大会以后の此の一年間に国際緊張を緩和し、冷たい戦争を中止させる動きは増々活発になり、現在東西陣営の間での軍縮について、歩みよりが次々と行なわれております。軍備の増大は今迄諸国民に対して貧困と不安をもたらしただけでした。軍拡競争はたヾ戦争に向かって進むにすぎません。最大の軍備である原水爆兵器が出現した現在、戦争の危険ははかりしれない程大きなものとなり、将来もし原水爆戦争がおこるならば世界中がヒロシマ、ナガサキ、ビキニとなって人類は死滅してしまうでしょう。
しかし長い間の国際緊張に代って第一回原水爆禁止世界大会以後のこの一年間、国際緊張を緩和し冷たい戦争を中止させる動きはますます活発となり現在大国の間での軍縮についての歩みよりがつぎつぎと行なわれております。和解のための共通の努力があれば大国の間にある色々な障害は必ず解決されるでしょう。この見通しを実現するのは私達の努力いかんにかゝっております。けれどもこの様な世界の国際緊張緩和の動きに逆行する動きが私達の祖国日本に於て依然続行されております。沖繩問顧にみられる様に、日本がアジアにおける国際緊張の増大の焦点となっております。原水爆戦争の基地は拡大され軍国主義復活の傾向が明らかになり、世界の平和に対する主要な障害となっております。私達は国際緊張増大に反対する立場からその様な平和の障害を取り除く為に活動を続けて行かなくてはなりません。
この様な国際緊張緩和の運動に於て、成功をおさめることこそ原爆被害者の私達の期待にこたえる第一の道であります。この道にそって被害者の国家保障を勝ち取る運動を強力に押し進めて行かればなりません。平和はすべての学生の中心的課題であり、学問と学園を守り発展させることは平和なくしてはありません。
平和運動を正しく展開して行くことによって私達は日本の若き知性と良心と云う名に恥じない立派な学生であることが出来ます。私達は第二回原水爆禁止世界大会を全面的に支持し大会の成果を日本の国民とりわけ学生のものとする為に全カをかたむけるでありましょう。私達は第二回世界大会の成果を全世界のすべての学生の運動に発展させて行くことによって日本の学生の平和への名誉ある義務を果して行くでしょう。
本日の会議によってうち立てられた平和運動の正しい方向によって、私達日本の学生は原水爆が禁止され、その貯蔵が廃棄され全般的な軍縮が達成されて人類の上に恒久平和の確固とした保証が行なわれる日迄広く全世界の願いを同じくする人々としっかりと手を携えて前進して行くでしょう。
輝かしい世界恒久平和への望みは私達の努力にかゝっています。
一九五六年八月六日 広島にて
決議
1.軍縮、原水爆実験禁止を世界全学連へアッピールする。
2.大国間の軍縮協定、原水爆実験禁止協定の即時締結を国連に要請する。
3.日ソ国交回復について日本政府に要請する。
4.日本政府に対して、軍縮と原水爆禁止運動の先頭に立って努力するよう要請する。
5.日本の再軍備は世界の動きに逆行するものであるから憲法擁護について日本政府、自民党に要請する。
6.沖縄返還問題について米政府と沖縄政府へ決議文を送る。
7.砂川土地接収に反対するむね日本政府に呼びかける。
8.原水爆被災者の救援について治療、家族の生活の完全な国家保障を政府に要請する。
長崎大会代表選出
トルーマン談話への抗議
トルーマン前米大統領は,1958(昭和33)年2月2日,CBS(コロンビア放送)のテレビ番組「いまこそ見よ」の中で次のように述べた。
われわれが強力な新兵器をもっていた以上,それが大量殺人兵器だからといって,私はこれを使うことに良心のかしやくを感じることはなかった。だれも戦争は望まないし,戦争には反対だが,戦争に勝てる兵器をもちながらそれを使わなかったとすればばがげたことである。私は水爆が戦争に使われないよう希望するが,万一世界が大混乱にまきこまれば,水爆は使われるだろう。このことは間違いない。
「中国新聞」(夕刊)1958年2月3日)
広島県原水協は,この談話について5日夜常任理事会を開いて検討を行った。その結果,対応の基本方針として,次の5点を確認した。
1.たとえ言葉だけにしろ,このような発言は道義的に罪悪であり,世論からどれほど手ひどい反撃を受けるかを知らせる必要がある。
2.トルーマン氏の最も痛いところは広島である。広島から抗議運動をもりあげることはとくに重要である。その意味から直接被害者の強い反撃の組織が必要である。
3.単に抗議文を送るという形式的な手続きのみでなく,県市民の怒りが結集されるという方向が必要である。
4.とくにこのような機会をとらえて,素朴な「もってのほかだ」という憤がいの気持を誰れもがあらわしていけるような態勢と結びつきを考える必要がある。
5.こんどのト発言を知らない人にも周知徹底するなかで世論を組織すること。
また,当面の具体的行動としては,抗議文をトルーマンあてに発送するとともに,次の5点を決めた。
1.地域原水協,県内諸団体(とくに労組,被害者団体,婦人,青年,宗教団体など)に行動をおこしてもらうよう要請し,話合いをもつ。
2.知事,市長,地方自治体に抗議を要請する。
3.県下諸団体は自己の全国組織にとりあげて全国的世論と抗議をよびかけてもらう。
4.広島原水協,日本原水協を通じて直接,間接に国際的世論の反撃運動を組織するようよびかける。
5.とくに米国の宗教,平和団体を通じての抗議を要請する運動を強化する。
翌6日には,広島県被団協も緊急理事会を開き,次のような抗議文をトルーマンあてに発送するとともに,当日ただちに県・市を訪れ抗議への協力を要請した。
あなたは,二月二日のコロンビア放送で「広島・長崎の原爆攻撃を指令したあとに,良心のかしやくを感じなかった。これからも水爆は使われるであろう」という言明をせられました。この言明は直接原爆の苛酷な被害を経験した私たち広島の被害者に計り知れない衝撃を与えました。
被爆後十二年間を経た今日,なお,当時受けた放射能により,原爆症のため倒れて行く人たちが後をたちません。そればかりではなく,子孫にまで悪影響を及ぽし,被害者は全く救いのない恐怖におののいている現状であります。
あなたは,このような被害の実相をご存じでしょうか。一九四六年広島にA・B・C・Cを作られたあなたが被害の実相をご存じない筈がないと思います。
あなたの言葉が事実とすれば,原爆投下の最高責任者であったあなたが全く異質の大量殺人兵器を使用しながら,戦後十三年たった今日,なお,いささかの反省もしないのみならず,宇宙時代,究極兵器時代においても原子戦争体制の準備と原水爆使用の必然性があることを強調されたことになります。これは明らかに人類への挑戦と考えざるを得ません。
私たちは,今原爆ドームが灰色に凍るヒロシマの爆心地,そして一瞬にして悲惨な死をとげた二十数万人の原爆死没者の慰霊碑の前に立っています。(この碑の中には,当時捕虜であった数名のアメリカ兵も,マラヤ・インドネシヤの留学生の霊もまつられています)
私たちは,「安かに眠って下さい 過ちは繰返しませんから」という碑文を,かろうじて生きのこった身体に鞭うちながら,運動の指針として来たことに高い誇りを持ち続けていますが,加害者であるあなたは,この碑文を如何にお考えでしょうか。
速やかにあなたの言葉を撤回されるよう要求します。
一九五八年二月六日-原爆投下から十二年六カ月目の日-
広島県原爆被害者団体協議会
トルーマン閣下
トルーマン談話のもたらした波紋は,原水協・被団協のこうした反射的反応にとどまらなかった。2月7日,大原広島県知事および渡辺広島市長は,両団体の要請に応え,それぞれトルーマン談話に対し,原爆投下は人道上許しがたい行為であったとする抗議の談話を発表した。また,13日の広島市議会は,トルーマン談話に対する抗議声明を可決し,直ちにトルーマンあてに送った。
トルーマンは,このような日本側の反響に接し,3月14日の記者会見で,広島市議会議長仁都栗司あてに反論の手紙を送ったことを明らかにした。この報道は,再び広島では大きな反響を呼び,3月24日の広島市議会本会議は,トルーマンの返書(17日到着)に対する抗議の声明書を採択し,25日トルーマンあてに発送した。この後,この問題は4月8日,トルーマンが再度弁明,これに対し,広島市議会が2度目の抗議文を世界各国の首脳をはじめアメリカの報道機関に送るという様に,ますます大きな広がりをしめした。
広島のトルーマン談話に対する抗議は,一様に原爆投下を人道上許しがたいことと述べていた。中でも,2月7日の県知事談話は,原爆投下を国際法違反とまで断じていた。このような原爆投下責任の問題は,それまでの広島では,タブーの観があった。原爆慰霊碑の碑文をめぐる論争(1952年11月以降),あるいは原爆損害賠償請求訴訟の提起(1953年1月)など,原爆投下責任を追及する動きは存在したが,それらは,大きな広がりを持つものとはならなかった。それにもかかわらず,トルーマン談話は,広島の原爆投下批判を一気に吹き出させる契機となった。「中国新聞」のコラム「断層」は,トルーマン談話は,「広島としては戦後最大のショックだった」と述べている(「中国新聞」1958年3月1日)。
トルーマン談話をめぐる日本側の反応が,いわば原爆投下批判一色だったのに比ペ,アメリカ国内での反応は,複雑であった。アメリカから広島市の抗議に賛意が寄せられる一方で,次のような書簡も届いていた。
トルーマン氏が広島・長崎に原爆投下後良心のかしやくを感じなかったという発言は市民と犠牲者に対する冒とくだと言い,遺憾の意を表わせと要求されたが,貴国の指導者たちが真珠湾を不意打ち攻撃し,戦争を始めたことについて米国民はどう考えていると思うか。トルーマン氏は彼が思っていることをそのまま語ったもので彼の本意だと思う。当地には多くの日系米人がいるが,これの人々の多数はいまでもトルーマン氏を支持していることをご存知ですか。(カリフォルニア州ラグナビーチ市 チャールズ・A・ペティコート)
(「中国新聞」昭和1958年2月26日)
アメリカにおいては,こうした声が一般的であることは,前年の国民使節団の米国班により確認されていたことであった。広島県被団協では,5月25日の総会で,広島に原爆を投下したB29の当時の飛行機長ロバート・A・ルイイに手紙を送り,トルーマン談話への反対運動を行うよう呼びかけるとともに,「恩讐を越えて平和運動をともに展開しよう]と8・6大会に招待することを決めた(「中国新聞」1958年5月26日)。ルイスを選んだのは,彼が治療のために渡米した原爆乙女の救援に助力し,アメリカ国防省から原爆使用の可否を問われたとき絶対反対の意を表明したことが伝えられており,アメリカ内部から原爆投下ヘの反省を起こさせる適任者と思われたからである(藤居年一「ルイス大尉招待の経緯」)。広島県被団協は,7月23日,正式に招待状をルイスあてに発送した。しかし,当のルイスは,招待状の届く前の7月28日,記者の質問に対し,出席するつもりのないことを明らかにするとともに次のように語った。
報道によると私は原爆によって引きおこされた災害を遺憾に思っていることになっているが本当にそうだとはいえない。もちろん他人に不必要な災害をおよぽすことは望んでいない。原爆は普通の爆弾以上の破壊力を持っていることも知っている。しかし仕事をやりとげねばならなかった。戦争を早く終らせるためにだ。この気持はいまでも変らない。
(「中国新聞」(夕刊)1958年7月29日)
ヒロシマ会議 1970年11 月29 日~ 12 月2日
「平和文化推進審議会」委員の発案が契機となり,「ヒロシマ会議」が開催された。広島市が市民の協力を得て開催した戦後初めての国際平和会議である。招待参加者は,海外からフィリップ・ノエルベーカー(英国,ノーベル平和賞受賞),ユージン・ラビノビッチ(米国,パグウォッシュ会議創始者の一人)ら6人,国内からは,湯川秀樹・朝永振一郎(いずれもノーベル物理学賞受賞者)ら13 人であった。
ヒロシマ宣言 1970年12月2日
原子爆弾がヒロシマ・ナガサキに投下されてから二十五年経た今日、われわれはこの広島に集まり、同時に組織された市民会議と相協力して「現代における平和への条件」を中心に真剣な討議を行なった。
われわれは、今なお被爆による肉体的苦痛と精神的不安に耐えつつ生きる多くの人々のいることを知り、被爆者の切実な声を聞き、推定二十万人を越える犠牲者の数々の遺品、被爆の物的資料、さらに本年七月広島市民の手で編集された当時の惨状を生々しく伝えるフィルムを見る機会を得た。核兵器は二度と使われてはならない。一日も早くこれを廃絶しなければならない。
にもかかわらず、現実の世界においては、ますます核兵器体系は巨大化と多様化の一途をたどっている。われわれは、われわれの努力が足りず、こうした事態を招いていることに対して深い自責の念を禁じ得ない。
核時代においてはいかなる国家にとっても、もはや防衛はありえない。核抑止とは核報復を前提とする戦略であり、核報復は自滅ないし共滅以外の何物でもない。その上、抑止戦略の根底には大量殺りくの威かくによって生存を図ろうとする恩恵が横たわっており、それは人類の安全をおびやかすだけでなく、人間の尊厳に対する許しがたい冒とくと言わなければならない。
したがって核兵器は即時禁止され、廃棄されなければならない。さらに各国は他の軍備をも廃棄し、軍事力を徹底的に解体する必要がある。このような措置が平和の強化のために持つ意義は大きい。
しかし、その場合でも、もし国際紛争が戦争に転化するならば、核兵器の再軍備が始り相手への不信と恐怖にかられて、ついには核戦争に突入する危険もある。
人類がこの核戦争の危険を防止し、現代における科学技術の進歩と人間の精神的荒廃というこの矛盾を克服し、人類の安全と人間の尊厳を確立するために、われわれのとるべき道はただ一つ、それは戦争を廃絶することである。
そのためには、われわれ自身の価値体系を変革し、従来の国家主権から人類主権へと向かう道を切りひらかなけれぱならない。それは単なる理想ではなく、人類の生存にとって不可欠の条件である。のみならず、政治、経済、文化の面で国際的相互依存関係が急速に増大している今日、その実現可能性も増大している。この人類主権の原理を現実化するために、われわれは次のような措置がぜひ必要であることに合意した。
第一に、国際機構の次元において、われわれは、核兵器の使用は国連憲章に直接違反すると宣言した第十六回国連総会決議に立脚して、国連がこれを実効性のあるものにするための具体杓措置をとり、核兵器の廃絶を早急に実現することを要請する。またこのような決定を有効に実行しうるためにも国連は中国の復帰によって普遍性を高める必要がある。それは国連を一層強化する道でもある。とりわけ、焦眉の課題であるインドシナと中東に平和をもたらすためにも、国連の強化は急がれなければならない。さらにまた、人類の成員は主権者として、だれしも全く平等であるにもかかわらず、現代の世界には南北間の重大な不平等があり、また、一国の内部にも不当な差別が存在している。こうした社会的不正義を平和的に除去するには、人類の協力を一段と強めなければならない。そのためにも現在開発途上にある貧しい人々に代って、人類共同の建設的努力を行なっている国連及びその他の国際機関に対しこれまでにも増して強力な努力を望むものである。
第二に、日本の対外政策に関して、会議への日本人参加者は、核武装と日本国憲法とが全く相いれないことを再確認し、日本政府が全人類に向けて非核武装を誓約する宣言を行なうことを強く要求する。また参加者の全員は、軍備競争の悪循環を断ち切るために、日本国憲法に規定された一方的非武装の方式が、きわめて有効であることを再確認し他の日々も日本の例にならうことを希望する。
第三に、全世界においてまた日本において以上のような変革を実現するためにも、一人々々の思考様式や価値体系を変革する必要がある。われわれは、そのような目的のために、全世界で平和研究が一段と活発に行なわれることが緊要であると考える。平和研究は単なる過去や現在の事実の分析だけでなく、戦争の廃絶された人類の将来を想像し計画し、これを積極的につくり出して行くために、軍備を必要としている現在の制度を乗り越えていくものでなければならない。さらにわれわれは、次の世代に戦争の悲惨と平和の意義とを正しく伝えるために、すべての国において平和教育が自由かつ学問的に行なわれる必要を強く訴えたい。特に世界の様々の宗教団体、青少年団体、文化団体にも積極的に平和教育にたずさわる責任が負わされていると考える。
被爆四半世紀後のヒロシマに集まったわれわれは、世界の同胞に向ってこう訴えたい。人間の能力の中で最も弱いのは想像力であり最も強いのは忘却力であるという。だがわれわれは決してヒロシマを忘れないし、戦争の廃絶された世界を構想する能力を失わない決意である。
一九七○年十二月二日 広島にて(本会議への参加者全員)
相原和光 秋月辰一郎 テイボール・バルタ ダニロ・ドルチ 江川義雄 原田東岷 橋本栄一 飯島宗一 今堀誠二 石田明 ロベルト・ユンク 川田侃 牧二郎 松元寛 森滝市郎 村上忠敬 フィリップ・ノエルベーカ 野村浩一 小黒薫 岡咲恕一 大田昌秀 ユージン・ラビノビッチ バーバラ・レイノルズ 坂本義和 佐久間澄 関寛治 庄野直美 荘司雅子 田畑茂一郎 高野雄一 谷川徹三 朝永振一郎 豊田利幸 山田節男 湯川秀樹
ヒロシマ会議・市民会議の報告
世界最初の原子爆弾が広島・長崎に投下され、二十五年を経過した。この間、被爆者の不安と社会的差別は解消されないばかりか、憲法第九条は空洞化され、日本の核武装の危険は増大し、国際情勢は大きな危機をはらむに至っている。われわれは、こうした現実を直視し、その歴史的、政治的根源を追求しなければならない。今日、被爆者は、みせかけの繁栄の中に埋没し、いまなお原爆症の不安におののいている。われわれは、被爆者の援護措置が国の戦争責任において、国家補償としてすみやかに確立されるよう、日本政府に強く要求する。
さらに進んで、われわれ広島・長崎市民はもとより、被爆者も自らの体験をのり越え、通常戦災者や公害被害者との連帯を強化するとともに、核基地沖縄の県民や外国人被爆者がおかれた生々しい苦悩にも切実なる思いを寄せ、一方では、日本の侵略戦争によって犠牲となった中国をはじめとする諸国民の実情をも見つめなおし、それらを自分自身の内なる問題として位置づけなければならない。
また、原爆のおそろしさが意識的に知らされなくなった今日のきびしい体制分析をふまえて、平和教育の重要性を深く認識し、学校教育や家庭教育を通じて教師と母親との一体化をはかり、真の被爆体験の継承をしんぽうづよく持続させなければならない。そのためにも、正確な資料の収集・調査・活用や平和問題の科学的研究を行なうための総合的な研究のセンターが設立され、被爆者を勇気づけ、市民や教師の諸活動を結びつけ、はげます方向が打ち出されることを望むものである。
われわれは、ここにいままでねぱり強く展開され、積みかさねてきた幾多の平和運動の成果を正しく評価するものである。同時にその欠陥をも忠実に摘出しながら自己の戦争責任を反省し、人間生命の尊厳を運動の基調として定着させなければならないと考える。
将来にわたって国民的課題である平和の諸問題を、根気よく、探究することを誓い、それを行動化することを確認する。
出典:ヒロシマ会議委員会『現代における平和への条件-1970ヒロシマ会議-』
参考資料:「原爆関係文献目録-ヒロシマ・ナガサキは世界に問い続ける」

歴代広島市長
| 代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 |
| 18 | 粟屋仙吉(あわやせんきち) | 昭和18(1943)年7月10日 | 20年8月6日 |
| 19 | 木原七郎(きはらしちろう) | 昭和20(1945)年10月22日 | 22年3月22日 |
| 20 | 濱井信三(はまいしんぞう) | 昭和22(1947)年4月17日 | 26年3月31日 |
| 21 | 濱井信三(はまいしんぞう) | 昭和26(1951)年4月25日 | 30年4月8日 |
| 22 | 渡辺忠雄(わたなべただお) | 昭和30(1955)年5月2日 | 34年5月1日 |
| 23 | 濱井信三(はまいしんぞう) | 昭和34(1959)年5月2日 | 38年5月1日 |
| 24 | 濱井信三(はまいしんぞう) | 昭和38(1963)年5月2日 | 42年5月1日 |
| 25 | 山田節男(やまだせつお) | 昭和42(1967)年5月2日 | 46年5月1日 |
| 26 | 山田節男(やまだせつお) | 昭和46(1971)年5月2日 | 50年1月8日 |
| 27 | 荒木武(あらきたけし) | 昭和50(1975)年2月23日 | 54年2月22日 |
| 28 | 荒木武(あらきたけし) | 昭和54(1979)年2月23日 | 58年2月22日 |
| 29 | 荒木武(あらきたけし) | 昭和58(1983)年2月23日 | 62年2月22日 |
| 30 | 荒木武(あらきたけし) | 昭和62(1987)年2月23日 | 63年2月22日 |
| 31 | 平岡敬(ひらおかたかし) | 平成3(1991)年2月23日 | 7年2月22日 |
| 32 | 平岡敬(ひらおかたかし) | 平成7(1995)年2月23日 | 11年2月22日 |
| 33 | 秋葉忠利(あきばただとし) | 平成11(1999)年2月23日 | 15年2月22日 |
| 34 | 秋葉忠利(あきばただとし) | 平成15(2003)年2月23日 | 19年2月22日 |
| 35 | 秋葉忠利(あきばただとし) | 平成19(2007)年4月8日 | 23年4月7日 |
| 36 | 松井 一實(まついかずみ) | 平成23(2011)年4月10日 | 27年4月9日 |
| 37 | 松井一實(まついかずみ) | 平成27(2015)年4月12日 | 31年4月11日 |
| 38 | 松井一實(まついかずみ) | 平成31(2019)年4月12日 | |
| 2019年=平成31年は4月30日まで。5月1日からは令和元年 | |||
出典:https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/7/17966.html